ダンジョンに生まれた私は、英雄の魂を育てて喰らう 作:ヨーヨーヨー
中層。
ベル・クラネルの喉は、無意識のうちに小さく鳴っていた。空気が、違う。湿っている。冷たい。そして――重い。それは単なる温度や湿度ではなかった。長い年月、無数の冒険者とモンスターが死に、血を流し、叫び、逃げ、殺し合ってきた空間が持つ、濃度だった。肺の奥に吸い込むたび、胸の内側にまで染み込んでくるような圧迫感。天井から垂れる水滴がそれを薄く溶かしながら床へと落としていた。――ここは、上層じゃない。ベルは、はっきりとそう理解した。
「……ここが……中層……」
言葉は小さく、ほとんど独り言に近かった。だが、その声が耳に返ってくる反響すら、どこか他人の声のように感じられた。
背筋に、ぞわりとした感覚が走る。――怖い。正直に言えば、それが一番近い感情だった。だが同時に。胸の奥に、確かな熱があった。思い出すのは、ミノタウロスとの戦闘。床に倒れ伏し、何度も死を覚悟した戦い。そして、更新されたステイタス。レベル2。自分が、自分であるまま一段上に進んだという、はっきりした証。それに――ローエンとの訓練。何度も地面に転がされ、呼吸が乱れ、視界が揺れながら、それでも叩き込まれた基本。剣は、振るのではなく運ぶもの。体は、前へ投げるのではなく軸で支えるもの。敵を見るのではなく、敵の動く前を見ること。ベルは、ゆっくりと自分の指を握り、開いた。震えは、わずかに残っている。だが――止まらない。
「……行こう」
声に出すことで、自分の足に命令するように。背中では、ヴェルフ・クロッゾが巨大な大剣を背負い直す。
「気ぃ抜くなよ、ベル。ここからは――冗談抜きだ」
ヴェルフ・クロッゾ。最近パーティに加入した強力な“魔剣”を作ることができる貴族クロッゾ家の末裔。炎を思わせる赤い短髪と精悍な顔立ちをしたヒューマンの青年が気を引き締めるようにベルへと注意を促す。
「通路幅、狭め。逃走は不利です。前提は殲滅、ですね」
そう言いながらも、リリの視線は常に天井と通路の奥を往復していた。足音を、殺している。ヴェルフもまた同様だった。彼自身もこの階層の異質さを理解している証だった。やがて。通路の曲がり角から、低く濁った唸り声が漏れてきた。喉の奥が、きゅっと締まる。
「……来ます」
リリの呟きと共に、ベルは、反射的に前に出た。闇の向こうから姿を現したのは、ヘルハウンド。赤黒い体毛に覆われた獣。裂けたように大きな口。口腔の奥で、ゆらゆらと赤い光が揺れている。――火。頭では分かっているのに、視界に入った瞬間、体が僅かに硬直した。
「ベル様、左です!」
リリルカの声。ベルは踏み込んだ。床を蹴る。足裏から伝わる、ざらついた感触。距離。一歩半。踏み込みながら剣を引き、斜めに振り抜く。刃が、毛皮と肉を裂く手応えが、はっきりと腕に返ってきた。――軽い。いや、正確には。重さを受け止めていない。受け流せている。自分の中で、何かが噛み合っている感覚があった。ヘルハウンドはよろめきながらも踏みとどまる。だが、次の瞬間。背後から、風を切る音。
「――伏せろ!」
ヴェルフの叫び。大剣が唸りを上げ、ヘルハウンドの胴を真横に断ち切った。肉の弾ける音と、鈍い衝撃。魔石が砕ける前に、体は霧のように消えた。
「……っ」
ベルは、息を止めていたことに気付く。小さく息を吐いた。続いて現れたのは、アルミラージ。小型。だが、その脚力は異常だった。跳ぶ。跳ぶ。跳ぶ。壁を蹴り、床を蹴り、縦横無尽に飛び回る。
「リリ助、上!」
「了解です!」
ヴェルフの叫び声に反射的に反応するリリ。矢を天井へと放ち、跳躍してきた一体が、空中で撃ち落とされ、体勢を崩した。ベルは、その瞬間を逃さなかった。踏み込み、喉元へ突き。短く、鋭く。魔石が砕ける。連携。まだ荒削りだが、確かに機能している。――やれる。そう思った矢先だった。違和感が、背中を撫でた。音が、増えている。足音。爪が岩を削る音。空気を切る羽音。
「……多くないか?」
ヴェルフの低い声。ベルは、周囲を見渡す。通路の奥。脇道。闇の中に、いくつもの光る目が浮かんでいた。
「……囲まれています」
リリルカが、喉を鳴らす。アルミラージの群れ。最初に出てきた個体は、ただの先触れだった。
「……まずいな」
ベルたちは、次々と襲いかかってくるモンスターの群れを迎え撃っていた。
中でもベルの動きは、ひときわ繊細だった。仲間の死角を最小限の動きでカバーしながら、確実に敵を切り裂いていく。その剣筋は、まさに彼自身の“師”を思わせるものだった。だが――
(…動ける……けどっ!)
敵の数が減るスピードと、増えていくスピードがほとんど同じで、一行には、数が減っている気配がまるでない。三人の表情に、次第に焦りが滲み始めた。その時――
「……っ、人です!」
リリルカの声が鋭く跳ねた。通路の奥から、冒険者たちが転がり込むように姿を現わす。そしてその背後には――大量の“危険”を引き連れていた。
◇
「……っ、千草! しっかりしろ!」
タケミカヅチファミリアの団長――桜花は、背中に背負った少女の身体を必死に支えながら走っていた。その団員である前髪で瞳を隠している少女――千草の右脚は深く裂け、包帯はすでに血で真っ赤に染まり、ふくらはぎからぽたぽたと滴が落ちている。
「……だい、じょう……ぶ……」
声は掠れ、ほとんど息だった。
「無理をするな!」
黒髪長髪の大和撫子風の少女――命が、後方を警戒しながら叫ぶ。その直後。通路の奥、暗がりの向こうで――赤い光が、いくつも瞬いた。低く、濁った唸り声。獣の喉を震わせるような、湿った音。
「……来てます……まだ……!」
三人の団員が、必死に後衛を固めながら後退する。だが、足取りは重い。中層特有の凹凸だらけの地面が、負傷者を抱える隊列には、あまりにも厳しかった。
「ヘルハウンド……アルミラージも混ざってる……!」
「くそ……!」
命の声が震え、桜花は歯を食いしばる。
(……最悪だ……)
自分たちの判断ミスだった。中層への挑戦。慎重に進んだはずだった。だが、ヘルハウンドの火炎をかわした直後、側面から飛び出したアルミラージの跳躍を、読み切れなかった。千草が庇いに入り――脚を裂かれた。そこから、すべてが崩れた。
「命、距離は!?」
「……三十……いや、二十です!」
近い。あまりにも。アルミラージは速い。ヘルハウンドは執拗だ。そして、この通路は――逃げに向いていない。曲がり角が少ない。視界が、開けすぎている。追う側に有利な地形。
「……っ!」
桜花の肩に、千草の体重がのしかかる。腕が痺れる。足が、軋む。だが、止まれない。止まった瞬間――追いつかれる。
「……桜花……私のことは……」
「言うな!」
背中から、千草の小さな声を即座に遮る。言わせるつもりなど、最初からなかった。だが。胸の奥に、嫌な感触が沈殿していた。
(……このままじゃ……)
その時だった。前方の通路の先。淡い光が揺れた。人影。
「……冒険者……?」
命が息を呑む。そして、次の瞬間。白い軽装。短剣を構えた少年。
(……若い……)
桜花の脳裏に、現実的な評価が走る。パーティ構成は三人。一人は小柄なサポーター。もう一人は、鍛冶師らしき大剣使い。
(……低〜中位……)
一瞬で、理解した。――自分たちが連れ込めば。この若い冒険者たちは。まず、耐えきれない。
「……まさか……」
命が、喉の奥で呟いた。だが。背後から迫る唸り声が、その迷いを押し潰す。
「……桜花殿……」
命の声に、縋るような響きが混じる。桜花は、走りながら――前方の少年と、目が合った。赤い瞳。必死に、剣を握りしめている。理解していない顔だった。まだ。この状況の、意味を。
「……っ」
奥歯が、軋む。胸の奥で。何かが、音を立てて割れた。
(……すまない……)
桜花は、喉の奥で、そう呟いた。そして――張り裂けんばかりの声で叫ぶ。
「……走れッ!!」
全力で。命と仲間を守るために。他人の命を、切り捨てるために。タケミカヅチ・ファミリアは、ベルたちの横を――無情にもすり抜けた。触れそうなほど近くを。誰一人、振り返らずに。
◇
「……え?」
ベルの口から、間の抜けた声が漏れる。意味が、理解できなかった。なぜ。なぜ、今――
「いけません!!」
リリルカの叫びが、洞窟に突き刺さる。
「押し付けられました!!怪物進呈です!!」
その言葉の意味が、脳に染み込むより先に。洞窟の奥から、濁流のような音が押し寄せてきた。黒い影。赤い目。ヘルハウンド。アルミラージ。先ほどまで、タケミカヅチ・ファミリアを追っていた群れが――こちらへ、完全に向きを変えた。
「……っ!」
空気が、一気に張り詰める。胃の奥が、ひっくり返るような感覚。ベルの視界には、もう逃げる余白が見えなかった。
「おいおい、まじかよ!」
「ベル様……!」
ヴェルフとリリルカの声が、かすかに震える。――怒り。――混乱。――恐怖。
それらが一斉に胸を満たす。だが、考えている暇はない。
「走れ!!」
ベルが怒鳴った。三人は、同時に走り出した。だが、数が多すぎる。横の通路から、別の群れが合流する。
「……前からも、来ます!」
挟み撃ち。完全な包囲網。ベルは歯を食いしばる。頭の中が、異様なほど冷えていく。――迎撃しか、ない。ベルは前へ出た。
一体。二体。斬る。斬る。だが、距離が詰まる。背後で、ヘルハウンドの唸り声が重なる。熱。嫌な予感。
「……来る……!」
口が勝手に動いた。次の瞬間。ヘルハウンドの口が、赤く灼ける。火炎。一直線に、ベルたちへ。
「リリ助、下がれ!!」
ヴェルフが、前に出る。そして、叫んだ。
「燃え尽きろ、外法の業(わざ)――《ウィル・オ・ウィスプ》!!」
掌に風が集まり、空中に浮かぶ。揺れる。漂う。だが、それはただの風ではない。魔力で形作られた、極めて不安定なもの。魔力暴発(イグニス・ファトゥス)を誘発し、自爆させる“魔法封じ”の魔法。火炎が、ウィル・オ・ウィスプに触れた瞬間。爆ぜるように散り、ヘルハウンドの体は霧散した。
「……防げ……た……」
ベルは、信じられないように呟く。だが、ヴェルフは即座に叫んだ。
「一時しのぎだ!!この数じゃ、どのみちジリ貧だ!!」
その瞬間。低く、腹の底に響く音が――洞窟全体を揺らした。
ゴゴ……ゴゴゴゴ……。
「……え?」
ベルは、反射的に上を見た。天井の亀裂が、走る。
「……上だ!!」
ヴェルフの声と、轟音が重なった。次の瞬間。岩盤が、崩れ落ちた。闇の塊が、滝のように降ってくる。蝙蝠型モンスターの群れ。羽音が、鼓膜を引き裂くように鳴り響く。
「――しまっ……!」
視界が、土砂と粉塵に埋め尽くされる。衝撃。体が、宙に浮く感覚。そして――ベルの意識は、一瞬、白く弾けた。
◇
地上。迷宮都市オラリオ。昼下がりの通りは、相変わらず人で溢れていた。冒険者の呼び声、商人の値切り声、遠くで鳴る鐘の音。いつもと変わらない、賑やかな日常。その一角。じゃが丸君の屋台の前で、シエラは足を止めた。
「……あれ?」
無意識のうちに、視線が屋台の奥を探していた。いつもなら、あの小さな女神が、せわしなく動き回っているはずなのに。見慣れた姿は、どこにもない。
「今日は……いないのね」
思っていたよりも、声は小さかった。代わりに立っていた店員が、じゃが丸君を油の中でひっくり返しながら、気だるそうに答える。
「ヘスティア様?今日は見てませんねぇ」
「……そう」
それだけの、短いやり取り。なのに。胸の奥が、ほんの少しだけ、ひやりと冷えた。理由は分からない。期待していたわけでもない。用事があったわけでもない。――ただ、いつもそこにいる人が、いなかっただけ。それだけのはずなのに。
「……残念」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟いて、シエラは屋台から離れた。通りに戻ると、人の流れが身体を押し流す。当てもなく、気の向くままに歩きながら、ふと考えてしまう。どうして、少しだけ胸がざわつくのだろう。分からないまま、歩いていると――前方の人混みが、わずかにざわめいた。その中心を割るように、小柄な影が駆け抜けていく。
「……?」
思わず、足を止める。小柄な女神の姿だった。黒色の髪が乱れ、白い紐の服が、人波の中でひどく目立っている。顔は青ざめ、
唇を強く噛みしめ、必死に前だけを見て走っていた。
「……あ」
小さく、息が漏れた。ヘスティアだった。さっきまで、屋台にいなかった理由が、今になって唐突に、目の前に現れた。彼女は通行人の肩にぶつかり、よろめきながらも、振り返ることなく走り続けている。向かう先は――ギルドの方角。ただ慌てている、という様子ではなかった。何かに追われているような、何かを失いかけているような――切迫した表情。その顔を見た瞬間。シエラの胸が、ぎゅっと締めつけられた。まるで、理由の分からない痛みが、胸の奥を直接つかまれたようだった。――どうして?不安になるほど、彼女と親しいわけでもない。特別な言葉を交わした記憶も、ほとんどない。それなのに。不快でもない。恐怖とも違う。ただ、ひどく重たい。胸の奥に、静かに沈んでいく感覚。
「……どうして……」
立ち止まったまま、シエラは無意識に、その背中を目で追っていた。すでに人混みに紛れ、姿は見えなくなっている。それでも。なぜか、視線だけが、ギルドの方角から離れなかった。
◇
瓦礫の重みが、背中に叩きつけられた。息が――抜けた。
「……っ……」
声にならない。喉の奥がひしゃげたように潰れ、肺の中の空気が一気に吐き出される。何が起きたのか、理解する前に、世界が暗転した。土と粉塵と、石の破片。視界は白く濁り、耳鳴りが止まらない。――生きているのか。それすら、すぐには分からなかった。
「……ベル……様……?」
遠くで、リリルカの声がした。だが、それは本当に耳に届いているのか、それとも頭の中の残響なのか、判別がつかない。ベルは、指先を動かそうとして――激痛が、腕を貫いた。
「……っ……!」
歯を噛みしめる。喉の奥から、かすれた息が漏れる。身体は、岩の隙間にねじ込まれるような形で倒れていた。肩が痺れている。腰が、重い。かろうじて足は――動く。ベルは、必死に首を動かした。
「……リリ……!ヴェルフ……!」
声は、思ったよりも弱々しかった。返事がない。胸の奥が、嫌な形で縮む。瓦礫の向こう。ようやく視界が開けてきた。
リリルカが、横倒しになっていた。小さな体が、岩に挟まれたような姿勢で動かない。
「……リリ!!」
ベルは、膝を引きずるようにして近寄る。揺さぶる。反応は、ない。だが、微かに、胸が上下している。
「……生きてる……」
その事実に、強く安堵しそうになる自分を、無理やり抑えた。次だ。
「……ヴェルフ……!」
瓦礫の影。大きな体が、仰向けに倒れていた。足元が、血で濡れている。
「……くそ……」
ベルは、唇を噛みしめる。膝をつき、ヴェルフの脛を押さえる。傷は深い。骨までは見えていないが、裂けた皮膚の奥が赤黒く覗いている。しかも、さっきの落盤。追い打ちだ。
「……ヴェルフ……」
胸に耳を当てる。――ある。心音。荒いが、確かに。
「……よかった……」
その瞬間だった。遠く。微かに。――鳴き声。洞窟の奥を這うように反響する、不快な音。アルミラージか。それとも、ヘルハウンドか。ベルは、ぞっとする。撒けてはいない。分断されただけだ。瓦礫が、時間を稼いでいるだけ。
「……急がなきゃ……」
だが、どうやって。ヴェルフは、立てない。リリルカも、目を覚まさない。ベルは、歯を食いしばり、ヴェルフの身体を持ち上げようとした。
「……っ……ぐ……!」
重い。信じられないほど、重い。いや、重いのは当然だ。だが、今のベルの身体には、それ以上の重さとしてのしかかってくる。肩に担ぎ、引きずる。背中に、ずしりとした感触。次に、リリルカを抱き上げる。軽い。あまりにも軽い。だからこそ、胸の奥が痛んだ。ベルは、二人を近くに寄せると、短く息を整えた。そして、立ち上がる。ふらつく。視界が、わずかに暗転する。――だめだ。まだ倒れるな。遠くで、また鳴き声。確実に、近づいている。ベルは、通路の奥へと、必死に歩き出した。
◇
どれほど歩いたのか、分からない。ただ、分かるのは。行き止まりばかりだった。
岩壁。崩落で塞がれた通路。細すぎて、人を担いでは通れない裂け目。
「……っ……」
喉の奥が、ひりつく。呼吸が浅くなる。心臓が、耳元で鳴っている。洞窟は、容赦なく、音を反響させる。自分の息が、モンスターを呼び寄せている気がしてならなかった。――まただ。行き止まり。ベルは、壁に拳を打ち付けた。鈍い痛み。だが、それよりも。
「……どうすれば……」
言葉が、漏れた。その時。ヴェルフが小さく呻いた。
「……う……」
「ヴェルフ!?」
ベルは、慌てて振り向いた。ヴェルフの瞼が、かすかに動く。
「……ベル……?」
焦点の合わない視線。だが、確かに意識は戻りつつあった。
「……俺は……?」
「落盤で……怪我して……でも、生きてるよ!」
言葉が、少し早口になる。安心と緊張が、同時に溢れ出していた。ヴェルフは、ゆっくりと自分の足を見る。血。自分の状態を、一瞬で理解した。
「……ちっ……」
短く、舌打ち。そして――
「……置いてけ」
その声は、驚くほど静かだった。
「……ベル……俺を……置いて行け」
「無理だよ!!」
ベルは、強く首を振った。思わず、声が荒れる。
「そんなの……できません……!」
「……リリ助と……二人で……行け」
ヴェルフは、苦しそうに笑った。
「……この足じゃ……足手まといだ」
ベルは、何も言えなくなる。言葉が、喉に詰まる。そこへ。小さな声が割って入った。
「……別の……手が……あります……」
リリルカだった。いつの間にか、目を開けていた。声は、掠れている。
「リリ!?」
ベルは、すぐに屈み込む。リリルカは、ふらつく頭を、必死に持ち上げた。
「……十八階層……を……目指しましょう……」
ベルとヴェルフは、同時に息を止めた。
「……リリ、待って!ここから……さらに下なんて……!」
「……敵は……強くなる……一方だぞ……」
ヴェルフも、かすれた声で続ける。リリルカは、目を伏せたまま、言葉を紡ぐ。
「……十八階層は……安全地帯です……」
その一言が、洞窟の空気を変えた。ベルは、言葉の意味を、ゆっくり噛み締める。
「……モンスターが……自然発生しない……階層……」
リリルカの声は、途切れ途切れだったが、意志だけははっきりしていた。
「……中層には……下層に繋がる……縦穴が……複数あります……地上への階段を……探すより……効率的です……」
ベルの胸が、ざわつく。頭では、理解できる。だが、感情が、追いつかない。
「……階層主は……どうする……」
「……十七階層だろ…………あの……デカブツが……いるのは……」
ヴェルフが言った。唇を歪める。ゴライアス。中層最大の脅威。リリルカは、ゆっくりと顔を上げた。
「……ロキ・ファミリアの……遠征隊が……討伐している……はずです……」
一瞬の沈黙。
「……復活の……インターバルを……考えると……今なら……ギリギリ……」
「……お前……正気か……」
ヴェルフは、信じられないというように、目を細めた。リリルカは、答えなかった。ただ、ベルを見る。その視線に込められているのは、計算ではない。――覚悟だった。
「……あくまで……選択肢の……一つです……」
「……ご決断は……パーティのリーダーである……ベル様が……」
小さく、だがはっきりと。ベルの胸が、ぎゅっと締め付けられる。逃げ場のない、視線。責任。重さ。それでも。ベルは、ゆっくりと、深く息を吸った。肺の奥が、痛い。
「……行こう……十八階層へ」
声が、震えた。だが、言葉は崩れなかった。ヴェルフは、一瞬、天井を見た。そして、短く息を吐く。
「……やれやれ……」
「……とんでもない……パーティだな……」
小さく笑う。だが、その声に、否定はなかった。そんな中、暗闇の奥。金色の双眸が、かすかに光を帯びる。ヘルハウンド。岩の影に身を沈め、三人の姿を、無言で見つめていた。荒い息はない。喉を鳴らすこともない。その呼吸は、異様なほどに整っている。獣のものとは、どこか決定的に違っていた。その金色の瞳は――執拗なほどに、ベルの動きを追っていた。長い尾が、音も立てず、わずかに揺れる。首が、ほんの僅かに傾く。仲間でも、獲物でもない。“対象”として。視線は、最初から最後まで、一瞬たりともベルから離れなかった。
◇
打ち捨てられた石造りの建物は、夕暮れの中で沈黙していた。かつて祈りの声が満ちていたであろう広間には、今は風の音と、崩れかけた梁が軋む低い唸りだけが漂っている。床には割れた石片と、長い年月を経て色の抜けた旗布。壁際には朽ちた長椅子が斜めに倒れ、中央には、ひび割れた祭壇が残されていた。――廃協会。ヘスティア・ファミリアの拠点。だがこの瞬間、その場所は、ただの待機所ではなかった。重苦しい沈黙が、空気の奥に沈殿している。タケミカヅチは、深く、深く頭を下げていた。腰から折り、背を丸め、神であるはずの存在が、完全に立場を忘れたかのような姿だった。
「……すまない」
声は低く、掠れていた。言い訳も、弁解もなかった。それだけで、この場にいる誰もが、何が起きたのかを理解できてしまう。ただ、その一言だけで、すべてを背負うつもりだということが、痛いほど伝わってきた。ヘスティアは、ぎゅっと拳を握った。爪が、掌に食い込む。震えが止まらない。肩が、小さく上下する。
「ベル君たちが……戻らなかったら……」
言葉が、途中で止まる。喉の奥が、ひくりと引き攣る。一拍。ほんの、短い沈黙。だが、その間に、ヘスティアの中では数えきれないほどの情景が、脳裏を駆け抜けていた。初めて会った日の、泣きそうな顔。包丁よりも頼りなかった最初のナイフ。走って、転んで、謝って、それでも前を向いていた小さな背中。
「……君たちのことを、死ぬほど恨む」
言葉は、驚くほどはっきりしていた。感情を抑え込もうとした声ではない。怒りを飾ろうともしない。ただ、事実としての感情。だが。ヘスティアは、顔を上げた。まっすぐに。逃げ場を与えないほど、真正面から、タケミカヅチと、その眷族たちを見据える。
「……でも、憎みはしない。約束する」
その声には、震えが残っていた。だが、迷いはなかった。神としての言葉だった。
「……どうか、力を貸してほしい」
床に落ちた夕陽が、ステンドグラスを透過し、砕けた色彩となって広間に流れ込む。赤と金と、淡い青。その光が、偶然とは思えない位置で、ヘスティアの背後に重なった。崩れた壁の隙間から差し込む光が、彼女の輪郭を縁取る。まるで、後光のように。桜花は、静かに膝を折った。迷いは、一瞬もなかった。続いて、千草。まだ完全に回復しきらない体を、わずかに揺らしながらも、同じように片膝をつく。最後に、命が。ぎゅっと唇を噛みしめ、視線を伏せたまま、床に膝をついた。
「……仰せのままに」
三人の声は、重なっていた。それは忠誠というより、贖罪に近い響きだった。その場に、他にも神々の姿があった。オラリオに在籍する零細商業系ファミリアの主神――ミアハ。長椅子の端に腰掛け、いつもの柔らかな微笑みを浮かべてはいるが、その目は笑っていない。その隣にミアハファミリアの団長を務める、犬人(シアンスロープ)の女性。ナァーザ。彼女は、視線をヘスティアに向けたまま、細く息を吐く。そしてヴェルフが所属する大勢の鍛冶師(スミス)を育成し、一級品の武具を製作してオラリオに留まらず世界中にその名を知らしめる鍛冶師系ファミリア。ヘファイストスファミリアの主神――ヘファイストスは、赤銅色の髪を揺らしながら、じっと床の光を見つめていた。誰も、軽々しく口を開こうとしなかった。ここは、すでに作戦会議の場ではない。責任と覚悟を、受け渡す場所だった。その沈黙を、軽やかな拍子で破るように。
「いやぁ……ずいぶん重たい空気だねぇ」
扉から、ひとつの人影が歩み出た。柔らかな笑み。だが、目だけは、空気の温度を正確に測るように細められている。探索系及び商業系ファミリア。ヘルメスファミリアの主神――ヘルメスとその3歩後ろを歩くヘルメスファミリアの団長――アスフィであった。
「……ヘルメス」
ヘスティアが、わずかに眉を寄せる。
「タイミング悪くてごめんよ。でも、ちょっと放っておけない話でね」
軽口のように言いながら、視線は自然とタケミカヅチ・ファミリアへ向いている。
「中層で、怪物進呈」
たったそれだけで、場の空気が一段、重く沈んだ。
「運が悪かった、じゃ済まないやつだ」
誰かを責めるでもなく。だが、現実を削るような言葉だった。
「……君たちが悪いとまでは言わない。迷宮は、いつだって理不尽だからね」
そう前置きしてから。ヘルメスは、ヘスティアの方へ視線を戻す。
「でも、このままじゃ、あの子たちは戻ってこない」
冗談めかした仮面が、ほんの一瞬、外れる。
「救援がいる。――しかも、即戦力の」
その言葉が、場に残った瞬間。
「――失礼」
入口の方から、低く落ち着いた声がした。壊れかけた扉の向こう。逆光の中に、男が立っている。簡素な外套に身を包み、腰には剣。無駄のない体躯と、まっすぐすぎるほどの立ち姿。
「ローエンと申します」
男は一歩だけ中へ入り、静かに頭を下げた。
「……ヘスティア・ファミリアの冒険者、ベル・クラネルの師にあたる者です」
ヘスティアは、はっと息を呑む。
(ベル君が……言ってた……)
訓練の話をするとき、少し誇らしげに口にしていた名前。剣の癖を直されたこと。何度も転ばされたこと。そして――それでも、楽しいと言っていたこと。
「クエストを見させていただきました」
ローエンは、そう前置きしてから、簡潔に言った。
「現在も帰還していない冒険者達がいると」
その視線は、ヘスティアへ向けられる。
「……お願いだ」
ヘスティアは、ほとんど考える間もなく言っていた。声は、少しだけ震える。だが、はっきりと。ローエンは、わずかに頷く。
「弟子が危険であるなら、できるかぎりのことはする」
その言葉を、初めて聞くように。ヘルメスが、男の横顔を興味深そうに眺めていた。口元に、探るような笑み。
「……へえ。君が、あの<リトル・ルーキー>の“師匠”かい」
初対面の距離で。値踏みでもなく、探りでもなく。純粋な好奇心だけを乗せた声。
「中層だぞ?」
ローエンは、ようやくヘルメスの方を見た。ほんの一瞬、視線が重なる。どこか、温度の違う二つの目。
「……自分の身を守るだけなら、問題ない」
謙遜めいた声音。だが、その直後。ミアハの表情が、わずかに緩む。ヘファイストスの視線が、静かに細くなる。ナァーザが、小さく息を吸う。――空気が、張った。ヘルメスは、楽しそうに片眉を上げた。
「はは。ずいぶん、頼もしい助っ人が来たものだ」
それは、歓迎の言葉であると同時に。この男が、ただ者ではないと認めた、最初の一言だった。“守るだけ”という一言の裏にあるものを。この男は。中層を、“危険だから行かない場所”として語っていない。“条件が合えば踏み込める場所”として、淡々と捉えている。ヘルメスの視線は、すでにローエンではなく。地下へと続く、見えない迷宮の方角を見ていた。
◇
十八階層へ向かう道は、想像以上に過酷だった。縦穴を見つけるまでに、二度、モンスターの小集団と遭遇した。ベルは、そのたびに剣を振った。だが、もう感覚が違う。腕が重い。視界の端が、黒ずむ。息を吸っても、肺が十分に膨らまない。頭の奥が、じわじわと痺れていく。それでも。ベルは、ヴェルフとリリを、交互に抱え直しながら進んだ。そんな二人は、完全に意識を失っている。マインドダウン。精神疲弊による昏倒。ベルは、奥歯を噛み締める。もう、頼れない。自分一人で、二人を連れて行かなければならない。
「……大丈夫……」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からない。ただ、そう言わずにはいられなかった。ベルは、歪む視界を押さえ込みながら、歩き続けた。やがて。通路は、異様に広い空間へと繋がった。天井が高い。壁が、遠い。空気が――重い。そして。
「……ここが……嘆きの……大壁……」
ベルの唇が、かすかに動いた。十七階層。階層主の間。誰もが知っている、悪名高い広間。ここで、どれほど多くの冒険者が命を落としてきたのか。考えるだけで、背中が寒くなる。だが。止まる理由は、なかった。ベルは、十八階層へと続く通路を探し、視線を走らせる。――あった。崖のように傾斜した通路。十八階層への通路。だが、その瞬間。空間そのものが、震えた。
……ドン。
……ドン……ドン……。
重い振動が、床から伝わってくる。ベルの全身が、硬直した。壁が、盛り上がる。岩盤が、内側から押し出される。
「……まさか……」
鈍い破砕音。壁が、砕け散った。現れたのは――巨人。ゴライアス。
「……っ……!!」
息が、止まる。思考が、吹き飛ぶ。ただ。体だけが、動いた。ベルは、二人を抱え直し、全力で走った。視界の端で、巨大な腕が振り上がる。空気が、裂ける音。――来る。背中が、凍り付く。――もう、無理だ。そう思った、その瞬間。ゴライアスの動きが――止まった。
「……?」
違和感。だが、振り返る余裕はない。ベルは、通路へ飛び込んだ。足を踏み外し、坂を転げ落ちる。体が、何度も岩に打ち付けられる。だが、その一瞬。視界の端に映った。ゴライアスの巨体に――黒い触手のようなものが、絡みついているのを。次の瞬間。光。眩しさ。そして――柔らかい感触。草。風。開けた天井。ベルは、倒れ伏した。霞む視界の中。人影が、こちらへ駆け寄ってくる。
「……なかまを……たすけて……ください……」
それだけ言って。ベルの意識は、完全に途切れた。
◇
十七階層。ゴライアスの死体は、無残に砕け散っていた。巨体は引き裂かれ、分厚い胴は裂け、頭部は、もはや原形を留めていない。そこに――ヘルハウンドがいた。崩れた死骸の中心で、巨大な魔石を、ゆっくりと咀嚼している。ごり、と。骨を噛み砕くような鈍い音が、静まり返った階層に、不気味に響いた。呼吸は、満足そうに整っている。やがて魔石が、完全に消え去る。次の瞬間、ゴライアスの巨体は、霧が散るように崩れ落ちた。ヘルハウンドは、その光景に何の感慨も示さず、ゆっくりと顔を上げた。金色の瞳が、暗闇の中で細く光る。視線の先は――ベルたちが進んだ先ではない。その、反対側。より深く、濃い闇が口を開ける方角。まるで。最初から、こちらへ向かうことが決められていたかのように。ヘルハウンドの輪郭は、影に溶けるように薄れていき――音もなく。静かに、その姿を消した。