ダンジョンに生まれた私は、英雄の魂を育てて喰らう 作:ヨーヨーヨー
天幕の中は、焚き火の残り香と、湿った土の匂いが混ざり合っていた。簡易的に張られた布一枚の隔たりの向こうに、迷宮のざわめきがあるとは思えないほど、ここだけが妙に閉ざされた空間に感じられる。焚き火の熾きが、ぱちり、と小さく弾けた。その音だけが、張り詰めた空気の中で、やけに大きく響いた。ベル、リリ、ヴェルフ。そして捜索隊の面々――ヘスティア、ヘルメス、アスフィ、桜花、千草、命。全員が、同じ天幕の中に集まっていた。誰もが、どこか落ち着かない視線を漂わせている。誰かと目が合いそうになれば、すぐに逸らしてしまう。――無事だったからこそ、言葉にしなければならない空気。沈黙を破ったのは、命だった。
「……ベル殿、リリ殿、ヴェルフ殿」
声が、震えている。
「此度の件……怪物進呈により、皆を危地へ追い込んだこと……」
一瞬、言葉を詰まらせ――
「誠に、申し訳ありませんでした!!」
そう叫ぶように言い切ると、命は床に膝をつき、そのまま額を地面へと叩きつけた。 土下座だった。
「ちょ、ちょっと命……!」
千草が慌てて止めようとするが、命は顔を上げない。
「私が……私が止めるべきでした……。桜花殿の判断に従うだけでなく、もっと……もっと考えるべきだったのです……!」
千草も、深く頭を下げる。
「……ごめんなさい。私たちの判断が、三人を――」
千草の声は、途中からかすれていた。謝罪の言葉を並べながら、どこかで自分自身を責める声にも聞こえる。だが。その言葉を、リリが遮った。
「……そんな簡単に、済ませられる話じゃないです」
リリの拳は、小さく震えていた。怒りだけではない。思い出してしまった恐怖と、失いかけた現実の重さが、そこに混ざっている。
「ベル様が……死ぬかもしれなかったんです」
その一言に、ヘスティアの肩が、ぴくりと揺れた。俯いたまま、ぎゅっと胸元の紐を握り締める。――何も言えない。言葉を挟めば、もっと壊れてしまいそうで。ヴェルフの言葉が続く。
「俺たちは、お前らに切り捨てられたんだ」
吐き捨てるような声の裏に、かすかな震えが混じっていることに、ベルだけが気づいていた。天幕の空気が、凍りつく。 千草は唇を噛み、命は床に額を押し付けたまま動かない。桜花が前に出た、その瞬間。
「……判断を下したのは、俺だ」
千草の視線が、思わず彼の背中に縫い止められる。止めたい。だが、止められない。この場に立つ責任が、誰のものなのか――全員が、分かってしまっているからだ。
「責めるなら、俺を責めろ。……だが……間違った判断だったとは、思っていない」
「――っふざけんなよ!!」
その言葉は、強くもなく、弱くもない。ただ、揺らがなかった。だからこそ。ヴェルフの怒声が、天幕の壁を震わせた。
「ベル様が……ベル様が、あそこで死んでいたら……!」
声が裏返る。
「それでも、同じことが言えましたか!!」
リリの叫びに、ヘスティアは思わず口元を押さえる。もしも。ほんの少しでも、状況が違っていたら。ベルは、ここにいなかったかもしれない。その想像が、胸の奥で、冷たい棘のように刺さっていた。ベルは、俯いたまま、ぎゅっと自分の胸元を掴んでいた。布越しに伝わる心臓の鼓動が、やけに大きく感じられる。怖かった。死ぬことが、ではない。誰かの判断の結果として、自分が切り捨てられる側になる可能性が、確かに存在していたという事実が。そして――もしも。もしも、自分が逆の立場だったなら。ベルは、顔を上げた。
「……僕が……」
小さな声だったが、全員が息を止めた。
「僕が……桜花さんの立場だったら……きっと、同じことをしたと思います」
リリが、はっとベルを見る。ヴェルフも、言葉を失う。
「仲間を……助けるためなら……」
ベルは、必死に言葉を探すように続ける。
「誰かを、犠牲にする選択を……してしまうかもしれません」
「……それが、正しいとは思いません。でも……」
言葉にした瞬間、自分の中の何かが、静かに崩れた気がした。綺麗な答えではない。英雄みたいな言葉でもない。ただの、弱くて、身勝手な本音だった。
「桜花さんの気持ちは……わかります」
その一言で。桜花の瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。誰にも気づかれないほど、わずかに。沈黙が落ちる。リリは唇を噛み、やがて小さく息を吐いた。
「……ベル様が、そうおっしゃるなら」
視線を伏せたまま言う。ヴェルフも、頭を掻きながら吐き出すように言った。
「……割り切ってはやる。だがな、納得はしてねぇ」
それだけだった。だが。桜花は、ほんのわずかに目を細める。
「……それで、十分だ」
桜花の声には、かすかな安堵が混じっていた。それは赦しではない。だが、拒絶でもない。命は、顔を上げた瞬間、堪えていた涙が、ぽろりと零れ落ちた。誰にも見せないつもりだったはずの涙だった。話が、一段落したところで。ヘルメスが、ぱん、と手を叩いた。
「じゃあじゃあ、重い話はこの辺にして――」
「今後の予定について、話そうか」
アスフィが、すぐに引き継ぐ。ベルは、必死に耳を傾けながらも、膝の上で、無意識に指を絡めていた。さっきの話は終わった。だが、心の奥では、まだ何も終わっていない。その頃――天幕の外。ローエンは、布越しに聞こえてくる声を、ただ黙って聞いていた。怒号が聞こえた瞬間も。ベルの声が響いた時も。彼の表情は、ほとんど動かなかった。だが。
『……同じことをしたと思います』
その言葉だけが、胸の奥に、わずかに引っかかった。彼は、ふっと踵を返す。音もなく、天幕から離れ。そのまま、森の奥へと、溶け込むように消えていく。――その後ろ姿を。偶然、見てしまった者がいた。アイズだった。補給のために天幕の外へ出た、その瞬間。 すっと遠ざかる、見慣れた背中。
「……ローエン?」
無意識に、小さく呟いていた。その背中は、いつもより少しだけ、遠く見えた。
◇
小高い丘の上。淡く透き通る水晶の光が、草の一本一本に淡い影を落としていた。遠くから聞こえる水音と、結晶が擦れるような微かな反響だけが、この場所の静けさを支配している。ローエンは、丘の縁に立ったまま、アンダー・リゾートの全景を見下ろしていた。――静かすぎるほど、整った世界。その背後。ほんのわずかに、空気が揺れる。
「……アイズか」
振り返らずに告げる。間を置いて、かすかな足音。
「……やっぱり、気づいてた」
アイズの声だった。ローエンが振り返ると、数歩後ろに立つ彼女の姿があった。いつも通り無表情に近いはずの顔が、どこか落ち着かない。
「どうした」
「ローエンが……天幕のところから、いなくなってたから」
言葉を選ぶように、一度視線を落とし、それから小さく続ける。
「……ベルの、捜索隊に付いてきてたでしょ」
ほんの少し、語尾が弱くなる。
「ああ」
短く答えた瞬間。アイズの肩が、わずかに下がった。
「ベルのこと……気に入ってるの?」
自分でも驚くほど、自然に口から出ていた。問いかけた直後、ほんの一瞬だけ、しまった、というように視線が泳ぐ。ローエンは、すぐには答えなかった。ベルの姿が、頭をよぎる。命懸けの場で、なお真っ直ぐに人を見る目。恐怖の中でも、誰かの選択を理解しようとする声。
「……依頼を受けただけだ」
ローエンは静かに言う。
「……そっか」
小さな声。アイズは、ほっとしたようにも、少しだけ残念そうにも見える曖昧な表情を浮かべた。そして。ほんの一瞬だけ、頬がわずかに膨らむ。ローエンは、その変化を見逃さなかった。
(……今のは)
なぜか胸の奥に、微かな引っ掛かりが残る。ベルに対して感じた、あの小さな違和感と、よく似た感覚。二人の間に、短い沈黙が落ちる。水晶の光が、二人の影を、ゆっくりと揺らしていた。やがて、アイズが意を決したように口を開く。
「……じゃあ」
一拍。
「依頼すれば……私たちの遠征にも、付いてきてくれる?」
言い終えた瞬間、すぐに視線を逸らす。頬が、ほんのり赤い。ローエンは、わずかに目を見開いた。そして――アイズの方を見る。この距離で見ると、彼女の表情の揺れが、はっきり分かってしまう。ローエンは、ほんの短い間、考え込むように黙り込み、
「……気が向いたらな」
小さく微笑んで、そう返した。アイズは一瞬きょとんとした後、
「……うん」
静かに頷く。
「……なら、期待するね」
その声には、ほんの僅かな温度があった。アイズ自身、その理由は分からなかったが――この丘の上で、こうして並んで立っている時間が、少しだけ、心地よいと思ってしまった。
◇
十八階層は、いつの間にか夜の帳をほどき、静かな朝へと姿を変えていた。水晶の天蓋を満たしていた深い蒼は、ゆっくりと薄まり、代わりに、淡く白い光が世界の輪郭を浮かび上がらせていく。夜のあいだ、静まり返っていた水路は、再びかすかなせせらぎを取り戻し、結晶の柱に反射した光が、地面に柔らかな模様を落としたころ、ロキ・ファミリアが、十七階層の階層主討伐に向けて動き出すのに合わせ、ベルたちも地上へ帰還することが決まった。目的は、十七階層の階層主――ゴライアスを討伐してもらうため。討伐後、改めて安全を確認し、ベルたちも地上へ戻る。そのための待機期間が、1日。
十八階層にある冒険者の街、リヴィラは、思った以上に賑やかだった。水路の上を渡る橋。並ぶ商店。冒険者と客の入り混じる声。久しぶりに、命の危険から切り離された空気。リリは露店を見て回り、ヴェルフは武具店の前から動かず、ベルもまた、街の風景を目に焼き付けるように歩いていた。だが。ローエンは、その輪の中にいなかった。森の中を、一人で歩いていた。昨晩の言葉が、どうしても頭から離れない。
――気が向いたらな。
自分の口から出るはずのない言葉だった。命令でも、合理でもない。未来を、曖昧に許す言葉。
(……理解できないな)
木々の間を抜ける風に、銀色の葉が揺れる。やがて、視界が開けた。そこには――無数の武器が、地面に突き立てられていた。剣。槍。折れた刃。刃こぼれした短剣。どれもが、使い尽くされた形をしている。整然とはしていない。だが、乱雑でもない。まるで。誰かが、ここに眠らせたかのような配置だった。ローエンは、無意識に足を止める。
(……墓、か)
そう理解するまで、ほんの一瞬の間があった。しばらく、その場から動かなかった。すると、背後から気配が近づく。リューとベルだった。リューは、足を止めた瞬間、はっきりと驚いた顔をした。
――気配を、まるで感じなかった。
ベルが、小さく首を傾げる。
「ローエンさん……どうしたんですか?」
「…森を散策していただけだ」
ローエンは、静かにそう答える。リューは、武器の群れに視線を向け、ほんの短い沈黙の後、頷いた。
「……そうですか」
そして、ゆっくりと前へ進む。
「ここは……」
ひとつの剣の前で、足を止める。
「私が、かつて所属していたファミリアの……仲間たちの眠る場所です」
ベルの胸が、きゅっと締まった。
「私は……定期的に、ここへ花を手向けに来ています」
風が、刃と刃の間を抜けて、低い音を立てる。リューは、淡々と語った。かつての仲間。
壊された日常。そして、選んだ復讐。
「……私は、ギルドのブラックリストに載っています」
声は静かだった。
「恥知らずで、横暴なエルフ……」
視線を伏せる。
「クラネルさんや……ローエン殿の信用を裏切るほどの、存在です」
その言葉を聞いた瞬間。
「……やめてください」
ベルの声が、強く響いた。思わず、リューが顔を上げる。
「そんな言い方……しないでください」
ベルの拳は、ぎゅっと握られていた。
「リューさんは……たくさんの人を、守ってきたじゃないです」
真っ直ぐに。
「過去がどうであっても……今のリューさんまで、否定する必要はないです」
ローエンも、静かに口を開いた。
「……同感だ」
短い言葉だったが、そこには、はっきりとした意志があった。リューは、二人を見比べるように見つめ、やがて、わずかに微笑む。
「……やはり」
「あなた方は……尊敬に値するヒューマンですね」
ベルは、照れたように小さく笑った。その隣で。ローエンは、自分の胸の奥に生まれた感覚を、はっきりと自覚していた。安堵。共感。誰かを肯定する言葉が、正しいと感じてしまう心。
(……俺は、本来)
理解する側ではなかった。感じる側でもなかった。それでも。ベルの横顔を見ていると、この感情が“異常”ではなく、“変化”なのだと分かってしまう。ローエンは、その事実に、静かに驚いていた。
◇
その夜。リヴィラの外れにある、灯りの弱い酒場。湿った木の床に、酒と汗の匂いが染みついている。奥の卓で、モルドは、空になったジョッキを乱暴に机へ叩きつけた。
「……ちくしょう……」
赤く充血した目で、虚空を睨む。向かいには、同じように酔い潰れかけた仲間が二人。誰もが、まともに料理へ手を伸ばしていない。あるのは酒だけだ。
「くそ!……あのガキ!どんな手品使ってここまで来やがった!!」
モルドが、テーブルに乗った皿を払いのけながら叫ぶ。
「十七階層だぞ? あんなガキが、……おかしいだろ」
仲間の一人が、苦笑混じりに相槌を打つ。
「しかもよ……」
モルドは、ジョッキを持ち上げ、ぐいっと煽る。喉を鳴らし、荒く息を吐いた。
「ロキ・ファミリアの連中と、普通に並んで歩いてやがる」
第一級冒険者たち。英雄と呼ばれる連中。その輪の中に、ベルがいる。それが、どうしても、気に食わなかった。
「俺たちは……何年、迷宮に潜ってると思ってんだよ」
ぽつりと零れた声は、怒りよりも先に、ひどく擦り切れていた。才能。運。神の寵愛。誰もが口にする言葉が、胸の奥をひっかく。
「運だけで……」
「顔だけで……」
「期待だけで……」
言葉は、次第に荒れていく。だが本当は、分かっている。ベル・クラネルが、ただの幸運児ではないことを。だからこそ。余計に、許せなかった。
「……英雄だって?」
モルドは、歪んだ笑みを浮かべる。
「笑わせるなよ……」
その時だった。
「――ふふ」
不意に、背後から柔らかな声が落ちてきた。三人とも、びくりと肩を震わせる。いつの間にか、卓の横に立っていた男。神――ヘルメスだった。
「随分と、景気の悪い飲み方をしているね」
軽い調子で言いながら、空いている椅子に腰を下ろす。まるで、最初からそこにいたかのように。
「……なんだよ、あんた」
モルドは、警戒と苛立ちを滲ませて睨む。
「俺たちに、何の用だ」
「いやいや、ただの世間話さ」
ヘルメスは肩をすくめる。
「君たちの話が、ちょっと耳に入ってね」
視線が、わざとらしくジョッキに落ちる。
「白兎くんの話」
モルドの指が、ぴくりと動いた。
「……ああ」
吐き捨てるように言う。
「最近、どこ行ってもあいつの話だ」
「分かるとも」
ヘルメスは、くすりと笑った。
「英雄候補、次代を担う逸材、神々の期待の星……」
指を折りながら並べていく。そのどれもが、甘ったるく響いた。
「でもさ」
「本当に――そこまでの器なのかな?」
ふっと、声の調子が変わる。モルドの目が、わずかに見開かれた。
「……あ?」
ヘルメスは、頬杖をついたまま、楽しそうに言う。
「運と奇跡だけで、英雄になれるなら――この街は、今頃英雄だらけだ」
「……言われてみりゃ、そうだな」
仲間の一人が、思わず喉を鳴らす。ヘルメスは、そこを逃さなかった。
「君たちはさ」
穏やかな声で、だが確実に踏み込む。
「ずっと迷宮に潜って、命を張って、積み重ねてきたんだろう?」
「それなのに――」
視線が、モルドに向けられる。
「後から来た少年が、あっという間に“特別”扱いされる」
一拍。
「……悔しくないかい?」
モルドの胸の奥で、何かが軋んだ。悔しい。それは、否定しようのない本音だった。
「俺はね」
ヘルメスは、声を落とす。
「彼が本当に“次の英雄”に足る存在なのか、知りたいだけなんだ」
仲間が、不安そうに顔を見合わせる。
「神様が、直接確かめないんですか?」
「神が見ている景色と」
ヘルメスは、意味深に微笑む。
「冒険者が見る現実は、少し違うこともある」
そして、さりげなく、核心に触れる。
「もし、ほんの少し試してみて――」
「その程度で折れるなら」
目が、細められた。
「英雄なんて、最初から名乗る資格はないだろう?」
静かだった。酒場のざわめきが、ひどく遠く感じられる。モルドの中で、何度も押し殺してきた感情が、ゆっくりと形を持つ。試すだけだ。確かめるだけだ。潰すつもりなんて、ない。――そう、自分に言い聞かせる。
「……つまり」
モルドは、低く言った。
「俺たちで……あのガキが、本物かどうか見てやれってことか」
ヘルメスは、何も言わない。ただ、楽しげに微笑んだ。それが、答えだった。
「……ちっ」
モルドは、ジョッキを掴み直す。
「……くだらねぇ」
そう言いながらも。その目は、もう、さっきまでとは違っていた。羨望でも、愚痴でもない。確かめたい、という衝動。それが、胸の奥で、静かに燃え始めていた。――そのやり取りを。酒場の外。崩れた壁の影に溶けるように立つ、ひとつの影が見ていた。人の気配を、完全に殺したまま。窓越しに、揺れるランプの光と、三人の顔を正確に捉えている。赤い双眸が、一瞬だけ、細く光った。モルドでも。ヘルメスでもない。その視線が向いている先は――まだ、ここにはいない。白兎。ベル・クラネルだった。