ダンジョンに生まれた私は、英雄の魂を育てて喰らう 作:ヨーヨーヨー
石畳に落ちた水が、薄く光を反射していた。夜の路地は、表通りの喧騒から隔絶された静寂をまとっている。そこに、ひとつの影が溶け込むように立っていた。
「……おい、リリ。今日はツイてるだろ」
背後からかかる、酒と薬草、そして汗の混じった匂いを伴う声。リリルカ・アーデは、小さく肩をすくめた。慣れている。どう返せば相手の機嫌を損ねず、かつ自分を守れるか。
「……はい」
答えは短く、低く。だが、その短さが、相手の苛立ちを増幅させることも知っている。ソーマ・ファミリアの団員は、腕を乱暴に掴む。
「さっさと出せ。今日は――」
言葉はそこで途切れた。路地の入口に、一人の少女が立っていたからだ。淡い色の髪、夜の街に自然に溶け込む服装、年はリリルカとほぼ同じか、少し上。
「……あ?」
団員が眉をひそめる。苛立ちは隠せない。少女は、静かに、ゆっくりと歩を進める。靴音は街の喧騒に吸われ、ほとんど聞こえない。
「ねえ」
声は柔らかい。けれどその内容と声の印象には、極端な不釣り合いがある。団員の顔が歪む。
「はぁ? なんだてめ――」
反論しようとした瞬間、背中に冷たい感覚が走る。怒りや殺意、威圧ではない。自分が存在する“肉の塊”として、評価される感覚。息が一拍遅れる。
「……チッ」
理由の分からない苛立ちに、団員は舌打ちし、腕を離す。仲間に声をかけ、夜の路地へと戻っていった。
リリルカはその場に取り残され、腕に残る指の痕を見つめる。助かったの? 本当に? 不安と安堵が入り混じり、しばらく動けない。
「……だいじょうぶ?」
少女は少し距離を保ったまま声をかける。触れず、近づかず、ただ存在を確認するだけ。その距離感が、逆に安心感を生む。
「……はい」
リリルカはかすれた声で答える。少女はじっと全身を見渡すが、欲も同情もない。ただの観察。
(……変な人)
リリルカの胸に浮かぶ感想。怖さはある。しかし、先ほどの男たちよりも安全だと直感できる。
「……そのままじゃ、いつか壊れるよ」
ぽつりと、独り言のように少女が呟く。意味は不明だが、重みだけが残る。リリルカは黙ったまま受け止めるしかなかった。
「……じゃ」
少女はそのまま踵を返す。名前も知らない。呼べない。
夜の通りに溶けるように消える背中を見送り、リリルカはようやく動き出す。裏道を駆け抜けると、胸の奥に残る奇妙な感覚を振り切ろうとする。
――その頃、少女はさらに奥の袋小路で壁にもたれ立つ。人の気配が完全に遠ざかるのを確認してから、路地へ足を踏み入れる。
影が石畳に伸び、形がわずかに歪む。誰にも見られない位置で、静かに、確実に、状況を掌握している。
数分後、路地は何事もなかったかのように静まる。血の跡も争った痕もない。ただ、人が一人分、いなくなっただけ。少女は軽く手を払う。服の埃を落とすような仕草。
(……運が良かったね)
小さな背中に向けて、心の中でだけ呟く。あの小さな獣人の少女は、まだ“使い捨て”ではない。
喉の奥で、音にならない笑いが漏れる。クフフ。
――そして翌日。
シエラは、何食わぬ顔で、いつもの露店の前に立っていた。油の香ばしい匂いが鼻をくすぐり、じゃが丸くんの屋台を観察する。
胸の奥には、昨夜の影の記憶が微かに残る。目には見えないが、体はその温度と空気の感触を覚えている。
(……面白い)
シエラは独り言のように呟き、視線を通りの向こうに移す。街の人々は日常を営む。魔石も血もない、普通の世界の中で。だが、観察者としての彼女の目は、そこに潜むわずかな異変や感情の欠片も逃さない。
この日常の一瞬が、次に訪れる冒険、そしてベルとの遭遇を静かに予感させていた。
影は今日も街を歩く。石畳を踏み、風を読む。光の中でも、影の中でも、存在は確実に生き続ける。
クフフ、と。小さな笑いが、夜の路地に溶けていった。