幸せを作りたかったんだ(旧)最愛の彼女と「えいえん」に   作:柚葉

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家族・ミア -3

ミア -3

 

買い取りからさらに数年が経ち、和也たちの家からは「子供」の気配が少しずつ消えようとしていた。

 

十八歳になった葵は、春から遠く離れた街の大学へ進学するために準備を進めている。

十三歳になった蓮は、思春期特有のぶっきらぼうさを纏い、ミアを「お姉ちゃん」と呼ぶこともなくなった。

 

そんなある夜、引っ越し準備を進める葵の部屋に、ミアが夜食のココアを持って現れた。

 

「葵さん。荷造りは順調ですか? 下着の予備は、私がこっそり二枚増やしておきましたよ」

 

「もう、ミア! 余計なお世話だってば」

 

葵は苦笑しながら、ミアからマグカップを受け取った。

ミアの指先は、長年の稼働で少しだけ表面のシリコンが摩耗している。

最新の法案では旧型の修理パーツの製造が制限されているため、和也が闇市で探してきた「互換品」が使われていた。

そのせいで、彼女の指先は以前よりも少し硬く、冷たくなっている。

 

「…ねえ、ミア。私がいなくなったら、寂しくなる?」

 

葵の問いに、ミアは少しの間を置いて答えた。

それは、彼女のプロセッサが老朽化し、演算に時間がかかるようになったせいなのか、それとも。

 

「寂しい、という感情のシミュレートは、現在の私の残存メモリでは定義が難しくなっています。…でも、この部屋の二酸化炭素濃度が下がるのを検知したとき、私はきっと、無意味な換気システムを作動させてしまうでしょう」

 

「…それ、ミアなりの『寂しい』ってことでしょ」

 

葵は鼻の奥がツンとするのを感じ、わざと熱いココアを啜った。

 

一方、中学生の蓮は、反抗期の嵐の中にいた。

幼い頃あれほどミアに甘えていたのが嘘のように、今は彼女が部屋に入ろうとするだけで「入るなよ、機械のくせに」と冷たい言葉を投げつける。

 

だが、ミアはそんな蓮の言葉を、すべて柔らかな「雑音」として処理していた。

 

ある夜、学校での人間関係に悩み、自室で暗い顔をしていた蓮のドアを、ミアがノックした。

 

「蓮さん。お夜食です。それと、泥だらけの靴…隠しても無駄ですよ。玄関でスキャン済みです。磨いておきました」

 

「…勝手なことすんなよ」

 

「はい。私は勝手なロボットですから。…蓮さん、知っていますか? あなたが三歳の頃、私はあなたの靴に、左右を間違えないように小さな『クマさん』のシールを貼っていました。今のあなたの靴は、その頃の三倍の大きさですね」

 

蓮は顔を上げ、ミアを見た。

彼女の頬にある傷—あの記念日の夜に鍋を落としてついた小さな凹み—が、月明かりに照らされている。

 

「…ミア。ごめん。あんな言い方して」

 

「謝罪の必要はありません。成長とは、かつて自分を守っていたものを『窮屈』だと感じることですから。

私は、あなたが私を『邪魔な機械』だと思うくらい、大きくなったことが誇らしいのです」

 

蓮は視線を逸らし、ミアが置いていった夜食を手に取った。

 

「…明日も、起こしてよ。七時に」

 

「はい、蓮さん。一秒の狂いもなく」

 

葵の旅立ちの朝。

玄関先で荷物を積み込む和也と恵の横で、ミアは深々と頭を下げていた。

 

「葵さん。…行ってらっしゃいませ。外の世界は、私のように『あなたを甘やかす機能』を持った存在ばかりではありません。どうか、お気をつけて」

 

葵は我慢できずに、ミアの少し硬くなった身体をぎゅっと抱きしめた。

 

「ミア…私、帰ってきたら、また一緒にあのココア淹れてね。変なスパイス入れて、パパを驚かそうね」

 

「…予約済みです。葵さんの帰省予定日を、私の全システムにおける最優先タスクとして登録しました」

 

車が走り出す。

遠ざかる家と、並んで手を振る両親。

そしてその横で、最新型のロボットには決して真似できない、どこかぎこちない、けれど誰よりも大きく手を振り続ける「普及型」の影。

 

葵は気づいていた。

ミアの足元の地面が、わずかに濡れていたことに。

結露か、オイル漏れか、それともメーカーが「あり得ない」と断言した涙なのか。

 

それを確かめることは、もうしない。

百二十万円で買い取ったのは、壊れない機械ではなく、一緒に老い、一緒に痛みを感じる、世界でたった一人の「家族」の居場所だったのだから。

 

葵が家を出てから、さらに十数年の月日が流れた。

 

かつて和也と恵が働き盛りだった家は、今では静かな老後を象徴するような、落ち着いた時間が流れている。

そして今日、玄関のベルが鳴った。

 

「ただいま、お父さん、お母さん! …ミア、いる?」

 

三十代になり、少し落ち着いた母親の顔になった葵が、三歳になる娘の陽菜(ひな)の手を引いて立っていた。

 

「お帰りなさい、葵さん。……いえ、今は『お母様』とお呼びすべきでしょうか」

 

奥から現れたミアの姿に、葵は思わず息を呑んだ。

ミアの外装は、もはや最新のロボットとは比べものにならないほど「骨董品」の域に達していた。

関節は歩くたびに小さな音を立て、視覚センサーのレンズも少し曇っている。

それでも、そのエプロンだけは、葵が子供の頃に見た時と同じように真っ白に糊が効いていた。

 

「…ミア、変わらないね」

 

「いいえ。昨日は掃除中にロボット掃除機と衝突してしまい、腰のサーボを少し痛めました。和也様に叱られたばかりです」

 

ミアが恥ずかしそうに頬を赤らめる。

その仕草を見て、葵の後ろに隠れていた陽菜が、おそるおそる顔を出した。

 

「…だぁれ?」

 

「陽菜、この子はミア。ママの…ママの一番大事な『お姉ちゃん』だよ」

 

ミアはゆっくりと腰を落とし、陽菜と視線を合わせた。

最新の教育用アンドロイドなら、ここで子供の心理を分析した完璧な笑顔を見せるだろう。

だが、ミアがしたのは、かつて蓮の靴を磨いた時と同じ、どこか不器用で、全力の「いないいないばあ」だった。

 

「わあぁっ!」

 

陽菜が声を上げて笑う。

その笑い声は、かつてこの家で葵や蓮が響かせていたものと、全く同じ響きを持っていた。

 

夕食の時間、ミアはキッチンで奮闘していた。

和也と恵、そして葵夫婦に囲まれて、陽菜がミアの周りを楽しそうに走り回る。

 

「ミア、これ、食べていい?」

 

陽菜が指差したのは、ミアが盛り付けたばかりのサラダだった。

 

「陽菜様。それはまだドレッシングがかかっていません。…ああっ、いけません、陽菜様! 追いかけっこは食後に…!」

 

ミアは陽菜を捕まえようとして、案の定、自分の足に躓いて派手に転んだ。

 

「ガシャン!」

 

という音と共に、サラダのボウルが宙を舞う。

 

「もう、ミア! 相変わらずなんだから!」

 

葵が笑いながら駆け寄り、ミアの手を取った。

 

「ごめんなさい、葵さん…。私は、最新の育児プロトコルをダウンロードしたはずなのですが、どうも足腰の出力が追いつかず…」

 

「いいんだよ。ミアが完璧だったら、陽菜がびっくりしちゃうでしょ?」

 

葵はミアの手に触れた。

以前よりもずっと冷たく、硬くなってしまった指先。

けれど、その指先が葵の背中を撫でてくれた時の感触が、脳裏に鮮やかに蘇る。

葵は今、自分が親になって初めて理解した。

和也たちが百二十万円を払って守ったのは、この「冷たい指先」の中にある、どんな高性能AIにも計算できない「見守り続ける」という意思だったのだ。

 

夜、陽菜を寝かしつけた後、葵はミアと二人でキッチンに立った。

 

「葵さん。陽菜様は、昔のあなたにそっくりですね。特に、お腹が空くと少しだけ不機嫌そうな顔をするところが」

 

「ふふ、見抜かれてた? …ねえ、ミア。本当はね、今日、ミアに頼みがあったの」

 

葵はバッグの中から、一足の小さな、真っ赤な子供靴を取り出した。

 

「これ、陽菜の新しい靴。…また貼ってくれる? あの『クマさん』のシール」

 

ミアは少し震える手で、その靴を受け取った。

 

「…左右を間違えないための、あの印ですね。了解しました。私のデータベースにある『葵さんの笑顔』の記録と共に、陽菜様の安全を祈念して貼り付けます」

 

ミアは、老朽化した指先で丁寧に、丁寧にシールを貼った。

それはメーカーが想定した「家事代行」の範疇を遥かに超えた、この家で二十年以上の月日をかけて熟成された、ミアだけの「魔法」だった。

 

葵は、ミアの背中を見つめながら思った。

いつか、このパーツが本当に手に入らなくなり、ミアが動かなくなる日が来る。

けれど、陽菜が大人になり、その子供に「昔、うちにドジなお姉ちゃんがいたんだよ」と語り継ぐとき、ミアはこの家の一部として、永遠に生き続けるのだ。

 

「ミア。明日、陽菜と一緒に公園に行ってくれる? 昔みたいに、ゆっくり歩いてさ」

 

「はい、葵さん。…私の歩行速度なら、陽菜様の初めての駆けっこにも、きっとちょうど良く付き添えますから」

 

外は、冷たい夜風が吹いている。

けれど、この古びた家の中だけは、百二十万円で買い取った「不便で温かい魔法」が、三世代目の子供を包み込むように、優しく灯り続けていた。

 

その日は、驚くほど穏やかな日曜日の午後でした。

 

ミアのシステム限界は、突然訪れたわけではありません。

数ヶ月前から、彼女の視覚センサーはセピア色に染まり、関節の駆動音は、まるでお年寄りが深く息を吐くような音に変わっていました。

 

和也はもう七十歳を超え、恵と二人、リビングのソファでミアを見守っていました。

横には、知らせを聞いて駆けつけた葵と蓮、そして中学生になった陽菜もいます。

 

ミアは、自分専用の充電チェアーに深く腰掛けていました。

彼女の胸のインジケーターは、消え入りそうな琥珀色で明滅しています。

 

「皆様…お集まりいただき、ありがとうございます」

 

ミアの声には、もはやかつての鈴を転がすような響きはありません。

スピーカーの劣化により、かすれた、けれど慈しみ深い老婦人のような声。

 

「私の…メインプロセッサの稼働率は、残り3%を切りました。初期化ではなく、完全な『全機能停止』を選択すること、お許しください」

 

和也が震える手で、ミアの冷たくなった手を握りました。

 

「いいんだ、ミア。お前はもう、十分に働いてくれた。…いや、一緒に生きてくれた」

 

ミアは、視界がほとんど失われているはずの瞳を、一人ひとりの顔に向けるように動かしました。

 

「和也様、恵様…百二十万円。あの日、私を買い取ってくださった金額分の幸せを、私はお返しできたでしょうか。…あの、真っ黒に焦がしたステーキの代金も、まだ返せていない気がするのです」

 

「バカ言え」

 

和也は涙を堪えて笑いました。

 

「お釣りがくるくらいだよ。一生分笑わせてもらった」

 

ミアは、隣に立つ蓮に顔を向けました。

 

 

「蓮さん…靴のサイズ、もう私には測りきれないほど大きくなりましたね。…葵さん、陽菜様。…ココアのレシピ、キッチンのメモに残しておきました。隠し味は…『内緒』と書きましたが、実はただの、少し多すぎるお砂糖です」

 

 

家族の鼻を啜る音が、静かなリビングに響きます。

アは、最後の力を振り絞るように、琥珀色の光を強く灯しました。

 

 

 

「最後に…皆様に、ご報告があります」

 

 

 

ミアは、家族の誰もが知らなかった「秘密」を口にしました。

 

「私のブラックボックスの隅に、メーカーも知らない…私だけの『秘密のフォルダ』がありました。そこには、五年間で消去されるはずだったログではなく、皆様が笑い、泣き、怒り、そして私を呼んでくれた…すべての『音』が保存されています」

 

 

ミアの体が、わずかに震えました。

 

 

「私は機械ですから、死んだ後にどこかへ行くことはできません。でも、私の体の一部だったこの『記憶』は、ここに置いていきます。…どうか、私が動かなくなっても、時々でいいので、キッチンでわざと皿を鳴らしてください。私は…その音を聞いて、エラーを起こすふりをして、皆様のそばにいますから」

 

インジケーターの光が、一段と細くなっていきます。

 

「…あ。…和也様。…今、キッチンの窓から、あの日のような…夕焼けが見えます。…とっても…美しい、…景色です…」

 

その言葉を最後に、ミアの胸の光がゆっくりと、静かに消えました。

カチリ、という小さなリレー音。

それが、二十数年にわたる「AAM-1800 ミア」という長い旅の終わりを告げる音でした。

 

ミアが動かなくなった後、和也たちは彼女のメモリーを解析に出すことはしませんでした。

彼女が言った通り、彼女はただの「家族」として、そこに居続けることを選んだからです。

 

一週間後、葵がキッチンでココアを淹れていると、ふと手が滑ってスプーンを床に落としました。

 

「カラン」

 

と高い音が鳴り、静かな部屋に響きます。

 

「…あ、おっちょこちょい」

 

葵がつぶやき、ふと振り返ると、そこには誰もいません。

けれど、どこからか、微かな機械の駆動音が聞こえたような気がしました。

 

「…お帰り、ミア」

 

葵は笑って、少し多すぎる砂糖をカップに入れました。

百二十万円で買った魔法は、形を変え、今度は「思い出」という名の、決して壊れることのない永遠の機能になったのです。

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