絶景の落穂拾い ―彼女らの一番になれなかった者たちの独白― 作:雷炎
私は幼馴染である。
名前は、ここには記さない。記したところで、彼女の物語においては「その他大勢」の観客A、あるいは背景の書き割りと同義だからだ。ただ、その「幼馴染」という黴の生えた古臭い肩書きだけが、呪いのように私の心臓に張り付いている。今後一緒取れないだろうその呪いにもにた肩書を背負って。
彼女の名は、ブエナビスタという。
スペイン語で「絶景」を意味するその名の通り、彼女は美しく、気高く、そして速かった。
我々が生まれ育ったのは北の大地、北海道である。冬になれば全てが白一色に塗り潰されるその地で、彼女だけが鮮烈な色彩を放っていた。あれは、私たちがまだ背丈も同じくらいの時分であったか。
一面の銀世界で雪だるまを作りながら、彼女は言ったのだ。白い息を吐き、赤いマフラーに顔を埋めながら。
「わたしね、いつかスペさんみたいなすごいウマ娘になるの。みたいに、みんなに愛されるウマ娘に」
その瞳は、遥か彼方のゴール板を見据えているようだった。私はその横顔に見惚れていた。子供心に、これは只者ではないと感じていたし、何よりすでに彼女のことが好きだった。
私が「すごいな、ブエナは」と平凡な相槌を打つと、彼女はふにゃりと笑って、とんでもないことを口にした。
「だからね、わたしがすごいウマ娘になったら……お嫁さんにしてね」
冗談だったのだろう。あるいは、当時の彼女にとっての「好き」は、母親が作るシチューや、暖炉の火と同じ種類の温かさだったのかもしれない。
だが、この愚かな男は、その言葉を福音として受け取った。凍てつく寒空の下、心臓だけが早鐘を打ち、その熱で雪が溶けるのではないかと錯覚した。
「ああ、約束だ」
そう答えた男の声を、彼女は覚えているだろうか。いや、覚えているはずがない。なぜなら今の彼女にとって、誓いを立てるべき相手は、もう私ではないのだから。
時が経ち、彼女は予定調和のように、いや、運命に導かれるようにして中央のトレセン学園へと進んだ。当然である。彼女の脚は、田舎の牧草地で埋もれるにはあまりに惜しい。彼女は走るために生まれた。一等星が夜空を巡るように、ターフを駆けることが彼女の存在証明なのだ。
私は誇らしかった。まるで自分のことのように嬉しかった。彼女が中央へ行くときに感じた悲しみなど吹き飛ばすようにはしゃぎ喜んだ。テレビの向こう、あるいはスマートフォンの小さな画面の中で、彼女がデビュー戦を飾り、重賞を制していく様を見るたびに、胸が震えた。「見ろ、あれが私の幼馴染だ」と、誰彼構わず自慢したい衝動に駆られた。
彼女は「正解」を求め、常にひたむきで、いい子だった。プレッシャーに押しつぶされそうになりながらも、懸命に前へ進む彼女の姿は、まさしく「絶景」だった。
しかし、その絶景の中に、異物が混じり始めたのはいつ頃だったか。
いや、異物などと呼べばバチが当たる。彼女を導き、彼女の才能を開花させた功労者、すなわち「トレーナー」という存在だ。最初は気にならなかった。ウマ娘とトレーナーは二人三脚。一心同体となって夢を追うパートナーだ。そこに恋愛感情が介在する余地などない、と高を括っていた。
だが、文明の利器たるLINEのやり取りが、次第に神経を逆撫でし始めた。
『今日ね、トレーナーさんが褒めてくれたの!』
『トレーナーさんが、今の走りは良かったって』
『今度の週末、トレーナーさんとお出かけして靴を選んでもらうことになったの』
文面から溢れ出るのは、達成感だけではない。そこには、絶対的な信頼と、私には決して向けられない種類の「甘え」が見え隠れしていた。私が「よかったな」「すごいじゃないか」と返すたびに、画面の向こうの彼女は、おそらくこちらのなど考えていない。彼女の脳裏にあるのは、常に隣に立つその男の顔なのだ。心優しい彼女がそんなことをするわけがないと思っていても、こちらへの当てつけのように感じで胸が苦しくなる。
私の返信は、次第に短くなった。
嫉妬だ。醜く、粘着質な嫉妬であることは、自身が一番よく理解していた。だが、止められない。かつて「お嫁さんにしてね」と言った少女は、今や別の男の手を取って、見たこともない速さで駆け抜けていく。日に日に大きくなっていく獣を抑えながら、私はただ観客席からその背中を見送ることしかできない。
あれは確か、シニア級に差し掛かる頃だったか。
私は、彼女が帰省した折に、意を決して会うことにした。久しぶりに会う彼女は、以前よりもずっと大人びていた。勝負服ではなく私服に身を包んだ彼女は、どこか垢抜けていて、直視できないほど眩しかった。
「久しぶりだね! 元気にしてた?」
彼女の笑顔は変わらない。優しくて、温かい。だが、その無邪気さが、今の私には鋭利な刃物となって突き刺さる。
カフェで向かい合い、たわいない話をした。地元のこと、親のこと。そして、話題はどうしてもレースのこと、ひいてはトレーナーのことへと流れていく。
「トレーナーさんね、すごく真剣なの。私の迷いも、不安も、全部受け止めてくれる。……私、あの人のためにも勝ちたいの」
彼女が頬を染めてそう語った時、私は悟ってしまった。
ああ、これは勝てない、と。
レースの勝ち負けの話ではない。彼女の心の中に占める「座席」の話だ。私は、その話題を変えようと、必死に足掻いた。醜くも浅ましく自身と彼女しか知らぬ話題へ逃げようとした。
「そういえば、昔、雪だるま作りながら話したこと、覚えてるか?」
すがるような思いで、禁断のカードを切った。あの結婚の約束だ。彼女はキョトンとして、首を傾げた。
「え? 雪だるま? ……うーん、ごめん。よく覚えてないや。寒かったことしか覚えてないかも」
彼女は申し訳なさそうに呟いた。
「あはは、私たち、いつも一緒だったもんね。まるで兄妹みたいに」
兄妹
その二文字が、私の淡い期待の息の根を止めた。彼女にとって私は、安心できる「実家」のようなものだ。スリッパのまま寛げる、ときめきの欠片もない存在。
対して、トレーナーは違う。彼女を輝かせ、彼女を未知の世界へ連れて行く、唯一無二の「パートナー」。それは異性としての憧れと、アスリートとしての信頼が分かち難く結びついた、強固な絆だ。
彼女がバッグから取り出したのは、レース場のお守りだった。
「これね、トレーナーさんがくれたの。私の宝物なんだ」
そう言って愛おしそうに指で撫でるその仕草には、こちらにいる時に一度も触れることのできなかった「異性」の顔があった。
その瞬間、悟りを開いた僧のように、あるいは死刑判決を受けた囚人のように、静かに微笑むことしかできなかった。
「そうか、いい人なんだな」
喉から絞り出した声は、ひどく乾いていた。
季節は巡り、世界は再び白に閉ざされた。シニア期の冬である。かつてクリスマスや正月といった暦の節目は、彼女と共に暖を取るための口実であった。コタツに入り、蜜柑を剥き、紅白の歌合戦を眺めながら、来年の抱負を語り合う。それが不文律であり、永遠に続く日常だと信じていた。
しかし、その年の冬、彼女は帰らなかった。
『ごめんね、今年はトレーニングがあるから帰れないの』
スマートフォンの液晶に浮かぶ文字は無機質だ。だが、私の脳裏には、その文章を打つ彼女の背景がありありと浮かぶ。G1ウマ娘ともなれば多忙だ。帰省できないこともあるに決まっている。常識で考えれば当然だ。
だが トレセン学園のイルミネーションか、あるいは都会の喧騒の中か。彼女の隣には、間違いなくあの男がいる。そう確信した。
私はSNSという覗き穴から、見たくもない現実を覗き見る。
誰かが投稿した写真には、初詣の神社で手を合わせる彼女と、それを優しく見守るトレーナーの姿があった。人混みの中、はぐれないようにと、彼女がトレーナーのコートの袖を摘んでいるのが見て取れた。少し遡ればクリスマスにトレーナーと二人で歩く姿もあった。
その指先。その慎ましさ。その信頼しきった背中。
自分の記憶にある「幼馴染」の姿はそこにはない。
そこにいるのは、その顔は、恋する一人の乙女であった。
腹の底から、どす黒いマグマのようなものが湧き上がる。
「俺の方が、あいつのことを知っているのに」
「俺の方が、ずっと前からあいつを見ていたのに」
そんな子供じみた独占欲が、喉元まで出掛かっては消える。
彼女は今、人生で最も充実した時間を過ごしている。憧れの舞台で、信頼できるパートナーと共に、勝利という果実を求めている。それを邪魔する権利など、故郷で燻るだけの私にはない。
熱を持ったスマートフォンを雪の中へ放り投げたい衝動を必死に抑え込み、冷めきった雑煮を一人で啜った。餅は喉に詰まるほど固く、味などしなかった。
そして迎えた、引退レース。
冬の中山レース場は、熱気と冷気が入り混じる異様な空間であった。私はスタンドの雑踏に紛れていた。彼女の最後の勇姿を目に焼き付けるためだ。なけなしのバイト代を握りしめて、北の大地からひっそりと見に来たのだ。
そのなんとちっぽけなことか。今や自身の知らぬ彼女を見るために、自身が傷つくと分かっていても足が勝手に動いていた。
パドックに現れた彼女は、まさしく「絶景」の名に相応しい仕上がりだった。バ体は艶めき、気品に満ちている。
だが、私の目はどうしても、彼女ではなく関係者席にいるトレーナーへと吸い寄せられる。彼女が近くへいく。最後の指示を出しているのであろう。彼が何かを囁き、彼女が小さく頷く。二人の間には、言葉以上の対話があった。何万回もの調教、何十回ものレースを経て築き上げられた、誰も割り込むことのできない「阿吽の呼吸」。
彼女はトレーナーを見上げて微笑んだ。
その笑顔は、かつて雪だるまの前で私に見せたものとは違う。
もっと深く、もっと切実で、全霊を預けた者だけが見せる、魂の共鳴とも言うべき表情だった。
それを見た瞬間、心の中で何かが音を立てて崩れ落ちた。
ああ、終わったのだ。
私の初恋も、幼い日の約束も、雪解け水のように跡形もなく流れ去ってしまったのだ。とっくの前から分かっていたことをようやく受け入れた。
レースの詳細は、ここでは割愛する。
彼女は走った。懸命に、ひたむきに。多くの夢を背負い、多くの期待に応えようと、あの大地を蹴った。
先頭でゴール板を駆け抜けることは叶わなかったかもしれない。だが、その走りは美しかった。誰よりも正しく、誰よりも一生懸命な、彼女そのものの走りだった。
周囲の観客たちが「お疲れ様」「ありがとう」と口々に叫ぶ中、私の目からは涙が溢れて止まらなかった。
それは感動の涙ではない。 悔恨の涙だ。
一体、わたしはどうすれば良かったのか。
もしもあの時、雪だるまの前で冗談めかさず本気で返していたら。
もしも彼女と一緒に都会へ出ていたら。
もしもわたしが、彼女を導けるだけの力を持っていたら。
無数の「もしも」が走馬灯のように駆け巡り、そして消えていく。
答えは出ない。ただ、目の前の現実は、彼女がトレーナーの手を取り、穏やかな表情でターフを去っていくということだけだ。
全てが終わり、喧騒が遠のいた頃。関係者席の近くで、彼女と短い言葉を交わす機会を得た。彼女はレースの興奮が冷めやらぬまま、それでも変わらぬ無垢な瞳でこちらを見つめていた。
「来てくれたんだね! ……見ててくれた? 私の最後のレース」
「ああ、見ていたよ。すごいレースだった。お疲れ様、ブエナ」
精一杯の強がりで、笑ってみせた。顔が引きつっていなかっただろうか。涙の跡は消えていると信じて。
彼女はふわりと微笑み、そして私にとっての断頭台の刃となる言葉を、無邪気に放った。
「ありがとう。……えへへ、なんだか照れくさいけど」
彼女は少しだけはにかんで、まっすぐに吾輩を見た。
「私ね、あなたのこと、ずっと本当の家族みたいに思ってたの。
遠くにいても、いつも見守ってくれてて。
……ありがとう、お兄ちゃん」
その一言が、私の心臓を貫いた。
お兄ちゃん。
ああ、そうだ。そうだった。
彼女の中で、私の席はそこだったのだ。
恋人でもなく、パートナーでもなく。ただ、安心して甘えられる、血の繋がらない兄。
ならば「お兄ちゃん」と呼ばれた以上、私は「兄」として振る舞おう。
妹の幸せを願い、妹が選んだ男を認め、笑顔で送り出す。それが「兄」の役割だ。
彼女の幼馴染として最後の仕事。
嫉妬などしてはいけない。悔しがってもいけない。ただ、慈愛に満ちた目で彼女を祝福しなければならない。
それは、あまりにも残酷で、あまりにも優しい呪いであった。
「……ああ」
私は震える声で、呪いを受け入れた。あらゆる感情が、想いが溶け出して枯れたはずの涙として流れる。
「自慢の妹だよ、お前は」
彼女は満面の笑みで頷き、そしてトレーナーの待つ方へと駆け出していった。
一度も振り返らなかった。
その背中は、もう手の届かない場所へ、光の中へと消えていく。
私は独り、暮れなずむ空を見上げた。
一番星が光っている。
あの星は遠い。手を伸ばしても、叫んでも、決して届かない。だからこそ、それは「絶景」と呼ばれるのだろう。
私は涙を拭い、鼻をすすった。せめて、この物語の読者がいれば伝えてほしい。
かつてここに、一人の愚かな男がいて、世界で一番速くて美しい少女に、叶わぬ恋をしていたのだと
幼馴染は負けヒロイン属性と何処かで見て書きました。ウマ娘は曇らせたくないので、敗れし者たちに存分に曇ってもらいます。