ダンジョンに生まれた私は、英雄の魂を育てて喰らう 作:ヨーヨーヨー
迷宮都市オラリオ――その地下。だが、ここはダンジョンではない。冒険者が栄光を求めて潜る神の迷宮でもなければ、神々が支配する安全な階層でもない。ここは、都市の闇が築いたもう一つの迷宮。――人造迷宮クノッソス。古代の狂気が造り上げた、人の手による地下迷宮。石壁は黒ずみ、所々に刻まれた奇妙な紋様は、まるで迷宮そのものが生きているかのように蠢いて見える。湿った空気。腐臭。乾ききらない血の匂い。地上の光は決して届かない。ここにあるのは、冒険者の拠点でも、神の神殿でもない。――闇派閥の巣だ。粗末な松明が壁に打ち付けられ、揺れる炎が石の回廊を赤黒く染めていた。その光の中で、フードを被った男たちが何人も行き交う。誰もが武装している。剣。槍。毒瓶。そして――狂信。彼らの瞳には、まともな理性の光がない。死を信仰する者。世界を憎む者。神の言葉に縋り、破滅へ歩く者たち。その中心にいるのが――
「連れてきました、タナトス様」
フードの男が一歩前に出て言った。その後ろで、ひとりの少年が押し出される。少年――ノア。白い髪。まだ幼さを残した顔立ち。だが、その瞳だけが妙に落ち着いていた。少年は抵抗しない。ただ、静かに前へ歩く。回廊の先――広間の中央。瓦礫を積み上げて作られた、玉座のような場所。そこに、一柱の神が腰掛けていた。死を司る神――タナトス。その顔には、穏やかな笑みが浮かんでいる。
「ほう……」
タナトスは頬杖をついたまま、興味深そうに少年を見下ろした。
「新しい信徒かな?」
柔らかな声だった。慈悲深い神のような声。だが、この神の優しさは――嘘だ。タナトスはゆっくりと両手を広げた。
「ようこそ、我が子よ」
その声は甘い。
「ここには悲しむ必要のない世界がある」
周囲の信徒たちが頷く。まるで救済を聞いた信者のように。彼らは皆、この言葉に縋った者たちだ。タナトスは優しく囁く。
「死は終わりではない」
指先が静かに宙をなぞる。
「魂は巡り――」
神は微笑む。
「そして、いつか」
静かに言った。
「愛する者と再び巡り会える」
それは、この闇派閥で広まっている“教え”。死ねば、タナトスにより叶えられる。だがそれは――甘い毒のような嘘だ。ノアは少しだけ首を傾けて、静かに言った。
「……あなたの言う通りにすれば」
瞳がわずかに揺れる。
「叶えていただけるんですよね」
タナトスは満足そうに頷いた。
「もちろんだとも」
微笑みながら続ける。
「だからこそ、我々は死を恐れない」
ノアはほんの少しだけ笑った。
「…そうですか」
そして言う。
「では、僕も入れていただけませんか?」
小さな声だった。だが、その声ははっきりしていた。
「絶対にあなたの役に立って見せます」
――その瞬間。後ろから笑い声が響いた。
「はははははははははっ!」
低く、獣のような声。振り返るまでもない。闇派閥の中でも特に狂った存在――ヴァレッタ・グレーデ。彼女の二つ名は“殺帝(アラクニア)”。快楽に身を委ね、最も多くの冒険者を殺し、人の命を奪うことこそが己の至上だとする――生粋のシリアルキラー。彼女は壁にもたれながら、ノアを見下ろしていた。その目は。獲物を見つけた猛獣のようだった。
「ガキが何言ってんだ?」
ヴァレッタはゆっくり歩き出す。石の床に、ブーツの音が響く。その視線が――ノアの顔に止まった。その瞬間。彼女の眉が、わずかに歪んだ。
「……あ?」
なぜか、腹が立った。理由は分からない。だが――その顔。その雰囲気。どこか、あの男を思い出す。――フィン・ディムナ。あの小賢しい英雄。
「その顔……気に食わねぇ――なっ!」
次の瞬間。拳が振り抜かれた。
ドゴッ!!
鈍い音が地下に響いた。ノアの体が吹き飛び、石壁に叩きつけられる。血が飛び散った。だがヴァレッタは止まらない。蹴り。拳。踏みつけ。骨の砕ける音が響く。
「調子乗ってんじゃねぇぞガキ!!」
腹を踏み抜く。肺から空気が吐き出された。
「ここはなぁ!!」
顔を蹴り上げる。
「てめぇのような役立たずがくるとこじゃねぇんだよ!!」
ノアの頭蓋が砕けた。血と脳漿が床に広がる。
「……ヴァレッタちゃんも気が早いなぁ。どうやら虫の居所が悪かったようにみえる」
瓦礫の玉座に座るタナトスは、くすくすと肩を揺らした。足元には、原形を失った少年の死体。頭蓋は陥没し、骨は折れ、血と脳漿が床に広がっている。人であれば、即死どころか、二度と形を保てないほどに破壊されていた。タナトスは軽くため息をついた。
「せっかくの新しい信徒だったのにねぇ」
残念そうな声音。だが――その瞳は違った。彼は、床に転がる少年の死体を見つめながら、どこか恍惚とした光を宿していた。死。破壊。命が終わる瞬間。それらは、この神にとって何よりも甘美な娯楽だった。
「まぁ、仕方ないか」
タナトスはくすりと笑う。
「ここはそういう場所だしね」
静寂が落ちた。誰もが、終わったと思った。ただの、よくある出来事。闇派閥において、新参者が死ぬことなど日常だ。――その時だった。
ぴくり。
床に散らばる肉片の中で、何かが動いた。ぐちゃり、と湿った音が響く。
「……あ?」
ヴァレッタの目が細くなる。潰れていた頭部が、ゆっくりと持ち上がった。まず骨が鳴る。――ぎち、ぎち、と。砕けていた頭蓋骨が、見えない力で引き寄せられるように組み上がっていく。次に肉。千切れていた筋肉が蠢き、互いに絡み合い、形を取り戻す。皮膚が盛り上がる。裂けた肉の隙間から、白い骨が引き込まれていく。まるで時間が巻き戻っているようだった。血だまりの中心で、少年の体が再構築されていく。静まり返る広間。誰もが言葉を失った。そして――再生途中の顔の中で。ノアの目が、ゆっくりと開いた。その瞬間。その瞳が――一瞬だけ、変わった。氷のように冷たい目。感情がない。恐怖も、怒りも、痛みもない。ただ、観察している。今の出来事を。この空間を。目の前の人間たちを。まるで実験記録を取る研究者のように。
「…………」
ヴァレッタは、その目を見た。ほんの一瞬。だが確かに見た。
(……なんだ今の)
だが次の瞬間。その目は消えた。ノアの瞳は、すぐに元の色に戻る。ゆっくりと顔を上げた。血だらけの顔。頬に張り付いた赤黒い血。そこには――狂気じみた、幼い笑顔が浮かんでいた。
「……ね?」
無邪気な声だった。まるで遊びの続きをねだる子供のように。
「僕って」
ノアは首を傾げる。
「役に立ちそうでしょ?」
沈黙。数秒。広間の空気が凍る。そして。
「……クク」
ヴァレッタの肩が震えた。
「……ククク」
笑いが漏れる。それは次第に大きくなり――
「はははははははは!!」
爆発した。腹の底からの大笑い。
「いいじゃねぇか!!」
ヴァレッタは歩み寄る。そして、乱暴にノアの髪を掴んだ。ぐい、と引き上げる。痛みが走ったのか、ノアの顔が歪む。その苦悶の顔を、間近で覗き込みながら、ヴァレッタは言った。
「気に入ったぞ、お前」
目が爛々と輝いている。
「死なねぇガキは嫌いじゃねぇ」
彼女にとって命とは、壊すための玩具だ。すぐ壊れる玩具はつまらない。だが――壊しても壊しても壊れない玩具なら、何度でも楽しめる。その歪んだ期待が、目の奥に宿っていた。その様子を見て、タナトスがゆっくり立ち上がる。
「なるほど」
興味深そうに呟いた。
「レヴィスちゃん達と同じ“怪人”……と近いのかな?」
レヴィスのように。人でありながら、人ではない存在。迷宮の怪物の力を宿した者。タナトスの笑みが深くなる。
「いいだろう」
両手を広げた。
「歓迎するよ――」
その声は甘く、優しい。だがその実、死へ誘う神の祝福だった。
「我が闇派閥へ」
ノアはゆっくり立ち上がる。血を拭いながら。壊された体は、もう元通りだ。その時、広間の奥で、ひとつの影が動いた。紫紺の外套。両手のメタルグローブ。仮面を被った怪人――エイン。仮面の奥の視線が、ノアに向けられる。
(……あの少年)
見覚えがあった。ほんの数刻前“別の体”の視界を通して、この顔を見た。彼女が見ていた少年。あの視界の中で確かに、この白い髪を見た。エインは静かに思う。
(……また一人)
この世界に。帰る場所を失った存在が増えた。神にも、人にも、救われない者。エインは小さく息を吐いた。
(……同情するよ)
ただ、それだけを思う。その視線に気づくことなくノアは、血まみれの顔で、ただ無邪気に笑っていた。
◇
人造迷宮クノッソスの奥。崩れた石柱に囲まれた広間は、今日も薄暗かった。天井の亀裂から滴る水が、ぽたり、ぽたりと石床に落ちる。だが、その音よりも強く鼻を刺すものがある。血の匂いだ。古い血。乾いた血。床は黒く染まり、何層にも重なった痕跡がこびりついている。壁には剣の傷が無数に刻まれ、石柱の根元には骨の破片すら転がっていた。ここは訓練場と呼ばれている。だが、それを本気で信じている者は誰一人いない。――ただの処刑場だ。“殺帝(アラクニア)”が“遊ぶ”ための場所。その中央に、一人の少年が立っていた。白い髪、まだ幼さの残る顔、血の匂いに慣れていない、かすかな震え。ノアだった。そして、その正面には――短剣を指でくるくると回しながら、退屈そうに笑っている女がいる――ヴァレッタ。彼女は首をぐるりと回し、骨を鳴らした。
「ほら来いよ、ガキ」
舌の先で歯をなぞるような声音。
「お前、“役に立つ”んだろ?」
その言葉に、ノアは小さく頷いた。
「……はい」
声はかすかに震えていた。両手はぎゅっと握りしめられている。指先は白くなり、肩もわずかに揺れている。怖いのだ。ここにいる全員がそれを分かっていた。それでも――ノアは逃げない。ヴァレッタの口角が、ゆっくりと吊り上がった。
「いいねぇ」
次の瞬間。彼女の姿が消えた。踏み込み。それだけで空気が弾けた。常人の視界では追えない速度。闇派閥の構成員でさえ、わずかに影を捉えるのが限界だった。そして。
ザンッ!!
刃が振り抜かれる。鈍い音と共に、ノアの体が大きく裂けた。胸から腹へ、深く斜めに。肉が開き、骨が見え、赤い血が噴き上がる。
「っ――あ……!」
喉の奥から、潰れた悲鳴が漏れた。少年の体が崩れ落ちる。膝が砕けるように折れ、石床に叩きつけられる。血が広がり、黒い床をさらに濡らしていく。広間に、数秒の沈黙が落ちた。ヴァレッタは短剣を軽く振って血を払う。
「……弱ぇな」
退屈そうに呟く。
「魔石のおかげとは言え、体を再生できるだけじゃ意味ねぇだろ」
ノアは動かない。呼吸もない。完全に死んでいる。誰もがそう思った。だが――
ぐちゃ。
不気味な音がした。裂けた胸部の肉が、ゆっくりと蠢く。露出した骨が軋み、折れた部分が引き寄せられる。血の中で体が再構築されていく。
「……おい」
闇派閥の男の一人が声を漏らした。
「マジで再生してるぞ」
別の男が低く呟く。肉が繋がり。皮膚が閉じ。骨が戻る。やがて――ノアがゆっくりと起き上がった。
「はぁ……はぁ……」
呼吸が荒い。顔は青白く、額には冷たい汗が浮かんでいる。震える手で、自分の胸を触る。そこにあったはずの裂傷は――もうない。だが、痛みは消えていないのか、体が小さく震えている。恐怖と記憶が、まだ体の奥に残っているのだ。ヴァレッタはそれを見て、にやりと笑った。
「……こわいか?」
ノアは黙った。ほんの一瞬だけ。そして、小さく頷いた。
「……はい」
次の瞬間。
ドゴッ!!
拳が顔面に叩き込まれた。骨が砕ける。ノアの体が宙を舞い、石壁に叩きつけられる。
「ぎっ……!」
肺の空気が一気に吐き出された。血が口から溢れる。ヴァレッタはゆっくり歩み寄る。靴音が石床に響く。
「怖ぇなら」
彼女はノアの胸を踏みつけた。骨が嫌な音を立てる。
「無様に逃げろよな」
ノアは震えていた。腕で体を抱き、守るように丸くなる。目には涙が浮かんでいる。
「……でも」
震える声。
「役に立たないと……」
喉が詰まる。それでも言葉を絞り出す。
「ここにいちゃ……だめなんでしょ……?」
その言葉に。周囲の闇派閥の男たちが、少しだけ黙った。ほんの一瞬、空気が変わる。だが、ヴァレッタは笑った。
「ははっ、いいねぇ」
短剣を振り上げる。
ザシュッ!!
刃がノアの肩を貫いた。
「――っああ!!」
悲鳴が広間に響く。血が噴き出す。ヴァレッタの目は、愉悦に細められていた。
「だったら」
刃をぐり、とねじる。
「――あたしの役に立てるように」
さらに深く。
「もっと悲鳴を上げてくれなきゃなぁ!」
その後も、何度も何度も、ノアは斬られた。殺された。殴られた。骨を折られ。喉を裂かれ。心臓を貫かれ。その度に――再生する。その度に――少年は震える。痛みに顔を歪める。恐怖で呼吸が乱れる。だが、それでも――
「……もう一回」
そう言う。最初は笑っていた闇派閥の男たちも、次第に黙っていった。
「……おい」
一人が呟く。
「もう三十回は死んでるぞ」
別の男が顔をしかめる。
「頭おかしいだろ……」
広間の端。崩れた石柱の影。そこに一人の影が立っていた。仮面をつけた怪人――エイン。エインは腕を組み、黙ってその光景を見ていた。ノアが斬られる。悲鳴を上げる。震える。それでも。立ち上がる。何度も。何度も。何度も。
(……やめろ)
心の奥で、言葉が浮かぶ。あの少年は完全に玩具だ――ただ壊されるための。
(……何故だ)
エインの視線が細くなる。ノアは恐怖している。痛がっている。泣きそうな顔をしている。それなのに逃げない。
(……哀れだ)
その言葉が胸の奥に沈む。やがて、ヴァレッタは飽きたように肩を回した。
「今日はここまでだ」
短剣を鞘に戻す。
「勢い余って本当に殺しちまいそうだ」
そう言って、彼女は去っていった。闇派閥の連中も、ぞろぞろと広間を出ていく。やがて、静寂だけが残った。ノアは床に倒れていた。呼吸は浅い。体は血まみれ。しばらくして――再生が始まる。ゆっくりと。ゆっくりと。肉が戻る。骨が繋がる。そして、ノアは一人で立ち上がった。広間にはもう誰もいない。その時、背後から声がした。
「……お前」
ノアは振り返る。そこに立っていたのは――エインだった。仮面の奥から、静かな視線が向けられている。数秒の沈黙。やがてエインは口を開いた。
「……痛くはないのか」
ノアは一瞬、驚いた顔をした。それから少しだけ笑った。
「痛いですよ」
とても普通な――どこにでもいる少年らしい笑い方だった。
「すごく」
肩を小さくすくめる。血がまだ服に滲んでいる。ノアは少し照れくさそうに続ける。
「でも大丈夫です」
「そのうち“慣れます”から」
その言葉を聞いた瞬間、エインの胸の奥が、わずかに締め付けられた。仮面の奥で、目が曇る。
(……違う)
慣れてはいけない、こんなものに。こんな地獄に。だが――その言葉は喉で止まった。ここは闇派閥。救いなどない場所だ。エインは静かに目を伏せた。
「……そうか」
それだけ言った。そして、背を向ける。足音が遠ざかる。広間には再び静寂が戻る。ノアはその背中を見送った。しばらく何も言わずに。やがて、小さく笑った。その笑顔は、先ほどまで見せていた、怯えた少年のものではなかった。ほんの一瞬だけ瞳が冷たく光る。観察者の目。
(……あの人が本体なのかな)
誰にも聞こえない声。小さな呟き。だがその視線は、確かにエインの背を追っていた。そして次の瞬間、その表情は消える。また無邪気な少年の顔に戻る。ノアは自分の腕をさすった。
「……痛いなぁ」
ぽつりと呟く。だが、その声には、先ほどとは違う響きがあった。広間の奥、崩れた石柱の影が、静かに揺れる。クノッソスの闇は深い。そして――その闇の中で、まだ誰も知らない何かが、確かに動き始めていた。