君を幸せにする魔法   作:豚の塩漬け

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四天王リリス-1

 ハヤテを倒した後、俺たちは腐るほどポーションを飲み、泥のように眠り、そしてまた歩き出した。死の谷を越えた先に待っていたのは、深い霧に包まれた巨大な廃墟――『忘却の書庫』だった。かつて賢者たちが魔王に対抗するための知識を集め、そして滅ぼされた場所だ。

 

 

 「……静かすぎますね」

 

 ノアが杖を握りしめ、不安げに周囲を見渡す。風の音すらしない。

 時折、崩れかけた書架から本が落ちる乾いた音が、銃声のように響くだけだ。俺は鼻をひくつかせた。

 死臭はしない。代わりに、古紙の埃っぽい匂いとインクの酸化した匂い、そして微かに甘ったるい香油のような香りが漂っている。

 

「はぐれるなよ。ここは物理法則よりも『認識』が優先される場所らしい。迷ったら二度と戻れねぇぞ」

「は、はい! 背中から離れません!」

 

 俺たちは巨大な鉄扉を押し開け、書庫の内部へと侵入した。中は迷宮だった。天井まで届く巨大な本棚がドミノのように連なり、通路を複雑怪奇に歪めている。

 足元には、数え切れないほどの書物が散乱していた。そのどれもが、誰かが必死に書き残し、そして誰にも読まれることなく捨てられた遺言たちだ。

 

 俺は足元に転がっていた白骨死体を跨いだ。

 外傷はない。だが、その骸骨は、自分の喉を掻きむしるような体勢で息絶えていた。

 恐怖か、狂気か。あるいは、知りたくないことを知ってしまった絶望か。

 

「オウマさん、これ」

 

 ノアが震える声で指差した先。一際豪華な装丁が施された机の上で、一人の魔術師らしき白骨が、黒い装丁の古書に突っ伏して死んでいた。

 その手は、ペンを握ったまま硬直している。

 

「何か書いてあるな」

 

 俺は骸骨の手から、慎重にその古書を引き抜いた。風化してボロボロになったページ。そこに記されていたのは、魔法の術式というよりは、研究日誌のような殴り書きだった。

 

『――失敗だ。また失敗だ。魔王という絶対的な理不尽を消し去るには、同等の代償が必要となる』

『火力が足りないのではない。概念が足りないのだ。奴は人々の恐怖を糧にする。ならば、恐怖する観測者ごと消し去るしか――』

 

 ページを捲る。狂気じみた筆跡で、無数の計算式と魔法陣が書き連ねられている。そして、最後のページに、血で書かれたような一文があった。

 

『禁術・白紙化(ホワイトアウト)。完成した。

 これは最強の魔法だ。対象の因果を世界から切り離し、最初から()()()()()()()にする。だが、代償があまりにも大きすぎる。発動のトリガーは、術者自身の存在証明だ。術者は世界から忘れ去られる……記録からも、記憶からも、愛する者の心からも消滅する。誰も称えてはくれない。誰も思い出してはくれない。そんな勝利に、何の意味がある?私は英雄になりたかった。無名なまま世界を救う捨て石になど、なりたくなかったのだ――』

 

 日誌はそこで途切れていた。恐らく、この魔術師は術を完成させたものの、その代償に恐れをなし、使うことなくここで野垂れ死んだのだろう。

 

「……くだらねぇ」

 

 俺は鼻で笑い、その古書を閉じようとした。馬鹿な男だ。世界を救うためとはいえ、自分が消えてどうする。俺が目指しているのは、凱旋パレードだ。歴史書への掲載だ。

 誰にも知られずに世界を救いました! なんて自己満足は、ただの負け犬の遠吠えに過ぎない。

 

 ――だが。俺の手は、なぜかその本を鞄に放り込んでいた。

 

「え、オウマさん?持っていくんですか?」

「ただの勘だ」

 

 当然使うつもりはない。だが、この術式には利用価値があるかもしれない……例えば、魔王に対してこの術の一部を逆用するとか、あるいは自分が消えるという部分を何らかの方法で代用するとか。戦場では、使える手札はゴミでも拾っておくのが鉄則だ。

 

 その時だった。ズズズ……と、本棚の奥から重苦しい音が響いた。

 霧が急激に濃くなり、視界が白く塗り潰されていく。先ほどまで微かだった甘い香りが、鼻腔を突き刺すような強烈な芳香へと変わる。

 

「あらあら、随分と熱心な読書家さんたちねぇ」

 

 脳髄に直接響くような、濡れた声。俺は即座に剣を抜き、ノアを背に庇う。

 

「誰だ! 姿を見せろ!」

「ふふふ……そんなにいきり立たないで。ここは書庫よ?静かにしないと、悪い夢を見ちゃうわよ?」

 

 霧が凝縮し、一人の女の形をとる。露出度の高い、喪服のような黒いドレス。豊かな肢体。だが、その顔には目も鼻もなく、ただ巨大な『口』だけが三日月型に裂けていた。

 

 魔王軍四天王が三柱、『幻夢』のリリス。

 人の心を読み、トラウマを抉り、自滅させる精神支配の魔女。これまでに葬ってきた勇者の数は四天王の中でも随一と言われる怪物だ。

 

「貴方たち、とっても()()()()()()傷を持ってるわね」

 

 リリスの口がねっとりと歪んだ。その矛先はノアではなく、真っ直ぐに俺を捉えていた。

 

「特に貴方。その剣士さん。世界を救いたい?英雄になりたい? 嘘つきねぇ。貴方が本当に救いたいのは自分だけ。……本当は、後ろにいるその子のことが、妬ましくて、憎くて、殺してやりたいと思っているんでしょう?」

 

「……あ?」

 

 えも言えぬ不快感が、胸の奥で燻る。だが、俺が反論するより早く、リリスが細い指をパチンと鳴らした。

 

「見せてあげる。貴方が心の底で望んでいる、本当の『ハッピーエンド』を」

 

 世界が、反転した。

 

 

 

 ――気がつくと、俺は書庫にいなかった。眩しい光。耳をつんざくような大歓声。心地よい風が、頬を撫でる。

 

「あ?」

 

 俺は、王城のバルコニーに立っていた。眼下には、王都広場を埋め尽くす数万の群衆。彼らは一様に俺を見上げ、涙を流し、熱狂的に手を振っている。

 

『勇者オウマ万歳!』

『魔王を倒した伝説の英雄!』

『世界を救った最強の剣鬼!』

 

 花吹雪が舞う。隣には国王が立ち、俺の手を高く掲げている。その横では、美しい王女が頬を染めて俺を見つめ、熱っぽい視線を送っていた。

 

「これが……俺の、夢……?」

 

 なんだこれ、気持ち悪――――――

 

 ああ、そうだ。これだ。俺が子供の頃、泥だらけになりながら木の棒を振っていた時に夢見た光景。

 誰からも認められず、ただの殺戮者と罵られながら戦い続けた俺が、唯一欲しかったもの。栄光。名声。

 俺が生きた証が、世界の歴史に深く、太く刻み込まれる瞬間。

 

 俺の身体は、魔王との戦いでボロボロだったが、その痛みさえも誇らしい勲章のように感じられた。満たされる。

 空っぽだった心が、黄金の蜂蜜で満たされていくような、蕩けるような充足感。 ふと、視界の端に違和感を覚えた。

 

 バルコニーの隅。華やかな舞台の袖に、薄汚れた子供が立っていた。

 ノアだ。彼は勇者の衣装ではなく、粗末な従者の服を着ていた。手には俺の荷物を抱え、小さくなって震えている。

 

 群衆は誰もノアを見ていない。誰もノアを知らない。ノアが強力な魔法で俺を助けたことも、ノアこそが真の勇者であることも、誰も知らない。

 全ての手柄は、俺のものになっていた。

 

『おめでとうございます、オウマさん。……やっぱり、貴方が勇者だ』

 

 ノアは寂しそうに、けれど心から嬉しそうに微笑んで、俺に向けて小さく拍手を送っていた。その姿を見た瞬間。

 俺の心の中に、どす黒い喜びが湧き上がった。

 

 ――そうだ。これでいい。お前じゃない。選ばれたのはこの俺だ!才能だけのガキが。お前さえいなければ、俺はずっと前にこうなっていたんだ。

 ざまあみろ。主役は俺だ。お前はただの踏み台として、歴史の闇に消えていけ!

 

 醜い。あまりにも醜い言葉。その醜悪な感情こそが、今の俺には蜜のように甘く感じられた。

 

「――そう、それが貴方の本音よ」

 

 耳元で、リリスの声が甘く囁く。

 

「才能への嫉妬。選ばれなかった絶望。貴方は旅の間ずっと、その子の背中を見ながら思っていたはずよ。『なんでこいつなんだ』って。『こいつさえいなければ』って」

 

 幻影が揺らぐ。今度は、別の光景がフラッシュバックする。燃え盛る魔王城。玉座の前。俺の手には剣が握られ、その切っ先は魔王ではなく――ノアの胸を貫いていた。

 

 ノアは驚いた顔をして、口から血を流し、それでも抵抗することなく、悲しげに俺を見つめている。

 

「殺しちゃいなさいよ」

 

 リリスが背後から俺の手を包み込み、剣をさらに押し込ませる。

 

「事故だったと言えばいいわ。魔王との戦いで、不幸にも命を落としたと……誰も疑わない。だって彼は弱いもの。貴方が守ってあげなきゃ死んでしまうような、脆い生き物だもの。今ここでその子の心臓を潰せば、貴方は自由になれる。私が新しい記憶を植え付けてあげるわ。貴方が一人で魔王を倒し、世界を救った英雄になる記憶を、誰も真実なんて知らない、貴方と私だけの秘密」

 

 甘美な誘惑。剣の柄から伝わる、生々しい肉の感触。目の前のノアの瞳から、光が消えていく。邪魔者がいなくなる。

 俺のコンプレックスを刺激し続ける、この無垢な天才がいなくなる。そうすれば、俺は――。

 

 現実世界の書庫。濃霧の中、俺は虚ろな目で立ち尽くしていた。

 手には剣が握られ、その切っ先は、無防備に立ち尽くす本物のノアの背中に向けられていた。ノアもまた、リリスの幻覚に囚われているのか、棒立ちになっている。一歩踏み込んで剣を突き出せば、終わる。全てが、俺の望み通りになる。

 

 俺の腕が、ゆっくりと動いた。殺意の衝動に突き動かされるように、剣先がノアの心臓へと狙いを定める。

 

 その時。静寂の中で、ノアの唇が微かに動いた。

 

「……オウマ、さん」

 

 譫言のような、消え入りそうな呟き。

 

 幻覚の中で、こいつは何を見ている?  きっと、恐ろしい魔物に襲われている夢だろう。

 

「……オウマさんだけは、死なせな、い……。僕の、大切、な……勇者、様」

 

 ピタリ、と俺の手が止まった。勇者様。

 俺が勇者に任命されなかった時も、俺が付き人となれと言われた時も、こいつだけは俺を勇者とみていたのか?として見ていた。俺の嫉妬も、醜いプライドも、八つ当たりのような悪態も、全てを受け入れた上で。

 

 俺の手が震えた。嫉妬? ああ、あるさ。ハヤテ戦でも思った。

 こいつの才能が妬ましい。こいつの魔力が欲しい。俺が勇者でありたかった。俺が世界を救いたかった。

 

 だが――それ以上に。

 

「あいにくだがな、ババア」

 

 俺はギリリと奥歯を噛み締め、振り上げた剣の軌道を無理やりねじ曲げた。向かう先はノアではない――俺自身の、左の太腿だ。

 

 ドスッ!!

 

「ぐ、ぅぅぅッ!!」

 

 刃が肉を裂き、骨に達する感触。激痛。噴き出す鮮血。脳髄を焼き尽くすような痛みが、甘ったるい幻覚の霧を一瞬にして吹き飛ばした。

 王城の歓声が消える。花吹雪が散る。残ったのは、薄暗い書庫と、自分の足から流れる鉄の匂いだけ。

 

「俺は、性格が悪いんだよ」

 

 俺は血走った目で、虚空に浮かぶリリスの口を睨みつけた。

 

「俺が欲しいのは『本物の栄光』だ。お前に与えられた偽物の夢の中で、クソくだらねぇ英雄ごっこをして喜ぶほど……ボケちゃいねぇんだよッ!」

 

 俺は足を引きずり、ノアの元へ歩み寄る。そして、呆けているノアの頭を、拳骨で力任せに殴りつけた。

 

 ゴツンッ!

 

「いったぁ!? ……え、オウマさん!?」

 

 ノアが涙目になって正気に戻る。  俺は血まみれの足で踏ん張り、大剣を構え直した。

 

「起きろバカ勇者!いつまで寝てやがる!」

「オウマさん、足!血が!」

「お前を殺す夢を見てたからな。目を覚ますのに必要だったんだよ」

 

 リリスの口が、初めて余裕を失い、憤怒に歪んだ。

 

「可愛くない男! せっかく幸せな夢を見せてあげたのに、貴方の望みを叶えてあげたのに! なら、絶望の中で死になさい!その心をズタズタに引き裂いてあげるわ!」

 

 リリスの姿が膨張し、書庫全体を飲み込むような巨大な黒い影となって襲いかかる。剣を振るうがすり抜けた。物理的な実体を持たない精神生命体か?

 ならば剣では斬れないし魔法もすり抜ける。だが、今の俺の心は妙に冷えていた。

 

 俺の心の奥底には、確かにノアを排除してでも栄光を掴みたいという醜い怪物がいるのかもしれない。だが、それ以上に――この泣き虫で、お人好しで、俺を信じて疑わない()()()()()を、どうしようもなく放っておけない自分がいることを。

 

 認めてやるよ。俺はこいつが好きなんだ。だからこそ、こいつが作る未来を見てみたいと思ってしまったんだ。

 

「ノア! 精神遮断(マインド・ブロック)だ! 俺たちの心ごと凍らせろ!」

「え!? で、でもそれじゃ魔法の制御が……!」

「構わん!心を閉ざして、本能だけで動け!もし制御が厳しくてもなんとかしてやる!」

「……はいッ!」

 

 ノアが杖を掲げる。俺たちは、互いの正気を保つため、自らの心を鎖で縛り、泥沼のような精神の戦いへと突入していった。




次回の更新は同日20時ごろです
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