絶景の落穂拾い ―彼女らの一番になれなかった者たちの独白― 作:雷炎
車椅子の車輪が濡れたアスファルトを噛む音をよく知っている。人よりも低い目線で見ることで人とは違う景色も見てきた。
晴れた日の軽い音も。
雨上がりの、底に湿り気を含んだ重い音も。
砂利を踏んだときの小さな抵抗も。
横断歩道の白線に乗った瞬間だけ、ほんのわずかに滑る感覚も。
色々なことを知っている。けれどそれらを知っているのは、この自身の足を自分で押してきたからではない。
長い間、その椅子を押していたのは、自分ではなかった。
背中の少し後ろに、いつも彼女がいてくれた。
春の風に揺れる髪。
夏の日差しを避けるように伏せられた目。
秋の夕暮れの中で、何かを悼むように沈む横顔。
冬の朝、彼の肩に膝掛けをかけるときの、ひどく慎重な手つき。
春夏秋冬のいつだって彼女の白魚の如く綺麗な手が押してくれていた。
アドマイヤベガ
彼女の名を呼ぶたび、いつも少しだけ優越感に似たものを覚えた。それが愛情なのか、依存なのか、あるいはもっと醜い何かなのか、当時の自分には分からなかった。
分かろうともしなかった。
ただ、彼女が振り向いてくれればよかった。
それだけでよかった。
「大丈夫?」
彼女はよく、そう尋ねた。
どの季節でも、同じように。
春でも、夏でも、秋でも、冬でも。朝でも、昼でも、夕暮れでも。
変わらず優しく尋ねてくれた。
「平気」
そう答えると、彼女は少し黙ってから、膝掛けの端を伸ばして綺麗にしてくれる。平気だと言っているのに、いつも変わらず綺麗にしてくれる。
そのたびに、ひそかに胸の奥を満たされるような気がした。
彼女は自分の言葉よりも、自分の体を信じてくれている。自分の小さな変化を見逃さない。自分のために、彼女はここにいる。
そんなふうに思うことが、どれほど彼女を縛っていたのか。
彼が気づくのは、ずっと後のことだった。
事故があった日のことは断片でしか覚えていない。
夏の最後、空がやけに高く白い雲が薄く伸びていた。蝉の声はもう弱くなっていたが、それでも耳の奥に残るほどしつこく鳴いていたことは覚えていた。
幼かった僕たちの中で、彼女は大人びているウマ娘だった。
今よりも少し表情が柔らかく、けれど同年代の子供たちよりも、どこか遠くを見ているようなところがあった。彼女には、見えない誰かと話しているような沈黙があったり、目の前を歩いているのに、どこか別の場所へ向かっているような錯覚を覚えることがあった。
それが僕には不思議なものに写り、気がつけば毎日彼女を目で追うようになった。
その日も、彼女は道の端で空を見上げていた。
何を見ていたのかは分からない。鳥だったのかもしれないし、雲だったのかもしれない。あるいは、彼には見えない誰かだったのかもしれない。
突然遠くの曲がり角から車が現れてこっちに向かってきた。幼い僕らは見えていないのか、止まることなく彼女へと向かっていた。
それを認識した瞬間、走った。
どうして自分が走ったのか、今でも説明できない。正義感だったと言えば、嘘になる。彼女を助けたかったのだと言えば、あまりに綺麗すぎる。
ただ、彼女がこちらを振り向いた瞬間、体は勝手に動いた。
彼女の目が、ほんの一瞬だけ揺れたから。
その揺れを、見てしまったから。
次に覚えているのは、白い天井だった。体が妙に軽いことを今でも覚えていた。意識が回復すると様々な情報の波が押し寄せてきた。
薬品の匂い。
どこか遠くで鳴っている機械音。
母の泣き声。
父の震える背中。
そして、ベッドの脇に立つ彼女。
アドマイヤベガは、泣いていなかった。
泣くことすら許されていないような顔で、そこに立っていた。
顔色は悪く、唇は白く、握りしめた指の関節だけが不自然に赤くなっていた。
目を開けると、彼女は一歩近づいて......けれど、すぐに止まった。
近づく資格がないとでも言うように。
「……ごめんなさい」
それが、彼女の最初の言葉だった。幼い声だった。
けれどその響きは、子供のものではなかった。
もっと古く、もっと暗く、彼女の体の奥底から引きずり出されたような声だった。
何か言わなければならないと思った。けど何を言えばいいのかが分からなかった。泡のように身体の奥から言葉を生み出しても口から出ていかない。自分の足がどうなったのか、その時はまだ正確には知らなかった。
ただ、布団の下にあるべき重みが、どこか遠くへ行ってしまったことだけは分かっていた。
彼女を見た。彼女は、こちらを見ていなかった。じっと白いシーツの端だけを見つめていた。
だから僕は、笑った。
それが慰めだったのか、強がりだったのかは分からない
「いいよ」
そう言った。
「アヤベが無事なら、それでいい」
その瞬間、彼女の肩が小さく震えた。それを救いだと思った。
自分の言葉が、彼女を少しでも楽にしたのだと思った。
けれど違った。
その言葉は、彼女の首にかけられた新しい鎖だった。
彼女はそれから、毎日のように病院へ来てくれた。学校が終わると、ランドセルを背負ったまま病室に現れることもあった。宿題をすることも黙って座っていることもあった。
僕が眠っている間も、しばらくそこにいたらしい。
退院してからは、僕の家に来るようになった。最初は周囲の大人たちが止めた。子供にそんな責任を負わせるべきではない、と。
当然だった。
彼女に何の落ち度も責任などなかった。
事故は不運で、道路は危険で、運転手は前方をよく見ていなかった。
それだけの話だった。
けれど彼女は首を横に振った。
「私がやる」
静かな声だった。
それはお願いではなかった。決意でもなかった。
もっと硬い、祈りのようなものだった。
私は、そうしなければならない。
彼女の目はそう言っていた。
最初の頃は遠慮していた。彼女の献身的な姿勢は当事者から見ても異常な対応だとわかっていたからだ。それでなくても彼女は綺麗で美人なので、1日の大半を過ごすとこちらも心中穏やかではいられない。
「いいって。自分でできるし」
そう言うと、彼女は少しだけ眉を伏せた。
「……無理しないで」
その声があまりに苦しそうだったから、それ以上何も言えなくなった。
彼女にとって、これこそが贖罪であり自身の心を守ることでもあると分かってしまった。
日が経つにつれて彼女は車椅子を押すのが上手くなった。
段差の越え方。
坂道での重心のかけ方。
雨の日に滑らない道の選び方。
人混みを抜けるときの声のかけ方。
彼女は一つずつ覚えていった。
僕の部屋の棚の高さも、好きな飲み物も、薬を飲む時間も、雨の日に膝が冷えることも。
自分が失ったものの大きさを考えないようになった。必要も無かった。
彼女が代わりにいてくれたからだ。
好きな景色を自由に観に行くことはできなくなったけど、けれど彼女がいる。その事実は、残酷なほど甘かった。
彼女についても知っていることが増えていった。そのうちの一つが彼女は走るのが速かったことだった。ウマ娘だから走るのが早いのは当然であったが、一際彼女は先頭で駆け抜ける才能に恵まれていた。
小学校の運動会で、彼女が走る姿を見た。
誰よりも静かにスタート位置に立ち、誰よりも迷いなく前へ出た。
走っている間の彼女は、普段とはまるで違った。
沈んだ目が、前だけを見る。
影を背負った背中が、風の中で少しだけ軽くなる。
長い髪が揺れ、耳が風を切り、尻尾が流れる。
空気を切り裂き、地上の流星のような煌めき、誰も目を離せない美しさ。彼女は、走っているときだけ、どこか自由に見えた。
その自由さが、彼は少し嫌だった。彼女がそのままどこか遠くへ行くような気がしたからだ。僕を忘れて、自由となった翼で消えるかもと思ってしまった。
だがゴールしたあと、彼女は真っ先に彼のところへ戻ってきた。息を弾ませながら、彼の車椅子の横に立った。
「見てた?」
彼女はそう尋ねた。
その声には、聞き漏らしそうなほど僅かな、でも確かに不安が混じっていた。
「もちろん、速かったな」
すると彼女は、ほんの少しだけ目を伏せた。
「……そう」
それだけだった。笑いも喜びもしなかった。けれど分かっていた。
彼女は自分に見ていてほしかったのだ。
自分が見ているから、彼女は走った。
自分のために、彼女は戻ってきた。
その思い込みが、僕を支えた。彼女がいてくれれば何者になる必要もない、勝手な想いが日に日に大きくなっていくのが分かった。
高校に上がる頃、彼女はトレセン学園を目指すと言った。彼女の妹のためか、ウマ娘という種族の本能か。
あれは夕方のことだった。一日中雨が降っていて気が滅入る日だったのが強く記憶にこびりついていた。
彼女は突然傘を差さずに来て、玄関先で髪を濡らしていた。
母が慌ててタオルを持ってきたが、彼女はそれを受け取ったまま、しばらく立っていた。表情は俯いたままで何を考えているのか分からなかった。ただ、あの日のように握りしめた指の関節だけが不自然に赤かった。
暫くリビングで座っていた。僕は雨粒がガラスを滑り落ちるのを眺めていた。
「トレセンに行くのか」
そう言うと、彼女が驚く気配がした。
「……うん」
「すごいじゃん」
僕は笑った。その笑いに、嘘はなかった。
本当に、心の底から誇らしかった。
彼女が選ばれたこと。
彼女の走りが認められたこと。
自分の知っているアドマイヤベガが、広い世界へ向かうこと。
それは嬉しいことのはずだった。
「頑張れよ」
中で渦巻く感情の激流が少しでも口からこぼれないように努めた。多分今までの人生で一番演技が上手いと自画自賛していた。
そう言って振り向くと、彼女は少しだけ顔を上げた。
雨に濡れた前髪の隙間から、青色の目がこちらを見た。
「……離れることになる」
「そりゃ、そうだろ」
「今までみたいには、来られない」
「分かってる」
そのときは、本当に分かっているつもりだった。
彼女には彼女の人生がある。
自分の車椅子を押すために生まれてきたわけではない。
そんなことは分かっている。
頭では、何度もそう考えた。けれど彼女が小さく、申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさい」
その一言を聞いた瞬間、胸の奥で何かが甘く疼いた。彼女はまだ、自分に謝る。彼女はまだ、自分を置いていくことに罪悪感を持っている。
なら、大丈夫だ。
大丈夫。
彼女は遠くへ行っても、戻ってくる。
彼女は走っても、自分のところへ帰ってくる。
彼女は自分を忘れない。
良いじゃないか、少し離れるくらいは。走り終わり卒業をすればまた同じ生活ができる。キャンプ場で一緒に星空を眺めてことも、色んな所に行くことだってできる。
そう本気で考えていた。布団乾燥機をかけてふわふわの布団の中で、言い聞かせるように何度も何度も、太陽が昇ってくるまで考え続けた。
彼女がいなくなった後の家は、ひどく静かだった。静けさというものには、重さがある。そのことを初めて知った。
朝、目が覚めても、玄関のチャイムは鳴らない。
窓の外を見ても、彼女が門の前に立っていることはない。
車椅子の取っ手に触れる細い指もない。
膝掛けを直す手もない。
寒くないかと尋ねる声もない。
ただ、時間だけがあった。けど時間は、僕をどこにも連れていかなかった。
学校へは通った。
周囲は優しかった。
教師も、友人も、家族も。
彼が望めば手伝ってくれた。
彼が望まなくても、誰かが気を回してくれた。
だが、その優しさは彼女のものではなかった。
彼女の不器用な沈黙。
彼女の慎重すぎる手つき。
彼女が自分の後ろにいるという、あの感覚。
それだけが、僕には必要だった。百の手よりもあの綺麗な一つの手が何よりも欲しかった。帰ってきて、短い時間でもいいからいつものように車椅子を押して欲しかった。
ただ、そんなことを彼女に言わない自制心は流石にあった。言わないことで重りのように体へ積み重なっていくことには目を向けないことにした。
トレセン学園へ行ってから、この世界は日に日に狭くなっていった。彼女は大歓声のターフへ、夢を見る者たちの中心へ向かいここにはいないからだ。
連絡は、最初のうちは多かった。
短くとも、今日の練習。寮のこと。食堂のこと。レースの予定。体調のこと。1日で何があったのかを連絡してくれた。こちらことを心配するメッセージも良く送ってくれた。
それを何度も読み返した。一言一句見逃すことなく読み返す。
返信は、できるだけ軽くした。
頑張れ。
無理するな。
見てるから。
応援してる。
そう書くたび、自分が良い人間になったような気がした。
彼女の背中を押している。
夢を応援している。
彼女を自由にしている。
そのつもりだった。
けれど、やがて返信までの時間が長くなった。彼女からの連絡は減っていった。最初は一日に何度も届いた短い文章が、やがて夜に一度になり、数日に一度になり、気づけば彼の方から送った言葉に、遅れて返事が来るだけになった。
彼女は駆け上がるように実績を重ね、世代の有力なウマ娘の1人になった。忙しいのだと分かっていた。分かっていたから、責められなかった。
練習が忙しいのだろう。
レースが近いのだろう。
取材も受けて暇な時間なんて殆どないのだろう。
そう考えた。
それは正しい想像だった。
だが、正しい想像は痛みを消してはくれない。
時間があればスマートフォンを開いて通知が来ていないか確認する。彼女の名前が画面に出るだけで、その日一日を生き延びられる気がした。
逆に、何も来なければ、自分の存在が薄くなっていくようだった。
ようやく理解し始めていた。
自分は彼女を応援していたのではない。愚かにも身勝手にも彼女が自分を忘れない範囲で、彼女の夢を許していただけだった。
彼女が遠くへ行くことは許した。
ただし、振り返ることを条件に。
彼女が走ることは許した。
ただし、その理由のどこかに自分がいることを条件に。
彼女が笑うことは許した。
ただし、その笑みが自分にも向けられることを条件に。
なんて醜いのだろうと思った。恥ずべき考えだ。だが、醜いと分かったところで、手放せるほど僕は強くなかった。
彼女は足だった。失った両足の代わりに、彼の生活を運んでくれる存在だった。
けれど、それだけではなかった。
彼女は僕の自尊心だった。
彼女は僕の全てだった。
自分は何も持っていない。走ることも立つこともできない。人混みでは誰かの邪魔になる。階段の前では、ただ見上げることしかできない。
同年代の友人たちが遠出をし、部活に打ち込み、恋をして、何気なく将来の話をするたび、自分の体の輪郭を思い知らされた。周囲を引き寄せる顔も稲妻の如く閃く頭脳も持ち合わせていなかった。全て遅れをとって背中を見ることしかできない人間だ。
その中で、唯一誇れるものがあった。
アドマイヤベガが、自分のそばにいる。
あのアドマイヤベガが。
速く、美しく、どこか誰にも触れさせない孤独をまとった彼女が。
自分の車椅子を押してくれる。
自分の膝掛けを直してくれる。
自分の体調を気遣ってくれる。
自分の前でだけ、少し声を柔らかくする。
それは僕の自慢だった。他者に全て劣る者がたった一つ勝るもの。
彼女の罪悪感に支えられているだけだと、心のどこかで知っていた。知っていたからこそ、口に出せなかった。
口に出せないからこそ、彼の中でそれはますます甘く、濁って、腐っていった。
彼女は自分を選んだのではない。
彼女は自分に縛られていただけだ。
そう考えるたび、頭の中で否定した。
違う。彼女は優しいから来てくれる。自分を大切に思っているから、そばにいてくれる。あの事故がなくても、自分たちはきっとこうなっていた。
自分は彼女にとって、特別な存在なのだ。
そう信じなければ、何も残らなかった。
トレーナーの話を聞いたのは、そんな時期だった。
久々の電話越しの彼女の声は、少し疲れていた。けれどその疲れの奥に、今までになかった熱があった。
「今日、トレーナーさんに言われたの」
彼女はそう言った。
「……何を?」
「私は、何かを償うためだけに走らなくてもいいって」
その瞬間、彼の胸の奥が冷たくなった。償うためだけに走らなくてもいい。
それは、きっと良い言葉だった。
彼女に必要な言葉だった。
長い間、自分で自分を罰するように走ってきた彼女に、誰かがようやく差し出した救いだった。あまりにも遅すぎるくらいだった。
「そっか」
それだけ言った。それだけしか言えなかった。
電話を切った後思わず携帯を投げる。爪に触れた肌から赤い液体が垂れてきたが気にも留めなかった。
彼女の罪をほどいたのは、自分ではなかった。
彼女に前を向かせたのは、自分ではなかった。
彼女の走りに意味を与え直したのは、自分ではなかった。
では、自分は何だったのか。
彼女の罪の証拠。
彼女が過去に戻るための目印。
彼女が苦しむために必要だった傷跡。
ただただ彼女を蝕み過去へと縛り付けるものだったのだ。食い物にして自身が膨れ上がるだけの醜い化け物なのだ。
その考えが浮かんだ瞬間、唇を噛んだ。
違う。
違うはずだ。
自分は彼女を支えてきた。
彼女が苦しんでいた時、自分はそばにいた。
彼女の謝罪を受け止め、彼女の沈黙に付き合い、彼女の不器用さを許してきた。
自身に黒い感情があったのは事実だ。だが彼女を助けたい、支えたいのは本当だった。それに彼女だって助けられていたはずだ。
そうだ。
自分は彼女に必要だった。
必要だったはずだ。
そうでなければ......
自分は何のために足を失ったのか。
その問いが浮かんだ瞬間、彼は自分自身に吐き気がした。足を失ったことに意味を求めている。しかも、その意味を彼女に背負わせようとしている。
あの時、あの瞬間足が動いたのはそんなもののためじゃない。
最低だと思った。
だが最低だと分かっても、胸の痛みは消えなかった。
支離滅裂な考えしか頭の中に浮かんでこない。自分が間違っていることなんてとっくの昔に分かっている。だけど彼女が去るのが怖かった。
次の日曜日、レース場へ行った。レース場へ見にいくことは今までもあった。ただこんな気分で見にいくのは初めてだった。それに今までは邪魔にならないように端っこの方で彼女の走りを見てきた。だが今回は近くで見ることにした。彼女を求めて、彼女の顔を久しぶりに見たくて声をかけたくて近くに陣取る。
天気はよく、空は高かった。秋にも関わらず今日はとても暑かった。
あの日、事故の日に似ていると思った。
歓声が空気を震わせていた。
人々は明るく、ざわめきは波のように押し寄せた。
彼の車椅子は、その中でひどく小さなものに感じられた。今は無い足が痛むような気がした。
観客席の一角から、彼は彼女を見た。
アドマイヤベガは、以前よりも少し大人びていた。
背筋が伸び、視線は鋭く、けれど昔よりも不安定ではなかった。
遠い。
あまりにもその背中が遠い。
昔は背中に彼女の気配があった。
少し後ろを振り向けば、そこにいた。
膝掛けを直す手があった。
車輪を押す指があった。
彼が黙れば、彼女も黙った。
彼が寒いと言わなくても、彼女は気づいた。
だけど今は彼女のそばにトレーナーがいた。
彼女はその人の言葉を聞いていた。いやただ聞いているだけではない、受け止めていた。
トレーナーが何かを言う。
彼女がわずかに目を伏せる。
それから、少しだけ頷く。
その仕草を、よく知っていた。
自分の言葉に彼女がそうしてくれた日々を、僕は知っていた。
だが、今その相手は自分ではなかった。
レースが始まった。
彼女は走る。僕が知っているどの姿よりも、速く、遠く、鋭く。
彼女の走りには、まだ影があった。
何かを背負っているような重さがあった。
それでも、その影ごと前へ運ぶ力があった。
観客が叫ぶ。
実況が名前を呼ぶ。
風が芝を撫でる。
息をするのも忘れて、彼女を見ていた。
美しかった。
それが悔しかった。
自分の知らない場所で、彼女はこんなに美しくなっていた。
自分がいなくても、彼女は走れる。
自分が隣にいなくても、彼女は前へ進める。
そんな当たり前の事実が胸をひどく傷つけた。
レースの結果は、勝利ではなかった。
それでも彼女は、確かに走りきった。
戻ってきた彼女に、トレーナーが駆け寄った。
彼女はしばらく俯いていた。
何かを言われたのだろう。
肩が小さく震えた。
泣いているのかと思った。違った。
彼女は、ほんの少し笑っていた。
本当にかすかな笑みだった。
他人なら見逃したかもしれない。
けれど彼には分かった。
その顔を、自分は知らなかった。僕はその顔は見たことがなかった。
僕が.....俺の記憶の中で一度もその顔をしなかった。
胸の奥で、何かが切れた。衝動が突き動かすままに車椅子の肘掛けを掴んだ。体の軋む音も歯がすり減る音も気にせず、力を込めた。
立ち上がろうとした。
彼女のところへ行かなければならないと思った。
あの笑顔の理由を聞かなければならないと思った。
自分を置いて、どうしてそんな顔ができるのかと問いたださなければならないと思った。
俺を置いていかないでくれ!!こっちを見てくれ!アヤベ!!!
体が前に傾いた。
その瞬間、自分の体を忘れていた。もう追いかける足すらないことに、何年も前に彼女の元へ走るという簡単なことすらできない人間になったのだと、何故忘れていたんだ。
次の瞬間には、床が目の前にあった。
頭を打つ音が、自分のものではないように響いた。
歓声が遠ざかった。
誰かが叫んだ。
視界が揺れた。
最後に見えたのは、遠くでこちらを振り向く彼女の顔だった。
その顔は、昔と同じだった。
罪を見つけた者の顔をしていた。
目を覚ますと、病室にいた。
あの時と同じくまた白い天井だった。あの時と違うのは、自分が汚れ酷く醜い怪物に成り果てたことだ。まず起きて真っ先にその事実を認識した。
横を見ると、彼女がいた。
アドマイヤベガ。
椅子に座り、膝の上で両手を固く握りしめていた。
顔色は悪く、目の下には薄い影があった。
昔と同じだと思った。事故のあと、ベッドの脇に立っていた彼女と同じ顔。
「……目が覚めたのね」
声が震えていた。喉が渇き、苦しみの中でなんとか絞り出したか細い声だった。何か言おうとしたが、うまく声が出なかった。声が出せないのでは無い、彼女に何と声をかければ良いのか分からなかった。
彼女は立ち上がりかけ、しかし途中で止まった。
近づきたいのに、近づいてはいけないと思っているようだった。
「ごめんなさい」
彼女は言った。
その声を聞いた瞬間、胸の奥を抉られたような気がした。懐かしいと思ってしまったのだ。彼女の謝罪に、ほんの一瞬、安堵してしまったのだ。
まだ彼女は自分を見ている。
まだ彼女は自分に罪を感じている。
まだ彼女は、自分から完全には離れていない。
そう思ってしまった。その一瞬の安堵が、今の僕には耐えられなかった。
自分は本当に最低だと思った。
彼女が青ざめた顔で震えているのに。
自分のせいではないことで、また自分を責めようとしているのに。
その姿を見て、悲しむより先に、安心した。
そしてまただ、とも思った。また、彼女に言わせてしまった。
「私が、気づいていれば」
違う。
「もっと早く、あなたのところへ行っていれば」
違うんだ。
「私が……」
君は何も悪く無い。事故の日も、今日も、彼女は何一つとして悪くない。
もう彼女の顔を見ることができなかった。
見れば、また縋る。
見れば、また許すふりをする。
見れば、また彼女の罪悪感を自分のものにする。
彼女のために離れなければならない、などと綺麗なことは思えなかった。
ただ、自分がこれ以上彼女の前にいたら、自分がもっと嫌いになると思った。何より、彼女に自分の醜さを見られたくなかった。
彼女を縛っていたのは事故ではない。
彼女の罪悪感だけでもない。
自分だ。
その事実を、彼女の目の前で認める勇気がなかった。
「……帰ってくれ」
掠れた声で、そう言った。彼女は動かなかった。
「でも」
「いいから」
目を背けたまま吐き捨てるように言った。
「帰ってくれ」
沈黙が落ちた。息の詰まるような長い沈黙だった。やがて、椅子が小さく鳴った。彼女が立ち上がる気配がした。
それでも彼女は、すぐには出ていかなかった。
「また来るわ」
彼女は言った。
僕は答えなかった。
「……必ず」
扉が開き、閉じた。その音を聞いたあと、僕は長い間、天井を見つめていた。医者が来ても、両親が来てもずっと天井を見つめ続けた。
白い天井。
消毒液の匂い。
遠くの機械音。
すべてが、あの日と同じだった。けれど自分だけは違っていた。
その夜布団の中でまた泣いた。
彼女にはもう何も言えなかった。情けなくて、悔しくて、寂しくて、自分が惨めで、それでもまだ、彼女に戻ってきてほしいと思っている自分がいることに耐えれなかった。これ以上彼女を縛りたくなかった。
その後直ぐに引っ越しをすることにした。両親は引き留めて、ちゃんと別れを告げるべきだと言われた。友人達からも驚きの声でびっくりされた。彼女には何も言わないでくれと念押しした。
携帯には未読の連絡がひっきりなしに届いていた。
彼女は心配している。電話もメッセージも何度も送ってきてくれた。
会いに来ている。忙しいのに時間を見つけて家まで来てくれている。
逃げるようなことをしてはいけない。
僕だけが逃げた。会ってしまうと君だけが、失ったものに意味をくれるんだ、そう言ってしまうのがわかっていたから。会えば、また縋ってしまうと思った。彼女が謝れば、また許すふりをして、その謝罪を自分のものにしてしまうと思った。彼女が泣けば、また彼女の罪悪感を抱きしめるふりをして、彼女を引き止めてしまうと思った。
だから逃げた。
逃げることしかできない弱い人間なのだ。
引っ越しの日、最後に自分の部屋を見回した。
窓際。彼女がよく立っていた場所。
机の横。彼女が鞄を置いていた場所。
扉の近く。彼女が帰る前に、いつも少しだけ振り返った場所。
そこにはもう誰もいなかった。車椅子の車輪に手をかけた。
いつもなら、トレセン学園に入る前なら、背後に彼女の気配があった。
彼が動く前に、そっと押してくれる手があった。
だが今は、何もなかった。
新しい街は、海に近かった。坂が多く、車椅子には少し不便だった。道幅も狭く、古い商店街には段差が多かった。
慣れるまで何度も苦労した。
誰も彼の車椅子を押さなかった。
頼めば手伝ってくれる人はいた。優しく声をかけてくれる良い人も沢山いた。
けれど、できるだけ頼まなかった。
朝、部屋を出る。
エレベーターに乗る。
坂道を避けて遠回りする。
横断歩道の傾斜に気をつける。
スーパーの棚に手が届かず、少し考えてから店員を呼ぶ。
雨の日は外出を諦める。
晴れの日は、できるだけ外に出る。
そして睡眠は極力取らないようにした。寝るとしても夢を見ないように睡眠時間を分割するようにしている。そうしないと彼女の夢を見てしまうから。
夢の中の彼女は、いつも車椅子の後ろにいた。
いつものように寒くないかと尋ねる。
優しい笑顔で無理をしないでと言う。
段差の前で、少しだけ車椅子を傾ける。
夢だとわかっていながら安心する。心が安らぐ。
ああ、戻ってきた。彼女はやっぱり自分のところに戻ってきた。
そう思ったところで目を覚ます。
部屋は暗い。背後には誰もいない。彼女との思い出が消えたわけでも無いのに胸が苦しい。彼女と選んだ布団乾燥機も、彼女がくれたマフラーもちゃんと存在している。なのに全てを失ったようなポッカリと穴が空いたような喪失感がいつまでも残り続けた。
ある春の日、商店街の電器屋の前で、彼は足を止めた。店先のテレビに、レース中継が映っていた。
人だかりができていた。
誰かが新聞を握りしめている。
誰かが名前を叫んでいる。
誰かが興奮した声で、今日の本命ウマ娘を語っている。
通り過ぎようとした。
けれど、聞こえた言葉が身体の動きを止める。
アドマイヤベガ。
その名前が、春の陽気な空気の中でまっすぐ僕に届いた。車椅子を止めて思わずテレビを見る。
以前よりもさらに研ぎ澄まされていた。
表情は静かで、視線は前だけを見ていた。
けれど、昔のようにすべてを一人で背負っている顔ではなかった。
隣にトレーナーがいた。
何かを話している。
彼女は聞いている。
そして、ほんの少しだけ頷いた。
痛みはあった、嫉妬もあった、寂しさもあった。
それでも、もう分かっている。
あれが、彼女の今なのだ。
自分の知らない場所で、彼女は誰かと時間を積み重ねた。
自分の知らない言葉を受け取り、自分の知らない朝を迎え、自分の知らない苦しみを越えた。
そして、自分の知らない笑い方を覚えた。
それは裏切りではない。
成長だった。
レースが始まった。
ゲートが開き、彼女が飛び出す。
芝を蹴る。
風を裂く。
影を置き去りにするように、けれど影を否定するのではなく、すべてを連れて前へ進むように走る。
商店街のざわめきが遠のいた。
車の音も、人の声も、すべての音が消え去った。画面の中で、彼女だけが走っていた。彼女しか目に入らなかった。
最後の直線。
彼女は前へ出た。そして先頭でゴール板を越えた。
観客の声が爆発した。
実況が叫んだ。
誰かが手を叩いた。
画面が彼女を映す。息を弾ませ、肩を上下させながら、彼女はしばらく俯いていた。
トレーナーの元へ駆け寄り、何かを話している。
彼女は顔を上げた。
そして、笑った。
今度は、はっきりと。
昔、車椅子を押していた彼女は、あんなふうには笑わなかった。ついぞ見ることができなかった笑顔だ。
彼の隣にいた彼女は、いつもどこか苦しそうだった。
優しく、静かで、慎重で、そして重かった。
画面の中の彼女は違った。
過去を忘れたわけではない。
罪をなかったことにしたわけでもない。
失ったものが戻ったわけでもない。
それでも彼女は、今を喜んでいた。
誰かと共に積み上げた時間を、勝利として受け取っていた。
その笑顔を見た瞬間、胸に鋭い痛みが走った。
悔しかった。何故ならその笑顔を、自分は知らない。
寂しかった。だって笑顔の隣に、自分はいない。
けれど、それらがどうでもいいほどどうしようもなく嬉しかった。
彼女はもう、過去だけを見ていない。
彼女はもう、誰かの罪を背負うためだけに走っていない。
彼女は、自分の足で前へ進んでいる。
「……よかったな」
声は誰にも届かなかった。届かなくてよかった。静かに、少し笑みを浮かべながら去る。
ふと視線を感じた。
振り向くと一人のウマ娘が立っていた。彼女に、アドマイヤベガそっくりに、でも違う。彼女とは別人のウマ娘が立っていた。
こちらを寂しそうに泣きそうになりながら見つめている。思わず声をかけようとしたが、突風が吹き荒れて思わず目を閉じてしまう。次に目を開けた時には既にいなくなっていた。彼女が誰だったのか、それは分からないが何故か会ったことのあるような気がした。そう時折夢であったような....。
そこまで考えて息を吐く、そんなわけがないと。
冷たい金属の輪に指をかけて力を込める。
車椅子が、ほんのわずかに前へ進む。
昔は、この音の後ろに彼女がいた。
今はいない。
車輪が鳴る。アスファルトを噛んで、ゆっくりと進む。
今ようやくこの重さを初めて自分のものとして受け止めた。
振り返ると、店先のテレビの中で、彼女はまだ笑っていた。
トレーナーと並び、観客の声を浴びながら、少し困ったように、それでも確かに嬉しそうに。
それを見て、もう一度だけ笑った。寂しくて、情けなくて、けれど少しだけ誇らしい笑みだった。
そして、ひとりで車輪を押した。
もう、押さなくていい。
その言葉を、彼女に言えなかったことだけが、最後まで心残りだった。
どうか幸せになってくれ。過去を振り払い、輝かしい未来へこれからもすすめますように。