ダンジョンに生まれた私は、英雄の魂を育てて喰らう 作:ヨーヨーヨー
――ダンジョン第9階層。湿った空気と、岩肌を伝う水音だけが支配する回廊の中で、ベル・クラネルは剣を握っていた。
「……今日は、やけに静かですね」
リリルカ・アーデの声が、やけに遠く聞こえる。
「う、うん……」
静かすぎる。ダンジョンでは、それは決して“安心”を意味しない。ベルは無意識に、左手の指を握り込んだ。数日前から続いている、早朝の訓練。城壁の上で、風を切る剣の音。金色の髪の剣士と――そして、もう一人。
(……ローエンさん)
穏やかで、どこか掴みどころのない旅人。アイズが、模擬戦で容赦なく剣を振るい、それだけを、淡々と繰り返す横で。ローエンは、まるで別の角度から、ベルを見ていた。
『膝だ。踏み込む時、ほんの少しだけ内に寄せろ』
『肩が上がると、斬る前に分かる』
『力じゃない。順番だ。足、腰、背中、腕。流れを切るな』
剣を持たず。ただ、横に立って。人の身体を、部品のように正確に分解して説明する声。不思議と、言われた通りに動かすと、身体が軽くなった。
(……あの人、冒険者っていうより……)
教師。あるいは――もっと、別の何か。そんなことを考えていた、その時だった。ズン……ズン……と。床を揺らすような足音が、通路の奥から響いてきた。リリが、ぴたりと足を止める
「……ベル様」
角を曲がった、その先。現れた影を見た瞬間、ベルの喉が凍りついた。巨大な上半身。盛り上がる筋肉。そして――片方の角が、途中から欠け落ちた異形。
「……ミノ……タウロス……」
しかも、ただの個体ではない。歩き方が、異様に整っている。無駄がない。狩るために鍛えられた獣の動き。片角のミノタウロスは、ベルを見つけると、低く唸り声を上げた。
「グォォォオオオオオオッ!!」
咆哮。空気が震え、ベルの全身が跳ね上がる。
(……来る)
分かっているのに――足が、動かなかった。視界が狭まる。遠くなるリリの声。重なる記憶。斧。血。押し潰されかけた身体。何もできず、逃げた自分。
「……っ」
息が、詰まる。その瞬間だった。
「ベル様っ!」
リリが、前に出た。
「リリ!?」
盾を構え、ベルの前に飛び込む。次の瞬間。ミノタウロスの斧が、容赦なく振り下ろされた。
「――ぐっ!」
鈍い音。小さな身体が、岩壁へ叩きつけられる。
「リリ!!」
腕から血が流れ、床に赤い線を引いた。
「……だい、じょうぶ……です……」
震える声。だが、立ち上がろうとして、膝が崩れる。その姿が、ベルの胸を深くえぐった。
(……まただ)
(また、守れない)
(また、立てない)
怖い。無理だ。勝てない。逃げたい。でも――倒れているのは、自分じゃない。
「……っ」
ベルは、剣を抜いた。震えが、はっきり分かる。
「……来い……!」
声が裏返る。ミノタウロスが、一気に距離を詰めてくる。斧が振り下ろされる。ベルは、反射的に転がった。床が砕ける。破片が、頬を裂いた。
「くっ……!」
振り返りざまに剣を振る。弾かれる。刃が、筋肉に食い込まない。
(硬い……!)
次の一撃。受けきれず、吹き飛ばされる。背中を打ちつけ、息が詰まる。
(……ダメだ)
(やっぱり……無理なんだ……)
片角のミノタウロスが、ゆっくりと歩いてくる。完全に、獲物を見る目。その視界の端に、リリの小さな背中が映った。
「……ベル……様……」
その声で。ベルの中で、何かが音を立てて切り替わった。
(……違う)
(向き合うのは、僕自身だ……!)
剣を、握り直す。――そのとき、脳裏に別の光景が割り込んだ。
◇
早朝のオラリオ外壁。冷たい風の中。
「踏み込みが浅い」
低く落ち着いた男の声。ローエン。長剣を携えた、流浪の剣士。
「敵を見るな。敵の“動線”を見ろ」
ベルの足元を、剣の鞘で軽く叩く。
「そこだ。そこに踏み込めば、相手は斬れない」
「で、でも……怖くて……」
「怖くない者はいない」
「ベル。お前は“逃げる方向”を選ぶ癖がある」
「だが――」
一歩、踏み出させられる。
「守るものがある時、お前の足は前に出る」
「その感覚を、信じろ」
◇
「――っ!」
現実に引き戻される。ミノタウロスが、再び踏み込んだ。斧が横薙ぎに来る。
(――死角)
ベルは、内側へ踏み込んだ。斧の懐。
「――っ!」
剣を突き出す。脇腹。浅い。だが、確実に通った。
「グォォッ!」
獣が怒りに吼える。肘が飛ぶ。吹き飛ばされる。それでも、ベルは立ち上がった。
(……今の感覚だ)
(忘れるな……!)
視野を広く。獣の肩、腰、足の向き。次に来る軌道が、わずかに読める。――でも。このままじゃ、削り負ける。
(……決め手が、ない)
その瞬間。ベルの胸の奥で、熱が弾けた。魔力の流れ。ミノタウロスが、踏み込んでくる。
(近く……もっと……引きつけろ……)
『距離だ。魔法は、距離で威力が変わる』
ローエンの声が、重なる。
「――ファイアボルト!!」
白い火線が、ベルの手から走る。直撃。胸元。爆ぜる炎。
「グォォォオオオッ!!」
だが――倒れない。焼け焦げた毛皮から、蒸気が上がる。それでも、獣は前に出る。
(……まだ……足りない)
次の瞬間。遠くから、聞こえた声。
「……ベル」
金色の髪。アイズ・ヴァレンシュタイン。その背後には、ロキファミリアの主要メンバーたる第一級冒険者の面々が揃っていた。
「下がって」
静かな声。その一言に、全身が緩みそうになる。――でも。ベルは、首を横に振った。
「……だめです」
「……危険」
「分かってます……!」
声が、震える。
「でも……また……助けられるのは……嫌なんです……!」
胸が、苦しい。
「僕は……」
剣を、強く握る。
「……一人で、立ちたいんです」
アイズは、ベルを見つめた。恐怖を押し殺している目。必死に、踏みとどまっている目。
「……分かった」
短く言って、剣を下ろした。ベートが、目を丸くする。
「本気かよ……」
ミノタウロスが、咆哮し、再び突進してくる。ベルは、深く息を吸った。
(……最後だ)
今度は、逃げない。真正面から、受け止める。斧が振り下ろされる。ベルは、紙一重でかわしながら、距離を詰めた。そして――両足を、しっかりと床に叩きつける。
『足、腰、背中、腕』
ローエンの声。
(……順番だ)
魔力を、限界まで圧縮する。ミノタウロスの喉元が、視界いっぱいに迫る。
「――ファイアボルトオオオオオオオオオオオォォォォォォォォォオオ!!」
今度は、逃がさない。零距離。白い火槍が、獣の喉を貫いた。内部から、爆ぜる。炎が、噴き上がる。
「…………」
片角の巨体の半身が吹き飛び、ぐらりと揺れ――そのまま、膝から崩れ落ちた。沈黙。ベルは、その場に立ち尽くしていた。膝が、震える。息が、うまくできない。
(……終わった……)
◇
ロキ・ファミリアの冒険者たちが、呆然とその光景を見ていた。そしてアマゾネス姉妹の一人が、目を輝かせながら呟く。
「……ねえ、ティオネ」
「ん?」
「今のさ」
ティオナが、にっと笑った。
「なんか――」
「アルゴノゥトみたいじゃなかった?」
その言葉に、場が一瞬、静まる。
ベートが舌打ちする。
「……クソが。ガキの癖に」
フィンは、腕を組んだまま、静かに頷く。
「恐怖を越えて、自分で選んだ戦いだ…評価に値する」
リヴェリアは、目を細める。
「……未熟だが、確かに芽がある」
そして。少し離れた位置で、アイズは、剣を下ろしたままベルを見ていた。――今までとは、ほんの少し違う目で。
◇
ベルは、ふらつきながらリリの元へ駆け寄った。
「リリ……!」
「……ベル……様……」
小さく、笑う。
「……勝ち……ましたね……」
「……うん……」
声が、掠れる。
「……怖かった……」
正直に、言った。
「でも……逃げなかった……」
リリは、ゆっくりと目を細めた。
「……それで……十分です……」
片角のミノタウロスは、倒れた。だが。それは終わりではない。少年の胸に灯った、小さな火は。すでに。誰にも消せない色を帯び始めていた。
◇
――第9階層、暗闇の奥。誰にも気づかれない位置にシエラはいた。
その立ち姿は静かだったが、内に秘めた興奮を抑えきれないのか、影は忙しなく揺らめいている。その表情は、恋に焦がれる少女のものとはほど遠く、むしろ娼婦のように下卑た、歪んだ悦びに染まっていた。
(……クフフ、やっぱりすごい)
恐怖。守る対象。学習、そして――決断。その無垢な魂は、間違いなく新たな段階へと昇りつつある。ベル・クラネルは、まだ壊れていない。まだ、磨ける。だが――
(……これは)
既視感。シエラは、この感覚を知っている。それは、まだ地上に出て間もない頃に覚えたもの。――見られている。それも、私をではなく“ベル”を。それに――あのミノタウロス……。
(……早いに越したことはない)
そうして影は、暗闇の底へと、より深く溶け込むように消えていった。
◇
――そして、同じ夜。バベルの塔。神の居所。紅い瞳の女神は、満足そうに微笑んでいた。
(……美しいわ)
恐怖に縛られた魂が。自分で一歩、踏み出す瞬間。その変質の輝き。そして――背後の空間が、静かに歪んだ。
「……こんばんは、女神フレイヤ」
影が、人の形を取る。だが、その輪郭は薄く、存在感が決定的に欠けている。ただ――“見えない”ためだけの影。フレイヤは、振り返らない。
「……随分と、無粋な入り方ね」
オッタルが、女神の前へと即座に立つ。気配に、気づけなかった。それが、何よりの異常。
(……侵入を、許した……?)
オッタルの胸の奥に、冷たいものが走る。もしこれが敵意を持つ存在だったなら。女神の背後は――無防備だった。影は、静かに言った。
「……ベル・クラネルについて話がある」
フレイヤの紅い瞳が、細められる。
「……あなたが、あの子の後ろにいるのね」
「観察しているだけだ」
「あら……そうなの?ふふっ」
影は、続ける。
「あなたは、これからも横やりを入れる」
「だが、それが彼の魂を“濁す”方向へ向かうなら――私はあなたを排除する」
オッタルの指が、わずかに動いた。フレイヤが、くすりと笑う。
「ずいぶん、独占欲が強いのね」
一瞬。空気が張り詰める。オッタルの全神経が、影に向けられる。まさに一色即発。だがその均衡を崩したのは女神――フレイヤだった。
「なら、こうしましょう」
フレイヤが、静かに言う。
「私はこれからもベルを見守り、時に背中を押す」
「さらに、あなたの“観察”の邪魔もしない」
「その限りにおいて――あなたは私達に干渉しない」
影は、わずかに首を傾げる。
「……同意する」
フレイヤの唇が、ゆるやかに吊り上がる。
「ただし――私の子兎を、汚すような真似をしたら」
紅い瞳が、細く光る。
「その時は、あなたでも許さないわ」
影は、頷くこともなく、ただ、ゆっくりと輪郭を薄めていく。去り際、オッタルの背後を、すり抜けるように。誰にも触れず。誰にも感知されず。ただ、消えた。フレイヤは、その消失点を見つめながら、静かに呟いた。
「……面白い子ね」
ベル・クラネル。そして――あの、異形。二つの異質が交差する舞台を。女神は、心から愉しんでいた。