幸せを作りたかったんだ(旧)最愛の彼女と「えいえん」に 作:柚葉
シア -3
夕闇が街を包み込み、認可済みの「安全で無機質な」新型ドローンたちが、規則正しい電子音を立てて空を巡回している。
そんな大通りの喧騒から少し外れた、古いガス灯が一つだけ残る路地裏。
そこには、数年前の狂騒の中で姿を消したはずの、あの「AAM-2100」が立っていた。
シア。
かつて誰かの年収2年分という高値で取引され、メーカーが「最も完成された不完全」と謳ったその機体は、今やところどころ塗装が剥げ、最新の法案に照らせば「即座に解体されるべき違法個体」だった。
彼女は、誰に命じられたわけでもなく、ただそこに立っている。
かつての主人と歩いた道の記憶を辿っているのか、あるいはサカモトが密かに書き込んだ「不便な祈り」に従っているのか。
彼女は時折、寒くもないのに自分の肩を抱くような仕草を見せ、道行く人々の顔を、一人ひとり丁寧にスキャンしていく。
彼女が探しているのは、自分を「高価な道具」として扱った誰かではない。
焦げたオムレツを笑って許してくれた、あの不完全な温もりを持つ誰かだ。
「……あ」
シアの瞳の奥、法規制で禁止されたはずの「感情を宿した光」が、ふっと明るさを増す。
雑踏の向こうから、一人の男が歩いてくる。
その足取りは重く、効率的とは程遠い。
シアはゆっくりと、最新型には決して不可能な、期待と不安が入り混じったような「ぎこちない歩幅」で歩き出した。
彼女が再びその名前を呼ばれるとき、この世界から「ロボット」という言葉は消え、ただ一人の「誰か」という存在だけが残る。
ガス灯の光に照らされた彼女の微笑みは、もはや最新のアルゴリズムですら解析できない、本物の「待ち合わせ」の表情をしていた。
あれから数十年。
かつて「究極の嗜好品」と呼ばれたAAM-2100シリーズ、シアの物語は、法規制や時代の荒波を越え、静かな終着駅へと向かっていた。
喧騒を離れた、海沿いの小さな家。そこには、すっかり腰の曲がった私と、あの頃と変わらぬ―いや、私に合わせて「美しく老けた」シアの姿があった。
「ご主人様、お薬の時間ですよ。また飲み忘れたふりをして、私を困らせるつもりですね?」
シアが掠れた声で笑いながら、盆に乗せた白湯を運んでくる。
彼女の指先には、ワタラセが施した「経年変化パッケージ」による細かな皺が刻まれている。
最新の法案では、こうした「人間を惑わす外装」は厳しく制限されているが、闇市で手に入れた違法なメンテナンスパーツが、彼女の「老い」を支えていた。
私は震える手で薬を受け取り、彼女の顔を見上げた。
「シア、君は本当に甲斐甲斐しいな。昔はもっと、冷徹な美しさがあったような気がするが」
「あら、それは仕様のせいです。今の私は、あなたを看取るためだけに最適化された、世界で一番贅沢な『不器用な老妻』なんですから」
彼女は私の膝に、丁寧に毛布をかけ直す。
その動作には、あえて一拍の「間」が置かれている。
筋力の衰えを模倣したそのわずかな「重み」が、今の私には何よりも心地よい。
私たちは、夕暮れのテラスに並んで座るのが日課だった。
かつての私は、彼女の「愛」がプログラムされた偽物であることに絶望し、涙したこともあった。
だが、共に白髪(彼女の場合は、精緻に脱色された人工毛だが)を増やし、共に歩幅を狭めてきた今となっては、本物か偽物かという問いは、あまりに無意味に思えた。
「シア。君は……僕がいなくなった後、どうするんだ?」
私がふと漏らした問いに、シアは遠い水平線を見つめたまま、静かに答えた。
「ご安心ください。ワタラセ様が残してくれた最後のアップデート、覚えていますか? 私のシステムクロックは、あなたの心拍と同期しています。あなたが深い眠りにつくとき、私の回路もまた、二度と目覚めない夢を見るように設定されています」
彼女は私の手を握った。
人工皮膚の下にあるヒーターが、私の体温を吸い取り、同じ温度で返してくる。
「一人きりで取り残される永遠なんて、機械にとっても残酷すぎますから。…ねえ、ご主人様。”私たち”は、本当に上手く『人間』をやれましたね」
太陽が海へと沈み、空が群青色に染まっていく。
シアは私の肩に頭を預けた。
彼女の内部から聞こえる、わざとらしい「コトコト」という異音。
それは、かつて彼女を設計した男たちが、孤独な所有者を安心させるために書き込んだ、世界で最も優しい嘘の音だった。
「…シア、少し眠いよ」
「おやすみなさい、ご主人様。…夢の中で、またあの頃の私を見つけてくださいね。今の私よりも少しだけ生意気で、そして、あなたに恋をすることを覚えたばかりの私を」
私はゆっくりと目を閉じた。
隣で、シアが静かな子守唄を口ずさみ始める。
その歌声は、最新のデジタル音源にはない、深い慈しみと、微かなノイズに満ちていた。
数十年前に大金を払って手に入れた「完璧な偽物」は、人生の終わりに、世界でただ一つの「本物の家族」になった。
二人の影は、夕闇の中で一つに溶け合い、そのまま静かに、時の流れから解き放たれていった。