天蓋を覆う暗雲が、低く垂れ込めている。魔王城の深淵、その最奥の一つ手前に位置する『嘆きの回廊』。
そこは、これまでの四天王たちが支配していた領域とは明らかに異質だった。
腐臭がない。魔物の咆哮もない。不気味な静寂と、研ぎ澄まされた冷気だけが、肌を刺すように満ちている。
俺たちの足音が、乾いた石畳に反響する。
コツ、コツ、コツ。
その音だけが、この世界で唯一存在するものであるかのように錯覚させるほどの静けさだ。
隣を歩くノアの呼吸が荒い。
「……オウマさん」
ノアが、掠れた声で俺を呼んだ。
「空気が……痛いです」
「ああ。ビリビリきやがるな」
俺は返事をしながら、回廊の先を見据えた。
分かる。長年、死線の上で踊り続けてきた俺の本能が警鐘を乱打している。
この先にいるのは、今までのような怪物ではない。魔術の理も、異形の力も、搦め手も必要としない。
ただ純粋な『暴力』の結晶が、そこに鎮座している。
回廊の終点。天を衝くような黒鉄の大扉の前。一人の騎士が立っていた。
漆黒のフルプレートアーマー。その表面は光を吸い込むように鈍く沈んでおり、無数の傷跡が刻まれている。
それは装飾などではなく、数千、数万の戦場を生き抜いてきた証だ。兜のバイザーは下ろされ、表情は伺えない。ただ、その立ち姿だけで、周囲の空間が歪んでいるように見えた。
魔王軍最強の四天王。魔王の右腕にして、魔族最強の剣士。
『戦鬼将』ガルドス。
俺たちが間合いに入っても、ガルドスは動かなかった。抜剣すらしていない。腕を組み、仁王立ちのまま、ただ俺たちを見下ろしている。だが、その全身から立ち昇る
「……ッ」
俺は思わず足を止めた。
ハヤテの速度を見た時も、リリスの幻覚に囚われた時も、俺は恐怖を怒りで塗り潰すことができた。だが、こいつは違う。
俺が目指し、焦がれ、そして決して届くことのなかった武の頂が、そこにある。
圧倒的な格の差。生物としてのステージが違う。
蛇に睨まれた蛙などという生易しいものではない。嵐の前に立つ羽虫のような無力感だ。
「……来たか、人間」
兜の奥から響いた声は、重厚で、地響きのように腹の底へ響いた。
「我はガルドス。魔王様に仇なす者を刈り取る剣なり」
ガルドスが、ゆっくりと腕を解いた。その動作1つで、風が巻く。
奴の手が、背負っていた大剣の柄にかかる。鞘などない。身の丈ほどもある、巨大な鉄塊のような大剣だ。
刃こぼれし、赤黒い錆が浮いているように見えるが、それがかえって凄味を増している。
「ここまで辿り着いたその武勇に免じ問おう。貴様らが勇者か?」
「だったら、どうする」
俺は大剣を引き抜き、切っ先を突きつけた。手が震えそうになるのを、歯を食いしばって抑え込む。
「勇者ならば、斬る。希望を断ち、絶望を与えるのが我の務め」
ガルドスが、大剣を片手で軽々と持ち上げた。構えは自然体。だが、隙がどこにもない。
どこから斬り込んでも、迎撃され、両断されるイメージしか湧かない。
「だが……妙だな」
兜の奥の瞳が、俺ではなく、背後のノアに向けられた。
「勇者の気配は、そこの幼子から感じる。……貴様は何だ?その薄汚れた剣士よ」
「……」
心臓を冷たい手で鷲掴みにされたような感覚。震えを誤魔化すように強く手を握る。
「俺、は」
言葉が詰まる。勇者の付き人? 剣鬼オウマ? 世界を救う英雄志願者?
どれもしっくりこない。今の俺は、この圧倒的な怪物の前で、ただの矮小な存在でしかない。
「オウマさんは!」
沈黙を破ったのは、ノアの叫びだった。ノアは震える足で一歩前に出ると、俺の背中を庇うように杖を構えた。
「オウマさんは、僕の大切な……最強の剣士です!貴方なんかに、負けません!」
「……最強、か」
ガルドスが微かに笑った気配がした。
「面白い。ならば証明してみせよ。その言葉が真実か、それとも幼子の戯言か」
ガルドスの殺気が膨れ上がる。
空気が凍りつく。来る。俺は反射的に身構えた。
「ノア、支援を……」
言いかけて、俺は口を噤んだ。ノアが杖に魔力を込めている。
いつもの勝利の方程式。俺という脆弱な器を、ノアの規格外の魔力で無理やり強化し、格上の敵と渡り合うためのドーピング。
だが。俺の本能が叫んでいる――力を使わせるな、と。
この先に魔王が居る、その時にノアの力は必須。
しかし、この場で魔力を使わせると万全の状態で魔王に挑めなくなる、それだけはさけたい。
せめて回復魔法程度で抑えるべきだ。それに……。
――俺は、こいつと戦いたい。
心の奥底から湧き上がる、熱くて昏い衝動。
勇者になれなかった俺が、唯一誇れるもの。この男はその頂点にいる。
ならば、借物の力で勝って何になる?
魔法で底上げした筋肉で殴り倒して、それで俺は最強を名乗れるのか?
「いらねぇ」
俺は、ノアの手を押さえた。
「え? で、でもオウマさん、相手は最強の四天王ですよ!?強化魔法がないと……!」
「下がってろ、ノア。こいつは俺一人でやる」
ノアが息を呑む。当然だ。正気じゃない。今の俺の強さはガルドスの足元にも及ばない。まともに打ち合えば、一合で剣ごと粉砕されるかもしれない。
「……ほう」
ガルドスが、初めて興味深そうに俺を見た。
「勇者の虎の威を借る狐かと思うたが、どうやら死に急ぎたいらしい。魔法の加護無しで、この我に挑むか」
「試してみろよ」
俺は唇を歪めて笑った。恐怖で引きつっているかもしれないが、それでも笑った。
「俺が虎か狐か、それとも――貴様を食い殺す『鬼』か」
挑発。ガルドスは応えない。ただ、大剣の切っ先を僅かに下げただけだ。それが来いという合図だった。
俺は地面を蹴った。石畳が砕ける。一足飛びで間合いを詰める。
真正面からの突撃。小細工なし。今の俺が出せる最速、最強の一撃。
「【鬼神流・剛撃】ッ!!」
渾身の力で振り下ろした大剣が、空気を切り裂いてガルドスの脳天へ迫る。当たれば岩をも砕く一撃――だが。
「軽い」
ガンッ!!
硬質な音が響き、俺の手首に雷に打たれたような激痛が走った。ガルドスは一歩も動いていなかった。
片手……たった片手で持った大剣の腹で、俺の全力の一撃を受け止めていたのだ。
防御の構えですらない。ただ、そこに剣を
「なッ……!?」
「遅い。弱すぎる。貴様の剣には『芯』がない」
ガルドスの瞳が、冷徹に俺を射抜く。
「迷い。嫉妬。焦燥。……雑念が剣を鈍らせている。そのようなナマクラで、我の鋼鉄が斬れると思うたか」
ガルドスの腕が動いた。予備動作のない、ただの横薙ぎ。だが、その速度と質量は、暴風そのものだった。
「しまッ――」
回避は間に合わない。俺は反射的に大剣を引き戻し、盾にする。
ドォォォォォン!!
「が、はッ……!?」
衝撃。
竜に正面衝突されたような、理不尽な暴力が全身を駆け巡った。
俺の大剣が悲鳴を上げて軋む。腕の骨がミシミシと音を立て、俺の体はボールのように吹き飛ばされ後方の石畳を無様に転がった。
「ガハッ……!う、えッ……!」
口から大量の血が溢れる。肺が潰れたか? 上手く息が吸えない。視界が明滅する。たった一撃。
魔法もスキルも使っていない、ただの素振りのような一撃で、俺は瀕死に追い込まれた。
「オウマさん!!」
ノアの悲鳴が遠くに聞こえる。来るな。来ちゃいけない。
「立つのだ、人間」
ガルドスの声が響く。追撃はない。奴は動いてすらいない。
「それで終わりか?大言壮語を吐いた割には、随分と脆。……期待外れだな」
失望。侮蔑ですらない、純粋な失望。
それが、何よりも俺のプライドを傷つけた。
俺は泥に塗れた手で地面を掴み、血反吐を吐きながら立ち上がる。膝が笑っている。大剣には亀裂が入り、俺の身体は限界を超えている。
勝てない。
誰が見ても明らかだ。今まで俺が積み上げてきたものは、この圧倒的な本物の前では、児戯に等しい。
「……くくっ」
喉の奥から、乾いた笑いが漏れた。
「笑うか。恐怖で発狂したか?」
ガルドスが眉をひそめる気配がする。俺は首を振り、口元の血を手の甲で乱暴に拭った。
「いや……違ぇよ。納得したんだ」
俺は、ガタつく膝を叱咤して、剣を構え直す。
「あんたの言う通りだ。俺の剣は軽い……ずっと、見てたからな」
脳裏に浮かぶのは、リリスに見せられた夢。そして、バルコニーの袖から俺を見上げていたノアの姿。
俺はずっと、自分が勇者になれなかったことを引きずっていた。ノアの魔法に頼りながら、「俺が主役だ」と虚勢を張り、歴史に名を残すことばかり考えていた。
だから、剣に体重が乗らない。心技体の心が全く追いついていないんだからな。
「俺は、勇者になりたかった。誰かに認められたかった。綺麗な鎧を着て、歓声を浴びて、世界を救う光になりたかった」
俺は自嘲気味に呟く。ガルドスは黙って聞いている。
「でも、なれなかった。俺にあるのは、泥水を啜って生き延びてきた執念と、何万回と剣を振るって染み付いた『殺しの技術』だけ」
認めるのは、死ぬほど怖かった。これを認めてしまえば、俺の人生が間違いだったと認めることになる気がしていたから。
だが。目の前の最強は、そんな甘えを許さない。
要らねぇものは、全部捨てろ。
嫉妬を捨てろ。名誉欲を捨てろ。 誰かに認められたいなんて甘えも、過去への未練も、未来への希望さえも。
全てを捨てて、ただ一振りの刃となれ。
「俺は『剣鬼』だ。綺麗な勇者様の代わりに、血と泥に塗れて邪魔者を殺す、ただの怪物でいい」
カチリ。心の中で、何かのスイッチが切り替わる音がした。
視界から色彩が消える。ノアの悲痛な表情も、回廊の風景も、全てが遠のいていく。残ったのは、目の前の敵と、己の手にある剣だけ。
「行くぞ、ガルドス」
俺が踏み出す。先ほどまでの、気負った突撃ではない。自然体。
殺すために歩き、殺すために振るう、純粋な殺意の具現化。
「……ほう」
ガルドスの雰囲気が変わった。侮りも、失望も消えた。奴はゆっくりと、しかし確実に、両手で大剣の柄を握りしめた。
「良い目だ。先ほどまでの死人の目よりは、幾分かマシになった」
ガルドスが構える。その瞬間、俺たちの間にあった空気が爆ぜた。
次回は同日20時ごろに投稿です