季節が二つほど巡った。道中、俺たちは泥に塗れ、幾多の魔物を屠りながら進んだ。
最初の頃、ノアは剣を握るだけで震え、魔物の返り血を浴びては嘔吐していた。だが、人間とは適応する生き物だ。
あるいは、壊れていく生き物と言うべきか。雨の降りしきる森の中、オークの群れに囲まれた夜のことを覚えている。俺が三匹を同時に相手取り、背後から迫る四匹目に気づかなかった時だ。
「――
短い詠唱と共に、ノアの放った石礫がオークの頭蓋を正確に粉砕した。以前のような過剰火力による暴発ではない。
必要最低限の魔力で、確実に急所を穿つ一撃。振り返ると、ノアは蒼白な顔で、それでも杖を握りしめて立っていた。
「助かった」
「は、はい……!」
俺が短く礼を言うと、ノアは安堵のあまりへたり込んだ。俺とノアの関係は、奇妙な安定を見せ始めていた。
俺が前衛で敵のヘイトを買い、引きつけ、その隙にノアが後方から高火力の魔法を叩き込む。会話は相変わらず少ない。だが、俺が日課の訓練を終えればノアは水差しを出し、俺が剣を振ればノアは反射的に強化魔法を掛ける……飼い主と犬の様な関係。
ともあれ、俺たちは死なずに魔王領の境界線、死の谷グラントまで辿り着いた。
――だが、そこにあったのは絶望だった。
谷の入り口に、異様な悪臭が漂っている。死臭だ。それも、一つや二つの死体から出るものじゃない。俺は鼻を覆い、霧の晴れたその場所を見て、足を止めた。
「……う、ぷ……」
背後でノアが口元を押さえ、道端に嘔吐する音が聞こえる。無理もない。俺ですら、胃の腑が裏返りそうになる光景だ。
そこに転がっていたのは、かつて他国で共に選ばれた、栄光ある『勇者』たちの成れの果てだったのだから。
百発百中の弓兵は、ご自慢の長弓と共に両腕を切断され、枯れ木に無惨に縫い付けられていた。虚ろな瞳は、何かを狙うこともなく虚空を見つめている。
魔法院の天才少女は、詠唱する暇もなかったのだろう。驚愕と恐怖を張り付かせたまま、首だけで地面に転がっていた。長い金髪が泥に汚れ、見る影もない。
王国の重装騎士に至っては、鉄屑と化したフルプレートの中でひき肉のようにミンチになっていた。隙間から漏れ出る血が、黒い水溜まりを作っている。
「……これが、勇者たちの末路か」
俺は冷めた目でその死体の山を見下ろした。他国で絶賛していたエリートたち。
選ばれし者として喝采を浴びて旅立った連中。
神に選ばれ、才能に愛された彼らは、しかし戦場には愛されなかったらしい。
「ああ、汚い汚い。ほんま、死に顔くらい整えといてくれへん?」
死体の山の上、積み重なった瓦礫に腰掛けている人影があった。声の主は、退屈そうに自分の爪を眺めていた。流線型の紫紺の鎧に身を包み、背中には鋭利な刃物のような翼が生えている。その顔立ちは人間と変わらないが、醸し出す空気が違う。魔王軍四天王が二柱、神速の『疾風』ハヤテ。
奴は俺たちを見下ろすと、心底がっかりしたように、わざとらしい溜息をついた。
「あーあ、またハズレか。お前ら、自分が『止まって見える』って自覚ある?」
ハヤテが立ち上がる。それだけで、肌を刺すような殺気が膨れ上がった。
「前の連中もそうやったけど、トロい奴って生きてて恥ずかしくないん?息するスピードも遅そうやし、瞬き一つする間に三回は殺せるわ。……見てて不愉快やねん」
「……随分と、ご機嫌斜めだな」
俺は冷や汗を流しながら、大剣の柄に手を掛ける。ハヤテは鼻を鳴らし、蔑むような瞳で俺を射抜いた。
「せやかて、期待するやんか。『勇者』言うから楽しみにしてたのに、魔法使いの姉ちゃんも、弓引きのエルフも、俺が近づいても気づきもしよらん。雑草刈りしてるみたいで虚しくなんねん」
奴はつまらなそうに、足元の天才少女だった生首をサッカーボールのように蹴り飛ばした。ゴロン、と湿った音を立てて首が転がる。
「ヒッ……!」
ノアが小さな悲鳴を上げた。その音が、開始の合図だった。
「――ッ!?」
ハヤテの姿がブレた。そう認識した瞬間には、俺の視界が天地逆転していた。地面に叩きつけられ、受け身を取る間もなく肺の空気が強制的に吐き出される。 遅れて、右の頬から鮮血が噴き出した。
「ガ、ハッ……!」
速いなんてもんじゃない。予備動作がない。加速のプロセスがない。0から100へ、一瞬で座標が書き換えられたような理不尽な速度。
「オウマさんッ!」
「……ッ、動くな!」
俺は叫び、直感だけで剣を背後に振るう。何万回と繰り返した死闘の経験が、次は後ろだと告げている。だが、俺の剣は虚しく空を切った。
「遅い、遅い。あくびが出るわ」
声は右から、いや左から。ハヤテは残像を残しながら俺の周囲を歩いていた。
いや、散歩でもしているような気軽さだ。俺が必死に目で追おうとしても、奴の姿は霞のように消え、次の瞬間には別の場所に立っている。
「そこ!」
「ブッブー。残像でしたー」
俺が剣を薙ぎ払うが、手応えはない。
代わりに、鋭利な風が俺の体を切り刻む。
シュッ、シュッ、シュッ。風切り音がする度に、俺の二の腕、太腿、脇腹の肉が弾け飛ぶ。反応すらできない。
天才魔術師も、弓兵も、何も認識できないまま肉塊にされたのが理解できた。こいつは、俺たちを戦う相手だとすら思っていない。ただの動く障害物、風景の一部としての処理作業だ。
「なんやその構え、腰が入ってへんで?ああ、俺が速すぎて見えへんのか。可哀想に……カメの方がまだマシな動きするで?」
ハヤテの嘲笑が、四方八方から響く。弄ばれている。俺は歯を食いしばり、出血で重くなる体を支える。
勝てない。これは相性が悪すぎる。俺のような泥臭い近接戦闘型にとって、触れることすら叶わない相手は天敵だ。
「……ま、まずは面倒な『魔法使い』から潰すのがセオリーやでな」
不意に、殺気の質が変わった。冷たく、鋭利な殺意が、俺を通り越して後方へ向かう。ハヤテの視線の先には、杖を構えたまま震えているノアがいた。
「ッ、させねぇよ!」
俺は反射的に地面を蹴り、ノアの前に割り込んだ。思考よりも早く、体が動いていた。俺が死ねば終わりだ。だが、ノアが死ねばもっと終わりだ。こいつは俺の『魔王討伐』の要なんだ。
だが、遅い。俺が剣を構え終わるより早く、ハヤテは既にノアの目の前に立っていた。その手には、真空の刃が形成されている。
「君、詠唱遅すぎ。亀か?」
「あ――」
「死んどきや」
凶刃がノアの喉元へ走る。間に合わない。剣では弾けない。なら、どうする?
俺に残された手段は一つしかない。
俺は大剣を放り捨て、無防備な体をハヤテの刃の前へと投げ出した。
ドシュッ!
肉が裂け、骨が断たれる不快な音が響く。
熱い。背中から熱湯を浴びせられたような感覚と共に、大量の鮮血が舞う。
「ガ、アァァァッ!?」
俺はノアを抱きかかえるようにして、地面に転がった。背中が焼けるように熱い。
脊髄まではいっていないようだが、深い。筋肉をごっそりと持っていかれた感覚がある。
「オ、オウマさん……!?」
腕の中で、ノアが悲鳴を上げる。俺の血が、ノアの白い頬を赤く染めていた。
「バカ野郎……ボサッとしてんじゃ、ねぇ……逃げろ……!」
押し出して距離を離す。
口から血が溢れる。俺は膝をつこうとするが、足に力が入らない。
ハヤテは、血のついた爪を白いハンカチで拭いながら、心底軽蔑したようにこちらを見下ろした。
「うわ、引くわぁ……。そこまでして守る価値あるん?そのトロいガキに」
ハヤテはハンカチを投げ捨て、ゆっくりと歩み寄ってくる。
「お前みたいな才能のないオッサンが、自分の命を捨ててまで守る。それは美談かもしれんけどな、俺から見たらただの無駄やねん。弱い奴が生きてても、世界のリソースの無駄遣いやろ?」
奴が俺の頭を踏みつける。グリグリと、泥の中に顔を押し付けられる屈辱。
「ほら、見てみぃ。お前が守ったガキ、腰抜かして泣いてるだけやんか。魔法の一つも撃たれへん。……ほんま、つまらんわ」
ハヤテが右手を振り上げる。終わりか。
ここまで来て、こんな――。
その時だった。俺の腕の中で、震えていたはずのノアが、カッと目を見開いた。
「――させない」
その瞳に宿っていたのは、恐怖ではない。自分を庇って血まみれになった俺を見た、激情と覚悟。そして、ある種の狂気。
「もう二度と、僕のせいでオウマさんを傷つけさせない……!」
ノアが杖を地面に突き刺す。狙いをつける必要なんてない。あの速さには、点での攻撃は当たらない。なら、どうする?
敵も、味方も、自分自身さえも――この場の全てを潰せばいい。
「『全域重力(エリア・グラビティ)』ッ!!!」
ノアが叫んだ瞬間、世界が歪んだ。敵味方の識別などない。俺たちの周囲一帯の空間そのものが、神の万力で締め上げられたように圧縮される。
ズンッ!!
大気が悲鳴を上げ、地面がクレーター状に陥没する。周囲の木々が飴細工のようにへし折れ、岩が粉々に砕け散る。俺の身体にも、鉄骨を数本背負わされたような激痛が走った。内臓が破裂しそうだ。鼓膜から血が吹き出る。
「が、はッ……!? 体が、重……ッ!?」
だが、それ以上の衝撃を受けたのは、速く動くことだけに特化し、軽量化された四天王の肉体だった。
俺たちにトドメを刺そうとしていたハヤテが、見えない巨人に叩き潰されたハエのように地面へ縫い付けられた。自慢の脚力が封じられ、その整った顔面が泥水に沈む。
「ぐ、が……ッ!? なんやねんこれ……! 重力が、バグって……!」
「ぐ、ぅぅぅ……!」
俺もまた、地面に張り付けられていた。呼吸さえ困難だ。ノア自身も、鼻血を出しながら杖にしがみついて耐えている。自爆特攻。俺ごと奴を潰す気か。 上等だ。綺麗な戦いで勝てる相手じゃねぇ。
「クソ、クソッ! 俺は、俺は誰よりも速いんやぞ……! こんな、泥臭い真似……!」
ハヤテが藻掻く。だが、指先一つ動かすのにも、山の重さがのしかかる。神速の王は、今やただの泥に塗れた敗北者だ。
「……よくやった、ノア」
俺は全身の血管が切れそうな重圧に耐え、血反吐を吐きながら、立ち上がる。
一歩、また一歩。剣を地面に突き刺しながらゆっくりと、しかし着実に近づく。
重力魔法の中にいる限り、俺も奴も等しく這いずる虫だ。なら、根性がある方に分がある。
「な、なんや……来るな……! 気色悪い!」
俺が泥だらけの手でショートソードを握り、寄っていくのを見てハヤテの顔が恐怖に歪んだ。
「寄るな!汚い!俺に触るなァァッ!」
「喚くなよ。……これで、お前も『止まってる』ぜ」
俺は重力に従って倒れ込む勢いを利用し、ショートソードを奴の眼球に突き立てた。
「ギャアアアアアアアッ!?」
「死んどけ、スピード狂」
さらに体重を乗せ、ズブズブと脳髄まで刃を押し込む。ビクン、とハヤテの体が大きく跳ねた。汚い断末魔。痙攣。そして沈黙。
かつて天才たちを屠り、その速さを誇った神速の四天王は、その力を発揮できないまま、泥の中で最も屈辱的な死に方で息絶えた。
「はぁ……はぁ……」
重力が、ふっと消える。ノアが魔力切れで倒れたのだ。俺はその場に仰向けに転がった。空は高く、皮肉なほどに青かった。
――生きてるか。
全身ボロボロだ。だが、勝った。俺たちはまた一つ、地獄を越えたのだ。
ハヤテを泥の中に沈めた後、空が泣き出した。冷たい雨が、俺たちの体についた泥と、魔物の返り血を洗い流していく。俺たちは無言のまま歩き続け、日が暮れる頃にようやく、岩肌に口を開けた小さな洞窟を見つけて転がり込んだ。
「……火、点けますね」
ノアが杖を振り、小さな火種を作る。揺らめく炎が、洞窟内の湿った空気を温め、俺たちの顔を赤く照らし出した。俺は濡れた上着を脱ぎ、岩壁に背中を預けて深く息を吐く。
「ッ……ぅ、ぐ……」
息を吸うだけで、肺が軋む音がする。ハヤテの刃に裂かれた背中。
そして何より、ノアの『全域重力』によって全身の骨と筋肉に加えられた過負荷。回復魔法で外傷は塞がっても、体に染み付いた疲労と、魂が削れるようなダルさまでは消えてくれない。
「オウマさん、背中……見せてください」
ノアが震える声で言った。俺は黙って背中を向ける。冷たい指先が、傷跡をなぞる。
「……ごめんなさい」
ポツリと、懺悔のような言葉が落ちた。
「僕が、魔法を使ったから。僕が、オウマさんごと攻撃したから……こんな、酷い痣が……」
「勝つためだ。気にするな」
「気にします!だって、オウマさんは生身の人間なのに!あんな重力、何度も耐えられるわけがない!」
ノアが珍しく声を荒げた。振り返ると、その瞳からはボロボロと涙が溢れていた。
「怖かったんです。ハヤテを殺した時、隣でオウマさんが動かなくなったから……僕、オウマさんまで殺しちゃったんじゃないかって」
「 ……」
俺は何も言えなかった。事実、あと数秒魔法が長く続いていたら、俺の内臓は破裂していただろう。あの勝利は、薄氷の上を走るような、ギリギリのギャンブルだった。
「ノア、こっちを見ろ」
俺はノアの手首を掴み、引き寄せた。
「あの時、お前が俺ごと潰す判断をしなけりゃ、俺たちは二人とも首を刎ねられて死んでた。お前は正解を選んだんだ」
「でも……ッ」
「優しいのは良いことだ。だがな、優しさだけじゃ何も守れねぇ。時には、大切なものを天秤にかけて、重い方を選ばなきゃならねぇ時が来る」
俺は焚き火に枯れ枝を放り込む。パチリ、と火の粉が舞い上がった。
「お前は勇者だ。これから先、もっと残酷な選択を迫られるかもしれん。……その時、俺の命なんかで迷うな。世界を救うために必要なら、俺を切り捨ててでも進め」
それは、半分は本心で、半分は自分への戒めだった。
俺の体はもう限界に近い。ただの人間が、四天王という怪物たちと渡り合う代償。
筋肉は断裂を繰り返し、骨は悲鳴を上げている。いつか、俺が足手まといになる日が来る。その時、こいつが俺を見捨てられずに共倒れになることだけは避けなきゃならない。
「……嫌です」
ノアが、涙を拭いながら首を振った。
「切り捨てません。僕がもっと強くなって、もっと上手く魔法を制御して……オウマさんも、世界も、両方守ります。絶対に、オウマさんを傷つけさせません」
真っ直ぐな瞳だった。子供の理想論だ。甘ったれた世迷い言だ。だが、その純粋な欲張りこそが、かつて俺が憧れ、そして諦めた勇者の姿そのものだった。
――敵わねぇな、本当。
俺は苦笑して、ノアの頭を乱暴に撫でた。
「痛っ、オウマさん!?」
「生意気言うようになったな、泣き虫のくせに」
「なっ、もう泣いてませんよ!」
「目が腫れてるぞ」
軽口を叩き合いながら、俺たちは硬い干し肉を齧った。味気ない食事だが、今はそれが何よりも美味く感じられた。雨音だけが響く洞窟。
世界から切り離されたような、二人だけの静かな時間。
ふと、俺は自分の右手が微かに震えているのに気づいた。箸を持つように小枝を握ってみるが、震えは止まらない。神経がいかれているのか、恐怖が体に残っているのか。
俺はノアに気づかれないよう、そっと手を握りしめ、膝の下に隠した。
「明日は『忘却の書庫』だ。精神攻撃を使ってくる面倒な女がいるらしい」
「精神攻撃……ですか?」
「ああ。心の隙間に入り込んでくるそうだ。……ま、俺たちには関係ねぇ話だがな」
俺は強がって見せた。心に隙間なんてない。俺の望みは栄光だけ。一点の曇りもない。
そう、自分に言い聞かせる。
だが、焚き火の向こうで無邪気に寝息を立て始めたノアを見ていると、胸の奥に冷たい棘が刺さるような感覚があった。
もしも。もしも心の奥底を暴かれた時、そこにいるのは『英雄になりたい俺』なのか。
それとも――
俺は消え入りそうな炎を見つめながら、眠れぬ夜を過ごした。雨は夜明けまで止むことはなかった。
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