ダンジョンに生まれた私は、英雄の魂を育てて喰らう   作:ヨーヨーヨー

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16話 眷属の物語

十八階層――アンダー・リゾート。楽園と呼ばれたこの階層は、今やその名を嘲笑うかのような地獄へと変貌していた。砕け散った水晶の残骸が宙を舞い、白く輝くはずの結晶の森は、黒煙と血臭に塗り潰されている。悲鳴と怒号、金属が砕ける音、魔法の炸裂音が、無秩序に重なり合っていた。漆黒のゴライアス、その巨体が一歩踏み出すたび、地面が沈み、空気が悲鳴を上げる。背丈は通常の階層主とは比較にならないほど膨れ上がり、隆起した筋肉と歪な骨格が、異様な存在感を放っていた。そして――ゴライアスの周囲には、同時に湧き出した複数のモンスターの群れ。リヴィラの冒険者たちは必死に迎撃線を張っていたが、戦線はすでに各所で崩れかけていた。最大の原因は、明白だった。ゴライアスの再生能力。斬られ、砕かれ、焼かれた肉体が、まるで時間を巻き戻すかのように盛り上がり、蠢き、元へ戻っていく。傷を負わせても、次の瞬間には無意味になる。絶望が、戦場を静かに侵食していた。――化け物だ。誰もが、口には出さず、同じ言葉を胸に浮かべていた。そんな地獄の中央で、三つの影が、巨大な黒に正面から立ち向かっていた。リュー・リオン、アスフィ・アル・アンドロメダ、そして――ベル・クラネル。リューは、疾風のように駆ける。薙ぎ払われる巨大な腕の下を滑り込み、結晶の地面を蹴って跳躍し、喉元へ斬撃を叩き込む。だが――ガン、と鈍い音が返るだけだった。刃は、皮膚の表面で弾かれ、深く食い込まない。

 

「……っ、この硬さ……!」

 

着地と同時に距離を取るリューの口から、思わず言葉が漏れる。

 

「魔石に、届かない……!」

 

弱点は分かっている。だが、分かっているだけでは意味がない。ゴライアスの体皮は、まるで分厚い城壁のように魔石を覆い隠していた。一方、反対側ではアスフィが、紙一重の回避を繰り返していた。振り下ろされる拳、踏み潰すような踵、そのすべてが、一撃必殺の威力を持つ。地面を転がり、瓦礫を盾にし、跳躍して軌道をずらす。

 

(……いつまで、引き付けていられる……?)

 

喉の奥が、乾く。この巨体を前にして、集中力が切れた瞬間が――死だ。アスフィは、歯を噛み締めながら、わざと目立つ位置へと駆けた。

 

「こっちですよ――っ!」

 

爆発弾を投げつけ、視線を奪い、進行方向を歪める。だが、それもいつまで続くか分からない。そしてゴライアスの正面、ベルは、ただ一人、真正面から対峙していた。立っているだけで、全身が押し潰されそうになる。視界のすべてが、黒で埋まる。巨大な拳が振り下ろされる。

 

(――来る!)

 

反射的に跳ぶ。着地した瞬間、背後の地面が爆ぜ、粉砕された水晶が弾丸のように飛び散った。遅れて、衝撃が体を揺らす。

 

「……っ」

 

歯を食い縛りながら、ベルは剣を構え直す。ゴライアスの動きは速くない。だが、一つ一つの動作が、あまりにも大きい。読み違えれば、それだけで終わる。剣を振るう、斬る、踏み込み斬り上げる。だが――刃は、やはり深く通らない。

 

(……ダメだ……)

 

体格も、火力も、根本的に足りない。分かっている、分かっているのに。それでも、前に立つことをやめられなかった。その時だった、ベルの胸の奥で、奇妙な熱が膨れ上がる。焦燥、恐怖、仲間が削られていく現実、それらすべてが、混ざり合って――

 

(……守らなきゃ)

 

理由は、それだけだった。誰かに言われたわけでもない。自分が、そう思っただけだ。ベルの魔力が、静かに、だが確実に高まり始める。

 

「……ファイアボルト……」

 

小さく、詠唱。だが、今回はすぐには放たなかった。右手に集まる熱が、いつもよりも濃く、重い。内側で、何かが渦を巻くように回転している。――溜めている。無意識だった。だが、その変化を、戦場にいる二人は感じ取った。

 

「……ベル?」

 

リューが一瞬だけ、視線を向ける。アスフィも、空気の変化に気づく。

 

「……来ます……!」

 

二人は、言葉を交わさずとも理解した。ベルが、何かを仕掛けようとしている。だからこそ、さらに一段、危険な位置へと踏み込む。リューは、あえてゴライアスの懐へ飛び込んだ。アスフィは、正面から爆薬を叩き込み、進路を強引に変える。すべては――ベルに、時間を与えるため。だがその瞬間、ゴライアスが、ゆっくりと上体を起こした。胸が膨らみ、裂けた口が、大きく開く。空気が、一気に吸い込まれていく。それを見た瞬間、ベルの背筋を、氷の刃が走った。

 

(――咆哮……!?)

 

直感だった。あれは、ただの威嚇ではない。戦場を吹き飛ばす、破壊の咆哮。

 

「……っ、間に合わない――!」

 

焦りが、集中を切り裂いた。本当は、まだ足りない。本当は、もっと――溜めるべきだった。それでもベルは、叫ぶ。

 

「ファイアボルト――ッ!!」

 

同時。ゴライアスの咆哮が、放たれた。轟音。空間そのものを叩き潰す、黒い衝撃波。ベルの炎が、一直線に飛ぶ。炎と咆哮が、正面から衝突した。圧力と熱がぶつかり合い、周囲の空気が歪む。だが――ベルの魔法は、押し潰されなかった。むしろ炎が、咆哮を喰らい、飲み込み、突き抜ける。次の瞬間、ゴライアスの顔面が、爆散した。黒い肉片と結晶片が、霧のように飛び散る。――静寂、ほんの一瞬だけ、戦場から音が消えた。だが、視界が晴れたその先に、ベルは、見てしまった。顔の上半分を、消し飛ばされながら、それでも、裂けた口元を、歪めるように吊り上げ、咆哮を放とうとする――ゴライアスの、笑うような表情を。

 

「――ベル!! 逃げなさい!!」

 

リューの叫びが、戦場を裂いた。だが、間に合わない。再び放たれた咆哮が、至近距離で炸裂した。

 

「――っ!!」

 

ベルの身体が、紙屑のように吹き飛ばされる。視界が反転し、空と地面が入れ替わる。肺から空気が叩き出され、声にならない悲鳴が漏れた。さらに、追撃。巨大な腕が、大きく振りかぶられる。空中のベルへ、薙ぎ払い。その直撃の直前。

 

「――っ、させるかぁぁ!!」

 

割って入ったのは大盾を構えた、桜花だった。鈍い衝撃により盾が悲鳴を上げる。だが、その一撃を受け止めきれるはずもない。

 

「――ぐっ……!!」

 

桜花ごと、ベルの身体が吹き飛ばされる。二人まとめて、さらに後方へ吹き飛ばされ、森の奥へと消えていった。その光景を見た瞬間。

 

「……ちくしょう……!」

 

ヴェルフの喉から、絞り出すような叫びが漏れた。

 

「……俺は……!」

 

拳を、地面に叩きつける。無力感が、胸を焼いた。その時だった。がちゃり、と。異様な金属音が、背後から重なった。

 

「……絶望するのは、まだ早いな」

 

低く、静かな声。振り向いた先。そこに立っていたのは、肩から背中にかけて、ありえない量の武器を担いだ――ローエンだった。剣、斧、槍、折れた刃、欠けた盾、戦場からかき集めた、無数の鉄。リューとアスフィが、思わず駆け寄る。

 

「ローエン殿……! 今まで、どこへ……!」

 

その問いに、ローエンは肩の荷をわずかに揺らし、

 

「こいつを、かき集めていた」

 

淡々と答えた。

 

「……え?」

 

思わず、アスフィが目を瞬かせる。

 

「……それを、何に使うんですか?」

 

だが、ローエンは、視線をベルの吹き飛ばされた方向へ向けたまま、静かに言う。

 

「それよりも」

「ベルの容態を、確認してきてくれ」

 

リューとアスフィの動きが止まる。

 

「……その間のゴライアスは?」

 

アスフィが、掠れた声で問う。

 

「俺が相手をする」

「……無茶です!」

 

即座に返したアスフィに、ローエンは、微かに口元を歪めた。

 

「どのみち、俺の力じゃ、あれは倒せない」

 

淡々とした現実。

 

「必要なのは……ベルの力だ」

「……ですが……!」

 

なおも食い下がろうとしたアスフィの前に、静かに、リューが一歩出た。

 

「……アスフィ」

 

その声は、穏やかだった。だが、迷いがなかった。

 

「ここは……ローエン殿を、信じましょう」

 

 一拍。アスフィは、強く唇を噛みしめ、

 

「……分かりました……!」

 

頷いた。二人は同時に、踵を返す。森の奥、ベルのもとへ。その背中を見送りながらローエンは、静かに前へ出る。漆黒のゴライアスと、真正面から向かい合う。剣を抜き、構え、小さく呟いた。

 

「悪いが」

「お前はもう――“学習済み”だ」

 

無数の武器を背負った男は、静かに剣先を上げた。

 

 

 

 

森の奥深く。砕けた水晶と折れた枝が散乱する、小さな空き地の中央に――ベルと桜花は並ぶように横たえられていた。どちらも、動かない。血の匂いが、まだ濃く残っている。

 

「……桜花……っ、桜花……!」

 

千草は震える声で呼びかけながら、必死に治療を続けていた。押さえた手の下から、赤黒い血が滲む。その隣で、命もまた歯を食いしばり、応急処置を重ねていく。

 

「大丈夫です……必ず……必ず……!」

 

言い聞かせるような声だった。一方。少し離れた場所では、アスフィが素早く包帯を巻き、リューが膝をついてベルの顔を覗き込んでいた。

 

「……クラネルさん……」

 

肩を揺らしても、まぶたは動かない。呼吸は、ある。だが、浅く、弱い。リューの声が、かすれる。

 

「……傷が、深すぎます……」

 

その時だった。後方支援に回っていた二人が、駆け込んでくる。

 

「ベル君!!」

「ベル様!!」

 

 ヘスティアとリリだった。息を切らしながらも、ヘスティアは状況を一目で把握し、驚くほど落ち着いた声で問いかける。

 

「……エルフ君、容態は?」

 

リューは、短く首を振った。

 

「……息はあります。ただ……目を覚ましません」

 

アスフィは、歯噛みしながら立ち上がる。

 

「……リオン、ここは任せます」

 

そう言い残し、振り返らずに前線へと戻っていった。それに呼応するように、命もまた立ち上がる。

 

「……千草殿、あとは……お願いします」

 

命は一度だけ桜花に視線を落とし、すぐに踵を返した。戦場へ。まだ、終わっていないからだ。残されたのはベルと、桜花と、千草、リュー。そして――ヘスティアとリリ。ヘスティアは、静かにベルのそばへ歩み寄った。膝をつき、その頬に、そっと手を当てる。冷たい、だが、確かに生きている。そのぬくもりを、逃がさないように。ぎゅっと、包み込むように。ヘスティアは顔を上げ、リューを見た。

 

「……行ってくれ、エルフ君。行って…少しでも、時間を稼いでくれ」

 

はっきりとした声だった。リューの瞳が、揺れる。

 

「ベル君は――」

 

一瞬だけ、言葉が詰まった。だが、ヘスティアは笑った。無理やり塗り潰すような笑顔だった。恐怖を、喉の奥へ押し込めるような笑顔。

 

「絶対に起きる……起きて――あのモンスターを、倒す」

 

その言葉に、リューは、ほんのわずか目を見開き、そして、深く頷いた。

 

「……わかりました。神ヘスティア」

 

静かに一礼し、踵を返す。森の奥へ。再び、戦場へ。その背中が消えると同時に、ヘスティアは、ベルの手を取った。強く、離さないように。リリも、反対側からベルの手を握る。

 

「……ベル様……」

 

声が、震える。

 

「目を……開けてください……」

 

ヘスティアも、必死に呼びかける。

 

「ベル君……ベル君……!」

 

――だが、返事は、ない。その光景を、ベルは――上から見下ろしていた。まるで、他人の体を見ているように。まるで、夢の中にいるように。

 

(……わかってます)

(……聞こえてます)

 

はっきりと、二人の声は、胸の奥まで届いている。なのに。

 

(……体が……動かないんです)

 

指一本。まぶた一つ。どうしても、言うことを聞かない。

 

(動け……)

(動け……!)

 

必死に、必死に、念じる。あの黒い巨体が、仲間たちを、踏み潰そうとしている光景が、脳裏に焼き付いている。

 

(……守りたい)

(……守りたい人が、いるんだ)

(……みんなを……守るために……!)

 

その時だった。――ぱき、と。小さく、枝を踏み折る音がした。森の奥。影の中から、ゆっくりと一人の神が姿を現す。ヘルメスだった。血と土の匂いが立ち込める中、場違いなほど、穏やかな声で、語りかける。

 

「もし……英雄と呼ばれる資格があるとするならば」

 

ベルの意識のすぐそばで、囁くように。

 

「剣を取った者でもなく」

「盾をかざした者でもなく」

「癒しを齎した者でもない」

 

その言葉に、ベルの中で、何かが――引っかかった。そして、重なるように、別の声が、蘇る。遠い、遠い記憶。幼い頃、その大きな腕の中で、頭を撫でながら、語ってくれた――もう、二度と会えない人の声。

 

『己を賭した者こそが――英雄と呼ばれるのだ』

 

祖父の声だった。

 

『仲間を守れ』

『女を救え』

『己を賭けろ』

『折れても構わん』

『挫けてもいい』

『大いに泣け』

『勝者は――常に、敗者の中にいる』

 

胸の奥が、熱くなる。締め付けられるように、痛む。ヘルメスの声と、祖父の声が、ゆっくりと、重なっていく。

 

「願いを貫き」

「思いを叫ぶのだ」

「さすればそれが――」

 

静かな、だが確かな声。

 

「「一番、格好の良い男だ」」

 

――その瞬間。ベルの胸の奥で、確かに、何かが弾けた。恐怖も、痛みも、無力感も、すべてを抱えたまま、それでも、前へ進むための衝動が、燃え上がる。

 

(……僕は)

(……まだ……終わってない)

 

――視界が、戻る。重たい瞼の裏に、光が差し込む。ぼやけた世界の中に、涙を溜めた、二つの顔があった。

 

「……ベル君……?」

 

ヘスティアの声。リリが、息を呑む。

 

「……ベル様……?」

 

――そして、この地獄の楽園の中で、英雄は、静かに、目を覚ました。

 

 

 

 

戦場へと戻ったアスフィ、命、そしてリューが目にした光景は――もはや"凄絶"という言葉すら生ぬるかった。大地に突き刺さる、無数の剣、斧、槍、砕け、ひしゃげ、役目を終えた武器の残骸が、あちこちに転がっている。そしてその中心で――たった一人、漆黒のゴライアスと向き合う男がいた。ローエン。巨腕が振り下ろされる、それを――真正面から、受けない。剣の腹で、わずかに軌道をずらしながら受け流す。同時に、すれ違いざま、脇腹へと一閃。重い金属音と、肉を裂く鈍い感触。だが、深くは入らない。それでも、確実に――“当てている”。

 

「……っ」

 

リューの喉から、思わず息が漏れた。次の瞬間、ゴライアスの胸が大きく膨らみ――

 

「――来る!」

 

命が叫ぶ。咆哮。だが、ローエンは盾を構え、正面から受け止めない。盾の縁を、わずかに傾ける。衝撃は盾だけを叩きつけ、爆風のような衝波が、斜めに逸れていく。ローエン自身は、その刹那の隙に。すでに地面を蹴っていた。衝撃圏の外へ。そして、次の一歩で――ゴライアスの足首へ、低い軌道の斬撃。巨体が、ほんのわずかに揺らぐ。

 

「……ありえません……」

 

アスフィが、呆然と呟いた。攻撃を避けているのではない。対応しているのでもない――読んでいる。まるで、次に来る動きが、最初から分かっているかのように。だが、その綱渡りは、永遠ではなかった。咆哮の余波、巨腕の直撃、凄まじい衝撃に、ローエンの手にした武器が――ばきり、と砕け散る。だが、止まらない。砕けた瞬間、すでに半歩横へ踏み出し、地面に突き刺さっていた別の剣を引き抜く。握る、構える、斬る。一連の動作に、淀みは一切なかった。ただひたすら、ゴライアスの視線を、殺意を、憎悪を、すべて――己一人に集中させるために。周囲の冒険者へ向かおうとする巨体の進路を、わずかな傷と、わずかな牽制で、叩き折り続けている。

 

「……」

 

リューは、はっきりと理解していた。これは、防衛戦ではない。殲滅でもない。――時間稼ぎだ。ベルが戻る、その瞬間まで。命はすぐに意識を切り替え、前線の横へ回り込む。アスフィもまた、援護射程を計算しながら、位置を取った。リューは、戦闘の隙間を縫うように、ローエンへと接近する。剣と拳が交差する、ほんの刹那。

 

「……大丈夫ですか!」

 

短く、鋭く。ローエンは、視線を外さないまま、口元だけで笑った。

 

「今のところはな」

 

直後、振り下ろされる拳を受け流しながら、斬り返す。会話をしながらやっていい動きではない。だが、それができている。

 

「……ベルはどうだ」

 

ローエンの声は、驚くほど落ち着いていた。リューは、ほんの一瞬だけ言葉を探す。

 

「……息は、あります」

 

胸の奥が、わずかに締め付けられる。

 

「ですが……まだ、目を覚ましません」

 

ほんの一拍。そして、リューは、はっきりと続けた。

 

「――ですが」

「必ず、目を覚まします」

 

確信だった。根拠ではない。だが、揺るがなかった。それを聞いたローエンは、わずかに目を細める。

 

「……わかっているじゃないか」

 

まるで、当たり前のことを確認しただけのように。ローエンは、剣を振るいながら言う。

 

「基本の注意は、俺が引く」

「咆哮のような遠距離の大技だけ、潰してくれ」

 

リューは、小さく息を吐き、苦笑する。

 

「……もう少し、割り振っていただいても構いませんよ」

 

ローエンは、低く笑った。

 

「悪いな」

「ここは――」

 

一瞬、剣の軌道が鋭くなる。

 

「ベルの師匠として、張り切らせてくれ」

 

その言葉に、リューは、自然と口元を緩めていた。

 

「……承知しました」

 

まるで、何年も同じ戦場に立ち続けてきた仲間同士のような。無言の呼吸。無駄のない連携。次の瞬間、ゴライアスの咆哮が放たれる。

 

「――今です!」

 

命の声。アスフィの支援が、正確にその喉元へ叩き込まれ、咆哮の軌道が大きく逸れる。衝撃波は、空へと逃げた。ローエンは、その隙を逃さない。踏み込む、斬る、斬る、斬る。だが――決定打にはならない。分かっている。この場でゴライアスを倒す役目は、自分ではない。それでも、それでも、仲間が生き延びるための時間を、削り出すことならできる。誰かが、あの少年が、立ち上がるまで。リュー、アスフィ、命。そして、周囲で踏みとどまる冒険者たち。全員が、同じ一点を見つめていた。――ベルが、戻る、その瞬間まで。この地獄の戦場で、英雄が目を覚ます、その時まで。彼らは、歯を食いしばりながら、走り続けていた。 

 

――その時だった。戦場を貫くように、空気を震わせ、迷宮の天蓋すら揺らすように。

 

ごぉぉん……っ

 

大きな、鐘の音が鳴り響いた。誰もが、はっとして視線を向ける。瓦礫の向こう、砕けた地面を踏みしめながら――大剣を携えた少年が、そこに立っていた。ベル・クラネル。英雄が、帰還した。ベルは走らない、叫ばない、ただ静かに、大剣の柄へと両手を添え。胸の奥から、深く息を吸い込み、その身の内に渦巻く力を、剣へと流し込んでいく。再び――

 

ごぉぉん……

 

荘厳な大鐘楼の音色が、戦場を満たした。重く、澄み切ったその響きは、折れかけていた冒険者たちの背中を、内側から押し上げる。

 

「戻ってきた……!」

 

誰かが叫ぶ。誰かが笑う。誰かが、歯を食いしばる。その音は、ただの演出ではない――ベルと共に戦う者すべての戦意を、否応なく掻き立てる鼓動だった。同時に、まるで本能で察知したかのように。ゴライアスが、大きく唸り声を上げる。巨体が軋み、振り返る。その視線は、真っ直ぐに――ベルへ。

 

「――来るぞ!」

 

周囲のモンスターたちも、一斉に方向を変えた。濁流のように。獲物を囲い潰すように。ベルのいる地点へ、殺到を開始する。

 

「行かせるかよぉぉっ!!」

 

冒険者の一人が叫び、前へ躍り出る。続いて、次々と刃が重なった。盾がぶつかる。魔法が炸裂する。べルのもとへ近づこうとする魔物の群れを、身体ごと押し止める。鐘の音色に鼓舞された者たちが。自分の命を代価にしてでも、その進路を塞いでいた。

 

「ここが正念場です!」

 

リューが鋭く叫ぶ。アスフィと命も、即座に応じた。援護の密度が、一段階引き上がる。リューは、ゴライアスの周囲を高速で駆ける。地面を蹴り、瓦礫を踏み、跳ねるように旋回しながら。剣を構えたまま、息を乱さず。唇だけを動かし、詠唱を紡ぐ。

 

【今は遠き森の空。無窮の夜天に鏤(ちりば)む無限の星々。愚かな我が声に応じ、今一度星火(せいか)の加護を。汝を見捨てし者に光の慈悲を。】

 

その背中を見て。命が、はっと息を呑み。

 

「……私も……!」

 

即座に詠唱へ入った。両手を胸元で組み、重く、確かな言葉を刻む。

 

【掛けまくも畏(かしこ)き--いかなるものも打ち破る我が武神(かみ)よ、尊き天よりの導きよ。卑小のこの身に巍然(ぎぜん)たる御身の神力(しんりょく)を。】

 

空気が、じわりと沈み込む。まるで見えない重力が、戦場に垂れ下がるように。

 

【来れ、さすらう風、流浪の旅人(ともがら)。空を渡り荒野を駆け、何物よりも疾(と)く走れ】

 

リューの詠唱が続く中。アスフィが小さく息を吐き、口角を上げる。

 

「……では、私も――」

「とっておきを出すしかないですね」

 

次の瞬間。彼女の足元から光が弾けた。飛翔靴《タラリア》が解放され、アスフィの身体は風に持ち上げられるように宙へ舞う。一気に高度を取り。ゴライアスの顔面――その巨大な眼球を正面に捉え、照準を合わせる。

 

「……っ!」

 

魔導装置が唸りを上げ、鋭い一撃が放たれた。直後。リューの詠唱が、完成する。

 

「星屑の光を宿し敵を討て――《ルミノス・ウィンド》!」

 

光を帯びた暴風が、ゴライアスの胴体へと直撃する。激しい閃光と共に、巨体が大きくのけぞった。だが。ゴライアスは、倒れない。苦悶の咆哮を漏らしながら、暴風の中でもがき――振り払うように、巨大な腕を振るった。

 

「――っ!」

 

その一撃に弾かれ、アスフィの身体が宙を舞う。さらに。別の腕が伸びる。空中のリューを掴み取り――そのまま、地面へ叩きつけようとする動作に入った。だが、その瞬間。命の魔法が、完成する。

 

「天より降(いた)り、地を統(す)べよ--神武闘征(しんぶとうせい)――フツノミタマ!!」

 

見えない重圧が、ゴライアスの全身を押さえつけた。巨体が、ぴたりと止まり、ゴライアスの巨体を圧縮し始める。関節が軋み、筋肉が悲鳴を上げる。必死で抑え込み続ける、だが――命の表情が、凍りつく。

 

「……破られます!」

 

重圧が、悲鳴を上げるように歪み。次の瞬間――砕け散った。拘束を引き裂き、ゴライアスが吼える。そして。

 

「お前ら――どけぇぇぇぇ!!」

 

怒号と共に、戦場を駆け抜ける影。巨大な魔剣を担いだ、赤髪の鍛冶師。ヴェルフだった。落としたはずの魔剣――火月(かづき)。それを、もう一度、自分の手で掴み直し。走りながら、歯を食いしばる。脳裏に焼き付くのは、自分が忌み嫌ってきたはずの“桜花”が、ベルの間に入りゴライアスの攻撃を受けた光景。

 

(……くだらねぇ意地だ……だがっ!)

 

跳躍。ヴェルフは空中で魔剣を大きく振りかぶる。

 

「――火月《かづき》!!」

 

振り下ろされた刃から。灼熱の奔流が解き放たれた。膨大な火炎が、ゴライアスの巨体を包み込み、飲み込む。燃え盛る炎の中で、なお蠢く影。だが、そのすべての奮闘が。そのすべての犠牲が。ただ一つのために、積み重ねられていた。――ベルの剣が、振るわれる、その瞬間のために。大鐘楼の音と共に、英雄願望のスキルによって蓄積され続けた力は、ついに限界へと到達する。ベルの大剣が、ベル自身の身体が、静かに――白く、白く、輝き始めた。眩いほどの光が、少年を包み込む。ベルは、前を見る。ただ一体の敵だけを。ゴライアスへ。――走り出す。その気配に、ゴライアスも悟る。これが、最後だと。巨体が大きく息を吸い込み。喉奥に、凶悪な魔力を溜め込む。最後の足掻き。ベルを吹き飛ばすための、咆哮。

 

「――まずい!!」

 

リューが叫ぶ。命も、アスフィも、歯噛みする。だが、その刹那。横合いから、黒い影が滑り込んだ。

 

「……邪魔をしてもらっては困るな」

 

低い声。そして、閃光のような一閃。ローエンの剣が、ゴライアスの顎を切り裂いた。咆哮は、喉の奥で潰れる。魔力が霧散し、苦悶の声だけが漏れ落ちる。ローエンは、振り返らない。ただ、背中越しに。小さく、呟いた。

 

「――行け。ベル」

 

次の瞬間、英雄の一撃が、放たれた。世界が、音を失い、色を失い、すべてを塗り潰すような――白い極光が、戦場を包み込んだ。

 

 

 

 

歓声は、遅れてやってきた。爆発の余韻に耳が慣れた頃、ようやくリヴィラの空気が、地獄の色を失いはじめたのだ。巨大なクレーターの中心に残された魔石だけが、つい先ほどまでそこに“災厄”が存在していた証だった。ベルは、その場に膝をついた。指先から、力が抜けていく。英雄願望によって無理やり引き上げられていた身体は、役目を終えた瞬間、正直すぎるほどに重くなった。

 

「……ベル!」

 

真っ先に駆け寄ってきたのはリューだった。血と埃に汚れたその腕が、倒れかけたベルの身体を支える。

 

「大丈夫ですか、ベル!」

「だ……大丈夫、です……たぶん……」

 

苦笑しようとして、失敗する。すぐ後ろから、息を切らした命とアスフィも合流する。

 

「……無茶、しすぎですよ、本当に」

 

そう言いながらも、アスフィの声には震えが混じっていた。空から落とされた衝撃で傷だらけのはずなのに、それでも彼女は、ベルが無事でいることを確かめるまで視線を離さなかった。命が小さく息を吸う。

 

「無事で良かった」

 

その言葉に、誰もが小さく頷いた。あちこちで、倒れ込みながら笑う者。抱き合って無事を確かめ合う者。砕けた武器を拾い上げ、呆然と魔石を見つめる者。誰もが、まだ生きていることを噛みしめていた。少し遅れて、森の奥から駆けてくる二つの小さな影。

 

「ベル様ぁぁぁぁ!!」

 

泣き声とともに飛び込んできたリリが、そのままベルの胸元にしがみつく。

 

「本当に……本当に……!」

 

言葉にならず、ただ嗚咽だけがこぼれた。その後ろで、必死に足を動かしてきたヘスティアが、ベルの前に立つ。息は切れていて、髪も乱れていて、それでも。

 

「……おかえり、ベル君」

 

たったそれだけ。だが、その一言に込められた安堵と恐怖と祈りは、嫌というほど伝わってきた。ベルは、ゆっくりと顔を上げる。

 

「……ただいま、です」

 

ヘスティアは堪えきれず、ベルの額に自分の額を軽く当てた。

 

「……本当に、よく頑張った」

 

震える指で、ベルの頬にそっと触れる。それだけで、胸の奥に張りつめていた何かがほどけていくのを、ベルは感じていた。少し離れた場所では、ヴェルフが黙って立ち尽くしていた。その横に、治療を終えた桜花が、千草に肩を支えられながら歩み寄る。

 

「……すまないな、守り切れなくて」

 

それは、ただの結果報告でも、形式的な詫びでもなかった。自分が前に立つと決めた相手を、最後まで守れなかったという、桜花自身への叱責だった。ヴェルフは、ぴくりと肩を揺らし、ほんの一瞬だけ目を見開く。そして、照れ隠しのように、ぶっきらぼうに顔を背けた。

 

「……謝罪なんか、いらねぇよ」

 

吐き出すように言う。

 

「アンタがベルを救ったことに変わりはねぇんだ」

 

一拍。噛み締めるように、続ける。

 

「それに……」

 

視線を、砕けた水晶の向こう――ベルのいる方角へと向けたまま。

 

「俺もさ」

 

低く、自嘲気味に笑う。

 

「下らねぇ意地のせいで……本当に大事なもんを、見失うところだった」

 

自分の剣。自分の誇り。そして、誰のためにそれを振るうのかという、当たり前の答え。一瞬、ヴェルフは拳を握り締めた。

 

「だからよ」

「……お互い様ってことで、いいだろ」

 

ぶっきらぼうだが、逃げずに向き合った言葉だった。桜花は、その横顔を見つめながら、ゆっくりと息を整える。そして、それ以上、何も言わなかった。ただ、静かに――深く、頭を下げる。その様子を、少し離れた瓦礫混じりの岩場の上から、ローエンは静かに見下ろしていた。肩には、いつものように剣を担いだまま。刃には、まだ薄く魔物の血と土埃が残っている。深く――胸の奥まで沈めるように、息を吐いた。戦場に立つ者特有の、張り詰めた感覚が、ようやく緩み始めている。

 

「……間に合ったな」

 

それは、誰に向けたとも知れない独り言だった。ほんの少しだけ、声には、安堵に近い響きが混じっていた。足音が、背後から近づく。振り返らずとも分かる気配。リューだった。傷の応急処置を終えたばかりなのだろう。白い包帯の上から、わずかに滲む赤が見える。

 

「ええ」

 

短く、だがはっきりとした声。

 

「あなたのおかげです」

 

その言葉に、ローエンはわずかに眉を動かし、肩をすくめた。

 

「違う」

 

淡々と。まるで当然の事実を訂正するかのように。

 

「俺じゃない」

 

視線は、ずっと下へ向けられたままだ。その先にいるのは――仲間たちに囲まれ、支えられながらも、必死に自分の足で立とうとしている一人の少年。膝は震え、腕には無数の痣と擦過傷。それでも、倒れることだけは拒むように、歯を食いしばって前を向いている。

 

「……あいつが、みんなのために立ち上がったからだ」

 

ローエンの声は、ひどく静かだった。だが、その静けさの奥には、確かな重みがあった。見えない悪意に殴られ、理不尽に踏みにじられ、それでも逃げなかった。英雄でも、特別な存在でもなく。ただ、誰かを守るために――立ち上がることを選んだだけの少年。

 

「……覚悟を決めた奴は、強い」

 

ぽつり、と。自分自身にも言い聞かせるように。

 

「それだけだ」

 

リューは、その横顔をじっと見つめていた。彼女には分かっている。この男が言う“強さ”は、腕力でも、才能でも、称号でもない。傷つくことを分かっていても。失うかもしれないと理解していても。それでも踏み出すことをやめない――その選択そのものを指しているのだと。ローエンは、無意識のうちに、剣を担ぐ腕に少しだけ力を込めていた。胸の奥に、微かな違和感が残る。――なぜ、自分は今、こんなにもあの少年から目を離せないのか。ただの観測対象のはずだった。ただの“評価すべき存在”のはずだった。それなのに、立ち上がろうとするその背中を見ていると、ほんの僅かだが――胸の奥が、ざわつく。ローエンは、それを認めることなく、静かに視線を逸らした。だが。その目には確かに、先ほどまでよりもわずかに――柔らかい光が宿っていた。

 

やがて、応急処置と最低限の後始末が始まる中で、ベルはようやく、静かな疲労に身を委ねるように腰を下ろした。視界の端で、誰かが笑っている。誰かが泣いている。誰かが、空を見上げている。そのすべてが、確かにここにある。ベルは、小さく胸の奥で呟いた。――守れた。完璧ではない。誰も傷つかなかったわけでもない。それでも。――それでも、守れた。その想いだけが、ベルの胸中で反復し、ささやかな幸福感で満たされていた。

 

 

 

 

少し離れた場所、大樹の太い枝の上から見下ろしている男がいた。まるで舞台の特等席に腰掛ける観客のように。金色の髪をまだらに照らし、その瞳だけが――異様なほどに、ぎらりと輝いていた。ヘルメスだ。戦いの余韻がまだ地面に残り、人々の息遣いと、治療の声と、砕けた水晶の軋みが混じり合う広場を、彼は高みから、貪るように見下ろしていた。小さく、喉が鳴る。抑えきれない衝動が、胸の奥からせり上がってくる。

 

「ああ……」

 

吐息のような声。だが、その次の瞬間。

 

「ああ……ああ、見たぞ」

 

低く、震える声で。

 

「このヘルメスが――しかと、見たぞ」

 

枝の上で、思わず前のめりになる。視線の先には。仲間に支えられながらも、それでも必死に立ち続けようとする、白髪の少年。血に汚れ、傷だらけで、決して“勝者”の姿とは言えないその背中を――ヘルメスは、まるで宝石を見るかのように見つめていた。

 

「……素質がない?」

 

くつ、と喉で笑う。

 

「バカを言うなよ、ゼウス」

 

誰もいない空へ、語りかけるように。いや――もうこの街にはいない、かつての神へ向けて。

 

「見ただろう?」

「今の……あれを」

 

指先が、無意識に震える。

 

「あなたの孫は……」

 

一瞬、言葉を選ぶように間を置き。

 

「……あなたの“置き土産”は、本物だ」

 

胸の奥から込み上げる感情を、噛みしめるように。

 

「紛れもなく、本物だ」

 

枝の上で、ぐっと拳を握る。

 

「あなたのファミリアが、この街に残した――」

 

小さく息を吸い込む。

 

「ラストヒーローだ」

 

風が吹き抜け、葉がざわめく。だが、その音すら、今の彼には遠い。

 

「動くぞ……」

 

囁くように。だが、その声には、確信が宿っていた。

 

「時代が、動く」

 

それは願望ではない。神としての勘でもない。“観客”として、無数の英雄譚を見てきた者の直感だった。

 

「必ずや……」

 

ヘルメスは、ゆっくりと目を細める。

 

「必ずや、この目で見届けよう」

 

広場の中心。無数の人の気配。そして、少年の存在を中心に、少しずつ形を変え始めている空気を感じ取りながら。

 

「この場所で」

「この、オラリオの地で起こる……」

 

言葉が、自然と熱を帯びていく。

 

「歴史に刻まれる“大事”を」

 

枝の上で、思わず小さく笑ってしまう。

 

「英雄たちの行く末を」

「その、生と死を」

 

戦いの終わりも、絶望も、栄光も、裏切りも、そして救いも。そのすべてを含めて。

 

「――親愛なる彼らが紡ぐ」

 

ヘルメスの瞳が、少年から一瞬も離れない。

 

「眷属の物語を」

 

小さく、しかしはっきりと。

 

「ファミリア・ミィスを」

 

それは、祝福のようで。同時に、残酷な宣告にも似た言葉だった。英雄は、常に物語の中心に立つ。だがその中心に立つ者ほど――最も深く、運命に傷つけられる。それでもなお、ヘルメスは、止められなかった。この胸の高鳴りを。この瞬間から始まる“物語”への、抗いようのない期待を。大樹の上で、ひとり。神は、心から――愉しそうに、微笑んでいた。

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