「――
ノアの絶叫と共に、世界から音が消えた。物理的な静寂ではない。感情の遮断だ。脳内に薄い氷の膜が張られたような感覚。恐怖も、焦燥も、痛みさえもが遠のいていく。
心を守るための防壁。だがそれは同時に、戦場における勘や連携をも鈍らせる諸刃の剣だ。
「あら、心を閉ざしたの?無駄よ無駄。隙間から滲み出る不安だけで十分、貴方たちを壊せるわ」
リリスの巨大な影が、黒い霧となって俺たちに纏わりつく。霧の中から無数の腕が伸びる。
それはかつて俺が殺してきた魔物たちの腕であり、道中で見た死んだ勇者たちの腕であり、そして――俺自身の腕だった。
『痛いよ、オウマさん』
『助けて、オウマさん』
『なんで僕を見捨てたの?』
無数のノアの声が、鼓膜ではなく脳髄に直接響く。精神遮断をしていても、完全には防ぎきれない。ノアの声色が、俺の心を揺さぶろうとする。
「うるせぇ!」
俺は無造作に大剣を振るう。霧の腕が両断されるが、手応えはない。切っても切っても再生し、まとわりついてくる。物理攻撃無効。精神攻撃特化。
最悪の相性だ。俺のような剣士にとって、斬れない敵は災害と同じだ。
「オウマさん、右!……あ、左!」
ノアの指示が遅れる。心を閉ざしているせいで、魔力感知の精度が落ちているのだ。黒い影の触手が俺の脇腹を掠める。肉が削ぎ落とされる感覚はないが、そこから急速に体力が吸われていくのを感じた。
「くそっ、ジリ貧だな」
俺はノアの襟首を掴んでバックステップし、書架の陰に滑り込む。ノアは肩で息をしていた。精神遮断の維持と、広範囲の防御魔法の同時展開。
そろそろ限界が近い。
「オウマさん……僕、もう……」
「弱音を吐くな。口を動かす暇があったら魔力を練れ」
俺は乱暴に言い放ちつつ、鞄から一冊の本を取り出した。先ほど拾った『失敗した英雄の研究日誌』だ。
ページを乱暴にめくり、ある術式に目を走らせる。
『精神体への干渉。物理攻撃を魔力波長に変換し、霊体に固定ダメージを与える付与魔術』
書かれていたのは、リリスを倒すために作られたであろう未完成の理論。実用化には程遠い、ただの殴り書きだ。だが、今の俺たちにはこれしかない。
「ノア、これを見ろ」
俺は日誌をノアに押し付けた。
「この術式だ。今すぐ俺の剣に付与しろ」
「え……? こ、これ、構造がめちゃくちゃです!理論上は可能かもしれませんけど、魔力回路が複雑すぎて、即興で組むなんて……!」
「お前ならできる」
俺は断言した。根拠はない。ただのハッタリだ。だが、俺はこの泣き虫の才能を知っている。
規格外の魔力。天才的な演算能力。そして何より、土壇場での異常な集中力。
「四の五の言わずにやれ。失敗したら二人で仲良く発狂して死ぬだけだ」
「そ、そんな無茶苦茶な……!」
ノアは涙目で抗議するが、その視線は既に日誌の術式を高速で解析し始めていた。
「……30秒。いえ、20秒稼いでください。その間に構築します!」
「上等だ。一時間でも稼いでやるよ」
俺はニヤリと笑い、書架の陰から飛び出した。
「おいババア!ここだ!」
俺は大声を上げ、リリスの注意を引く。
「あら、やっと出てきた。諦めて私の人形になる気になった?」
「馬鹿が。お前の人形なんぞ露店でも引き取り拒否だ!」
挑発に乗ったリリスが、怒涛の勢いで影を伸ばしてくる。俺は走った。
本棚を蹴り、壁を走り、床を転がる。全方位から迫る黒い触手。防げない。躱しきれない。
肩を、背中を、足を、影が通り過ぎるたびに、俺の生命力が削り取られていく。視界が霞む。手足が鉛のように重い。
――10秒。
まだか。背後でノアのブツブツという詠唱が聞こえる。早い。聞いたこともない速度で、古代語の術式を編み上げている。
――15秒
リリスの本体が、巨大な
「ガハッ……!」
衝撃。全身の骨が悲鳴を上げる。影の牙が大剣ごと俺を噛み砕こうとする。
「死になさい! 恐怖の中で! 絶望の中で!」
「へっ……絶望なんざ、食い飽きてんだよ!」
俺は血反吐を吐きながら耐える。
20秒。その瞬間、背後から爆発的な魔力の奔流が迸った。
「――構築完了!
ノアの叫びと共に、俺の大剣が眩い銀色の光を帯びた。未完成の術式を、ノアの規格外の魔力で無理やりねじ伏せ、完成させたのだ。
剣が脈打つ。斬れないものを斬るための、概念の刃。
「オウマさん!今です!」
言われるまでもない。俺は渾身の力を込め、噛みついていた影の顎を押し返した。
「うおおおおおおおおおおおおッ!!」
光を纏った大剣が、影をバターのように切り裂く。確かな手応え。今まで素通りしていた霧の体に、刃が食い込む感触。
「な、何!?痛い!?私が、痛みを……!?」
リリスが悲鳴を上げた。精神生命体が感じるはずのない、物理的な激痛。
「これが現実だ、クソアマ!夢から覚める時間だぜ!」
俺は一歩踏み込み、リリスの核と思われる口の中心へ、切っ先を突き立てた。
「【鬼神流・竜骨砕き】ッ!!」
閃光。銀色の魔力が炸裂し、リリスの黒い体を内側から食い破る。
「ギャアアアアアアアアアアアアアアッ!!」
断末魔の叫びと共に、リリスの体が霧散していく。黒い霧が晴れ、書庫に本来の静寂が戻ってきた。
「はぁ……はぁ……」
俺はその場に大の字に倒れ込んだ。もう指一本動かせない。生命力も精神力も空っぽだ。天井を見上げると、灰色の霧が晴れ、ステンドグラスから微かな光が差し込んでいた。
「や、やりました……!オウマさん、やりましたよ!」
ノアがへろへろになりながら、俺の顔を覗き込んでくる。その顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだが、満面の笑みだった。
「……ああ。お前のおかげだ」
「え?」
ノアが目を丸くする。俺はそっぽを向いて、照れ隠しに悪態をついた。
「あの術式、一発で組み上げやがって。やっぱお前、すげぇな」
「えへへ……オウマさんに褒められた……」
ノアは嬉しそうに笑い、俺の隣に座り込んだ。俺は鞄の感触を確かめる。
底には、あの黒い本――『存在抹消』の術式が書かれた日誌が入っている。
俺はリリスに見せられた夢を思い出していた。ノアを殺して、俺が英雄になる夢。だが、俺はそれを拒絶した。
俺はこの手で、こいつが生きて、笑っている未来を選んだのだ。
――もしも
ふと、不吉な考えが頭をよぎる。 もしも、魔王との戦いで、どちらか一方しか助からないとしたら。 あるいは、俺の存在そのものが、こいつの未来の邪魔になるとしたら。
俺はその時、この本を使うのだろうか。 自分の名前を、栄光を、生きた証を全てドブに捨ててでも、こいつを救うのだろうか。
「……ねぇな」
俺は頭を振って、その思考を追い払った。そんな日は来ない。俺たちは二人で魔王を倒し、二人で凱旋するんだ。絶対に。
「行くぞ、ノア。次は最後の砦だ」
「はい! オウマさん!」
俺たちは立ち上がり、光の差す出口へと歩き出した。その背中に、黒い本の重みを感じながら。
次回は2月4日の8時頃に投稿です