ダンジョンに生まれた私は、英雄の魂を育てて喰らう   作:ヨーヨーヨー

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9話 片角と英雄譚の余白

――ダンジョン第9階層。湿った空気と、岩肌を伝う水音だけが支配する回廊の中で、ベル・クラネルは剣を握っていた。

 

「……今日は、やけに静かですね」

 

リリルカ・アーデの声が、やけに遠く聞こえる。

 

「う、うん……」

 

静かすぎる。ダンジョンでは、それは決して“安心”を意味しない。ベルは無意識に、左手の指を握り込んだ。数日前から続いている、早朝の訓練。城壁の上で、風を切る剣の音。金色の髪の剣士と――そして、もう一人。

 

(……ローエンさん)

 

穏やかで、どこか掴みどころのない旅人。アイズが、模擬戦で容赦なく剣を振るい、それだけを、淡々と繰り返す横で。ローエンは、まるで別の角度から、ベルを見ていた。

 

『膝だ。踏み込む時、ほんの少しだけ内に寄せろ』

 

『肩が上がると、斬る前に分かる』

 

『力じゃない。順番だ。足、腰、背中、腕。流れを切るな』

 

剣を持たず。ただ、横に立って。人の身体を、部品のように正確に分解して説明する声。不思議と、言われた通りに動かすと、身体が軽くなった。

 

(……あの人、冒険者っていうより……)

 

教師。あるいは――もっと、別の何か。そんなことを考えていた、その時だった。ズン……ズン……と。床を揺らすような足音が、通路の奥から響いてきた。リリが、ぴたりと足を止める

 

「……ベル様」

 

角を曲がった、その先。現れた影を見た瞬間、ベルの喉が凍りついた。巨大な上半身。盛り上がる筋肉。そして――片方の角が、途中から欠け落ちた異形。

 

「……ミノ……タウロス……」

 

しかも、ただの個体ではない。歩き方が、異様に整っている。無駄がない。狩るために鍛えられた獣の動き。片角のミノタウロスは、ベルを見つけると、低く唸り声を上げた。

 

「グォォォオオオオオオッ!!」

 

咆哮。空気が震え、ベルの全身が跳ね上がる。

 

(……来る)

 

分かっているのに――足が、動かなかった。視界が狭まる。遠くなるリリの声。重なる記憶。斧。血。押し潰されかけた身体。何もできず、逃げた自分。

 

「……っ」

 

息が、詰まる。その瞬間だった。

 

「ベル様っ!」

 

リリが、前に出た。

 

「リリ!?」

 

盾を構え、ベルの前に飛び込む。次の瞬間。ミノタウロスの斧が、容赦なく振り下ろされた。

 

「――ぐっ!」

 

鈍い音。小さな身体が、岩壁へ叩きつけられる。

 

「リリ!!」

 

腕から血が流れ、床に赤い線を引いた。

 

「……だい、じょうぶ……です……」

 

震える声。だが、立ち上がろうとして、膝が崩れる。その姿が、ベルの胸を深くえぐった。

 

(……まただ)

 

(また、守れない)

 

(また、立てない)

 

怖い。無理だ。勝てない。逃げたい。でも――倒れているのは、自分じゃない。

 

「……っ」

 

ベルは、剣を抜いた。震えが、はっきり分かる。

 

「……来い……!」

 

声が裏返る。ミノタウロスが、一気に距離を詰めてくる。斧が振り下ろされる。ベルは、反射的に転がった。床が砕ける。破片が、頬を裂いた。

 

「くっ……!」

 

振り返りざまに剣を振る。弾かれる。刃が、筋肉に食い込まない。

 

(硬い……!)

 

次の一撃。受けきれず、吹き飛ばされる。背中を打ちつけ、息が詰まる。

 

(……ダメだ)

 

(やっぱり……無理なんだ……)

 

片角のミノタウロスが、ゆっくりと歩いてくる。完全に、獲物を見る目。その視界の端に、リリの小さな背中が映った。

 

「……ベル……様……」

 

その声で。ベルの中で、何かが音を立てて切り替わった。

 

(……違う)

 

(向き合うのは、僕自身だ……!)

 

剣を、握り直す。――そのとき、脳裏に別の光景が割り込んだ。

 

 

早朝のオラリオ外壁。冷たい風の中。

 

「踏み込みが浅い」

 

低く落ち着いた男の声。ローエン。長剣を携えた、流浪の剣士。

 

「敵を見るな。敵の“動線”を見ろ」

 

ベルの足元を、剣の鞘で軽く叩く。

 

「そこだ。そこに踏み込めば、相手は斬れない」

 

「で、でも……怖くて……」

 

「怖くない者はいない」

 

「ベル。お前は“逃げる方向”を選ぶ癖がある」

 

「だが――」

 

一歩、踏み出させられる。

 

「守るものがある時、お前の足は前に出る」

 

「その感覚を、信じろ」

 

 

「――っ!」

 

現実に引き戻される。ミノタウロスが、再び踏み込んだ。斧が横薙ぎに来る。

 

(――死角)

 

ベルは、内側へ踏み込んだ。斧の懐。

 

「――っ!」

 

剣を突き出す。脇腹。浅い。だが、確実に通った。

 

「グォォッ!」

 

獣が怒りに吼える。肘が飛ぶ。吹き飛ばされる。それでも、ベルは立ち上がった。

 

(……今の感覚だ)

 

(忘れるな……!)

 

視野を広く。獣の肩、腰、足の向き。次に来る軌道が、わずかに読める。――でも。このままじゃ、削り負ける。

 

(……決め手が、ない)

 

その瞬間。ベルの胸の奥で、熱が弾けた。魔力の流れ。ミノタウロスが、踏み込んでくる。

 

(近く……もっと……引きつけろ……)

 

『距離だ。魔法は、距離で威力が変わる』

 

ローエンの声が、重なる。

 

「――ファイアボルト!!」

 

白い火線が、ベルの手から走る。直撃。胸元。爆ぜる炎。

 

「グォォォオオオッ!!」

 

だが――倒れない。焼け焦げた毛皮から、蒸気が上がる。それでも、獣は前に出る。

 

(……まだ……足りない)

 

次の瞬間。遠くから、聞こえた声。

 

「……ベル」

 

金色の髪。アイズ・ヴァレンシュタイン。その背後には、ロキファミリアの主要メンバーたる第一級冒険者の面々が揃っていた。

 

「下がって」

 

静かな声。その一言に、全身が緩みそうになる。――でも。ベルは、首を横に振った。

 

「……だめです」

 

「……危険」

 

「分かってます……!」

 

声が、震える。

 

「でも……また……助けられるのは……嫌なんです……!」

 

胸が、苦しい。

 

「僕は……」

 

剣を、強く握る。

 

「……一人で、立ちたいんです」

 

アイズは、ベルを見つめた。恐怖を押し殺している目。必死に、踏みとどまっている目。

 

「……分かった」

 

短く言って、剣を下ろした。ベートが、目を丸くする。

 

「本気かよ……」

 

ミノタウロスが、咆哮し、再び突進してくる。ベルは、深く息を吸った。

 

(……最後だ)

 

今度は、逃げない。真正面から、受け止める。斧が振り下ろされる。ベルは、紙一重でかわしながら、距離を詰めた。そして――両足を、しっかりと床に叩きつける。

 

『足、腰、背中、腕』

 

ローエンの声。

 

(……順番だ)

 

魔力を、限界まで圧縮する。ミノタウロスの喉元が、視界いっぱいに迫る。

 

「――ファイアボルトオオオオオオオオオオオォォォォォォォォォオオ!!」

 

今度は、逃がさない。零距離。白い火槍が、獣の喉を貫いた。内部から、爆ぜる。炎が、噴き上がる。

 

「…………」

 

片角の巨体の半身が吹き飛び、ぐらりと揺れ――そのまま、膝から崩れ落ちた。沈黙。ベルは、その場に立ち尽くしていた。膝が、震える。息が、うまくできない。

 

(……終わった……)

 

 

ロキ・ファミリアの冒険者たちが、呆然とその光景を見ていた。そしてアマゾネス姉妹の一人が、目を輝かせながら呟く。

 

「……ねえ、ティオネ」

 

「ん?」

 

「今のさ」

 

ティオナが、にっと笑った。

 

「なんか――」

 

「アルゴノゥトみたいじゃなかった?」

 

その言葉に、場が一瞬、静まる。

 

ベートが舌打ちする。

 

「……クソが。ガキの癖に」

 

フィンは、腕を組んだまま、静かに頷く。

 

「恐怖を越えて、自分で選んだ戦いだ…評価に値する」

 

リヴェリアは、目を細める。

 

「……未熟だが、確かに芽がある」

 

そして。少し離れた位置で、アイズは、剣を下ろしたままベルを見ていた。――今までとは、ほんの少し違う目で。

 

 

ベルは、ふらつきながらリリの元へ駆け寄った。

 

「リリ……!」

 

「……ベル……様……」

 

小さく、笑う。

 

「……勝ち……ましたね……」

 

「……うん……」

 

声が、掠れる。

 

「……怖かった……」

 

正直に、言った。

 

「でも……逃げなかった……」

 

リリは、ゆっくりと目を細めた。

 

「……それで……十分です……」

 

片角のミノタウロスは、倒れた。だが。それは終わりではない。少年の胸に灯った、小さな火は。すでに。誰にも消せない色を帯び始めていた。

 

◇ 

 

――第9階層、暗闇の奥。誰にも気づかれない位置にシエラはいた。

その立ち姿は静かだったが、内に秘めた興奮を抑えきれないのか、影は忙しなく揺らめいている。その表情は、恋に焦がれる少女のものとはほど遠く、むしろ娼婦のように下卑た、歪んだ悦びに染まっていた。

 

(……クフフ、やっぱりすごい)

 

恐怖。守る対象。学習、そして――決断。その無垢な魂は、間違いなく新たな段階へと昇りつつある。ベル・クラネルは、まだ壊れていない。まだ、磨ける。だが――

 

(……これは)

 

既視感。シエラは、この感覚を知っている。それは、まだ地上に出て間もない頃に覚えたもの。――見られている。それも、私をではなく“ベル”を。それに――あのミノタウロス……。

 

(……早いに越したことはない)

 

そうして影は、暗闇の底へと、より深く溶け込むように消えていった。

 

 

――そして、同じ夜。バベルの塔。神の居所。紅い瞳の女神は、満足そうに微笑んでいた。

 

(……美しいわ)

 

恐怖に縛られた魂が。自分で一歩、踏み出す瞬間。その変質の輝き。そして――背後の空間が、静かに歪んだ。

 

「……こんばんは、女神フレイヤ」

 

影が、人の形を取る。だが、その輪郭は薄く、存在感が決定的に欠けている。ただ――“見えない”ためだけの影。フレイヤは、振り返らない。

 

「……随分と、無粋な入り方ね」

 

オッタルが、女神の前へと即座に立つ。気配に、気づけなかった。それが、何よりの異常。

 

(……侵入を、許した……?)

 

オッタルの胸の奥に、冷たいものが走る。もしこれが敵意を持つ存在だったなら。女神の背後は――無防備だった。影は、静かに言った。

 

「……ベル・クラネルについて話がある」

 

フレイヤの紅い瞳が、細められる。

 

「……あなたが、あの子の後ろにいるのね」

 

「観察しているだけだ」

 

「あら……そうなの?ふふっ」

 

影は、続ける。

 

「あなたは、これからも横やりを入れる」

 

「だが、それが彼の魂を“濁す”方向へ向かうなら――私はあなたを排除する」

 

オッタルの指が、わずかに動いた。フレイヤが、くすりと笑う。

 

「ずいぶん、独占欲が強いのね」

 

一瞬。空気が張り詰める。オッタルの全神経が、影に向けられる。まさに一色即発。だがその均衡を崩したのは女神――フレイヤだった。

 

「なら、こうしましょう」

 

フレイヤが、静かに言う。

 

「私はこれからもベルを見守り、時に背中を押す」

 

「さらに、あなたの“観察”の邪魔もしない」

 

「その限りにおいて――あなたは私達に干渉しない」

 

影は、わずかに首を傾げる。

 

「……同意する」

 

フレイヤの唇が、ゆるやかに吊り上がる。

 

「ただし――私の子兎を、汚すような真似をしたら」

 

紅い瞳が、細く光る。

 

「その時は、あなたでも許さないわ」

 

影は、頷くこともなく、ただ、ゆっくりと輪郭を薄めていく。去り際、オッタルの背後を、すり抜けるように。誰にも触れず。誰にも感知されず。ただ、消えた。フレイヤは、その消失点を見つめながら、静かに呟いた。

 

「……面白い子ね」

 

ベル・クラネル。そして――あの、異形。二つの異質が交差する舞台を。女神は、心から愉しんでいた。 

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