ダンジョンに生まれた私は、英雄の魂を育てて喰らう 作:ヨーヨーヨー
夜明け前のオラリオは、昼とはまるで別の街だった。
城壁の上を渡る風は冷たく、遠くに見えるバベルの塔だけが、淡く白い輪郭を空に浮かび上がらせている。
ベル・クラネルは、今日も一人――ではなかった。
正確には、ここに来るようになってから、もう何日も経っている。
◇
第十階層で拾われた、ベルの落とし物を届けに現れたのは、ロキ・ファミリアの第一級冒険者――“剣姫”アイズ・ヴァレンシュタインだった。
それは偶然ではなく、ベルとリリルカの動向を案じた受付嬢エイナ・チュールが、密かにギルドの権限でアイズに探索の協力を依頼していたためである。
アイズはベルに装備を返却し、短い雑談の中で、ベルが「正式に戦い方を教わった経験がない」ことを知る。ベル自身もまた、独学と実戦だけに頼ってきた自分の戦い方に限界を感じ始めていた。そしてアイズの提案により、ベルは彼女から剣と戦闘の基礎を学ぶことになる。
◇
誰にも言わず、早朝。オラリオを囲う城壁の上。人通りのない石の通路で、ベルとアイズは、ほぼ毎日向き合っていた。訓練は、最初から容赦がなかった。
「来て」
短い一言。鞘に収めたままの剣。アイズは構え、ベルを見る。ベルは喉を鳴らし、ヘスティアナイフを強く握り直した。
「は、はい……!」
踏み込む。だが。ガン、と乾いた音。鞘とナイフが触れ合う前に、体勢を崩される。
「……死角を、作っちゃだめ」
「え……?」
「視野を……もっと、広く」
それだけ。説明は、ほとんどない。実戦形式。とにかく、動いて覚えろ、というやり方だった。ベルは息を切らしながら、何度も立ち上がる。
(速い……!)
視線を外した一瞬で、もう背後を取られている。踏み込みの角度、距離の詰め方、重心の移動、すべてが違う。
「もう一回」
「は、はいっ!」
何度も何度も打ち合い、受け止められ、弾かれ、転ばされる。
「……今のは?」
「……よかった」
「ほ、本当ですか!?」
「……少しだけ」
それがアイズなりの、最大級の評価だった。だが、ベルには分かっていた。
彼女は、教え方が苦手なのだ。動きで示すことは完璧でも、それを言葉に変換する術を、ほとんど持っていない。
(それでも……)
一緒に剣を振れる時間は、嬉しかった。何より、胸の奥が熱くなる。
追いかける背中が、目の前にあるから。
◇
そして――
ある日の朝。いつものように、訓練が終わり、ベルが膝に手をついて息を整えていた、その時だった。
「……ふむ」
低く、落ち着いた男の声が、背後から聞こえた。二人は同時に振り返る。城壁の端に、いつの間にか立っていた男。
年の頃は三十代半ばほど。無造作に束ねた黒髪。旅人のような外套。腰には、ありふれた長剣が一本。どこにでもいそうで、しかし――
「動きが、少し硬いな」
ベルはびくっと肩を跳ねさせた。
「え……?」
男は歩み寄りもせず、少し距離を保ったまま、穏やかに頭を下げる。
「失礼。盗み見するつもりはなかった」
「朝の散策で、たまたま通りかかっただけだ」
その声には、妙な余裕があった。敵意は感じない。だが、油断もできない。アイズが自然と、ベルの前に半歩出る。男はそれを見て、くすりと微笑んだ。
「安心してくれ。俺は怪しい者じゃない」
まるで、疑われることに慣れているような言い方だった。
「辺境の国から流れてきた、ただの剣士だ」
「名は……ローエン」
ベルは戸惑いながらも、小さく頭を下げる。
「ベル・クラネルです……」
アイズも短く名乗った。
「アイズ」
ローエンは、その名を一瞬だけ噛みしめるように聞き、そして静かに頷いた。
「なるほど」
ほんの一瞬。アイズは、なぜか胸の奥に、わずかな違和感を覚えた。
視線が――どこか、深い。自分という存在を、外側から眺めているような。
だが、それはすぐに消えた。
「……何か用?」
アイズが警戒を込めて問う。ローエンは、両手を軽く上げる。
「ただの興味だ」
「君たちの訓練が、少しだけ気になってな」
ベルが慌てて口を挟む。
「え、えっと……すみません、邪魔でしたか?」
「いや」
ローエンは首を振る。
「むしろ逆だ」
「とても、良い訓練をしている」
アイズが微かに目を細める。
「……そう?」
「剣の扱いは、見事だ」
視線はアイズに向けられていた。一切の媚びも、賞賛を盛る様子もない。ただ、事実を述べているだけの声。
「だが――」
そして、ベルのほうへと向けられる。
「教え方は、少し不親切だな」
ベルはぎくりとした。
アイズの眉が、ほんのわずかに動く。
「……私は、これで」
ローエンは、首を横に振る。
「悪いとは言っていない」
「ただ――この子には、別の伝え方のほうが合う」
その言葉に、ベルは思わずローエンを見た。
「別の……伝え方?」
「そうだ」
ローエンは、ゆっくりと城壁の中央へ歩き出す。
「少しだけ、試してもいいか?」
◇
ローエンは、自分の長剣を抜かなかった。鞘のまま、軽く握る。アイズと同じだ。
「ベル」
呼び方は、自然だった。
「構えてみろ」
ベルは慌ててヘスティアナイフを構える。ローエンは、ベルの正面に立つ。
「今、君は――」
一歩、踏み込む。
「右肩に力が入りすぎている」
トン、と軽く鞘でベルの肩を叩く。
「ここだ。ここが固まると、踏み出しが遅れる」
「え……?」
「重心は、もっと前だ」
今度は、足元を鞘で指す。
「地面を蹴る意識じゃない。前へ倒れ込む感覚だ」
ベルの背中に、軽く手が触れる。
一瞬、――冷たい。そう感じたのは、ほんの錯覚だった。
「視線は、相手の剣じゃない」
「胸だ。いや、正確には――」
ローエンの指先が、アイズの胸元の少し横を指した。
「このあたり」
「体は、必ず動く前に兆しを出す」
ベルは、息を呑む。
(……分かりやすい)
アイズの教え方とは、まるで違う。
理屈として、頭に入ってくる。
「じゃあ」
ローエンは、静かに下がる。
「アイズ、頼めるか」
アイズは一瞬だけ戸惑い、それから頷いた。
「……うん」
模擬戦。ベルが踏み出す。さっき言われたことを、必死に思い出しながら、肩の力を抜く。視線を、剣ではなく、体へ。
(今だ……!)
――ガン!
今までより、はっきりとした手応え。アイズの鞘を、弾いた。
「……!」
アイズの目が、わずかに見開かれる。
「今の」
ローエンが低く言う。
「いい」
ベルの胸が、大きく跳ねた。
「ほ、本当ですか!?」
「嘘を言う意味がない」
その声音は、ひどく淡々としていた。
◇
その日から、奇妙な訓練が始まった。アイズが模擬戦で動きを見せる。ベルは全力で挑み、叩きのめされる。そして、その合間にローエンが、言葉で修正を入れる。
「今の距離は近すぎる」
「踏み込みは一拍、早い」
「刃は振るものじゃない、置くものだ」
「……?」
ベルが首を傾げると、
「そこに、置くんだ」
と、実際に位置を示す。アイズは、最初こそ黙って見ていた。だが、次第にローエンの言葉が、驚くほど正確であることに気づいていく。
体の構造、筋肉の使い方、視線の癖、ほんのわずかな重心のズレ。それらを、まるで最初から知っているかのように、迷いなく指摘してくる。
(……どうして、そこまで分かる?)
アイズは剣を構えたまま、ローエンをちらりと見る。その立ち姿は、どこまでも静かだ。隙がない。呼吸すら、薄い。まるで――最初から、戦うためだけに存在しているような。
◇
数日後。アイズは、はっきりと違和感を覚え始めていた。ベルの成長が、明らかに早くなっている。それだけではない。
(……私も)
ローエンの言葉は、ベルだけでなく、自分にも刺さる。剣を振るたび、無意識の癖が浮き彫りになる。今まで、気づかなかった部分。踏み込みの甘さ、体重移動の遅れ。
「……ローエン」
模擬戦の合間。アイズは、ぽつりと声をかけた。
「……あなたは……」
言葉に詰まる。
ローエンは、わずかに目を細めた。
「どうした?なにか悩み事か?」
「……うん」
アイズは、正直に答えた。
「最近、伸び悩んでいる」
「何か……きっかけが、ほしい」
それは、珍しく長い言葉だった。
ローエンは、少しだけ考えるように視線を空へ向ける。
そして。
「なら――一度、やってみるか」
アイズの心臓が、強く打った。
◇
模擬戦。相手は、ベルではなく、ローエン。互いに鞘のまま、距離を取る。風が、二人の間を抜ける。
(……静か)
ベルは、少し離れた位置から、息を殺して見ていた。構えた瞬間。空気が変わる。
アイズが踏み込む。
速い。迷いがない。
だが――
ガン。
ほぼ同時に、ローエンの鞘が受け止める。重さを殺し、流し、弾く。
(……え?)
ベルは、目を疑った。アイズの剣を、正面から止めた。
そのまま、距離を詰め、刃が交差する音が、連続する。速い。だが、荒くない。まるで、踊るように。
アイズは、息を呑む。
(……読まれてる)
踏み込みの前。重心が動く、その一瞬前。すべてを先読みされている。
だが、――ふっと。
ローエンの動きが、一瞬だけ遅れる。ほんの、わずかな隙。
反射で、アイズは踏み込んだ。
ガン!
ローエンの鞘が弾かれ、体勢が崩れる。
「……そこまでだ」
ローエンが、素直に一歩下がった。
「参った」
静かな敗北宣言。だが――アイズは、胸の奥がざわついていた。
(……今のは)
勝った。確かに、勝った。けれど・・・。
(……違う)
ローエンの剣は、最初から最後まで、こちらを殺しに来ていなかった。試すように。導くように。
「……ローエン」
アイズは、思わず口を開いた。
「あなたのほうが……剣は、上」
ローエンは、小さく肩をすくめる。
「戦闘力は、君のほうが高い」
「剣術と、それは別だ」
あまりにも冷静な分析だった。
◇
しばらく、沈黙が流れる。やがてアイズは、ぎゅっと鞘を握りしめた。
「……お願いがある」
ローエンが、静かに視線を向ける。
「私に」
一瞬、言葉が詰まる。だが、はっきりと言った。
「剣を、教えてほしい」
ベルが、思わず息を呑んだ。ローエンは、少しだけ目を見開いた。
「……理由は?」
アイズは、視線を落とす。
「……強くなりたい」
それだけじゃない。胸の奥に、別の感情が浮かぶ。ローエンの立ち姿、余裕、落ち着いた声、剣を交えた時に感じた、奇妙な安心感。
(……お父さんも)
ふと、そんな姿だったのだろうかと、思ってしまった。覚えていない。顔も、声も。
それでも。胸の奥に残る、あの感覚だけが、重なる。
「……嫌なら、いい」
そう言いかけた時。ローエンは、静かに首を振った。
「暇な時間でよければ」
「引き受けよう」
アイズの胸が、少しだけ軽くなる。ベルは、思わず声を上げた。
「えっ!? あ、あの……!」
ローエンはベルを見る。
「君も、今まで通りだ」
「アイズが動きを見せ、俺が言葉で補足する」
「それが、一番効率がいい」
ベルの喉が鳴った。
「……はい!」
◇
その場に立つ三人の足元で、朝の光がゆっくりと広がっていく。ローエンは、空を見上げる。誰にも聞こえないほど、小さく息を吐いた。
(……悪くない)
二つの魂。片方は、燃え盛るような光。もう片方は、研ぎ澄まされた、透明な輝き。
――近くで、観察するには、これ以上ない距離だ。
ほんの一瞬。彼の影が、城壁の石の上で、わずかに歪んだ。
だが、それに気づく者は、誰もいなかった。