ダンジョンに生まれた私は、英雄の魂を育てて喰らう 作:ヨーヨーヨー
外壁の上は、朝の光にまだ冷えを残していた。
白い石に染みついた夜気が、靴裏からじわりと伝わる。ベルは、剣を抱えたまま、小さく息を整えていた。ローエンの前に立つと、いつも自分の呼吸だけがやけに大きく聞こえる。剣を握る指先が、まだ微かに震えているのも、自分では分かっていた。
「……もう一度、いきます」
「焦るな。今のは、踏み込みが先だ」
ローエンの声は静かだった。だが、その一言で、ベルの頭の中から余計な思考が削ぎ落とされる。ベルは一歩引き、構え直した。――その時だった。背後の空気が、はっきりと変わった。風の流れが乱れ、気配が、増えた。
「……え?」
ベルが振り返る。そこに立っていたのは、見慣れすぎる金色の髪。
「あっ!アイズ……さん?」
アイズ・ヴァレンシュタイン。そして、その背後には――
「うわ……」
思わず、声が漏れた。ロキ・ファミリアの主要メンバーが、ずらりと並んでいた。
フィン、リヴェリア、ガレス、ティオネ、ティオナ、ベート。そして、腕を組んで仁王立ちしているロキファミリアの主神――ロキ。
「……え?」
ベルは状況を飲み込めず、完全に固まった。
(え? え? なんで……!?)
「……ベル」
アイズが、少しだけ気まずそうにベルを見る。
「ごめん。勝手に……連れてきた」
「い、いえ!? 全然っ……!?」
慌てて首を振るベルだったが、背中に突き刺さる視線が痛い。特に――銀の狼のような鋭い目。
「……チビ」
ベートが、低く唸る。
「お前まで、ここにいんのかよ」
「は、はい……」
喉がひくりと鳴る。ティオナが、ベルの方へ身を乗り出した。
「えっ? もしかしてさぁ!」
「アイズと一緒に訓練してたのって、この子!?」
「…そう」
アイズは、淡々と頷く。ティオナの目が、一気に輝いた。
「へぇー! あのミノタウロス倒した子だよね!?」
「……っ!?」
ベルの顔が一瞬で赤くなる。
「ちょっとティオナ!」
ティオネが、すぐに肘で突く。
「いきなり言うことじゃないでしょ!」
「えー? いいじゃん事実なんだし!」
「そういう問題じゃないの!」
二人のやり取りに、場の空気がわずかに緩む。だが、その中心に立つ男だけは――微動だにしていなかった。ローエン。ただ静かに、彼らを見ていた。ロキが一歩、前に出る。
「で?…あんたが、アイズたんの師匠やって?」
にやりと、口元を歪める。その顔には明らかな敵意を感じさせた。ぐっと距離を詰める。神威が、じわりと滲む。
「うちのかわいいエースに剣教えるとか、えらい身分やないか?」
ローエンは、まっすぐロキを見る。
「……頼まれただけだ」
「ほぉ?」
ロキの糸目が、ほんのわずかに開く。
「頼まれたら誰にでも教えるんか?」
「……相手による」
短い沈黙。空気が、ぴんと張る。
「おい…ロキ」
その瞬間、リヴェリアがロキの腕を掴み、ぐいと引き戻した。
「話が先に進まん、今日は確かめに来ただけだろ」
「ちょッ、離さんかい!!リヴェリアママ!!まだまだ言いたいことがぎょーさん、…あだぁ!!」
「誰がママだ、誰が!」
リヴェリアの拳がロキの脳天に突き刺さる。鈍い痛みが続く頭を摩りながらもロキはローエンからその目を離さない。切れ者の神の視線が、男の表情の奥を探る。
(……ふぅん)
(表情、気配、呼吸……どこにも、引っかからへん……ほんまに、妙やな)
そこへフィンが柔らかい笑みを見せながら、一歩進み出た。
「突然で失礼する。僕らの団員…アイズから君の話を聞いてね、ぜひ会って話してみたいと思って押しかけさせてもらった」
「……」
ローエンは何も言わず、ただフィンの動向を探っていた。
「…アイズが世話になっているみたいだね。ロキファミリアの団長として礼を言う」
「別に…大したことじゃない」
(……強いな)
その立ち振る舞いから、フィンはローエンの実力の片鱗を感じていた。自分たちが現れてからここまで、ローエンは隙を見せていない。正確には人としての死角が無いように感じる。少なくともフィンには戦闘になった場合、最初の一撃目を当てられる自信はなかった。フィンは確かめるために、話の奥へ一歩踏み込む。
「不躾ついでに、少し君の実力を見てみたい。……一手手合わせ願えないかな?」
その言葉にローエンはじっとフィンを見つめる。それはまるでその言葉の奥に隠れている真意を探るような目だった。――わずかに間を置いてから答える。
「別に構わない」
その瞬間。
「……待て」
低く唸るような声。ベートだった。
「俺がやる」
鋭い視線が、ローエンに突き刺さる。その眼はまるで獲物を見つけた獰猛な獣のようであった。ローエンは短く息を吐きながら、ベートとの対角線上へと体を向けた。
◇
外壁中央の石畳。二人が、向かい合う。ベルは思わず息を止めていた。
(ベートさん……)
ロキ・ファミリアの第一級冒険者。アイズさんの仲間。あの圧倒的な存在感。それと――自分の師匠。そこへ、ベートが歩み出る。背中から滲む圧は、明確な戦意だった。銀色の耳がぴくりと揺れ、牙を見せるように口角が歪む。
「お前の剣……」
ローエンを真っ直ぐ射抜く。
「気に入らねぇ」
空気が、明確に張り詰めた。ベルは、無意識に一歩下がっていた。喉の奥が、ひくりと鳴る。ローエンは、ゆっくりとベートと向かい合う。剣は抜く。だが、構えは低く、力みが一切ない。ベートの体が、獣のように低く重心を落とした――まるで、跳ねる獣だ。
「……行くぞ」
次の刹那。石畳が爆ぜた。ベートの踏み込みは、衝撃だった。足裏が地面を抉り、粉塵が舞い上がる。
「ッラァァ!!」
横薙ぎの蹴り。速い。重い。鋭い。だが――ローエンは、半歩。ほんの半歩、横にずれただけだった。剣を振らない。受けない。避けるというより――そこにいなかった。ベートの斬撃は、虚空を裂く。
「……チッ!」
返す刃。連撃。縦、横、突き。息をつく間も与えない連続攻撃。だが。ローエンの足運びは、奇妙なほど静かだった。踏み込まない。跳ばない。ただ、剣が来る“場所”から消える。
(……なに、あれ)
ティオナが、息を呑んだ。
「ねえティオネ……」
「ええ……」
ティオネの目が、はっきりと戦慄を帯びる。
「距離が……ずっと同じ」
本来なら、詰まるはずだ。ベートほどの踏み込みと連撃なら、距離は必ず殺される。だが。二人の間の間合いは、まるで見えない線に固定されているかのようだった。
ベートは踏み込む。だが、踏み込んだ分だけ。ローエンは――その“次の位置”へ先にいる。
「……ッ!」
苛立ちが、はっきりと表情に浮かぶ。連撃。右。左。逆手の突き。刃が、火花を散らして空気を切り裂く。だが。ローエンの剣は、ほとんど動かない。動くのは――足だけ。踵。つま先。重心移動。身体の回転。それだけで、剣の線から消える。アイズの瞳が、微かに揺れた。
(……同じだ)
(私が、教わっている……)
攻撃を振るより先に、“立つ場所”を奪う。ベートの眉が歪む。
(ねぇ……当たらねぇ……俺の動きが……読まれてんのか!?)
違う。読まれているのではない。――先に、置かれている。自分が踏み込む“未来”に。その位置に、最初から立たれている。ローエンの体は、戦うための動きではない。戦いを終わらせるための動きだ。刃が交わる。乾いた金属音。だが、鍔迫り合いにはならない。主導権が、一瞬もベートに渡らない。
「……クソがぁぁ!!」
ベートの怒号。ついに、力任せに距離を潰しに来た。真正面から、体ごと叩き潰すような踏み込み。剣が唸りを上げる。その瞬間。ローエンは、初めて――わずかに、上体を沈めた。ほんの数センチ。だが、それだけで、ベートの蹴りは、ローエンの体を“掠めない”。同時に。ローエンの剣先が、するりと伸びた。喉元。紙一枚。空気が、凍りつく刃は触れていない。だが。完全に、殺せる距離だった。それを獣のような感性でその場から飛び退く。
(……ざけんな!)
ベートの胸中に敗北の二文字が色濃く出始める。さらなる速力を。さらなる力を得るため。意図的に落としていたレベル5としての力量を。ギヤが一段上がる瞬間。
「……そこまでだ」
静かな声。あまりにも、静かな声。ベートの体が、固まる。
「……はぁ!?」
「これ以上は…”殺し合い”になる」
ローエンは剣を鞘に納め、構えを完全に解く。――ふざけるな。ベートの顔面に沸々とした怒りが筋となって表れ始めた。だが――
「ベート、彼の言う通りだ」
「勝負は終わりだ」
今にも後ろから飛びかかりそうな狼を、ローエンに同調したフィンが治める。
「……ッ」
言葉にならない怒りを歯ぎしりと共に飲み込みながら、構えを下ろす。奴の実力の高さは、否定のしようがなかった。――圧倒的だった。量ではない。技でもない。“奪われ続けた”だけだ。立つ場所を。踏み込む未来を。勝ち筋そのものを。胸の奥が、焼ける。悔しさ。怒り。だがそれ以上に――はっきりとした焦燥。
(……ふざけんな)
アイズが先へ進み。自分が追い抜かれたという感覚。脳裏に、否応なく浮かぶ。血と鉄の匂い。ミノタウロス。――白髪の少年。ベル・クラネル。恐怖に震えながらも。逃げずに。一人で。怪物に立ち向かい、打ち倒した姿。
(……クソが)
胸が焼ける。怒り。羞恥。そして、認めたくない現実。あの少年に、英雄の器を見た現実に。あの小さな背中は。英雄の入口に、立っている。
◇
「……すごい」
ぽつりと、ティオナが呟く。
「ねぇティオネ……あれさ」
「ええ……“殺し合い”の剣じゃない……相手を壊さずに、止めてる」
ティオネも、真剣な表情で頷く。ティオナは、ちらりとアイズを見る。
「アイズが教わってるっての、分かる気がするよ」
そこへロキファミリアの重鎮――ガレス、リヴェリア、フィンも声を挙げる。
「戦場の剣ではないな……」
「…ああ」
ガレスが低く息を吐き、リヴェリアも小さく頷く。
「制圧と誘導に極端に特化している……まるで」
(……“人”のみに特化した剣)
リヴェリアは心中で驚愕した。それはまるで人の動作、挙動、筋肉の動きの機微すらも掌握するような。人の構造を完璧に理解していなければあり得ない剣技であった。フィンが、静かにローエンを見る。
「なるほど、アイズが師と呼ぶのも、無理はない。君の剣は……非常に独特で珍しいね」
「…そうかもな」
ローエンはふと――視線を動かした。少し離れた場所。緊張で固まっていた、白髪の少年。ベル。ほんの一瞬。ただ、それだけ。だが、その一瞬を。フィンは、見ていた。
(……本命は、あの少年か)
なぜか直感が、そう告げた。最近、異例の速さで“二つ名”を得た冒険者。<未完の新人(リトル・ルーキー)>ベル・クラネル。この外壁へ来たときの状況から察するに、この男はアイズの他にも、この少年も師事している。フィンが、静かに尋ねる。
「君はなぜ、このオラリオに?どこのファミリアに所属しているんだい?なぜ、アイズに剣を教える?」
「…随分と踏み込んでくるじゃないか」
「てめぇ!団長が聞いてるんだから、さっさと答えればいいんだよ!」
団長にぞっこんなアマゾネスの少女――ティオネが食い気味に突っかかる。
「…ティオネ、少し静かにしようか」
フィンが諫める。そこには怒気はなく、ただ少しの戸惑いがあるだけだった。
「はい!団長!」
まるでブンブンと尻尾を振る従順な犬の如くフィンの傍に戻る。
「……すまない、これでも大切な仲間の命を預かるファミリアの団長だからね。無理に話せとは言わないさ」
ローエンは、少しだけ視線を落とし呟く。
「……放っておけなかった。…これだけじゃ不満かな?」
たったそれだけだった。
「……そうか」
フィンは自身の親指を見る。そこには何の疼きも感じられなかった。この男に“危険”はないと、そう告げるように。そんな中、ロキは、その横顔をじっと見つめていた。糸目をほんの少し見開いた神の目で。嘘を見抜く神の視線で。
(……ふぅん。切れ者の顔しとるのに、言葉は……ほんまに、正直やな)
嘘はない。害意や敵意も、だが――隠してるものは、山ほどある。狡知の神――ロキはそう結論付けた。
やがて、一行は外壁を後にした。そんな中、アイズは言葉にできないざらつきをその胸の奥に残こしていた。ローエンが、ほんの一瞬だけベルを見た、あの視線。それだけが、どうしても離れなかった。
◇
ロキ・ファミリアは、外壁を離れ、朝の人通りが増え始めた通りを並んで歩いていた。石畳を踏む足音が、いつもより少し重く響く。先頭ではフィンとリヴェリアが静かに言葉を交わし、ロキはその少し後ろを、いつもの軽い足取りでついていく。アイズは、少し離れた位置で、無言のまま前を見ていた。――その背中を。ベートは、無意識に追っていた。
(……くそ)
喉の奥で、小さく舌打ちする。さっきの光景が、頭から離れなかった。ローエンの、あの立ち方。踏み込めば、必ず“そこにいない”。追えば追うほど、置いていかれる距離。
(……アイズも)
あの剣に、ついていってる。ほんのわずかだが、はっきりとした差を、ベートは感じていた。自分が知らない領域。自分が、まだ踏み込めていない場所。それを、アイズはすでに――
(……先に、見てやがる)
胸の奥が、じわりと焼ける。悔しさよりも先に、焦りが込み上げた。置いていかれる。ただそれだけの感覚が、獣の本能のように神経を掻き立てる。だが、それだけじゃなかった。
(……クソが)
拳が、無意識に強く握られる。爪が掌に食い込み、鈍い痛みが走る。それが、かえって現実を突きつけてきた。――怒り。――羞恥。――そして、決定的な焦り。ローエンとの一瞬の立ち合い。ベルのミノタウロス戦。アイズの背中。全部が、一つの方向を指している。
(……浅ぇところで、強がってる場合じゃねぇ)
ベートは、前を歩く仲間たちの背中を睨むように見つめた。
(……もっと、下だ)
もっと深く。もっと危険で。もっと、生き残るだけで精一杯になる場所。そうでなければ、自分は変われない。あの背中にも。追いつけない。
(……次の遠征……潜る……限界まで、だ)
胸の奥で、静かに決める。やがて、少し前方でフィンが足を緩め、さりげなくロキの隣へ寄った。アイズから、わずかに距離を取る。
「ロキ。どう見えた?」
低く、抑えた声。ロキは、歩きながら肩をすくめた。
「わからへんかった、せやけど……」
一拍置き、口の端をわずかに吊り上げる。
「違和感はある。…ベートが本気やなかったとはいえレベル5の冒険者相手に、あそこまでやれる無名はおらん」
フィンは、小さく頷いた。
「外の国からの旅人だとしても……だね。名が出ないのは、不自然だ」
ロキは、ちらりと前を歩くアイズの背中を見た。
「せやな」
それから、少しだけ声を落とす。
「けどな……嘘は言っとらん。それだけは、はっきり分かった」
フィンは、ほんのわずかに目を細める。
「……害意も、なし?」
「感じひんかったわ」
ロキは、軽く笑った。
「せやから――しばらく、様子見や」
そうしてロキファミリアの面々はそれぞれの想いを胸に町の雑踏の中を歩いていく。そん中、路花壇に植えられた花々の茂みが、かすかに揺れた。小さな影。一匹の猫が、じっとその場を見つめていた。金色の瞳。感情のない、静かな観察者。そして猫は音も立てずに身を翻し、路地へと消えていった。影の中へと潜るように。
◇
オラリオのどこか。地上の喧騒も、冒険者たちの足音も、まるで届かない場所。湿った空気が、重く澱む地下の一室。石壁には、長い年月をかけて染みついた黒ずみと、乾いた血の跡が幾層にも重なり、天井から垂れる水滴が、規則正しく床を叩いていた。ぽたり。ぽたり。薄暗い灯りに照らされて浮かび上がるのは――部屋の中央に据えられた、一本の鉄柱。そこに。鎖で両腕を吊り上げられた、男がいた。ソーマ・ファミリアの団員。第十階層での一件以降、消息を絶っていた三人のうちの――最後の一人。裸同然の身体は、痩せ細り、口には猿轡。声は出ない。だが。濁りきった瞳だけが、必死に生きていた。
「……ひっ……ひっ……」
喉の奥で、かすかな音が鳴る。涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔が、小刻みに震えていた。その足元。床の端に。一匹の猫が、静かに座っていた。黒と灰色の混じった毛並み。丸く尾を巻き、まるで置物のように動かない。その黄金色の瞳は、ただ――部屋の奥を見つめている。男ではない。逃げ道でもない。ただ一人の“少女”を。
カツ――
革靴の音が、地下室に響いた。ゆっくりと。気配を誇示するように。暗がりの奥から現れたのは、細身の女だった。シエラ。艶のない黒髪。白磁のような肌。その顔立ちは、どこまでも穏やかで、どこまでも人間的だった。
「……あら」
小さく、微笑む。まるで体調を気遣うような声音で。
「また震えてる」
男の肩が、びくりと跳ねた。鎖が、がしゃりと鳴る。必死に後ずさろうとして、足が絡まり、床に膝を打ちつける。その一挙一動が、シエラには、ひどく愛おしいものに見えているかのようだった。
「大丈夫よ」
優しく、諭すように。
「あなたは……とても良い素材だもの」
猫が、わずかに耳を動かした。シエラは、ゆっくりと男の正面に立つ。そして。
男の腹部へと、視線を落とした。
「最初の二人は……残念だったわね」
独り言のように語り出す。男の喉が、ひくりと鳴る。シエラは、淡々と続ける。
「私の一部に、耐えきれなかった」
言葉の調子は、まるで実験器具が壊れたことを嘆く研究者そのものだった。男の瞳が、限界まで見開かれる。涙が、ぽろぽろと床へ落ちる。シエラは、猫の方へちらりと視線を向け、再び男を見る。
「……でもね、分かってきたわ」
くすり、微笑む。
「冒険者として、ある程度のレベルがあって、肉体の強度が高い方が、成功率は上がるみたい」
淡々とした口調。そこには、喜びも、後悔も、罪悪感もない。
「一般人では……だめだったわ」
その一言が、何人もの死を内包していることを、あまりにも軽く示していた。シエラは、男の頬にそっと手を伸ばす。氷のように冷たい指先。男は、反射的に顔を背けようとするが、鎖がそれを許さない。
「ねえ」
耳元で囁く。
「あなたは……壊れないでね」
その声は、ひどく優しかった。次の瞬間。――ずぷり。湿った音が、地下室に響いた。シエラの腹部が、ゆっくりと裂ける。皮膚が開き、筋肉が歪み、赤黒い肉の隙間から。それが、姿を現す。黒い。球状の影。だが、その表面には――無数の“口”が、蠢いていた。
小さく、細かく、ぎっしりと並んだ牙が、波打つように開閉している。生き物のように。いや。生き物以上に、異様な“器官”。それは今まで捕食してきた、モンスターの性質を内包した“器”。男の全身が、激しく跳ねた。猿轡の奥から、声にならない絶叫が溢れ出る。
「――――ッ!!!!」
黒い球体が、ゆっくりと。男の腹部へ。肉を押し広げながら、潜り込んでいく。皮膚が裂ける。血が噴き出す。内臓を押し分けるような、嫌な音が続く。男の背中が、大きく反り返った。白目が剥かれ、指先が、狂ったように痙攣する。喉の奥から漏れるのは、ただの空気の塊だけだった。数秒。それとも、数十秒。やがて。男の身体から、力が抜け落ちる。首が、がくりと垂れた。意識が完全に、断ち切られた。シエラは、ゆっくりと腹部を閉じる。肉が蠢き、裂け目が消え、何事もなかったかのように白い腹へ戻っていく。
「……クフフ」
小さく、満足そうに息を吐いた。その隣で。一匹の猫は、変わらず座っていた。血の匂いも。悲鳴も。狂気も。すべてを当然の景色として受け止めるように。黄金色の瞳で。ただ静かに。シエラを、見つめ続けていた。
話が全然進まない。
早くフィルヴィスとかレヴィスとか闇派閥とかと絡みたい。
もう少ししたら話を端折ろうかなと思ってます。