絶景の落穂拾い ―彼女らの一番になれなかった者たちの独白― 作:雷炎
俺の幼馴染、ダイワスカーレットは、生まれながらにして「一番」であり「一番」を誰よりも求めていた。容姿、学業、運動神経。神様がパラメータを振る時に、うっかり全てを最大値にしてしまったかのような完璧超人。それが彼女だった。
だが、俺だけは知っていた。その完璧さが、天賦の才だけで作られたものではないことを。
「ちょっと、あんた。タイム計って」
放課後の公園。彼女はいつも俺を呼び出し、ストップウォッチを握らせた。彼女は走る。誰もいない砂利道を、夕焼けを切り裂くような赤一色になって。
息を切らし、汗を拭い、髪を整えてから、彼女は俺の前に立つ。
「.....で、どうだった?」
「先週よりコンマ1秒速いよ。すごいな、スカーレットは」
俺がそう告げると、彼女はふん、と鼻を鳴らし、ツインテールを揺らす。
「当然よ。私が誰だと思ってるの? 昨日よりも今日、強くなるんだから!」
彼女は強気だ。傲慢ですらある。けれど、俺はその強がりが好きだった。
彼女は、誰にも努力を見せない。「優等生」の仮面を被り、涼しい顔でトップに立ち続ける。その仮面を外し、汗に塗れた素顔を見せるのは、この公園でタイムを計る俺の前だけだった。
「あんたはいいわよね。ただ見てるだけでいいんだから」
彼女はよく、そう言って俺をじっと見てくる。けれど、その言葉は俺にとっての勲章だった。
『見てるだけでいい』
それはつまり、特等席の許可証だ。彼女が一番星として輝く過程を、一番近くで観測することを許された、唯一の幼馴染という特権。
俺はずっと、その席に座り続けるつもりでいた。彼女の走りを見れるのが幸せだった。
天賦の走りの才と勤勉さの甲斐もあって、彼女はトレセン学園へ入学した。彼女がトレセン学園に入学し、デビューしてからも、俺たちの関係は変わらないように思えた。いつものように彼女の走りを見てストップウォッチを押す。普通の、俺だけの幸せな時間だった。
彼女は勝ち続けた。テレビの画面越しに見る彼女は、アイドルよりも可愛く、アスリートよりも激しく、圧倒的な「一番」だった。そしてレースが終わると、決まって彼女から電話がかかってくる。
『見た? 今日のレース』
「ああ、見たよ。ぶっちぎりだったな」
『ま、あんなもんよ。周りが遅すぎるの。……で、どうだった? 私の走り』
彼女は称賛を求める。俺は惜しみなく言葉を尽くす。
「完璧だった」
「一番輝いていた」
「誰も君には敵わない」。
それが俺の役目だ。彼女の自信を肯定し、彼女のプライドを磨き上げる鏡になること。彼女は満足そうに『ふふん』と笑い、電話を切る。
これでいい。俺はこれからも、彼女の承認欲求を満たす一番の理解者であればいい。
だが、その日常に亀裂が入ったのは、チューリップ賞の前だったか。
彼女の口から、ある異物が混じり始めた。
「トレーナー」という存在だ。
『ねえ、聞いてよ! あのトレーナー、信じらんない!』
電話の向こうで、彼女は憤慨していた。
いつもの愚痴だ。俺は「どうしたんだ?」と相槌を打つ準備をした。
『今日のトレーニング、もう終わりって言ったのに、「あと一本」だって!私が「今日は調子が悪い」って言ったら、「だからこそ走るんだ」とか言って……本当にデリカシーがないんだから!』
「……へえ、厳しい人なんだな」
『厳しいっていうか、しつこいのよ!私の方針に口出ししてくるし、「お前はまだ完成してない」とか偉そうに....。
私が一番だってこと、わからせてやるんだから!』
彼女の声には、怒りが滲んでいた。だが、俺は違和感を覚えた。
俺に対する時の「呆れ」や「甘え」とは違う。もっと熱く、苛烈で、感情的な響き。俺なら、彼女が「調子が悪い」と言えば、「じゃあ休もう」と言うだろう。
彼女を傷つけたくないからだ。彼女の完璧さを守りたいからだ。
だが、そのトレーナーは違った。
彼女の完璧なメッキを剥がし、その下にある泥臭い根性を引きずり出そうとしている。
『あーあ、ムカつく。……今度のレース、絶対にあいつをギャフンと言わせてやるわ』
彼女はそう言ったが、その声は、かつてないほど生き生きとしていた。
俺は、握りしめたスマートフォンの温度が、少し下がったような錯覚を覚えた。優等生の彼女の本当の姿、誰よりも一番を目指し向上心に満ち溢れた姿。原始的な勝つことへの渇望。
それは俺だけが見て良いものだろ。
彼女に呼応される様に自信の剥き出しの欲望が湧き出してくるのを止めれなかった。
そして迎えたG1。ウマ娘にとって、一生に一度の晴れ舞台。
彼女は一番人気に支持されていた。当然だ。彼女はダイワスカーレットなのだから。だが、ライバルがいた。ウオッカだ。
レースは壮絶だった。
彼女は逃げた。誰よりも前へ、一番の景色を求めて。
だが、最後の直線。並ぶ間もなく抜き去ろうとする影があった。
結果は2着。
彼女が負けた。彼女が、一番になれなかった日。
俺は言葉を失った。
なんて声をかければいい?
「惜しかったね」? 「次は勝てるよ」?
そんな安っぽい慰めは、プライドの高い彼女を傷つけるだけだ。電話がかかってくるのが怖かった。彼女が泣き叫ぶ声を聞くのが怖かった。
だが、その夜。彼女からの連絡はなかった。
今までレースが終わればかかってきた電話がかかってこなかった。
次の日も、その次の日も。俺からかけることもできず、ただ時間だけが過ぎていった。
三日後後、ようやく彼女と連絡が取れて待ち合わせした。
久しぶりに会う彼女は、少し痩せたように見えたが、その瞳の光は失われていなかった。いつもの公園。俺たちは並んでベンチに座った。
「....悔しかった?」
恐る恐る聞く俺に、彼女は缶ジュースを開けながら、あっけらかんと言った。
「は? 何のこと?」
「え、いや、レースのこと」
「ああ、あれね...?.悔しいに決まってるじゃない。私が負けるなんてありえないし」
あんたに連絡できないくらいと言って彼女は強く唇を噛んだ。けれど、すぐに顔を上げ、不敵に笑った。
「でも、わかったの。私にはまだ、足りないものがあったって」
「足りないもの?」
「そう。トレーナーが言ったの。『お前は強い。だが、相手も強い。それを認めた時、お前はもっと速くなれる』って」
彼女は、俺には見せたことのない、遠くを見る目をしていた。
「あの人ね、負けた私に言ったのよ。『泣くな、顔を上げろ。お前の物語は、ここからが一番面白いんだ』って。
.......生意気よね。私のくせに、私より未来を信じてるんだから」
彼女は愛おしそうに、自分のシューズの爪先を見つめた。
そこには、俺が知っている「甘えん坊の幼馴染」はいなかった。
敗北の味を知り、それを糧にして立ち上がろうとする、一人の偉大なアスリートがいた。
俺は、持っていたジュースの缶を強く握った。言えなかった。負けた彼女に「顔を上げろ」なんて、無責任なことは言えなかった。
ただ「よしよし」と慰めて、傷を塞ぐことしかできなかっただろう。
「......そっか。いいトレーナーさんなんだな」
俺の言葉は、乾いた砂のように崩れ落ちた。
彼女は「べ、別に?」と顔を赤らめて否定したが、その表情が全てを物語っていた。
彼女の「一番」を目指す戦いにおいて、俺はもう、並走者でも観測人でも無い。
観客席から双眼鏡で眺める、その他大勢の一人になりつつあるのだ。
「あんたも見てなさいよ。次は絶対に勝つから。
オークスも、その次も……私が全部勝って、一番になるところを」
「ああ、見てるよ。ずっと」
俺は約束した。
けれど、それは「幼馴染としての約束」ではなく、「ファンとしての誓い」に近いものになっていた。
一番星は、遠い。
近づけば焼かれるほどの熱を放つその星に、素手で触れられるのは、同じだけの熱量を持ったあの男だけなのだ。俺にはその熱量がなかったということだけ。それだけだ。
彼女は変わった。いや、より純度を増したと言うべきか。G1での敗北を経て、ダイワスカーレットの走りは凄味を増していた。
「逃げ」という戦術。
それは、誰の背中も見ず、誰の力も借りず、たった一人で先頭を走り続ける孤独な戦い。
かつての俺は、その孤独を共有しているつもりでいた。「あんただけが見ていればいい」という彼女の言葉を、二人だけの秘密の契約書のように大事に抱えていた。
だが、今の彼女の孤独は、俺の手の届かない場所にある。そして孤独を共有するのは俺では無い彼女のトレーナーだ。
秋の天皇賞。ウオッカとの一騎打ち。歴史に残る大接戦。2センチ差の敗北。
テレビの前で、俺は息をするのも忘れていた。
悔しい。幼馴染として、彼女が負けるのは身が千切れるほど悔しい。
だが、レース後の彼女の表情を見た時、俺の感情は行き場を失った。彼女は、泣いていなかった。
全力を出し尽くした疲労困憊の中で、どこか清々しい顔でトレーナーと話し込んでいた。
『次は勝ちます。絶対に』
『ああ。お前ならやれる』
二人の間には、敗北の悲壮感など微塵もなかった。あるのは、次なる戦いへの闘志と、極限の勝負を演じきった者同士の信頼。
そこには「慰め」が入る隙間など1ミクロンもない。
俺は気づいてしまった。彼女にとっての「一番」とは、単に順位のことではない。
自分を高め、ライバルと競い合い、その果てにトレーナーと掴み取る「生き様」そのもののことなのだと。
俺はダイワスカーレットのことを何も分かっていなかったのだ。そんな男が彼女のそばに、隣になど立てるわけもない。彼女と違い現状に甘んじて停滞の心地に浸っていたのだから。
そして、有馬記念。彼女は、並み居る強豪たちを相手に、一番人気を背負って出走した。
俺は、中山レース場のスタンドにいた。
「特等席」ではない。数万人の観衆の中の、埋もれるような一席だ。
寒風が吹き荒れる中、ゲートが開き彼女は逃げた。
迷いのない、完璧な逃げ。
「見てなさい!」という彼女の声が聞こえるようだった。
誰に? 俺に?
違う。
世界にだ。そして、誰よりも彼女を信じ、送り出したトレーナーにだ。
最後の直線。後続が迫り悲鳴と歓声が入り混じる。
「逃げろ! 逃げろスカーレット!」
俺は叫んだ。喉が裂けてもいいと思った。彼女は苦しいはずだ。足が鉛のように重いはずだ。
かつての彼女なら、ここで弱音を吐いていただろう。
だが、彼女は伸びた。
苦しい場面でこそ輝く、不屈の精神。
それは、俺が公園で「よしよし」と甘やかしていた時には決して芽生えなかった強さだ。
あのトレーナーが、彼女のプライドを刺激し、喧嘩し、共に悩み、鍛え上げた鋼の精神力。
ゴール板を先頭で駆け抜けた瞬間、彼女は右手を突き上げた。
一番。文句なしの、正真正銘の一番星。スタジアムが揺れる。
何万人の彼女を讃える声を全身で浴びながら涙で視界が歪んだ。
おめでとう。すごいよ。本当にかっこいいよ。
けれど、その涙は、喜びだけのものではなかった。
レース後、ウィニングランから戻ってきた彼女は、トレーナーを見つけた。満面の笑み。俺が公園でタイムを計った時に見せた、あの「褒めて」という顔の、何百倍も輝かしい笑顔。
『見たでしょ!? 私が一番!』
彼女は彼に向かって叫び、そして抱きついた……わけではなかった。
トレーナーの前で仁王立ちし、胸を張った。彼は深く頷き、彼女の頭をポンと撫でたのではなく、拳と拳を合わせる仕草をした。
「よくやった」 「当然よ」
そんな会話が聞こえてきそうだった。恋人でもない。保護者でもない。
対等な「パートナー」。
俺はその光景を、双眼鏡越しに見ていた。
レンズの向こうの二人は、スポットライトを浴びて輝いている。
俺の周りには、その他大勢の観客がいるだけ。ゆっくりと双眼鏡を下ろした。
かつて彼女は言った。『あんたは見てるだけでいい』と。あれは、特権ではなかった。
「あんたは一緒に走れないから、そこで見てなさい」という、残酷な線引きであり不器用な彼女のやさしさだったのだ。
彼女の隣を走れるのは、彼女と同じ速度で魂を燃やせる人間だけ。安全圏から「頑張れ」と言うだけの人間には、その資格はない。
ーーー俺の役目はとっくの昔に終わっていたのだ
数日後、彼女からLINEが来た。
『有馬記念、見た? 私が一番だったでしょ!』
G1を制し年末年始の忙しい時期にも関わらず、彼女は律儀にLINEをくれた。
短い文面。スタンプ一つ。俺は、打ちかけた文章を何度も消した。
どれも、今の彼女には軽すぎる気がした。
結局、俺が送ったのは、これ以上ないほどシンプルな一言だった。
『ああ、世界一だったよ』
既読はすぐについた。
『当たり前じゃない! ありがと!』
俺はスマートフォンの画面を消し、夜空を見上げた。
冬の空には、冬の星座が煌々と輝いていた。一番星は、どれだろうか。
どれであれ、それはここからは遠い。手を伸ばしても、決して触れることはできない。
俺は、ポケットの中に入っていたストップウォッチを取り出した。あの日、公園で彼女のタイムを計った、安物のストップウォッチ。電池はもう切れかけているのか、液晶の数字は薄くなっている。
「......お疲れ様、俺」
俺はそれをゴミ箱に.....捨てることはできなかった。引き出しの奥、思い出の品々が入った箱の中に、そっとしまった。
年月を過ぎれば人もウマ娘も変わる。そんな当たり前な事実を見たくなくて、変えることもせずにここまできた。走ることを止めた男。
彼女はこれからも走り続ける。俺の知らない景色の中を、俺の知らない誰かと共に。
箱を閉じる音は、俺の初恋が終わる音に似ていた。
さようなら、私の愛した一番星。
多分ダスカなら、立ち止まっても尻を引っ叩いて歩かせてくれる。