ダンジョンに生まれた私は、英雄の魂を育てて喰らう   作:ヨーヨーヨー

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閑話 喰らう者と見届ける者

ベルたちが漆黒のゴライアスを討伐した、その夜。アンダーリゾートの全景を見渡せる、静寂に包まれた小高い丘の上。だが――その静寂は、どこか不自然だった。人の気配も、冒険者たちの笑い声も、ここにはない。風に撫でられ、淡い光の粒が舞うその場所に、ひとつの影と、一匹の猫が並んで立っていた。長い黒色の髪が、ゆっくりと揺れる。透き通るような髪は、水晶の反射を受けるたび、銀にも蒼にも見えた。――シエラ。彼女は、空を見上げたまま、指先でそっと胸元の布をつまみ、静かに息を吸い込んだ。まるでこの光景を、肺の奥に焼き付けるように。

 

「……来てくれたのね」

 

背後に生まれた、わずかな“空白”。空気が、ほんの一瞬だけ張りつめる感覚。振り返らずに、そう言った。

 

「ありがとう、ローエン。ヘスティアの護衛……引き受けてくれて」

 

丘の斜面の下。水晶の影が幾重にも重なる場所から、音も足音も立てずに、ローエンが現れる。姿を現した瞬間でさえ、気配は薄い。まるで最初から、そこに存在していたかのようだった。

 

「当然だ」

 

抑揚のない声。感情の温度を削ぎ落とした、淡々とした言葉。

 

「あなたの願いは、俺の願いだ」

 

シエラの肩が、わずかに揺れた。

 

「ふふ……」

 

くすり、と小さく笑う。

 

「また“あなた”って言ってる」

 

ゆっくりと振り返り、ローエンの方を見る。その瞳は、どこまでも柔らかく――だが、底の見えない光を湛えていた。

 

「シエラと呼んでって、言ったでしょう?」

「……失礼した」

 

ほんの一拍。彼の視線が、ほんのわずか、揺れる。

 

「どうにも……慣れなくてな」

 

それが、ただの呼び方の問題ではないことを、互いに理解していた。過去。記憶。失われた距離。言葉にしなくても、共有しているものがある。シエラは、懐かしむように、ほんの少しだけ目を細めた。

 

「あなた……随分、“人間らしく”なってきたわね」

 

その言葉には、皮肉よりも、観察者としての純粋な興味が滲んでいた。ローエンは答えない。視線を、水晶の森のように連なる柱群へ向けたまま、沈黙を保つ。やがて、話題を切り替えるように、低く口を開いた。

 

「……“実験体”の評価だ」

 

空気が、わずかに冷える。同時に。ローエンの足元の影が、ゆっくりと蠢いた。水晶の光を拒むように濃く歪んだ影の中から、黒い輪郭が浮かび上がる。――ヘルハウンド。濡れた毛並みのような質感。異様に細長い四肢。歪に膨らんだ胸郭が、規則正しく上下している。その黄金色の瞳だけが、はっきりとこの世界に存在していた。

 

「単純な命令は、問題なく遂行する」

 

ローエンの声に呼応するかのように、ヘルハウンドは低く喉を鳴らした。

 

「だが、複雑な命令は……こいつの思考では遅延になる」

 

その身体が、彼の足元でわずかに波打つ。まるで“形”という概念が、完全には定着していないかのように。

 

「制御の安定性には、まだ課題がある」

 

だが。ローエンは、一切の迷いを含まない声で続けた。

 

「……だが」

 

一瞬、間を置いて。

 

「当初の目的――あらゆるモンスターを取り込み、強化し、ベルへの“脅威”として立ち向かわせる」

 

淡々と、事務的な報告。

 

「その役割は、果たせそうだ」

 

脳裏をよぎる光景。十七階層。引き裂かれ、砕け散ったゴライアスの死骸。まだ熱を残した肉片。霧のように溶ける巨体。魔石を噛み砕く音。捕食。吸収。能力と特性の継承。それらすべてが、ひとつの“成功例”として、確かに刻まれている。シエラは、満足そうに微笑んだ。

 

「素晴らしいわ」

 

小さく、長い息を吐く。

 

「……そろそろ本格的に動くときかしら」

 

その声は、どこか愉悦を帯びていた。

 

「この子にも、自身の役割に“専念”させなきゃだしね」

 

そう言って、足元へ視線を落とす。丘の縁にちょこんと座っていた猫。艶のある毛並み。だが、瞳には生き物特有の温度がない。猫は、可愛らしい鳴き声ではなく。極めて平坦で、無機質な音で応じた。

 

「……」

 

まるで、了解を告げる装置の起動音のように。シエラは、それを気にも留めず、再びローエンへと視線を戻す。

 

「ローエン。あなたは引き続き“英雄”たちを監視して」

 

柔らかな口調。だが、命令だった。

 

「場合によっては……手助けしても構わない」

 

その言葉は、純粋な善意からではない。誰かを救うためでも、未来を守るためでもなく。――ただ、自分自身の愉しみのため。

 

「……それと」

 

ほんのわずか、声の調子が変わる。

 

「“あの神様”のこともね」

 

名を出さずとも、ローエンには通じる。シエラは、ゆっくりと踵を返し、天井を覆う巨大な水晶へと視線を向けた。幾層にも重なる結晶。内部に閉じ込められた光が、まるで生き物のように脈打っている。その瞳に映るのは、淡く揺れる青白い輝きと――

まだ誰も見たことのない、未来。

 

「……いつか来る、その時」

 

囁くように。英雄と呼ばれる存在。ベルや、それに連なる魂たち。まっすぐで、清らかで、眩しすぎる輝きが――最後の最後に、踏みにじられ、歪み、汚れていく瞬間。その様を思い描くように。そして、微笑んだまま、静かに言う。

 

「ベルを、食らうその瞬間」

 

水晶の光が、彼女の唇の弧をなぞり、その微笑を、冷たく、美しく照らしていた。

 

 

 

 

ローエンは、シエラの背を見つめたまま、しばらく動かなかった。巨大な水晶の天蓋から落ちる光が、彼の肩口を淡く縁取る。その輪郭は、人のそれでありながら――どこか、この場所に溶けきれていない。ヘルハウンドが、彼の足元で静かに伏せた。地面に触れる爪先が、かすかに水晶を擦り、乾いた音を立てる。ローエンは、無意識にその頭部へと視線を落とし――すぐに、視線を逸らした。

 

(……ベルを、食らう、その瞬間、か)

 

シエラの言葉が、胸の奥に、薄く残る。それは使命であり、命令であり、そして――”彼自身が生み出された理由”であり、逃れようのない役割でもあった。だが――仲間に囲まれ、傷だらけの身体のまま、それでも必死に皆の笑顔を守ろうと立ち続けていた、あの少年。そして、不愛想で無口でありながらも、ただひたすらに、自分が信じたものだけを見据え、真っ直ぐに突き進む金髪の少女。その二人の姿が、どうしても脳裏をよぎる。払い落とすことも、無視することも出来ないほど、静かに、確かに。ほんの、わずかな違和感が、胸の奥に、残り続けていた。それは痛みですらなく、ましてや迷いでもない。ただ――理解できないはずのものが、胸の奥に、かすかに芽を出したような感覚。ローエンは、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……了解した」

 

それだけを告げる。感情の波を、一切含まない声で。シエラは振り返らない。猫はすでに、音もなく丘の縁から姿を消していた。残されたのは、静まり返った光の楽園と、そして――人でも、獣でも、神でもない存在が、これから始まる“物語”の行方を、ただ黙って見届けようとする背中だけだった。

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