魔王の背から伸びた黒い翼が羽ばたくたび、空間そのものが悲鳴を上げ、黒曜石の床が飴細工のように捲れ上がる。
重力が狂い、上下左右の概念が消失する。天井から瓦礫が降り注ぎ、地面からは黒い炎が噴き出す。
ここはもう、城ではない。魔王という一個人が支配する死の世界だ。
「消えろ」
魔王が指を鳴らす。それだけで、俺たちの周囲の空間がサイコロ状に切断された。回避不能の即死攻撃。
「
ノアが杖を突き出し、瞬時に対抗出来る魔法を構築し切断されかけた空間を強引に縫い止める。
ギギギギッ! とガラスを引っ掻いたような不快な音が響き、俺の鼻先数センチで魔法が停止した。
「走ってください、オウマさん!止まったら死にます!」
「言われなくてもッ!」
ズドォォォォン!!
俺がいた場所が、空間ごと抉り取られて消滅する。振り返る暇はない。魔王は玉座跡から一歩も動かず、まるで指揮者がタクトを振るうように指先だけで魔法を連射してくる。
雷撃、氷槍、爆炎、重力波。
ありとあらゆる属性の魔法が、雨あられと降り注ぐ。1つでも掠れば即死。防ごうとすれば押し潰される。
だが。
「右だ、ノア!」
「はいッ!」
俺の指示に合わせて、ノアが右方向へ極小の爆発を起こしその爆風で俺たちの体を無理やりスライドさせる。直後、左側の空間が溶解した。
「次は正面! 潜り込むぞ!」 「
俺たちは暴風を纏い、床を滑るように加速する。迫りくる炎の壁を、俺が大剣の風圧で切り裂き、その隙間をノアが光の障壁で押し広げる。
阿吽の呼吸。言葉はいらない。俺が剣を振るえば、そこが道になることをノアは知っている。ノアが杖を振れば、そこが安全地帯になることを俺は知っている。
「チョコマカと。目障りな羽虫共め」
魔王の表情に苛立ちが混じる。圧倒的な力の差があるはずだった。本来なら、指先一つで消し飛ぶはずのゴミと幼子。
それが、なぜ死なない? なぜ、この絶対的な嵐の中を、傷だらけになりながらも前へ進んでくる?
「届くぞ、ノア!」
「合わせます!」
距離、残り十メートル。魔王の懐。俺たちの必殺の間合い。
「舐めるなよ、下等生物ッ!」
魔王が両手を広げた。全方位衝撃波。回避不能の拒絶の壁が、津波のように押し寄せる。
これで終わりだ。誰もがそう思う絶望的な質量。だが、俺はニヤリと笑った。
――待ってたぜ、その大振りをよォ!
俺は走るのを止め、地面に大剣を突き刺した。そして、その陰にノアを引きずり込む。
「ノア! 『
「え!? でも、この出力は反射しきれません!」
「全部じゃなくていい! 『一点』に集中しろ!」
ノアは一瞬で意図を理解した。全方位を守るのではない。俺の大剣の刀身、その一点のみに反射障壁を展開する。
「うおおおおおおおおッ!!」
ドガァァァァァァァン!!
衝撃波が俺の大剣に直撃する。ミシミシと剣が悲鳴を上げ、俺の腕の骨が砕ける音がした。だが、ノアの障壁が衝撃を一点に集約し、それをレンズのように跳ね返す。
「なッ!?」
魔王自身の放った衝撃波が、鋭利な刃となって魔王へと逆流した。予期せぬカウンター。
魔王の障壁が紙のように裂け、その白い頬に一筋の傷が走る。
「貴様ァァァッ!!」
魔王が激昂する。その隙だ。
俺はその一瞬の硬直を見逃さなかった。
「今だッ!撃ち抜けェェェッ!!」
俺の影から、ノアが飛び出した。その手には、既に限界まで圧縮された光の槍が握られている。詠唱破棄。溜め時間ゼロ。
俺が衝撃を受け止めている間に、全ての魔力をこの一撃に注ぎ込んでいたのだ。
「
閃光が奔る。それは、防御体勢を取れていない魔王の心臓へと、一直線に突き進む。
ドスッ!!
鈍い音が響いた。雷の槍が、魔王の胸を貫通し、背後の壁を粉砕した。
「が、はッ……!?」
魔王がよろめき、膝をつく。胸の穴から、どす黒い霧のような血が噴き出す。
「やった……!やったよ、オウマさん!」
ノアが歓喜の声を上げる。俺も、砕けた腕を押さえながら荒い息を吐いた。
勝ったか? 心臓を貫いた。再生能力があったとしても、これだけの魔力を叩き込めば、魂ごと浄化されるはずだ。
だが――俺の『剣鬼』としての本能が、まだ剣を放すなと叫んでいた。
殺気が消えていない。いや、むしろ――より深く、より昏い色に変わっている。
「……クク、ククク」
俯いていた魔王の肩が揺れた。
「痛いな。痛いぞ、人間――否、勇者たちよ。何千年ぶりだ。この我が、膝をつくなど」
魔王が顔を上げる。その顔に浮かんでいたのは、憤怒でも苦痛でもない。恍惚とした、狂気じみた笑みだった。
「素晴らしい。合格だ。貴様らは、我が全力をもって排除すべき『脅威』であると認めよう」
ズズズ……と、魔王の傷口が蠢く。雷の槍に焼かれた肉が、泥のような闇に覆われ、強引に縫合されていく。
再生ではない。肉体を捨て、純粋なエネルギー体へと変貌しようとしているのだ。
「我が肉体は器に過ぎぬ。心臓を貫かれた程度で死ぬなら、とうの昔に滅んでいる」
魔王の背中の翼が巨大化し、城の天井を突き破った。空が見える。暗雲が渦を巻き、赤い雷光が降り注ぐ。
魔王の姿が、人の形を失い、巨大な黒い影へと変わっていく。
「見るがいい。これが絶望の真なる姿。この星の寿命そのものを喰らう、終焉の獣だ」
ゴゴゴゴゴゴゴ……!!
大地が震える程の圧倒的な質量の暴力。俺たちが今まで戦ってきた相手が子供に見えるほどの、神話級の怪物がそこに顕現した。
「あ、あぁ」
ノアが杖を取り落とし、膝から崩れ落ちた。無理もない。全魔力を込めた必殺の一撃が、通用しなかったのだ。
希望から絶望への落差は、少女の心を折るには十分すぎた。
「終わりだ、勇者達よ。貴様らの抵抗は無意味だった。歴史に残るのは、貴様らの死体ではなく、消滅した大陸の跡地だけだ」
魔王の巨大な口の様なものに、黒い光が集束していく。
ブレスだ。あれが放たれれば、この城どころか、辺り一帯が地図から消える。
「オウマ、さん」
ノアが震える手で、俺の服の裾を掴んだ。泣いている。
ごめんなさい、勝てなかった、守れなかったと、その瞳が語っていた。
俺は。
俺は、動かない右腕を見下ろした。骨は砕け、感覚はない。左足も限界だ。大剣も刃こぼれだらけで、もう使い物にならない。
詰みだ。誰がどう見ても、詰んでしまった。
――なのに。どうして俺の心は、こんなにも熱いんだろう。
俺は、震えるノアの手を、優しく握り返した。
「泣くなよ、ノア」
俺の声は自分でも驚くほど穏やかだった。
「ま、まだ終わっちゃいねぇよ」
「え……?」
「俺たちは二人で勇者だろ? お前の魔法が効かねぇなら、俺の剣がある。俺の剣が届かねぇなら、お前の魔法がある」
俺は左手一本で、ボロボロの大剣を引き抜いた。重い。世界そのもののように重い。だが、上がる。まだ上がる。
「オウマさん、でも……」
「ノア、よく聞け」
俺は魔王を見据えたまま、早口で囁いた。
「あいつのブレス。発射直前、そこに攻撃を合わせるしかない」
「で、でも、あんな高密度のエネルギーに近づけません!近づく前に蒸発します!」
「ああ。普通ならな」
俺はニヤリと笑った。
「だから、俺が『道』を作る」
「……え?」
「俺があの中に突っ込んで、ブレスの軌道をこじ開ける。 お前はその後ろから、俺ごとあいつの
ノアの顔が凍りついた。
「な、何を……言って……」
「俺ごと撃てと言ってるんだ!」
俺は怒鳴った。
「それしかねぇ!あいつのエネルギーを中和できるのは、お前の聖なる魔力だけだ。だが、外から撃っても弾かれる。俺が内側からブレスを食い破る。その一瞬だけが勝機だ!」
「嫌だ……!嫌です!!」
ノアが俺にしがみつく。
「そんなの嫌だ!オウマさんが死んじゃう! そんなことなら、世界なんてどうでもいい!オウマさんがいない世界なんて、僕はいらない!!」
子供のような駄々。それが、どうしようもなく嬉しくて、切なかった。
ああ、俺はなんて幸せな男なんだ。こんなどうしようもない俺のために、世界を捨ててでも泣いてくれる奴がいるなんて。
だからこそ。俺は、こいつを生かさなきゃならない。
「……ノア」
俺は、動かない右腕で、不器用にノアの頭を抱き寄せた。泥と血の匂いがした。
「俺は死なねぇよ」
「……え?」
「俺は『剣鬼』だぞ?地獄の鬼だって、俺のことは怖がって逃げ出すさ。だから信じろ。俺たちは二人で帰るんだろ?」
嘘だ。
助かるわけがない。魔王のブレスを至近距離で受け、さらにノアの最大魔法を背中から食らうのだ。骨の一片も残らないだろう。
だが、ノアに引き金を引かせるには、こう言うしかなかった。
「……本当、ですか?」
「ああ。約束する」
俺はノアを突き放し、背中を向けた。もう、顔は見れない。
見たら、決意が鈍るから。
「準備しろ、ノア!」
俺は走り出した。動かないはずの足が、翼が生えたように軽い。これが、最後の疾走だ。
「消えろォォォォォォォッ!!」
魔王の口から、世界の終わりを告げる黒い光が放たれた。
「うおおおおおおおおおおおッ!!」
俺は叫び、光の奔流へと真っ向から突っ込んだ。
熱い、痛い。皮膚が剥がれ、肉が炭化していく。
だが、止まらない。俺の魂は、まだ燃えている。
俺は大剣を構え、ブレスの中心点へ切っ先を突き立てた。
「鬼神流最終奥義――
俺の命、魂、存在の全てを乗せた一撃。黒い光が割れる。道が開く。その向こうに、驚愕に目を見開く魔王の核が見えた。
「今だァァァァァァァッ!撃てェェェェェェ、ノアァァァァァッ!!」
俺の叫びに応えるように。 後から、泣き声混じりの、けれど力強い詠唱が聞こえた。
「――
世界が、白に染まった。
次回最終話
同日20時ごろに投稿します