『忘却の書庫』を抜け、重苦しい霧が晴れた頃には、日はすでに西の空へと傾いていた。
リリスとの戦いは、肉体的な疲労以上に、精神をヤスリで削られるような倦怠感を俺たちに残していた。俺の心は過去の嫉妬と現在の罪悪感でぐちゃぐちゃにかき回され、ノアもまた、魔法の反動で酷く消耗しているはずだった。
「……今日はここまでだ」
俺は立ち止まり、街道から少し外れた森の中にある、開けた河原を指差した。透明な水がさらさらと流れ、月明かりを反射して静かに煌めいている。
最後の四天王、ガルドスの待つ『嘆きの回廊』までは、あと半日ほどの距離だ。
このまま進むこともできたが、今の不安定な状態で最強の敵と対峙するのは自殺行為に等しい。
「はい……足が、もう棒みたいです」
ノアが力なく笑い、その場にぺたりと座り込んだ。顔色は悪い。白い肌がさらに青白く見え、目の下には薄くクマができている。
俺は無言で枯れ枝を集め、慣れた手つきで焚き火を熾した。パチパチと火が爆ぜる音だけが、気まずい沈黙を埋めていく。
「水、浴びてきますね」
しばらく炎を見つめていたノアが、不意に立ち上がった。
「汗と、あの書庫の変な匂いが染み付いてる気がして……ちょっと、流してきます」
「ああ。あまり遠くに行くなよ。魔物がいないとも限らねぇ」
「はい。すぐそこですから」
ノアは杖も持たず、よろめくような足取りで川の上流の方へと歩いていった。その背中はひどく小さく、頼りなく見えた。
俺は溜息をつき、沸かした湯に干し肉を放り込む。 リリスに見せられた夢が、まだ頭の片隅にこびりついていた。ノアを殺して英雄になる夢。
それを否定し、自分の足を刺してまで目覚めた俺。俺はもう迷っていないつもりだった。だが、ふとした瞬間に考えてしまう。
本当に、俺はこの子と共に居ていいのか?
俺のような薄汚い人殺しが、この純白の勇者の隣にいていいのか?
そんな、嫌な考えばかり考えてしまう。
「ん?」
思考の渦に沈みかけていた俺の視界に、白い布切れが入った。ノアが座っていた倒木の上。そこに、手ぬぐい代わりの布が置き忘れていた。
「あいつ……ボケてんのか」
体を拭くものを忘れて、どうやって水浴びをするつもりだ。精神遮断の影響で注意力が散漫になっているらしい。
俺は舌打ちをし、布を掴んで立ち上がった。放っておけば濡れたまま服を着て、風邪を引くのがオチだ。
ただでさえ虚弱なガキなのに、これ以上体調を崩されたらたまったもんじゃない。
「おいノア、忘れ物だぞ」
俺は川沿いを歩き、ノアが向かった岩陰へと足を進めた。水の流れる音が大きくなる。月は高く昇り、冷たく青白い光が森を照らし出していた。
岩陰を曲がった先、淀みになって流れが緩やかになっている場所でその姿を見つけた。
「――――」
俺は、声をかけることすら忘れて立ち尽くした。
月光の下、水面に波紋が広がっている。腰まで水に浸かり、背中を向けて立っているノア。纏っていたボロボロのローブも、旅装も、全て岩の上に脱ぎ捨てられている。
露わになったその背中は、俺が想像していた痩せっぽちな少年の体ではなかった。
白磁のように滑らかな肌。月明かりを吸い込んで発光しているかのような、柔らかな曲線を描く腰のライン。濡れた銀髪が肩に張り付き、その隙間から覗くうなじは、触れれば折れてしまいそうなほど繊細だ。
そして、水面が揺らぎ、ノアが振り返った瞬間――。
ささやかながらも、確かに存在する胸の膨らみが、夜気の中に晒された。
「……あ」
俺の喉から、間の抜けた音が漏れた。目が合った。ノアは濡れた髪をかき上げながら、不思議そうに俺を見ていた。
悲鳴を上げるでもなく、体を隠すでもなく。ただ、無防備に。
「オウマさんどうしたんですか?」
鈴を転がすような声。
今まで声変わり前の少年の声だと思っていたそれは、紛れもなく少女のそれだった。
「お前……」
言葉が出てこない。驚きよりも先に、強烈な衝撃が脳髄を殴りつけた。
女だったのか、こいつは……。
俺がガキと呼び、泣き虫と罵り、戦場へ引きずり回していたこの勇者は。年端もいかない、ただの少女だったのか。
心当たりは、いくらでもあった。甘い匂い。華奢な骨格。風呂を避ける仕草。それら全ての違和感を、俺は未熟な子供だからという理由だけで切り捨てていた。
――何を見ていたんだ、俺は。
俺はこいつの隣にいながら、何一つ見ていなかった。こいつが何者なのか。どんな人間なのか。どんな痛み抱えているのか。
勇者という記号と、自分の夢を叶えるための道具というフィルターを通してしか、こいつを見ていなかったんだ。
恥ずかしさではない。裸を見たことへの劣情など、微塵も湧かなかった。
ただ、どうしようもないほどの申し訳なさと、自分の浅ましさへの嫌悪感が込み上げてくる。
こんな華奢な少女に、俺はどれほどの重荷を背負わせていたんだ。どれほどの恐怖と、傷と、責任を押し付けていたんだ。
「……拭くもん、忘れてたぞ」
俺は視線を逸らした。まともに直視できなかった。
彼女のありのままの姿――その白さと、体に刻まれた無数の小さな傷跡を見るのが、怖かったからだ。その傷のすべてが、俺の無能さを証明する烙印のように思えた。
「あ、本当だ。ありがとうございます」
ノアは水音を立てて岸に上がり、俺の手から布を受け取った。その間も、彼女は一切動じていなかった。まるで、自分が女であることなど大した問題ではないとでも言うように。
「オウマさん、顔が暗いですよ?疲れました?」
「……うるせぇ。さっさと拭いて服を着ろ、風邪引くぞ」
俺は背を向け、逃げるようにその場を離れた。
俺は焚き火の前戻り、膝を抱えて座り込む。焚き火の熱さが、冷え切った心には届かない。
俺は、こいつの本質を見ようともしなかった。
ただの子供という枠に押し込めて、思考停止していた。
そうすれば、罪悪感を感じなくて済むからだ。
「……最低だな、俺は」
独り言が、夜の闇に吸い込まれて消えた。
守らなきゃいけない。勇者としてではなく、一人の人間として、一人の少女として。
この子を、絶対に死なせてはいけない。
しばらくして、草を踏む音が近づいてきた。ノアが戻ってきたのだ。濡れた髪を布で拭きながら、さっぱりとした表情で俺の隣に座る。
「ふぅ、生き返りました。やっぱり水浴びは気持ちいいですね」
その横顔を、俺は盗み見た。焚き火に照らされたその顔は、やはりどう見ても少女のものだった。長い睫毛。薄い唇。細い首筋。
なぜ今まで気づかなかったのか不思議なくらいだ。
「どうかしました? そんなに見つめて」
「いや……なんでもねぇよ」
俺は視線をスープの鍋に戻した。ノアは少し不思議そうに首を傾げたが、すぐに柔らかく微笑んだ。
俺たちは無言でスープを啜った。 温かい液体が胃に落ちるが、胸のつかえは取れないままだ。このまま黙っているのは耐え難い。
何か、話さなければ。この重苦しい空気を、そして俺自身の罪悪感を紛らわせるために。
薪が爆ぜる音が、不自然なほど大きく響いた。俺は視線を炎に固定したまま、スープを口に運ぶ。
「オウマさん」
静寂を破ったのは、ノアの方だった。彼女は膝を抱え、マグカップの両手で包み込むように持ちながら、炎を見つめていた。
「1つ、聞いてもいいですか?」
「なんだ」
「オウマさんは、どうして『勇者』になりたかったんですか?」
唐突な問いだった。俺は少し虚を突かれ、それから自嘲気味に鼻を鳴らした。
「今更だろ、そんな話……ガキの頃に絵本を読んだんだよ。世界を救って、みんなにチヤホヤされて、歴史に名を残す。そんなありふれた夢だ」
「それだけですか?」
「あぁ、金も欲しい、名声も欲しい、美味いもんも食いたい……俺は欲深い人間だからな」
わざと卑俗な言葉を選んだ。今の俺には、高尚な理想なんて語る資格はないと思ったからだ。だが、ノアは俺の方を見て、くすりと笑った。
「ふふ、オウマさんは嘘つきですね」
「あ?」
「欲深い人は自分の命を削ってまで誰かを守ったりしませんよ。リリスとの戦いの時も、ハヤテの時も、オウマさんはいつも自分のことなんて二の次でした」
ノアの瞳が、炎の色を映して揺れている。その瞳は全てを見透かしているようで、俺は居心地の悪さに視線を逸らした。
「買いかぶりすぎだ。俺はただ自分の手柄が欲しいだけだ」
会話を切り上げようと、俺は話題を変えた。
これ以上、俺の中身を掘り下げられるのは堪らない。
「それより、お前はどうなんだ」
「え?」
「お前こそ、勇者に選ばれる前は……何をしていたんだ?」
俺はずっと、これを聞くのを避けていた気がする。
こいつの過去を知れば、情が移る。
だが、もう手遅れだ。俺は少なからずノアに情を抱いてしまった……なら、知らなきゃいけない。
戦場に引きずり込まれたこの子が、どんな人生を歩んできたのかを。
ノアは少し驚いたように瞬きをし、それから寂しそうに微笑んだ。
「……何も、していませんでした」
「何も?」
「はい。何もできなかったんです」
ノアは自分の細い腕をさすりながら、ぽつりぽつりと語り始めた。
「僕は生まれた時から体が弱くて、ずっとベッドの上で過ごしていました」
病気。
その言葉を聞いて、妙に納得がいった。あの色素の薄い肌も、細すぎる手足も、時折見せる儚げな雰囲気も。
全ては、日の光を浴びられなかった時間の証明だったのか。
「窓の外を見るのが、唯一の楽しみでした。同い年の子供たちが走り回っているのをカーテンの隙間から眺めて……いいなぁって、ずっと思ってました」
ノアの声は淡々としていた。悲壮感はない。
「父さんも母さんも、優しかったです。僕のために高い薬を買ってくれて、看病してくれて、いつも『ごめんね』って泣いていました……それが、辛かった」
ノアが膝に顔を埋める。
「僕は生きてるだけで、誰かの負担になってる。お金を使わせて、時間を奪って、心配させて……僕がいない方が、みんな幸せなんじゃないかって。ずっと、そう思って生きてきました」
胸が締め付けられるようだった。 リリスが見せた夢の中で、俺が感じた劣等感とは違う。
これは無力感だ。
自分の存在そのものが、愛する人たちの重荷になっているという、呪いのような自責。
「そんな時に……教会の人が来たんです」
ノアが顔を上げた。その瞳には、強い光が宿っていた。
「『貴方には才能がある』『貴方の魔力なら、世界を救えるかもしれない』って言われた時……信じられますか?僕、嬉しかったんです」
「嬉しかった……?」
「はい。だって、初めて
ノアは、焚き火に手をかざし、その温かさを確かめるように言った。
「怖かったです。魔物なんて見たこともなかったし、血を見るのも嫌いだし、痛いのも嫌いです。でも、それ以上に……『僕が誰かの役に立てる』ということが、どうしようもなく嬉しかった」
彼女は、俺を見て笑った。それは、聖女のように清らかで、そしてあまりにも危うい笑顔だった。
「だから、オウマさん。僕を戦場に連れてきてくれて、ありがとうございます。貴方が僕を守ってくれたから、僕はここで、誰かのために戦える。今まで誰かに支えられて生きるだけだった私が、誰かの命を守ることができる……それが、今の僕にとって一番の幸せなんです」
「――――」
俺は、言葉を失った。
幸せ、だと?
こんな血生臭い戦場が。死と隣り合わせの旅が。自分の命を削って、恐怖に震えながら戦うことが……幸せだって言うのか?
歪んでいる。あまりにも純粋すぎて、歪んでしまっている。
この子は、自己犠牲の中にしか自分の生きる価値を見出だせていないんだ。
自分が傷つくことで誰かが助かるなら、それはお得だと本気で思っている。
だから、ザルバの前でも平気で前に出た。ハヤテ戦でも、自分ごと敵を潰す選択をした。
自分の命が軽いんだ。俺なんかよりも、ずっと。
「馬鹿野郎」
俺は絞り出すように呟いた。
「え?」
「そんなのが幸せであってたまるか。誰かの役に立たなきゃ生きる価値がねぇなんて……そんな寂しいこと言うんじゃねぇよ」
俺は立ち上がり、ノアの頭に手を置いた。乱暴に、けれど力を込めないように、その銀髪をくしゃくしゃに撫でる。
「お前はもう十分やった。世界なんか救わなくても、お前はそこにいるだけでいいんだよ。親御さんも、きっとそう思ってたはずだ。お前が重荷だなんて、一度も思ったことなんかねぇよ」
「オウマ、さん」
ノアの瞳から、大粒の涙が溢れた。彼女はずっと、誰かにそう言って欲しかったのかもしれない。
『生きていてほしい』と。
「……ありがとうございます。オウマさんは、やっぱり優しいですね」
ノアは泣き笑いのような顔で、俺の手を握り返してきた。その手の、なんと小さく、冷たいことか。
俺はこの手を引いて、地獄を歩いてきた。そして、これからも歩かせようとしている。
――ああ、そうか。
俺の中で、最後の迷いが消えた。
俺が、こいつの呪いを解かなきゃいけない。勇者という役割から。自己犠牲という呪縛から。
この子を解き放って、ただの普通の女の子に戻してやらなきゃいけない。
ならば俺は――
「寝ろ、ノア。明日は早い」
「はい……おやすみなさい、オウマさん」
ノアは毛布にくるまり、すぐに寝息を立て始めた。その寝顔は、年相応の少女のあどけなさを持っていた。
俺は一人、消えかけの焚き火を見つめた。鞄の中の黒い本の感触を確かめ、本を読む。
夜風が吹いた。俺は静かに目を閉じ、来るべき最期の戦いに思いを馳せた。これが、俺たち二人で過ごす、最後の夜だった。
次回は同日18時頃に投稿です