ダンジョンに生まれた私は、英雄の魂を育てて喰らう   作:ヨーヨーヨー

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15話 黒き産声

水晶の天蓋が、朝の光を受けて淡く輝いていた。天井に広がる無数の結晶が、まるで空そのもののように反射し、十八階層《迷宮の楽園》の広場を、柔らかな白と蒼の光で満たしている。水のせせらぎと、装備が触れ合う乾いた音。緊張と高揚が混ざった、独特の空気。広場には、すでに出発準備を終えたロキ・ファミリアの冒険者たちが集結していた。先発隊。――十七階層、階層主“ゴライアス”討伐部隊。誰もが軽口を叩きながらも、その背中には、第一級冒険者としての圧が宿っている。ベルは、その輪の少し外れた場所で、アイズと向かい合っていた。周囲の喧騒が、まるで遠ざかっているかのようだった。

 

「……もう、出発ですか?」

 

ベルの問いは、ほんのわずかに、間が空いてしまった。

 

「うん。先に行って、道を確保する」

 

いつもと変わらない、静かで淡々とした声。けれど、今のベルには、その一言が、胸の奥に小さく沈み込むように重く響いた。

 

(……アイズさんたちは、もう“前線”なんだ)

 

自分は、まだ――守られる側に近い。そんな思いが、無意識に浮かんでしまう。

 

「……気を付けてくださいね、アイズさん」

 

言葉にした瞬間、自分でも少し幼い言い方だと思った。アイズは、ほんの一瞬だけ目を瞬かせてから、

 

「ベルも」

 

短く返す。それから、ほんのわずかな沈黙。周囲の音が、一拍ぶんだけ遠のいた気がした。

 

「……無理、しすぎないで」

 

その声は、普段よりも、ほんのわずかだけ柔らかかった。

 

「……え?」

 

ベルは思わず、聞き返しそうになってしまう。

 

「はい……アイズさんも」

 

慌てて返した言葉は、少しだけ裏返った。言いたいことは、きっと互いにもっとある。

けれど、それを言葉にするには、二人ともまだ不器用すぎた。それでも。その場に流れる空気は、不思議なほど穏やかで、静かで――戦場へ向かう直前とは思えないほど、やさしかった。そして。その様子を、少し離れた天幕の中から、じっと見つめている視線があった。

 

「………………」

 

負のオーラ満載の視線でヘスティアは、テントの隙間から二人の姿を睨みつけていた。

 

「……なんなんだい、あの距離」

 

ぼそり、と小さく呟く。胸の奥が、ちくりと痛む。

 

「近くないか?」

 

誰に言うでもなく、胸の前で腕を組む。

 

「ちょっと近くないか?」

 

――三回目である。自分でも、子供じみていると分かっている。分かっているのに。もやもやとした感情は、どうしても消えてくれなかった。

 

(ベル君は、うちの子なのに……)

 

理屈にならない独占欲が、胸の中でぐるぐると渦を巻く。誤魔化すように、ヘスティアは勢いよく立ち上がった。

 

「……ベル君が戻ってくる前に、ちょっと空気吸ってこよ」

 

自分に言い聞かせるように呟いて、天幕の外へ踏み出した――その瞬間だった。

 

「――――っ」

 

背後から、突然、口を塞がれる。

 

「んっ……!?」

 

喉の奥で、悲鳴が潰れた。小さな身体が、強引に引き寄せられ、視界が大きく揺れる。何が起きているのか理解する前に、足が地面から離れた。透明な“何か”に抱え上げられ、そのまま物陰へ引きずり込まれる。

 

「……っ、んーっ!!」

 

必死に暴れるが、神であるはずの身体は、今はただの少女のそれだ。力の差は、あまりにも大きい。耳元で、低い声が囁いた。

 

「……静かにしろ、女神様」

 

ぞくり、と背筋が凍り付く。その拍子に――ちり、と小さな音を立てて、髪飾りがひとつ、地面に落ちた。そして。少し離れた木陰。一匹の猫が、静かにその一部始終を見つめていた。細くした瞳。わずかに揺れる尾。まるで、状況を理解しているかのように。

 

 

アイズたちを見送ったあと、ベルは自分たちの天幕へと戻ってきた。

 

「……あれ?」

 

入口から、中を覗き込む。さっきまで人がいたであろう形跡。無造作に置かれた荷物。だが、そこにあるはずの小さな背中が、どこにも見当たらない。

 

「神様……?」

 

返事はない。胸の奥が、ひくり、と嫌な形で鳴った。ほんの一瞬だけ、嫌な想像が頭をよぎる。

 

(……何処に)

 

その時だった。床の隅に落ちている、小さな紙切れが目に入った。ベルは、しゃがみ込み、それを拾い上げる。――達筆とは言い難い、荒れて歪んだ文字。

 

『一人で来い』

『一本水晶』

『余計なことをすれば――神様はどうなるか分からない』

 

視界が、ぐらりと揺れた。呼吸が、止まる。

 

「……そんな……」

 

指先が、わずかに震える。反射的に、天幕の外を見回した。ヘルメスの姿も、アスフィの姿も、桜花たちの姿も、見えない。まるで、最初から“誰にも見せる気のない場所”へ誘導されているかのようだった。ベルは、紙を強く握り締める。皺が、くしゃりと刻まれた。

 

 

 

 

その頃。林道の少し端。森の中で訓練用の木刀を振っていた桜花は、不意に動きを止めた。風を切る音が、ぴたりと止まる。視界の端を、白い影が横切った。

 

「……?」

 

尋常ではない速度。そして、明らかに焦りを帯びた顔。桜花は、わずかに眉を寄せる。

 

「……何か、あったか」

 

胸騒ぎだけが、はっきりと残る。次の瞬間には、ベルの姿は森の奥へと消えていた。

 

 

 

 

一本水晶。巨大な水晶柱が、空を支える支柱のように屹立する、静かな場所。冷えた空気と、水の匂い。足元から伝わる、ひんやりとした感触。ベルは、ひとりで、その場所に立っていた。心臓の音が、やけに大きく耳に響く。

 

「来たかよ、白兎」

 

前方。水晶の影から、男たちが姿を現す。モルド。そして、見覚えのある冒険者たち。無言のまま、自然と包囲が完成する。

 

「……神様を、返してください」

 

声が震えないよう、必死に抑えた。モルドは、歪んだ笑みを浮かべる。

 

「単刀直入だな。いいぜ、話が早い」

 

ゆっくりと、両手を広げる。

 

「決闘だ」

「……決闘?」

「勝った方が、負け犬に命令できる」

 

軽い口調。だが、視線は、獲物を値踏みするそれだった。

 

「俺が勝ったら――お前の装備も、武器も、服も、全部、身ぐるみ剥がして、無様な姿で帰ってもらう」

 

ベルの全身を、ねっとりとなぞる。空気が、張り詰める。ベルは、一瞬だけ、奥歯を噛み締めた。そして、顔を上げる。

 

「……僕が勝ったら――神様を、返してください」

 

くすくすと、周囲から笑い声が漏れる。だが、モルドだけは笑わなかった。

 

「……いいぜ、だが勘違いするなよ。これはてめぇを嬲り殺す――ショーだ!!」

 

低く、言い切る。次の瞬間。モルドは地面の水晶を、思い切り殴りつけた。

 

ガンッ――!

 

甲高い衝撃音。砕け散る結晶。飛散した欠片が、ベルの視界を一瞬だけ白く塗り潰す。

 

「――っ!?」

 

そして。モルドの姿が、消えた。

 

「……は?」

 

確かに、そこにいた。だが、次の瞬間には、空間だけが残っている。透明化。理解が追いつくより早く――

 

「ぐっ……!!」

 

腹部に、重い衝撃。見えない拳が、ベルを吹き飛ばした。

 

「がはっ……!」

 

地面に転がり、息が詰まる。どこから来たのかも分からない。音も、風も、ほとんど感じない。

 

「ほらよ!英雄様!」

 

嘲る声だけが、四方から響く。背中。肩。頬。見えない打撃が、間断なく叩き込まれる。

 

「……くっ……!」

 

ベルは、歯を食いしばり、必死に立ち上がろうとする。視線を走らせる。気配を探る。だが――敵の姿は、どこにもない。

 

 

 

 

少し離れた岩場の上。木々の影に溶け込むように、数人の影が、その光景を見下ろしていた。

 

「――見事な出来だね」

 

穏やかな声。ヘルメスだった。

 

「戦闘補助用としては、かなり完成度が高い」

 

隣に立つアスフィが、小さくため息をつく。

 

「……まったく、こんな面倒な真似をさせて……ベル・クラネルに、何か恨みでもあるんですか?」

「お節介だよ」

 

即答だった。ベル――彼は、純粋すぎる。正しさを疑わず、疑うことを知らず。

目の前にいる相手が、どんな意図を隠していようと、まず“信じる”という選択肢を差し出してしまう。あの在り方は、美しい。同時に――致命的だ。

 

(あのままじゃ、いつか……)

 

英雄譚の中で語られる少年たちは、いつだって“裏切り”と“喪失”を越えていく。

だが現実は、物語ほど優しくはない。折れた剣は、研ぎ直せる。砕けた骨も、時間があれば繋がる。けれど――心は、そう簡単に戻らない。一度、深く抉られた傷は、癒えたふりをして残り続ける。それが、戦場に立つ者の弱さになり、致命傷になる。

 

「……君も、そう思うのかな」

 

ヘルメスは、ふと横を向いた。いつの間にか。すぐ隣に、ローエンが立っていた。足音すら、気配すら、まったく感じさせずに。ヘルメスは苦笑する。

 

「いやあ、驚いたよ。てっきり、君はベル君を助ける側に回ると思っていた」

 

ローエンは、戦場を見下ろしたまま、静かに口を開いた。

 

「……英雄の道を歩むなら」

 

淡々と。感情を削ぎ落とした、報告のような声で。

 

「今後も、彼は人の悪意に晒され続ける」

 

視界の奥で、少年が殴り飛ばされる。見えない拳。理不尽な角度。逃げ場のない嘲笑。それでも、膝を突き、歯を食いしばり、再び立ち上がる小さな背中。

 

「この程度を、乗り越えられないのなら」

 

一拍。ほんのわずかな沈黙を挟み、

 

「最初から、器ではない」

 

冷酷なほど、正確な結論だった。感情ではなく、計測。希望ではなく、選別。あくまで“可能性”を見極めるための言葉。アスフィが、わずかに表情を曇らせる。視線は戦場に向けたまま、だが、その眉にははっきりとした迷いが滲んでいた。ヘルメスは、軽く肩をすくめる。

 

「……辛辣だね」

 

軽口の形をしていたが、否定の響きはなかった。むしろ、その胸の内では、静かに思っていた。

 

(……同じだよ、ローエン)

 

彼もまた――自分と、同じ側の人間だ。少年を守るために、優しく手を伸ばす側ではない。期待の言葉で包み、未来を保証する側でもない。ベル・クラネルが、本当に――次の時代を担う存在になれるのか。それを、誰よりも冷たく、誰よりも真剣に見極めようとしている側だ。――壊れるか。――踏み越えるか。その分かれ目を、決して目を逸らさずに見届けようとする者。ローエンは、何も言わない。ただ、わずかに拳を握り締めた。自分でも、理由がはっきりしないまま。指先に、微かな力がこもる。透明な悪意の中で立ち続ける少年を、黙って見つめながら。殴られるたびに、小さく揺れる身体。吹き飛ばされるたびに、ほんの少しだけ遅くなる立ち上がり。――それでも。逃げない。背を向けない。

誰かに助けを乞うこともなく、誰かを恨むこともなく。ただ前を見て、立ち続けようとする。

 

(……不合理だな)

 

胸の奥で、そんな言葉が浮かぶ。効率が悪い。合理的ではない。生存戦略としては、明らかに歪だ。本来なら――切り捨てるべき対象だ。それなのに。なぜか、その姿から、視線を外すことができなかった。殴られているのは、ベルだけだ。だが、見ているこちらの胸の奥に、微かな違和感が残り続ける。痛覚でもない。同情でもない。――それは、かつて自分が持ち得なかった感情の、芽のようなものだった。

 

(……人は)

 

人は、こんなふうに。無意味なほどまっすぐで、報われる保証もなくて、それでも前に進もうとする存在なのか。ローエンは、ゆっくりと息を吐く。視線は、まだ戦場に縫い付けられたまま。透明な悪意の中で。殴られ、倒れ、それでも立ち上がる少年の背中を――まるで、そこに答えがあるかのように。

 

 

 

 

ヴェルフたちが動き出したのは、桜花がベルの異変を伝えた、ほんの直後だった。

 

「……嫌な予感がする」

 

 

短い報告。だが、その声には、はっきりとした焦りと、嫌な確信が滲んでいた。桜花がそう呟くよりも早く、ヴェルフは地面を蹴っていた。

 

「考えてる暇はねぇ……!」

 

命と千草も、無言で頷き、すぐさま後に続く。胸の奥で、ざわりとした不安が膨らんでいた。ベルは、無茶をする。それは誰よりも、近くで見てきたヴェルフが知っている。自分の身より、仲間を優先して。危険だと分かっていても、立ち止まれない。一本水晶の入り口が見えた、その時だった。――人影。しかも、複数。ベルを囲うように立ち並ぶ冒険者たち。

 

「ん?……なんだてめぇら?」

 

一人の冒険者がヴェルフ達に気づき、武器を手に向き合う。

 

「……そこを通せ」

 

ヴェルフが低く言う。返事の代わりに、金属が擦れる音が重なった。剣。短剣。斧。一斉に構えられる武器。

 

「あのガキの仲間か」

 

嘲るような声が、周囲から飛んでくる。

 

「悪いな。今は、ちょっと“邪魔”なんだよ」

 

その言い方で、すべてが分かった。偶然でも、成り行きでもない。最初から仕組まれた、下種で――悪意に満ちた企みだと。胸の奥に、冷たいものがすっと落ちる。

 

「……どけ」

 

桜花が、一歩前に出る。鋭く、腹に響く声。だが、冒険者たちは微動だにしない。

――同じだ。ベルを快く思わない者たち。ベルが目立ち始めてから、ずっと水面下で燻っていた妬みと敵意。モルドと、同じ側に立つ連中。

 

「時間がない……!」

 

千草の声が、わずかに裏返る。その瞬間だった。一人が、合図もなく踏み込んだ。

 

「やっちまえ――!」

 

刃が、一直線にヴェルフの喉元へ走る。

 

「くっ……!」

 

咄嗟に剣を抜き、受け止める。火花が散った。だが、それは合図だった。左右、背後、斜め前。一斉に襲い掛かる殺気。

 

「ちっ……囲まれてやがる!」

 

桜花と命が応戦に入る。だが、相手は最初から“時間を奪う”つもりだった。斬り合いではない。殺し合いでもない。――足止めだ。ヴェルフは歯を食いしばり、無理に踏み込む。だが。足元の苔と湿った土。踏み込みの瞬間、わずかに体勢が崩れた。

 

「――しまっ……!」

 

同時に、横合いから打ち払われる。乾いた衝撃。体制が崩れ、宙を舞う、一振りの剣。ヘファイストスから託された、大切な剣。それは、緩やかな弧を描き――崖下の森の奥へと、吸い込まれるように消えた。

 

「……っ、くそ……!」

 

一瞬、胸が締め付けられる。奪われたのは、武器だけじゃない。自分の未熟さを、突き付けられた気がした。

 

「ヴェルフ殿!」

 

命の叫び。だが、視線を向ける余裕すらなかった。さらに一人が、背後から振り下ろす。

 

「――っ!」

 

その時。空気が、変わった。張り付いていた殺気が、一瞬、凍りついた。

 

「――そこまでだ」

 

低く、澄み切った声が、森に落ちる。次の瞬間。乾いた音。冒険者の一人の手首が、木刀で正確に打ち抜かれた。

 

「ぐっ……!?」

 

剣が、地面に転がる。

 

「……何だ、こいつ……!」

 

誰かが呻いた。木立の間から、静かに歩み出る影。風に揺れる淡い金の髪。鋭く、澄んだ瞳。――リュー・リオンだった。無言で、木刀を構える。一切の威圧を見せない。それなのに。踏み込める者が、誰もいない。

 

「致命傷は与えません」

 

淡々と。感情の揺れを感じさせない声。

 

「ですが……そこを通してもらいます」

 

言葉と同時に、身体が動いていた。一歩。間合いに入った瞬間。みね打ち。正確に、肘関節。続けて、膝。重心を崩したところへ、手首。木刀が、吸い付くように急所を打ち抜いていく。骨を砕かない。だが、動けなくなる場所だけを、完璧に狙う。

 

「ぐっ……!」

「う、動かねぇ……!」

 

戦場に、苦悶の声が落ちる。わずか、数秒。それだけで、道は切り開かれていた。リューは、一度も振り返らずに言う。

 

「……助太刀します」

 

背中が、すべてを物語っていた。ヴェルフは、歯を食いしばる。胸の奥に、熱いものが込み上げるのを、無理やり押し殺して、深く頷いた。

 

「……すまない」

 

その言葉に、リューは答えない。ただ、再び木刀を構え、残った冒険者たちへと、静かに視線を向けた。まるで――ここが、自分の戦場だと告げるかのように。

 

 

 

 

一方、その頃――湿った土と、苔の匂いが濃く漂う森の奥。ヘスティアは、太い木の幹に背中を押し付けられる形で、ぐるぐると縄で縛り付けられていた。粗雑に結ばれた縄は、細い腕と胴に食い込み、少し身じろぎするだけで、ひりつくような痛みが走る。

 

「……ちょっと! ねえ! 聞いてるの!?」

 

必死に身体をよじりながら、声を張り上げる。

 

「こんなことして……ただで済むと思ってるのかい!?」

 

怒鳴り声の裏に、かすかな震えが混じる。だが、見張りに立っている冒険者は、二人だけ。どちらも、ヘスティアには目も向けず、剣の柄に肘を乗せながら、森の奥――一本水晶の方角をちらちらと窺っていた。

 

「なあ……そろそろじゃねぇか?」

 

一人が、にやついた声で言う。

 

「だよな。今頃、ちょうど盛り上がってる頃だろ」

 

下卑た笑い。決闘。白兎。そんな単語が、酒場の噂話のように軽く口にされる。その会話だけで、何が起きているのか、嫌というほど伝わってきた。

 

「ちょっと待って! まさか……僕を置いてく気なの!?」

 

ヘスティアは、思わず声を張り上げた。

 

「見張りはどうするのさ!? 仕事でしょ!?」

 

必死の抗議。だが、二人は顔を見合わせると、肩をすくめただけだった。

 

「縛ってあるし、逃げられねぇだろ」

「神様だって言っても、今はただの小娘だ」

 

そう吐き捨てるように言って、背を向ける。

 

「おい、早く行こうぜ。いいところ見逃したら損だ」

「だな」

 

足音が、遠ざかっていく。木の葉を踏みしめる音が、次第に薄れ、やがて森に溶けた。

 

「……ちょ、ちょっと……!」

 

声を張っても、もう返事はない。取り残されたことを、はっきりと理解した瞬間。

 

「……うそ……でしょ……」

 

喉の奥が、きゅっと詰まる。縛られた手に、無意識に力を込めるが、縄はびくともしない。――怖い。神様であるはずの自分が。こんなにも、無力で、ちっぽけだという現実。

 

「……ベル君……」

 

思わず、名前が零れた。胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。あの子が、今まさに、誰かの悪意の中に放り込まれていることを――分かっているから。その時だった。かさ、と。草を踏む、ごく小さな音。

 

「……?」

 

耳を澄ます。風の音とは違う。人の足音とも違う。生き物の、軽い歩み。茂みの奥が、わずかに揺れた。そして。ゆっくりと、小さな影が姿を現す。――猫だった。薄い灰色の毛並み。大きな瞳。不思議なほど、警戒心のない足取りで、ヘスティアの前まで歩いてくる。

 

「……え?」

 

思わず、声が漏れた。だが、次の瞬間。その口に咥えられているものを見て、目を見開く。

 

「……僕の……髪飾り?」

 

小さなリボンのついた、見慣れた飾り。さっき、攫われた拍子に落とした――あれが、なぜ、この猫の口に?猫は、じっとヘスティアを見つめると、ぽとりと足元に髪飾りを落とした。そして。一度だけ、尻尾をゆらりと揺らす。まるで、――ここにいる、と誰かに伝えるために来たかのように。

 

 

 

 

同じ頃。リリは、息を切らしながら森の中を駆けていた。足元は悪く、根に躓きそうになりながら、それでも止まらない。

 

「……ヘスティア様……ヘスティア様……!」

 

何度も、小さく名前を呼ぶ。胸の奥に広がる、嫌な予感。あの紙切れ。ベルの様子。すべてが、最悪の形で繋がりつつある。その時だった。不意に、開けた小道の真ん中に。ぽつん、と。一匹の猫が座っていた。

 

「……え?」

 

ダンジョンの中で、猫。それだけで、十分すぎるほど異様だった。警戒心もなく、逃げもしない。ただ、じっとこちらを見ている。だが。リリの足が止まったのは、そのせいではない。猫の口元に、揺れているもの。小さな、見覚えのある飾り。

 

「……ヘスティア様の……」

 

息を呑む。間違えようがなかった。ヘスティアが、いつも身につけている髪飾り。猫は、リリの視線に気づいたかのように、ふいと顔を背ける。そして、何事もなかったかのように、歩き出した。

 

「……ま、待ってください!」

 

思わず声が出た。半信半疑。それでも、身体は自然と動いていた。導かれるように、猫の後を追う。木々の間を縫い、少し奥へ。見覚えのない細い道を抜けた先。そこで――リリは、見つけてしまった。太い木に縛り付けられた、小さな女神の姿を。

 

「……ヘスティア様!!」

 

叫びながら、駆け寄る。

 

「リリ君!? リリ君なのかい!?」

 

顔を上げたヘスティアの目が、ぱっと見開かれる。声が、震えていた。リリは、慌ててナイフを抜き、縄を切り裂く。ぱさり、と音を立てて、縄が地面に落ちる。

 

「よかったです……本当に……」

 

思わず、力が抜ける。膝が震えるのを、必死にこらえながら。

 

「助かったよ、リリ君……!」

 

ヘスティアは、解放された腕を抱きしめるようにして、震える声で言った。その時。ふと、リリは周囲を見回す。

 

「……あれ?」

 

ヘスティアも、はっとしたように顔を上げる。

 

「さっきの猫は?」

 

確かに。ここまで、案内してくれたはずだった。だが。木立の間にも、茂みの奥にも。もう、猫の姿はどこにもない。足元に、静かに置かれているのは――あの、髪飾りだけだった。

 

「……消えた?」

 

リリも、首を傾げる。だが。不思議に思っている余裕は、なかった。リリは、きゅっと拳を握りしめる。

 

「ベル様が……危ないです!」

 

その一言で。空気が、凍りついた。

 

「……!」

 

ヘスティアの表情が、はっきりと強張る。迷いは、一瞬もなかった。

 

「……行こう、リリ君!」

「はい!」

 

二人は顔を見合わせ、同時に走り出した。まだ、森の奥で続いている――あの、下衆で、悪意に満ちた決闘の場所へ。

 

 

 

 

見えない敵。だが――ベルの身体は、確実に“変わり始めていた”。肌に張り付くような湿った空気。砕けた水晶の粉が、靴底の下でじゃり、と微かな音を立てる。呼吸が荒い。

肺が焼けるように痛い。それでも、ベルは目を閉じなかった。

 

(……来る)

 

根拠はない。視界にも、音にも、何の兆候もない。だが。殴られる――ほんの刹那前。空気が、ほんのわずかに撓んだ。肌を撫でる気流が、一瞬だけ、逆向きに流れる。それと同時に。背中の奥に、針を突き立てられたような感覚。――“見られている”。ローエンとの、終わりのない訓練。視界を塞がれ、武器を落とされ、音も殺されて、ただ一つ叩き込まれた感覚。殺気ではない。もっと薄く。もっと曖昧で。それでも確かに、そこに存在する――“意識”。ベルは、わずかに左足の位置をずらした。半歩。たったそれだけ。

 

「……っ!」

 

直後。目の前の空間が、叩き潰された。風が爆ぜる。見えない拳が、ベルの頬のすぐ横を掠め、背後の水晶柱に衝撃を叩き込んだ。びり、と空気が震える。

 

「……当たらない!?」

 

誰かの声が、ひび割れたように響いた。ベルは着地の衝撃を殺しながら、膝をわずかに沈める。鼓動が、耳の奥で暴れている。――一発目は、避けた。だが、終わりではない。次の瞬間。視界の端で、砕けた水晶片が、ふわりと浮いた。モルドが、さきほど力任せに叩き壊した、あの柱。床に散った破片が、何かに弾かれたように、宙へ舞う。

 

(……そこだ)

 

ベルの思考が、一点に収束する。風の流れ。破片の跳ね方。空間の“空白”。

 

(……今だ!)

 

床を蹴る。音が、遅れて追いかけてくる。ベルの身体は、弾かれるように空中へ躍り出た。狙うのは、何もないはずの空間。だが、確かに“そこにある”もの。

 

「――はああっ!!」

 

腰を捻り、全身の力を一気に解き放つ。回し蹴り。刃のように鋭い軌道。――鈍い、確かな手応え。肉を打つ感触。

 

「ぐっ!?」

 

くぐもった悲鳴。同時に。がしゃん、と硬質なものが砕け散る音が、甲高く響いた。次の瞬間。空間が、歪む。まるで、透明な膜が引き剥がされるように。揺らめきの中から――モルドの姿が、浮かび上がった。頭部に固定されていたそれは、完全に粉砕され、破片となって地面へ落ちていく。

 

「……っ、ハデス・ヘッドが……!」

 

歪んだ叫び。透明化は、完全に解除された。隠れていた悪意が、白日の下に晒される。ベルは着地と同時に、息を吐いた。膝が、わずかに震える。だが――まだ、終わっていない。その時だった。

 

「ベル君ーーーーっ!!」

 

冒険者集団の奥から、必死な声が突き抜けてくる。聞き間違えるはずもない。

 

「……神様!?」

 

振り向いた瞬間。彼女の身体から。光が、溢れた。淡く、白く、しかし圧倒的な密度を持った光。それは、空気を押し退けるように広がり、森を包み込む。圧迫感。息が詰まる。膝の力が、抜ける。

 

「……っ!?」

 

周囲にいた冒険者の何人かが、反射的に膝を突いた。心臓が、縮み上がる。頭ではなく、身体が理解してしまったのだ。――“神”が、ここにいる。別の冒険者たちは、顔色を失い、歯を鳴らしながら背を向けて走り出した。逃げる、というより、弾き飛ばされるように。ヘスティアは、ゆっくりと歩き出す。剣を構えたまま、硬直している冒険者たちの間を縫うように。小さな身体。だが、その背後にある存在の重みは、誰よりも巨大だった。

 

「……やめるんだ」

 

声は、決して大きくない。だが。森の隅々まで、はっきりと届く。

 

「子供たち」

 

視線が、ひとりひとりを射抜く。

 

「……剣を、引きなさい」

 

拒否という選択肢は、最初から存在しなかった。誰も、動けない。誰も、声を出せない。やがて。重く圧し掛かっていた気配が、潮が引くように、すっと消えていく。神威は、収束した。そして――

 

「ベル君……!」

 

ヘスティアは、堪えていたものが一気に溢れたように、駆け出した。

 

「無事で……無事でよかった……!」

 

小さな腕が、ベルの身体にしがみつく。ベルは、泥と埃と血にまみれたまま、ぎこちなく笑った。

 

「……すみません……」

 

声が、掠れる。

 

「守ってあげられなくて……」

 

ヘスティアは、首をぶんぶんと振る。涙を浮かべたまま。

 

「違うよ……!」

「生きててくれた。それだけでいい……!」

 

ぎゅっと、力いっぱい抱き締めた。

 

――その瞬間だった。

 

ダンジョンが。呻いた。腹の底を直接掻き毟られるような、低く、濁った振動。地の奥から、何か巨大なものが寝返りを打つような感覚。

 

「……な、何が起こっているんですか……?」

 

アスフィが、顔色を失ったまま、か細く呟く。水晶の天井が、きしりと軋む。無数の亀裂が、蜘蛛の巣のように走る。振動は、足元から這い上がり、骨の奥にまで染み込んでくる。ヘルメスは、ゆっくりと天井を見上げた。瞳の奥が、冗談めかした色を失っている。

 

「……ダンジョンはね」

 

低く、噛み締めるように。

 

「こんなところに閉じ込めた、俺たち神々を……憎んでいるのさ」

 

ヘルメスは、その振動を、足裏ではなく――魂の奥で感じ取っていた。地鳴りは、ただの崩落ではない。ただの階層崩壊でもない。それは、はっきりとした“意思”を伴った揺れだった。ダンジョンそのものが、自分たち神々に向けて、牙を剥いたのだと。背筋を、冷たいものがなぞる。軽口も、余裕めいた笑みも、喉の奥で凍りつく。

 

(……まずいな)

 

頭では、何が起きるのか、すでに理解していた。この規模。このタイミング。この、異様な圧迫感。それは単なる強敵の出現では終わらない。多くの冒険者が。まだ何も知らないまま、巻き込まれる。逃げ場のない場所で。理不尽な暴力によって。命が、あまりにも簡単に、削り取られていく。――そういう種類の“始まり”だ。そして。誰にも聞こえないほど小さく呟く。

 

「……祈祷はどうした、ウラノス。……こんな話は、聞いていないよ」

 

ヘルメスは、ゆっくりと息を吸い込み、無意識のうちに指先へ力を込めた。笑うための神ではなく。見届けるための神として。これから起こるであろう惨劇に、彼は静かに、身構えるのだった。そんな中、ローエンは、はっきりと感じ取っていた。ヘスティアが、神威を解放した、その瞬間。胸の奥を、槍で貫かれたような感覚。皮膚の内側を、冷たい何かが走る。

 

「……っ」

 

初めて。明確な動揺が、彼の表情に浮かんだ。呼吸が、一瞬だけ止まる。空気が、歪む。世界が、音を立てて軋んでいく。ローエンは、無意識のまま、一歩、前へ出ていた。

 

「……来る」

 

誰に向けた言葉でもない。祈りでもない。ただの、本音だった。次の瞬間。天井を支えていた巨大な水晶が、轟音とともに、崩壊した。光の雨。砕け散る結晶。白い閃光の中から。漆黒の影が、ゆっくりと姿を現す。まるで、地の底から引き摺り出されるように。――階層主。異常に膨れ上がった巨体。黒く濁った皮膚。歪に隆起した筋肉。裂けた口から覗く歯列。漆黒のゴライアスが。十八階層に。忌まわしい産声を、轟かせた。

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