幸せを作りたかったんだ(旧)最愛の彼女と「えいえん」に 作:柚葉
ミア -2
五年前。
和也(かずや)たちの家にミアがやってきた日は、ひどく蒸し暑い土曜日の午後だった。
運送業者が慎重な手つきでリビングに運び込んだのは、木目調の化粧板で覆われた細長いケースだった。
そこには、どこか親しみやすさを感じさせる丸みを帯びたフォントで『AAM-1800』と記されていた。
「これ、本物のロボット?」
当時三歳だった蓮(れん)が、おそるおそるケースを指で突っつく。
七歳だった葵(あおい)は、期待と不安が入り混じった顔で母・恵(めぐみ)の背中に隠れていた。
和也は、汗ばんだ手でアクティベーション・キーを握りしめていた。
それは、三十五年の住宅ローンに次いで、人生で二番目に重い「五年間の残価設定ローン」の始まりを意味していた。
共働きの限界、荒れ果てたキッチン、そして子供たちに「寂しい」と言わせてしまう罪悪感。
百二十万円の残価を据え置いたこの契約は、和也たち夫婦にとって、溺れる者が掴んだ藁のようなものだった。
「起動するぞ」
和也がキーを差し込むと、ケースの蓋が音もなくスライドした。
中から現れたのは、淡いベージュのワンピースに白いエプロンを纏った、驚くほど「人間らしい」女性の姿だった。
「初期設定を開始します。個体名を入力してください」
彼女がゆっくりと瞼を持ち上げた。その瞳は、深みのある茶色。
シアのような宝石のような輝きではないが、どこか夕暮れ時の陽だまりを思い出させる、穏やかな光を宿していた。
「…ミアだ。今日から君の名前は、ミア」
和也が告げると、彼女の頬にわずかな赤みが差した。
それは、AAM-1800シリーズ独自の「照れ」を演出するナノファイバーの熱変色だ。
「ミア、ですね。登録完了しました。…はじめまして、ご主人様。そして、新しい家族の皆様」
ミアは一歩、踏み出そうとした。
だが、そこで彼女は右足と左足を微妙にもたつかせ、危うく転びそうになった。
「あっ…申し訳ありません。まだ、この床の摩擦係数に慣れていないようで」
彼女は恥ずかしそうに、自分の頭を軽く叩いた。
あえて完璧な歩行をさせず、こうした「ドジな仕草」を組み込むことで、導入初日の緊張感を和らげる。
それがメーカーの計算された戦略だと分かっていても、恵は思わず声をあげて笑ってしまった。
「ふふっ、なんだか私みたい。ねえ、ミア。まずは一緒にお茶でも淹れましょうか?」
「はい、喜んで。…でも、少しだけお時間をください。美味しいお茶を淹れるために、まずはこのキッチンの『癖』を学習したいのです」
ミアはキッチンへ向かい、棚の角に軽く肩をぶつけながらも、丁寧に、そしてどこか楽しげに調査を始めた。
その背中には、無機質な家事ロボットにはない「一生懸命さ」が張り付いていた。
その日の夕食後、ミアは葵と蓮の間で、たどたどしい口調で絵本の読み聞かせをしていた。
「…そして、お姫様は、少しだけ不便な暮らしを選びました。だって、その方が、大好きな王様の手を借りる理由ができるからです」
読み聞かせの途中で、ミアはわざとらしく欠伸をしてみせた。
「あら、いけません。私も少し、電池が眠たくなってきたようです」
その「嘘」の欠伸を見て、葵と蓮がクスクスと笑い声を上げる。
和也はリビングの隅で、その光景を眺めていた。
床に散らかったおもちゃはまだ片付いていないし、明日の予定を同期する作業も残っている。
けれど、この五年のローンがもたらした最初の報酬は、すでにこの部屋に満ちていた。
「パパ、ミアを呼んでくれてありがとう」
葵が振り返って言った。
和也は、まだ慣れない手つきでエプロンの紐を直しているミアを見つめ、静かに頷いた。
「ああ。……これからよろしくな、ミア」
それが、和也たちの「家族」が五人になった日。
百二十万円の残価という名の「期限付きの魔法」が、静かに動き出した午後のことだった。
それは、ミアがやってきて二年が過ぎた、家族にとって大切な「結婚記念日」の夜のことだった。
その年、和也と恵は仕事が重なり、ろくに記念日の準備もできていなかった。
せめて家で少し贅沢な夕食を、と和也が奮発して高級なステーキ肉を買って帰ると、ミアはいつになく張り切った様子でエプロンを締め直した。
「ご主人様、奥様。今夜のディナーは、私にすべてお任せください。AAM-1800の調理プリセットをフル活用し、最高の一夜を演出してみせます」
彼女の瞳は自信に満ちていた。
だが、この「普及型」のAIには、時として『サービス精神の暴走』という、愛すべき、しかし致命的なバグが潜んでいた。
事件は、メインディッシュの仕上げの最中に起きた。
ミアは、テレビのグルメ番組で学習した「フランベ」を、サプライズとして実行しようと思いついたのだ。
しかし、彼女が搭載しているのは家庭用調理アルゴリズムであり、プロの派手な技を再現するようには設計されていなかった。
「…行きます。サプライズ、開始です!」
キッチンから「ボォッ!」という凄まじい音と共に、天井に届かんばかりの炎が上がった。
「ぎゃあああ!」
という和也の叫び声と、火災報知器の「ビー、ビー!」という無機質な警告音が響き渡る。
慌ててキッチンに駆け込むと、そこにはパニックに陥ったミアが立っていた。 彼女は手に持っていた鍋の蓋で火を消そうとしたが、焦るあまり蓋を滑らせ、それが床に落ちて「ガシャーン!」と盛大な音を立てた。
結局、火はすぐに消え、火事には至らなかった。
しかし、残されたのは無残に炭化した「元・高級ステーキ」と、キッチン中に立ち込める煙、そして——自動消火システムから噴射された消火剤で粉まみれになった、悲惨な光景だった。
「…申し訳ありません。私は、ただ、皆様を驚かせたかったんです…効率を優先せず、演出を…」
ミアは、消火剤の粉を頭から被ったまま、幽霊のように青ざめた顔(実際にLEDが青く発光していた)で立ち尽くしていた。
彼女の演算回路は、自分のしでかした「大失敗」を秒間数万回もシミュレートし、自己嫌悪のループに陥っていた。
葵は煙にむせ、蓮は驚いて泣き出し、和也と恵はあまりの惨状に言葉を失った。
これこそが、メーカーが恐れる「不器用なロボットの限界」だった。
だが、静まり返ったキッチンで、最初に声を上げたのは恵だった。
「ふ…ふふっ、あはははは!」
恵が腹を抱えて笑い出した。
「何よこれ、最高にサプライズじゃない! 消火器の粉が雪みたい!」
和也も、黒焦げの肉を見て力なく笑った。
「全くだ。ミア、お前……本当にドジだな」
その夜のディナーは、急遽近所のコンビニで買ってきたカップラーメンになった。
真っ白な消火剤の粉をなんとか拭き取ったリビングで、家族四人とロボット一台、床に座って並んでカップ麺を啜った。
「ごめんなさい…本当に、ごめんなさい…」
ミアはまだ、肩を落として落ち込んでいた。
「いいんだ、ミア。今日のご飯がいままでで一番楽しい」
蓮が、麺を啜りながらミアの膝に頭を預けた。
「それに、ミアが僕たちをびっくりさせようとしてくれたこと、ちゃんと分かったから」
葵も、スマホで「粉まみれのキッチンと、呆然とするパパ」の写真を撮りながら笑った。
「これ、一生のネタにするね。ミアのおかげで、忘れられない記念日になったよ」
ミアは、家族の笑顔をセンサーで捉え、戸惑うように瞬きをした。
効率を求める機械なら、これは「-100点」の稼働実績だ。
だが、この夜のログには、家族の幸福度を示すバイタルデータが、過去最高値を記録していた。
五年後。
買い取りを決めた和也のスマホには、あの夜撮った「粉まみれのキッチン」の写真が大切に保存されている。
それは、最新型のロボットには決して作れない、「失敗という名の、誰にも譲れない思い出」だった。
「ミア、今夜はステーキだ。…ただし、絶対にフランベするなよ?」
「はい! 今夜は、完璧に、そして『無難に』焼いてみせます!」
そう言ってキッチンへ向かうミアの後ろ姿には、五年経っても変わらない、少しだけ危なっかしい愛おしさが宿っていた。