絶景の落穂拾い ―彼女らの一番になれなかった者たちの独白― 作:雷炎
俺とウオッカの定位置は、いつだって校舎裏の、塗装の剥げかけた自動販売機の前だった。
放課後のチャイムが鳴ると、示し合わせたわけでもないのに、俺たちはそこで落ち合う。俺は背伸びして買った甘ったるいジュースを、あいつは強炭酸のサイダーを買って、ガードレールに腰掛けるのが日課だった。
「ぷはーっ! やっぱ練習の後はこれだよな!」
ウオッカは豪快にサイダーを飲み干すと、空き缶をゴミ箱に向かって放り投げる。カラン、と乾いた音がして、見事に吸い込まれた。
「ナイスイン。......で、今日はどうだったんだ?」
俺が尋ねると、ウオッカはニカっと笑って、鼻の下を擦った。
「おうよ。今日のタイム、結構よかったぜ。俺ってば、やっぱ才能あるかもな」
「はいはい。調子に乗るなよ」
俺たちは「カッコいい」ものに憧れていた。
それはバイクだったり、ロックバンドだったり、あるいは大人の敷いたレールを外れて生きるアウトローな生き様だったりした。そうしたものをあーだこーだ言って語り合うのが俺たちの日常だった。
俺にとって、ウオッカは最高の「相棒」だった。
あいつはウマ娘で、俺はただの人間だが、そんな違いはどうでもよかった。バカな話で盛り上がり、夕陽が落ちるまでダラダラ過ごす。このぬるま湯のような時間が、俺たちの「カッコいい青春」の全てだった。
けれど、その炭酸の泡のような日々は、唐突に弾けて消えた。
あいつが「日本ダービー」という、とてつもない夢を口にした日からだ。
「なぁ。俺、ダービー獲りてぇ」
いつものようにガードレールに座っていた時、ウオッカが不意に言った。
俺は飲んでいたジュースを吹き出しそうになった。
「はあ? ダービーって、あのダービー? あそこは、トレセン学園の.....エリート中のエリートが出れるレースだろ?」
日本ダービー。
詳しく分からないが、周りの大人たちはダービーと聞くと興奮して話し始める。すごいレースだということは知っている。
俺は笑い飛ばした。俺たちの身の丈には合わない冗談だと思ったからだ。ウオッカの脚の速さは知っていたが、そんなすごいレースに出れるとは想像がつかなかった。
だが、ウオッカは笑わなかった。
その瞳は、沈みゆく夕陽を真っ直ぐに射抜いていた。
「無理じゃねぇよ。……カッコいいだろ? 誰にも文句言わせねぇくらい速く走って、頂点に立つんだ。それこそが、最強にカッコいいってことだろ」
その時、俺は初めて、隣に座るあいつが遠く感じた。
俺の思う「カッコいい」は、社会へのささやかな反抗や、自由気ままな遊びだった。
けれど、あいつの「カッコいい」は、命を懸けて夢を掴み取る覚悟のことだったのだ。
それから、トレセン学園に入学したウオッカの隣には、俺ではない男の影が見えるようになった。
トレーナーだ。
最初は、俺もその男を値踏みしていた。今まで俺たちが思っていた「かっこいい」から外れた硬い仕事だ。ウオッカが合うのだろうかと考えていた。
だが、あいつの口から出る言葉は、予想外のものだった。
「なあ聞いてくれよ!!トレーナーマジでスパルタなんだよ。今日のメニューなんかこんなに走れねえって言ってるのによ.....」
ウオッカは文句を言いながらも、どこか楽しそうだった。
その顔には、泥と汗がこびりついている。その顔が綺麗だと思った。
「......大変そうだな。たまには息抜きしようぜ。駅前のゲーセン、新しい台が入ったらしいぞ」
俺は、いつものような時間を求めて誘い水を向けた。
しかし、ウオッカは申し訳なさそうに頭を掻いた。
「わりぃ。今日はこれからミーティングあんだ。トレーナーと、次のレースの作戦会議しねぇと」
「......そっか。真面目だな」
「バーカ、真面目じゃねぇよ。勝つためだ。勝たなきゃ、カッコつかねぇだろ?」
あいつは背中を向けて走り去った。
残された俺は、一人分のサイダーを買った。
プシュッ、と缶を開ける音が、やけに大きく響く。
一口飲んだそれは、いつものスカッとする味ではなく、舌を刺すような痛みだけを残した。
いつもの日常が遠ざかっていく。だけど、彼女が進むと決めたのなら見守ろう。
だって.....
「カッコいいな......」
それが彼女のカッコよさなのだから。
そして迎えた、運命の日本ダービー。大勢の慣習が開始を今か今かと待ち焦がれていた。
勝つのだろうか。勝てるのだろうか。不安と期待が入り乱れて、関係ない俺まで眠れない日々が続いた。
俺も、心のどこかでそう思っていたかもしれない。
熱気溢れる東京レース場。そこに俺もいた。相棒としてではなく、チケットを握りしめた一人の観客として。
ファンファーレが鳴り響く。10万人を超える大観衆の熱気。地響きのような歓声。
その中心に、あいつは立っていた。
ゲートの中で、ウオッカが空を見上げたのが見えた。
その表情を見て、俺は息を呑んだ。
俺たちが「ダルいなー」と言って見上げていた夕暮れの空とは違う。
あいつが見ているのは、栄光という名の、一番高い空だ。
その横顔は、俺が知っている「悪友」のものではなかった。
研ぎ澄まされたナイフのように美しく、そして近寄りがたい「戦士」の顔だった。あの頃俺たちが憧れたカッコいいそのものだった。
「......いけよ、ウオッカ」
俺の声は震えていた。
ゲートが開く。夢の祭典が幕を開けた。
今までレースを応援するために、何度もレースを見てきた。だが、今までとは熱気も声援も、走るウマ娘たちの勝ちたいという想いも何もかもが違っていた。そんな中にあいつもいる。今、選ばれた18人の中にいるのだ。
ただ応援することしかできない、ならば精一杯応援しよう。彼女に比べればちっぽけだが俺なりの「カッコよさ」を突き進む。
レース終盤、東京レース場の長い直線。
それは、選ばれし者だけが駆け抜けることを許された、栄光への花道だ。
俺は叫んでいた。周りの観客と同じように、いや、それ以上に、叫びすぎて喉が枯れても構わなかった。
「ウオッカ! いけぇ! 差せ! 差せぇぇぇ!!」
彼女は、馬群の中にいた。ウマ娘たちに囲まれ、揉まれている。
俺たちが放課後にダラダラと過ごしていた「ぬるい時間」のままなら、彼女はそこで終わっていただろう。
だが、彼女はこじ開けた。
自分を信じ、勝利を信じ、己の脚だけで壁をぶち破って伸びてきた。
その姿は、鳥肌が立つほどカッコよかった。俺が憧れていたロックバンドなんか目じゃない。飾り気のない、剥き出しの闘志。泥だらけの勝負服。
彼女は、俺の知らない強さを身につけていた。あのトレーナーと共に、血の滲むような鍛錬で手に入れた、本物の強さを。
ゴール板を駆け抜けた瞬間、雷鳴のような歓声が空を揺らした。
俺は、震える手でフェンスを握りしめた。
涙が止まらなかった。嬉しい。すげぇよ、ウオッカ。お前は本当に、世界一カッコいいよ。
ウイニングラン。
スタンドの歓声に応えながら、彼女は誰かを探していた。俺は知っていた。あいつが探しているのが、俺でないことを。
彼女の視線が止まる。そこには、クシャクシャな笑顔で拳を突き上げるトレーナーがいた。ウオッカは、彼に向かってニカっと笑い、自分の拳を天に突き上げた。
そして、二人は離れた場所から、拳と拳を合わせる仕草をした。
言葉はいらない。
「やったな」「おうよ」
そんな声が聞こえてきそうな、完璧なコミュニケーション。
俺とウオッカの関係は「遊び仲間」だった。楽しいけれど、そこには責任も未来もなかった。けれど、彼とウオッカの関係は「相棒」だ。
互いの人生を背負い、夢を共有し、地獄も天国も二人で歩く。彼女が求めていた「カッコよさ」の正体は、それだったのだ。誰かに寄りかかるのではなく、背中を預け合える関係。
俺は、ポケットに入っていたジュース缶を握りしめる。
彼女はこれからも走り続け伝説になるのだろう。伝説の隣に立つのは、平凡な悪友の俺ではなく、英雄を導くあの男でなければならない。
数日後。
放課後の自販機前に、ウオッカが現れた。
ダービーウマ娘になっても、あいつは変わらないジャージ姿で、いつものようにサイダーを買った。
「おう。見たかよ、あのレース。俺ってばマジで最高だったろ?」
彼女は得意げに笑い、俺の隣のガードレールに腰掛けた。
いつもの光景。いつもの放課後。
けれど、横にいる彼女が遠く感じる。
「ああ、最高だったよ。……お前、遠くに行っちまったみたいだったぜ」
俺が冗談めかして言うと、ウオッカは「はぁ?」と眉をひそめ、俺の背中をバンと叩いた。
「何言ってんだよ。俺は俺だろ。何も変わってねぇよ」
一瞬時が止まる。だが思わず吹き出す。
そうだこいつはウオッカだ。ダービーを取ろうともこれからも伝説を築こうとも、こうして語り合える友達だ。例え違う道を歩いたとしてもそれは変わらない。心の寂しさは何処かへ吹き飛んだ。
「そうだな!変わってないな、ウオッカはずっとカッケェよ!!!」
流し込んだジュースが久々に美味く感じたいつもの日だった。