沈みゆく終末の箱庭で、魔法使いと出会う   作:猿だモN

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プロローグ(後編)

 濃密な白い冷気が漂う地下通路。壁面に張り付いた氷が青い燐光を反射して、幻想的に煌めく。

 氷に覆われた世界の中心で、青いフードの少女が立っていた。

 

「ぁ……」

 

 糸の切れた操り人形のように彼女が揺らいだ。

 状況を把握できない勝也だが、思考よりも先に身体が弾き出される。

 無意識のまま、彼女の身体を支えようと右腕を伸ばした。

 ——右腕が動く?

 つい先ほどまでメタルオーガの呪詛に蝕まれ、重く垂れ下がっていたはずの腕。先程までの激痛が嘘のように消えている。

 脳裏に疑問がよぎるが、それを乱暴に振り払い、倒れ込む寸前の少女を受け止めた。

 

「おい、しっかりしろ! 大丈夫か!」

 

 投げかけられた声には、隠しきれない動揺が混じっている。

 フードから覗く顔は、死人のように青白い。

 少女は途切れ途切れの声を漏らす。

 

「あの魔物の……氷像に……触れ、させて……」

「何を言ってる。そんなことより先に傷の手当てを優先だ」

「いいから、早く……っ、ごほっ、げほっ……ぅ」

 

 無理に声を張り上げた反動で、細い喉が激しく咳き込む。

 

「カッちゃん、先にその子を氷像まで運んじゃいなよ。その間にワタシが回復薬を引っ張り出しとくからさ」

 

 勝也は肩越しにシツハへと視線を走らせた。言葉を交わさなかったが、眼差しで謝意を告げる。

 折れてしまいそうな少女を慎重に抱き上げると、床を踏みしめて立ち上がった。

 冷気が肌を刺す中、メタルオーガの氷像へと歩み寄る。

 

「ここでいいか」

 

 問いに答える余力すらないのか、少女は震える指先をただ一点、氷像の表面へと触れた。

 氷像から青い燐光が漏れ、指先へと吸い込まれていく。

 歪む唇から、掠れた呟きが漏れ出す。

 

「……弱い」

「どういう意味だ?」

 

 勝也は眉をひそめて問い返す。

 少女は何も語らなかった。単に返答を拒んだのか、あるいは余裕がないのか。その真意を推し量ることができない。

 背後から小瓶の音を響かせて、シツハが駆け寄ってくる。

 

「用意できたよ。これで一息つこうよ」

「……助かる。飲めるか?」

 

 少女が、首を縦に振る。

 彼女の口に薬液を流し込み、少しずつ苦悶を和らいでいく。

 張り詰めていた空気を抜くようにシツハが大きく伸びをした。

 

「あーもう! 心臓に悪いってば。今日は厄日だね、本当に疲れたー」

「すまない……今回は俺の判断ミスだ。三人で即座に離脱を試みるべきだった」

「今さら反省会? 足手まといの子を抱えて、鬼ごっこするのは、それはそれでキツかったと思うけど……カッちゃんの選択が正解だったんじゃない? 結果オーライ、オーガもざまあないし」

 

 シツハは茶化すように笑いながら、自分たちを死の淵に追いやった怪物の氷像をちらりと見やる。

 その一秒後。

 彼女の頬から笑みが消えた。

 沈黙の氷像を凝視する。

 

「お前までどうした?」

「……ああ、そういうこと」

 

 シツハは低い声を漏らした。

 勝也が問い質そうとした瞬間、いつもの能天気な笑顔を貼り付ける。

 

「なーんて、なーんでもないよ! ちょっと氷が綺麗だなって思っただけ。それより、カッちゃんの右腕は大丈夫なの?」

 

 シツハの不自然な態度が気になったが、呪詛に犯された右腕も確認すべき事項なので後回しにする。

 

「痛みはない。問題なく動かせる」

 

 勝也は拳を握り、開く。動作に支障はない。

 だが、黒い紋様が肌に根を張っている。このまま放置すれば、いつ牙を剥くか分からない。

 シツハは顎に手を当てて考え込む。

 

「状態異常の回復薬で、その汚いタトゥーも消えてくれるかな?」

「汚いタトゥー呼ばわりはやめろ。まるで汚物にでも触れたような言い草だぞ」

「軽口を叩ける余裕があるなら、まだまだ元気だね」

 

 シツハはいつもの調子で笑う。命に別状がないと確信したようだ。

 パキリ、と結晶を砕いた硬質な音が響いた。

 勝也の胸に抱いた少女の唇が、動く。

 

「"座標を入力——転移先:工房"」

「えっ? ちょっと、なに……っ!?」

 

 困惑に満ちた声を無視して、地下の薄暗さを塗り潰すほどの白光が包み込む。

 次の瞬間、三人の姿は掻き消える。

 静寂が戻った地下通路。

 龍脈石が氷像を照らし続けていた。

 

 

 眩い光が消え去った後、眼前に広がる光景はちぐはぐだった。

 一見すると、岩肌が剥き出しな天然の洞窟。

 だが、見上げる天井が剥き出しのコンクリートに覆われ、足元には「駐停車禁止」の掠れた路面標示が描かれている。

 周囲には机にノート、ペンなど生活道具が放り出され、生々しい人の気配が空間に満ちていた。

 

「——で、ここはどこかな?」

 

 シツハの声は冷ややかだ。

 彼女の指先はすでに銃の引き金にかけられ、銃口は寸分の狂いもなく少女の眉間を捉えている。

 腕の中で微かに身じろぎした少女を感じ、勝也は短く制した。

 

「銃を下ろせ、まずは話を聞くのが先だ」

「見知らぬ場所にいきなり飛ばされて、警戒するななんて無理だし」

「……ここは、私の工房です」

「へぇ、お家なんだ? 勝手に招待してくれた理由は?」

「彼の腕にかかった呪いを解きたいのでしょう……だから、連れてきただけです」

 

 返答は簡潔で理知的だった。

 少女は勝也の腕をすり抜け、覚束ない足取りで立つ。先ほどまでの衰弱ぶりが嘘のようだ。

 

「随分と元気になったね。さっきまで死にかけて、今にもお迎えが来そうだった人とは思えないよ」

「……貴方たちがくれた回復薬が効いたのでしょう」

 

 少女は背筋を伸ばし、何事もなかったように立ってみせる。

 だが、フードで隠せない血の気を失った顔色、わずかに定まらない重心が、明らかな疲弊を物語っていた。

 

「強がるな。足元がおぼつかない自覚くらいはあるだろ」

「問題、ありません……自力で立てます」

「ほら、使いなよ。特別サービス」

 

 シツハが事務椅子を蹴るようにして滑らせる。

 それを無言で受け止める少女。拒むように小さく首を振る。

 椅子を脇へと押しやり、不安定な足取りのまま壁際の棚へ向かって歩き出す。

 

「——ッ」

 

 数歩も進まないうちに、細い膝が折れかける。

 勝也はその肩を掴み、身体を支え止めた。

 

「大人しく座っていろ」

 

 有無を言わせぬ力で引き寄せられる少女。半ば強引に椅子へと押し留められる。

 座らされた彼女は不満を隠そうともせず、勝也を睨み返した。

 一連のやりとりを、茶化すようにシツハが口を開く。

 

「あーあ、カッちゃんは強引だねえ」

「無理をさせて倒れられたら困るだけだ」

「ふーん、そうなんだ……ところで、その棚に用があるの?」

「……呪いを抑える回復薬が入っています」

「だってさ、カッちゃん。取ってきてあげなよ。男の甲斐性を見せる絶好のチャンスだよ」

「お前が行く気はないのか?」

「ワタシもその子と仲良くなりたいなーと思ってさ」

 

 わざと視界に入る位置まで右手の銃を持ち上げ、勝也たちへと歩み寄ってくる。

 向けられた視線に微塵の油断もない。

 少女が不審な挙動をすれば、即座に引き金を引く。そう宣言するかのような目だ。

 

「……シツハ。早まるなよ」

「何も起きなければ、何もしないよ」

 

 これ以上の忠告は無意味だろう。勝也は何も言わず背を向けて歩きだす。

 埃の積もった棚の前へ立ち、迷いのない手つきで扉を開く。

 

「上から五段目。赤いラベルが貼られた瓶。それが回復薬です」

 

 少女の指示に従い、勝也は棚の奥へ視線を向ける。

 目的の代物を視界に捉えた瞬間、思考が凍りつく。

 指先がわずかに止まる。

 "それ"は「薬」と呼ぶには、あまりにも場違いな姿。他に条件に当てはまりそうなものは見当たらない。これしかないと分かっている。

 だが、あまりの奇妙さに、素直に手を伸ばす気になれなかった。

 

「カッちゃん、まだー?」

 

 シツハの声に、不穏な金属音が重なる。

 今にも引き金が引かれかねない圧を背中に感じ、勝也はもはや猶予なしと判断して掴み取った。

 素早く振り返り、少女に"それ"を突きつける。

 

「本当に、これで合ってるんだな?」

「えっ?」

 

 勝也の手元を見たシツハは、目を見開いた。

 言葉を失った二人をよそに、少女は小さく頷く。

 

「はい。間違いありません」

「——って、コーラじゃん!!」

 

 シツハの叫びが、工房に木霊した。

 少女は小首を傾げる。

 

「何か、問題でも?」

「大ありだよ! あの回復薬、どう見てもコーラの空きペットボトルに直詰めされてるじゃん!? 雰囲気もヘッタクレもないよ!!」

 

 勝也が握っているのは、あまりにも見慣れた赤いロゴの容器。爽快感を煽るフォントは健在で、ラベルの上から油性マジックで解読不能な文字列が無造作に書き殴られている。

 少女は「ふむ」と一つ頷くと、語り始めた。

 

「実に利便性に優れた容器です。多少の衝撃では破損せず、透明ゆえ中身の変質も即座に確認できる。加えて高い気密性——ええ、保存容器としては理想的かと」

「いや、理屈は分かるが……そういう問題じゃない」

 

 勝也はこめかみを押さえる。

 確かにペットボトルは有用な再利用資材だ。

 だが、得体の知れない神秘が満ちたこの場で、あまりにも生活感に満ちた代物を突きつけられると、感覚が追いつかない。

 ——いや、考えるのはやめよう。

 勝也は強引に思考を切り替えた。形がどうあれ、結果さえ伴えばいい。わざわざ怪しげな薬瓶に収まっている必要などないのだ。

 

「分かった。これを飲めば、腕の呪いは消えるんだな?」

「はて。なぜ飲むのですか?」

「……飲み薬じゃないのか?」

「間違いなく腹を下しますよ」

「ややこしいし! 最初からそんなものに詰めないでよ!」

 

 シツハの怒声が飛んだ。この瞬間ばかりは、銃口ではなく自分の口で戦っていた。

 少女はどこ吹く風で、机の引き出しから新たなものを取り出す。

 

「栓を外して、これを取り付けてください」

「……俺を観葉植物か何かと勘違いしてないだろうな?」

 

 勝也が思わず引きつった声を出す。

 差し出されたのは、100円ショップの園芸コーナーで見かける、ペットボトル連結用の「じょうろノズル」だった。

 

「何を言っているのか理解できません。肌に直接、万遍なく振り撒く必要があるのです。勢い余って薬液を無駄にされても困りますから」

「そうか……そうだな」

 

 勝也は抗うのをやめた。大人しくキャップを付け替える。

 シツハも毒気を抜かれたようで銃口を下ろしていた。

 

「なんか……馬鹿馬鹿しくなってきた」

「シツハさんと言いましたか。向こうにあるタオルを取ってきてもらえますか?」

「うおぉ、いきなり顎で使うじゃん」

「その間、カッチャンさんには服を脱いでもらいます」

「おおう、な、名前……」

 

 シツハが何かを言いたげな眼差しを、勝也に向ける。

 今までの会話から拾い上げたのか、少女は「カッちゃん」という愛称に、あろうことか敬称の「さん」を接木していた。

 

「……自己紹介をさせてくれ。俺は黒町 勝也。カッちゃんはただの呼び名で、カッちゃんさんという名前ではない」

 

 勝也の訂正に、少女の動きが止まる。

 そのまま考え込むように頷く。

 数秒の後。

 深く被っていたフードを右手で撥ね退けた。

 隠されていた素顔を露わにし、二人を正視する。

 

「——今までの非礼を深く詫びます。混乱を招く転移、そして何より、命の恩人に対して自らを明かさず不躾な指示を重ねたこと。心より申し訳ありませんでした」

 

 そこにいたのは、現実感すら希薄な幻想的な美貌を湛えた少女だった。

 セミロングの銀髪は透き通るような水色を帯び、重たげに落ちたまぶたの影から、凛と研ぎ澄まされた目尻が覗いている。

 勝也とシツハの姿を藍色の瞳に映し込み、彼女は静かに居住まいを正した。

 

「あ、あっ、はい、えーと……ワタシは丸井咲 シツハです……こ、こちらこそ、よろしく……ね?」

 

 洗練された気品に気圧され、シツハは上擦った声のまま、慌てて頭を下げる。

 少女はそっと胸に手を当て、鈴の音のような声で名乗った。

 

「私のことは、アリナと呼んでください……この地でできた唯一の友人が、そう呼んでくれました」

「そ、そうなんだ……その友人さんも人が悪いっていうか。アリナさんのおかしなところとか、指摘してあげればよかったのにね」

 

 シツハは無理におどけてみせた。

 かすかな影が、アリナの表情に差した。

 

「……彼女は、死んでしまいました」

 

 その声は平坦で起伏を欠いている。

 言葉の奥に、痛みが滲んでいた。

 

「私は、自らの不備を省みる機会を、失ってしまったのです」

「……ごめんなさい」

 

 シツハはばつが悪そうに肩をすぼめた。

 そんな彼女を気に留める様子もなく、アリナは澄んだ眼を勝也へ向ける。

 

「右腕を確認します。上着を脱いでもらえますか? 呪いの深さ次第では、別種の処置が必要になるかもしれません」

「分かった。よろしく頼む」

 

 その双眸を疑うことなく、勝也は躊躇なく制服を脱ぐ。

 露わになった上半身。そこに無数の傷痕が刻まれている。

 アリナはわずかに目を細めた。

 

「これは……いえ、今は」

 

 湧き上がる動揺を胸の奥に押し込み、アリナは白く繊細な指先を、赤黒く変色した右腕に触れた。

 

「……完全に呪いが根を張る前に対処できそうです。この程度なら数日で完治するでしょう」

「ほい、タオルを持ってきたよー」

「丸井咲さん、感謝します。それでは黒町さん、机の上のタオルに右腕を置いてください……多少の痛みは、我慢を」

 

 指示に従い、勝也は右腕を差し出した。

 アリナはじょうろ付きのボトルを掲げ、薬液を振り撒く。

 清浄な液体が肌に触れた瞬間、痛みが走った。

 勝也は顔色一つ変えず、ただ黙然と受け止める。

 呪詛の痣がどす黒く浮かび上がり、液体と混ざり合って、おぞましく泡立つ。

 

「うわ。見た目がコーラみたいになってるし」

「確かにそうだな。シツハ、一杯どうだ?」

「飲むかい、ボケ。炭酸より先に命が抜けちゃう」

 

 シツハが鼻で笑う。

 そんな外野の軽口をよそに、アリナはタオルで拭い去った。肌を滑るたび、呪詛の痣が薄れていく。

 

「具合はどうですか?」

「見ての通りだ。軽くなった」

 

 不気味な紋様が薄れた右腕を見せ、拳を開閉する。

 アリナは感情の色を映さない瞳で見つめていた。

 

「あとは経過を待つだけです……ただ、一つ問題はありますが」

「問題?」

「申し訳ありませんが、隣の部屋で……数時間ほど待ってもらえますか?」

 

 詮索するつもりもない勝也は素直に頷こうとする。

 それより早く、シツハが冷ややかな声を差し挟んだ。

 

「残念だけど待てないよ」

「俺は別に構わない。処置をしてもらった上で、これ以上は——」

「カッちゃんは黙っていて」

 

 シツハは一歩も引かないという顔で勝也を一瞥して、改めてアリナへと視線を戻した。

 

「アナタが悪い人じゃないのは分かった。けどね、数時間を託せるほどワタシは信頼できてるわけじゃないんだ」

「……理由を伺っても?」

「数時間の間にカッちゃんの右腕が悪化する可能性があるよね——それ、アナタも心当たりがあるんじゃない?」

 

 アリナは沈黙した。

 一瞬の沈黙を経て、重々しく言葉を紡ぎ出す。

 

「三十分。これが私が譲歩できる限度です」

「それでいいよ——行こう、カッちゃん」

「おい、待て」

 

 勝也の返事も待たず、シツハは強引にひっ掴んだ。引きずられるように隣の部屋へと連れ込まれる。

 部屋の境界を仕切る暗幕を、叩きつけるように閉ざした。

 遮断された視界。

 勝也は吐息をつき、無造作に制服を肩へと引っかける。

 

「……今回のは俺の不徳だ。お前まで付き合う必要はない。先に拠点へ戻っていろ」

「却下。丸腰で、おまけに右腕まで呪われてるカッちゃんを放置して帰れるわけないじゃん」

 

 いつもの軽薄さは微塵もなかった。

 痛々しい目で、勝也を真っ向から捉える。

 

「ねえ、分かってる? さすがのカッちゃんでも、あの子が隠し事の塊だってことくらい」

「……ああ。怪しいという一点において、お前の疑念は正しい」

「だよね? だったら、あの子に主導権を握らせちゃダメなんだよ。この三十分だって、ワタシからすると爆弾のタイマーを眺めてる気分なんだから」

「……お前の目から見て、アリナの行動には、何があると思う?」

「ワタシに精神鑑定でもしろって言ってるの?」

「アイツの行動は理屈じゃない、剥き出しの善意が先走ってるんだ」

「それは……まあ、否定はしないけどさ」

 

 一拍置いて、シツハは言葉を続ける。

 

「でも、それとこれとは話が別だよね。彼女が抱えてる隠し事が、ワタシたちを殺す毒になる可能性だってあるんだよ」

「けど、逆の立場になって考えてみろ。アリナからすれば、俺たちだって武器を持った得体の知れない余所者だ。そんな相手に、自分の命運を左右する秘密を、明け透けに話す理由なんてないだろ」

 

 言葉を重ねるごとに、勝也の声に力がこもっていく。

 

「何事も、まずは信じるところからしか始まらない——初めから疑ってかかったら、結べるはずの縁も零れ落ちていく。そんな気がするんだ」

「……信じ込んだ結果、ワタシが泣く羽目になるのは御免だけどね」

 

 わざとらしく、シツハは肩をすくめた。

 その仕草に、勝也は胸の奥を締めつけられる。

 

「不甲斐ない俺のために、お前が神経を尖らせてくれていること……ちゃんと分かってる」

「とびきり面倒な相棒に恵まれちゃったなー」

 

 シツハが自嘲の笑みを浮かべた。

 コロコロ……。

 乾いた硬質な音が静寂を打つ。

 隣室との境界である暗幕の下から、一本のペットボトルが転がり出してきた。

 視線がそれを追う。

 冷たい手で心臓を掴まれたような戦慄が走る。

 ペットボトルの表面には、べっとりと——まだ温かさを残していそうな、生々しい血の手形が刻みつけられていた。

 勝也は弾かれたように隣室へと飛び込んだ。

 扉代わりの暗幕を荒々しく撥ね退ける。

 ——遮断されていた地獄が耳朶を打つ。

 防音の結界が霧散したかのように、今にも途切れそうな、獣の呻きにも似た悲鳴がなだれ込む。

 

「ぁ、あ、……ぁぁ、ア、ア……ッ」

 

 冷え切ったアスファルトの上で、アリナは苦しげに身をよじっていた。

 はだけた青い服の隙間から、どす黒く変色した腹部が覗く。傷口から溢れた鮮血が、彼女の細い肢体を無残に染め上げる。

 滝のような脂汗が、苦悶に歪んだ白い肌を濡らしていた。

 

「シツハ、手伝えっ!!」

 

 肺の底から絞り出すような勝也の怒号。

 シツハは反論も、皮肉も、疑念さえも挟まなかった。

 この異常な光景に思考が追いついていないのか、それとも冷静な皮を脱ぎ捨てた勝也の気迫に押されたのか。

 即座に部屋に駆け込み、血の海へと膝をついた。

 

「奥のベッドに運ぶぞ。俺が上体を抱える、お前は足を持て。いいか、衝撃を与えるなよ」

 

 二人の動きに澱みはなかった。

 阿吽の呼吸で、アリナの身体を抱え上げる。

 勝也の右腕が——凄惨な腹部に触れた。

 

「ッ、ぐあ、ぁ……っ」

「カッちゃん! その右腕っ!?」

 

 シツハが悲鳴を上げる。

 焼かれるような激痛が、勝也を襲った。

 消えたはずの呪詛が蠢き出す右腕。アリナの傷口に呼応するかのように赤黒い紋様が這い回る。

 勝也は血の混じった声を叫んだ。

 

「構うな! 今はこいつを運ぶのが先だっ!」

 

 唇を噛み、シツハは動揺を呑み込む。

 二人はアリナを古びたベッドへと滑り込ませる。

 

「傷口を塞ぐぞ。回復薬と包帯はどこだ!」

「待って、その前にその腕……なんで、こんなに酷くなって……」

 

 勝也の右腕は呪詛に埋め尽くされ、どす黒く変色していた。

 枯れ葉が擦れるような声が耳に届く。

 

「その、右腕……移り……ましたか……」

 

 混濁した瞳が、わずかに焦点を結ぶ。

 アリナは、勝也の右腕を見つめていた。

 

「どういうことだ。なぜ俺の呪いが再発する?」

「……同じ、呪い……だから……」

「——まさか!?」

 

 雷に打たれたような衝撃が、勝也を貫いた。

 脳裏に蘇るのは、地下通路で対峙した鉛色の怪物。

 メタルオーガの腹部に刻まれていた傷跡。

 右腕を斬り飛ばしただけで呪詛を返してきた、あの理不尽な反撃。

 ならば——。

 あのメタルオーガの腹部に、最初から「深く重い傷」を負わせていたのは誰だ。

 まともに戦うなと、血を吐きながら警告してきたのは。

 そしてなぜ、彼女は「呪いを解くための薬」を、最初から用意していたのか。

 

「くそっ、なぜ気づかなかった……!」

 

 洞察力の欠如を呪うように吐き捨てる。

 パズルのピースは、最初から全て揃っていた。

 

「まだ間に合う! あの回復薬を使えば!」

「……無駄、です……私の呪いは、もう、根が深すぎる……その薬では……抗え、ない……」

 

 アリナの腹部に浸食した呪詛は、勝也の右腕とは比較にならないほど、黒く、深く、彼女の命そのものを蝕み尽くそうとしていた。

 

「……悲し、まない、で……方法なら、あります」

「本当か。何をすればいい」

 

 勝也は食い入るように身を乗り出した。

 その瞳には、縋るような光が宿っている。

 アリナは震える視線を、傍らに立つシツハへと向けた。

 

「丸井咲さん……私の、指示で……治療して、ほしい」

「……カッちゃんじゃなくて、ワタシにやれって言ってるの?」

「彼は……ダメです……右腕が、妨げになる……」

 

 アリナは、勝也を見ようとはしなかった。

 勝也は無言で、己の右腕を凝視する。

 呪詛が疼くたび、アリナの喉の奥から苦しげな音が漏らす。

 隣に立つシツハが抱いた警戒と疑念。

 胸に不安がよぎる。

 

「シツハ。今だけは……」

「受け取って、カッちゃん」

 

 遮るように、シツハは勝也の胸元へ、重々しい銃器を押しつけた。

 

「これ。ワタシが持ったままだと、不安になるでしょ?」

「……あとは、頼む」

 

 掌に伝わる銃身の手汗。体温の残滓を、勝也は噛み締める。

 全てを断ち切るように隣室へと足を踏み出す。

 重たい音を立てて、暗幕が閉じる。

 一人残された勝也は、血の気が引くほど強く拳を握りしめた。

 

 

 刻まれた時間は、すでに一時間を超えていた。

 アリナが譲歩した三十分は過ぎ去っている。

 椅子に深く沈み込んだ勝也は、暗幕の扉に視線を縫い留めていた。

 何度も膝が跳ねそうになる。

 暗幕へと指先が伸ばしたい衝動をねじ伏せた。

 

「……ここから離れるか」

 

 喉からこぼれた声は、ひどく他人事のように響く。

 胸の奥に溜まった無力感。目の前の暗幕を引き裂き、中を確かめたい衝動が、理性の縁を削っていく。

 視界の端に、もう一つの出口が映った。

 椅子を軋ませて立ち上がる。

 吸い寄せられるように、出口へと歩み寄った。

 

「暗いな」

 

 一歩先は、工房の外へ続く通路なのか、薄闇に沈んでいる。

 だが今の勝也には、そんなことは些細だった。

 骨の髄まで疼く焦燥を、剣の素振りで叩き落とさなければ、自分が自分を裏切ってしまいそうだ。

 重厚な鋼鉄の扉を押し開け、外へ踏み出す。

 

「——これ、は……?」

 

 そこは、地下駐車場という名の「墓標の海」だった。

 かつて無機質な車両が並んでいたはずの白線内には、整然と、それでいて異様な密度で石造りの棺が横たわっている。

 すべての棺の上には、手向けられたばかりのような一輪の花が供えられていた。凛と咲き誇る色彩が、この場の「死」を色濃く浮き彫りにする。

 アスファルトを食い破った龍脈石の青い燐光が、埃の舞う空間を冷たく浸していた。

 その光はもはや照明ではなく、冥府の底を照らす光のように、勝也の肌を粟立たせる。

 

「アリナ……お前が一人でこれを?」

 

 この閉ざされた地下の支配者は、あの少女ただ一人だ。

 ならば、この何十、何百という石を創り出して、弔いの花を添え続けた主も、彼女以外にあり得ない。

 列をなす棺の中に、ひときわ高く聳える石碑が勝也を目に入った。

 その表面には、深い文字が刻まれている。

 

『この地で出会った友を含めた、あまたの魂へ。

 貴方たちの生きた証を、ここに刻み、抱き続ける。願わくは、穏やかな眠りがあらんことを』

 

 刻まれた文字の溝に溜まった青い光が、涙の跡のように煌く。

 勝也は、ただ、強く瞼を閉じた。

 ——長い時間が過ぎる。

 爆発しそうだった焦燥は、この深い静寂に飲み込まれ、代わりに凪いだ冷たさが胸を占めていた。

 

「こんなところにいたんだ、カッちゃん」

 

 背後から、穏やかな声が届く。

 勝也はゆっくりと目を開き、振り返る。

 視界に映ったのは、シツハの姿だ。

 

「探させたか。すまない」

「別に……もっと荒れてるかと思ったけど、意外と落ち着いた顔だね……こんな景色を見せられたら、そうなるか」

 

 シツハは並び立つ棺の列へと視線を流す。

 重々しい空気に触れ、いつもの饒舌さは影を潜めていた。

 

「アリナちゃんが一人で……こんな重いものを積み上げてたなんてね」

「……アイツは。アリナはどうなった」

「呼びましたか」

 

 そこには血塗れの青いフードを脱ぎ捨て、代わりの衣服に身を包んだアリナが立っていた。

 

「丸井咲さんの治療で助かりました」

「あー、もう。また苗字に戻ってる。名前でいいって言ったのに、アリナちゃん」

「……シツハさんのおかげで助かりました」

「何があったか知らんが、俺の不安が杞憂だったことだけは理解できた」

 

 先ほどまでの刺々しい警戒心は、シツハの顔に混じっていなかった。暗幕の向こうで、二人で共有した命のやり取りがあったのだろう。

 勝也は視線を落とすと、墓標が佇んでいる。

 澱のような疑問が浮かぶ。

 

「一つ、聞いてもいいか。ここにある墓は日の当たる場所へ移そうとは思わなかったのか?」

「……地上の魔物が、踏み荒らします」

 

 言葉を探すように絞り出された声は、ひどく脆かった。

 アリナの肩が目に見えて小さく震える。

 

「そうか。酷なことを聞いたな」

 

 勝也は視線を足元へ落とした。

 不用意な問いが、彼女の傷に触れてしまったのだと悟る。

 

「……貴方たちは、同胞の魂をどのように送るのですか?」

 

 さらりと流れる銀髪の隙間から覗くその表情は、暗闇に取り残された子供のように心細い。

 

「私は異邦の者……彼らの、本当の弔い方を知りません」

 

 その震える視線を、勝也は受け止めた。

 

「ここで本来の作法なんて気にする奴がどこにいる——お前がこれまで積み上げてきたものは、どこに出しても恥じない立派なものだ。それは、俺が保証する」

「カッちゃんの言う通りだよ。ここまで想って、創ってくれたんだよ。眠ってる人たちだって、文句の一つも言わないって」

 

 シツハは迷いのない仕草で、冷え切ったアリナの両手を、温かな掌で包み込む。

 体温が伝わったのか、アリナの指先がかすかに震える。

 それでも眉間に刻まれた翳りは消えなかった。

 

「もし、どうしてもお前が慣習にこだわりたいのなら、俺が所属する組織へ話を持っていく。門前払いを食らう可能性が高いが、伝手を片っ端から当たって、必ず形にしてみせる」

「……感謝します」

 

 かすれた声が、墓前にそっと溶けた。

 だが次の瞬間、シツハが手を叩いて、空気を弾き飛ばす。

 

「そうだ。カッちゃんの右腕を治す薬、もう底をついちゃったみたい」

「なに……?」

「さっきアリナちゃんの治療に注ぎ込んだから。棚の奥まで探したけど、材料もほとんど残ってないし」

 

 アリナが視線を落とした。

 

「見積もりを誤りました……申し訳、ありません」

「気にするな。後悔なんてしない」

「というわけで、しばらくはワタシがカッちゃんの分まで働くことになるってこと……お礼、高くつくからね?」

「お前、この状況でよくそんなことが言えるな」

「だってさ。アリナちゃんみたいな凄そうな子と友達になれたんだよ? 差し引きプラス。むしろお釣りがくるくらい」

「……お前は相変わらず、現金だな」

 

 勝也の口元が、わずかに綻んだ。

 ——そのささやかな安堵を、地を裂く咆哮が塗り潰す。

 

「グォォオオオオオオ!!」

 

 鼓膜を揺らす不吉な残響。

 アリナの顔から血の気が引いた。吸い込んだ空気が凍りついたかのように、彼女の唇が小刻みに震える。

 

「うそ……予想よりも早すぎる……っ」

 

 直後、空気が変質した。

 勝也の右腕に走る紋様が、内側から喰らい尽くそうと明滅した。

 同時に、アリナの腹部に浸食した呪詛も脈動する。

 

「うっ……あ、ぁっ……!」

「二人とも大丈夫!?」

「問題、ない……ぐっ!?」

 

 凄まじい衝撃が地下を揺るがした。コンクリートが悲鳴を上げ、数十メートル先に巨大な質量が落下する。

 舞い上がる白煙の中、シツハの瞳から一切の温度が消えた。

 

「——敵が来たよ」

「こんなときに……待て、アリナ!」

 

 アリナは腹部を押さえ、よろめきながらも走り出していた。痛みに歪む顔を上げ、異変の震源地へと吸い寄せられていく。

 勝也はシツハに銃を手渡した。

 

「受け取れ、シツハ。追いかけるぞ」

「……そうだね」

 

 神妙に頷くシツハと共に、煙の向こう側へと出る。

 そこに、地獄が再演されていた。

 

「メタルオーガ……ッ」

 

 かつてアリナが屠った巨躯が、そこにあった。

 全身には無数の氷の棘が突き刺さり、赤く爛々と煮えたつ殺意を宿した眼球が光る。

 怪物の周囲には、無惨に吹き飛んだ石の棺。

 その足下に、供えられた花がゴミのように踏み躙られていた。

 

「よくも……荒らしてくれたな」

 

 背筋を凍らせるような、低く、重い声。

 腹の底より湧く激怒が、少女の背中から立ち昇っている。

 アリナが指先を宙に突き出す。

 高速で言霊を編み上げ、敵に牙を剥く吹雪が吹き荒れた。

 

「〈氷結封印魔法(フロスハビュラ)〉!!」

 

 視界を真っ白に染め上げる堅氷の礫。

 ——メタルオーガは逃げなかった。

 肥大化した筋肉を硬直させ、大地を揺るがす雄叫びを叩きつけた。

 

「なっ……!?」

 

 アリナの怒りが、吹雪とともに霧散した。

 猛威を振るった堅氷の粒、ただの水としてアスファルトを虚しく濡らす。

 勝也は迷わず、アリナの傍らへ立つ。

 

「二度目は通じないらしい。別の手段を頼む」

 

 隣の少女からの返答はない。

 代わりに、喉を鳴らす音がした。

 勝也が視線を走らせると、彼女の口端から一筋の紫がかった液体が滴り、足元に空のペットボトルが転がってる。

 アリナは穏やかな微笑を浮かべた。

 

「最後に、貴方たちに会えてよかった」

「おい、なにを……っ」

「——丸井咲さん。後はご自由に」

 

 感情を削ぎ落とした声だった。

 アリナの唇が呪文を紡ぐ。

 足元に亀裂が走る。

 崩れ落ちる床。

 メタルオーガの巨躯とアリナの小さな影が、さらに深い奈落の底へと吸い込まれていく。

 

「アリナ——っ!?」

「……無茶するね、本当に」

 

 崩落を追おうとした勝也の襟首を、背後からシツハが強引に引き戻す。

 同時に、乾いた破裂音が響く。

 

「シツハ、お前……っ!?」

 

 右肩に走った鋭い衝撃。

 勝也が顔を歪めて振り返ると、硝煙を立ち昇らせた銃口を向け、氷のような無表情のシツハがいた。

 その瞳には、光も迷いも、何も宿っていない。

 

「麻酔銃だから心配しないで」

 

 機械的な一定のトーンで、シツハが言葉を続ける。

 

「身体が動かなくなって、カッちゃんは眠るだけだから」

「……が、あ……っ!!」

 

 視界が急速に明滅し、指先の感覚が崩れ去っていく。

 

「シツハ……なんで、だ……」

「簡単な話だよ。ワタシが、カッちゃんを見捨てられない——ただ、それだけ」

 

 いつもの軽口は、そこには存在しない。

 

「あのメタルオーガが復活すれば……カッちゃんが自分を顧みず挑みに行くの、分かってたからね」

「待て……アイツが生きてたことに、最初から気づいて……」

「ワタシの勘を忘れたの? 氷像の時点で気づいていたよ」

 

 脳裏に、氷像を前にした時のシツハの妙な反応と、その前のアリナが縋りつくように氷に触れた光景が蘇る。

 

「……あれは、時間稼ぎの封印だったのか」

「それも、いつ破られてもおかしくない、薄氷みたいな"弱い"封印ね」

 

 シツハは膝を折り、アスファルトに這いつくばる勝也の視線に合わせて腰を下ろした。

 

「カッちゃんが身をもって体感してるけど……あの怪物は腕を斬れば腕を、腹を裂けば腹を奪う。鏡合わせの『呪い』を返す呪詛を持ってる——じゃあ、命を奪えば?」

 

 古びた経典に記された報復の戒律。

 奪ったものをそのまま返す、等価交換の呪詛。

 その行き着く先を想像し、勝也の背筋に麻酔の寒さとは別の戦慄が走った。

 

「奪った者の命が、そのまま消失するということか」

「正解。これで分かったでしょ。アイツを討伐するってことは、とどのつまり、刺し違えて死ぬってことだよ」

「いや、まだだ……何か、他に方法が……」

「そういう、往生際の悪いことを言い出すと思って、こうして動けなくしたんだよ。放っておいたら、自分から死にに行っちゃうし」

 

 シツハの手が、勝也の頬に触れた。

 その指先は銃身のように冷たく、微かに震えている。

 

「ほーら、いい子だから、目をつぶって」

 

 ふわりと、いつものおどけた響きが戻る。

 この凄惨な光景も、絶望的な選択も、全てはたちの悪い冗談だったと笑い飛ばすかのように。

 

「お前は……友達になったアリナを、見捨てるつもりか」

「大丈夫だよ、彼女だって、ちゃーんと納得済み。万が一の時は、ワタシたちが生き残るための『囮』になってくれるって……ね? だから、ワタシたちは何も悪くない」

 

 自分自身に深く言い聞かせるように言葉を重ねる。

 だが、その声は空虚に響き、どこか足元が浮ついていた。

 勝也は喉の奥から這い出すような声で、その仮面を剥ぎ取る。

 

「欺瞞だ。お前も分かっているはずだ。自分が傷つく道を選んでいることくらい」

 

 その瞬間、シツハの顔から表情が、ごっそりと抜け落ちた。

 彼女は無言のまま、勝也の頭を掴み、すぐ目の前の墓標——冷たい石の塊へと押しつける。

 

「友達が死ぬなんて昨日今日始まったことじゃない。この世界じゃありふれた話だし」

 

 淡々とした平坦な声。そこには悲しみも怒りも宿っていない。

 

「カッちゃんだって、ここに並ぶ墓の仲間入りはしたくないでしょ?」

 

 龍脈石の青い光に照らされたシツハの横顔は、ここの墓石たちと同じ、無機質な静寂を湛えていた。

 

「だから、もう寝てよ……明日になれば、また昨日と同じ日々に戻れる……くだらない雑談をして、ゴブリンを小突いて、なけなしの日銭を稼いで笑い合う——そんな、代わり映えのしない幸せにさ」

 

 その震える声は、どこまでも擦り切れ、疲れ果てた少女の、乾いた祈りだった。

 泥のように重れゆく意識の底で、勝也は言葉をこぼす。

 

「俺は今でも夢見るよ……全てが変わった、あの日を」

 

 神経を焼き切ろうとする不快な感覚を、奥歯を噛み締めてねじ伏せる。

 

「当時は力がなくて……ただ必死に足掻いて、誰かに助けられて……そうやって、俺は今日まで生かされてきた」

 

 小刻みに震える半身を無理やり持ち上げ、沈もうとする膝を叩き直す。

 

「一人、また一人と……俺の代わりに、俺を助けてくれた奴らは死んでいった」

 

 勝也は石の棺を杖代わりにして、己の肉体を垂直へと引き戻す。

 

「……アイツらは、死にたくて死んだのか?」

 

 麻酔の猛威を気迫で押し返し、立ち上がった勝也。その双眸が、呆然と立ち尽くすシツハの瞳を正面から射抜く。

 

「——違うだろッ!!」

 

 墓標の海に勝也の咆哮が木霊する。沈黙する墓石たちが、その叫びを冷徹に跳ね返す。

 

「災厄で変わり果てたこの街も、ここで眠る名もなき人たちの墓も……これらを見て、本当に何も感じないのか!!」

 

 麻酔の糸を強引に引き千切るようにして、勝也はシツハの眼前へと肉薄した。

 肩で荒い息を吐きながら、勝也は吠える。

 

「俺は……俺を助けてくれた奴を、あと何人見捨てればいいんだ! 答えてくれ、シツハ!!」

 

 シツハの瞳が激しく揺れた。向けられた言葉の重みに、彼女の細い肩が目に見えて震え出す。

 

「何もかもを奪われたあの日……最悪の絶望を覆すために、俺はこの腕を鍛え上げたんだ——ただ生き長らえるために、今日まで剣を振ってきたわけじゃない!!」

 

 踏み躙られた花が、足元に散らばっていた。

 それを、勝也は右手で鷲掴みにする。

 

「今、地下で戦ってる奴は死者を悼み、涙を流せる……俺たちと同じ心を持った人間なんだよ」

 

 左手が、シツハの肩を強く掴んだ。指先から伝わる彼女の温もりが、勝也の言葉に火を点ける。

 

「シツハ。お前が一番、分かっているはずだ。付きっきりで治療して、警戒を親愛に変えてみせたお前が……真っ先に見捨てるのは……あんまりじゃないか」

 

 絞り出した声が、最後に震えた。

 静寂が、墓所を包み込む。

 花の香りだけが、冷えた空気に漂っていた。

 長い、長い沈黙。

 少女の唇が、やがてポツリと動いた。

 

「——ほんと、やだなあ……ワタシが悪者みたいじゃん」

 

 青い燐光に照らされた彼女の頬を、一筋の光が静かに伝い落ちた。

 勝也の視界が大きく揺らぐ。

 

「ぐ、ぁ……っ」

 

 麻痺に抗い、限界を超えて肉体を突き動かした反動が、一気に脳を白く塗りつぶす。

 伸ばした指先は、縋るような形で宙を泳いだ。

 シツハは無言で勝也の重みを受け止める。

 

「飲んで」

 

 喉元に押し当てられた小瓶。鋭い苦味が喉の奥を通る。

 勝也の荒い呼吸が、少しずつ形を取り戻していく。

 

「しばらくすれば……指先から感覚が戻ってくるから。そしたら動けるようになるよ」

「……待て……シツハ、お前……」

 

 いつもの軽薄な笑みも、冷徹な無表情も消えている。

 そこにあったのは、ただ一筋の決意だった。

 

 

 奈落の底。

 龍脈の拍動が、闇を震わせていた。

 メタルオーガの蹴りが空気を裂く。

 アリナの指先が地面を叩いた。

 瞬きの詠唱で、岩石が柱のように突き上がり、足場を生む。

 鋼の一蹴が岩を粉砕した。

 小さな身体が中空へ舞い上がる。

 岩の破片の隙間から、白磁の掌が敵を捉えた。

 

「"穿て"」

 

 解き放たれた激流が、メタルオーガの胸元を叩く。

 怪物は、微動だにしない。

 

「明らかに水の耐性を獲得している——ッ」

 

 アリナの奥歯が軋む。

 劇薬で稼働した肉体は、すでに悲鳴を上げていた。はだけた衣服の隙間から、赤い線が太腿を這い落ちる。

 時間がない。

 それでも、彼女は一歩も引かなかった。

 自らが死の圏内へと飛び込む。

 

「グゥゥ!?」

 

 捨て身の肉薄に、怪物の双眸に警戒の火が灯る。

 アリナの指先が小気味よく鳴らす。

 二人の足元に青白い魔法陣が脈動する。

 

「〈氷結拘束魔法(フロスパーダオ)〉」

 

 怪物の四肢に突き刺さった氷の棘が、蔦のように増殖を始める。

 鋭利な鎖となって巨躯を幾重にも縛り上げ、床へと縫い止めた。

 これは攻撃ではない。

 わずか数秒。

 怪物をこの場に縛るための、停滞。

 その瞳の奥に、昏い光が宿っていた。

 

「"元素変数を土に上書き——"」

 

 魔法陣が青から黄へと染まっていく。

 呪文を積み重ねる。

 怪物の各部位を囲むように、五本の光柱が天井に突き刺さった。

 

「ガアァ……ッ!?」

 

 メタルオーガの本能が死を嗅ぎ取った。

 巨躯が震えて、膨れ上がる。

 氷の鎖が悲鳴を上げ、砕け散る。

 怪物が剛力で己を解放しようとする刹那。

 アリナの顔に、笑みが浮かんだ。

 憑き物が落ちたような、酷く疲れ切った、それでいて穏やかな笑みだった。

 

「——罰を受けなさい、〈壌土刺殺魔法(グラニマキュイ)〉」

 

 空気が爆ぜた。

 逆光の中で五本の岩槍が怪物の肉を穿つ。

 真っ赤な飛沫が宙に舞う。

 アリナは熱い鉄棒で内臓がかき回されるような錯覚に襲われた。

 怪物がのたうち回るたび、視界が真っ赤に染まり、肉の内側から弾ける音が耳の奥で響く。

 

「……っ、仕留め、損ねた……」

 

 喉から熱を帯びた吐息を漏れる。

 右目から何かが溢れ、白磁の頬を汚す。

 頭部、腹、両足、そして残された左腕。

 五カ所を深々と貫かれながらも、メタルオーガはまだ生き永らえていた。

 絶命の寸前、本能的に頭部をずらしたのか、岩槍は右目を削り取るに留まっている。

 「鏡」は残酷だった。

 アリナの右目は光を失い、腹部からは血が噴き出し、両足からは力が失われていく。

 怪物の欠損と呼応するように、対応する部位が急速に機能を停止させていった。

 彼女は「右腕」の感覚を確かめる。

 指先が、かすかに震えた。

 

「……彼に、感謝を……この右腕だけは……まだ」

 

 脳裏に浮かぶのは、中途半端にしか助けられなかった人の顔。

 ——また何もできなかった。

 嘆きが喉元まで這い上がりかける。

 それを、奥歯で噛み潰した。

 勝也が繋いだ右腕を、メタルオーガの眉間へ伸ばす。

 

「オオ——グオオ■■■■――!!」

「——え?」

 

 怪物の背中より、ナニカが突き破って芽吹く。

 噴き出した青い燐光が呪詛と混ざり合い、悍ましい黒泥へと変貌していく。

 岩槍を根元から融解させる。

 欠損した部位が補われていく。

 死を拒絶する暴力的な再生。

 怪物が、立ち上がった。

 

「まさか……そんな、こと」

 

 脳裏に、違和感が火花を散らす。

 予想より早く封印が解けた理由。

 水の耐性を獲得した理由。

 答えは——怪物の背で禍々しく拍動する「黒い龍脈石」が示していた。

 

「■■■■■■■■ーー!」

 

 黒泥の怪物がアリナを捉えた。

 彼女の唇が震える。

 指先から力が抜け落ちる。

 死が、すぐそこにあった。

 

「おーい鬼さん、プレゼントだよ!」

 

 あまりに場違いな弾んだ声。

 直後、静寂を切り裂く連射音がした。

 泥の表皮で数発弾かれながらも、肉薄する三発が傷口の奥深く食い込む。

 

「■■■■……ッ!?」

 

 黒泥の鬼がたたらを踏んで膝をつく。

 全身の神経を断ち切られたかのように、その巨躯が崩れ落ちる。

 闇の向こうから、悠然と一人の少女が姿を現す。

 

「おー、効いてる効いてる。二人が作ってくれた傷口を重点的に狙ってみたけど、大正解……それにしても、なんか、趣味の悪い泥お化けになっちゃったね」

「丸井咲、さん……どうして、ここに……」

 

 アリナの瞳が、驚愕に揺れる。

 それは、描いていた結末には存在しないはずの光景だった。自分を囮にして二人を逃す。

 ——そうでなければ、また繰り返してしまう。

 

「■■■■■■――!!」

「うわっ、もう麻酔を解毒し始めた……アリナちゃん、お喋りは後。一旦退避しよっか——痛かったらごめんね」

 

 ボロボロになったアリナの身体を視界に入れた瞬間、シツハの表情から余裕が消え、悲しみがその瞳をよぎる。

 だが、彼女はすぐに唇を噛み、折れそうな少女の身体を抱き上げて駆け出した。

 放置された無数の自動車を盾にするように縫い、黒泥の鬼から駐車場の最奥へ距離を取った。

 

「……ふぅ。ここまで離れれば、少しは時間が稼げるかな」

「彼は……黒町さんは、どうしたんですか?」

「まだ、おねんね中。今ごろ、ワタシへの文句を並べながら必死にもがいてるんじゃないかな」

 

 アリナが、震える吐息を絞り出す。

 その瞳には、救済への感謝ではなく、自らの計画を乱されたことへの悲痛な糾弾が宿っていた。

 

「どうして……来たんですか……貴女は、彼を優先するはずじゃなかったの!?」

 

 シツハの視線が床へと落ちる。

 

「……ワタシもさ。どうしても、友達を助けたくなっちゃったんだ。どこかに置き去りにしてきた願いを、今度こそ、この手に取り戻したいんだよ」

 

 顔を上げる。

 そこには透明な笑みが浮かんでいた。

 アリナはその微笑みに——救いようのない絶望を感じ、身を竦める。

 背後で、鉄を握り潰すような轟音が爆ぜた。

 

「ちょっと、あの鬼さん、復活が早すぎない? もう少し余韻に浸らせてくれてもいいのに」

「やめて……私を友達なんて呼ばないで……お願い……私を置いていかないで」

 

 アリナの縋りつくような悲鳴に、シツハの肩が微かに揺れた。

 彼女はアリナの視線まで膝を折ると、どこまでも柔らかな声で語りかける。

 

「大丈夫。あの鬼をお片付けしたら、みんなで『どちゃ食い』しようよ。あの堅物なカッちゃんだって、うるさいことは言わずに見逃してくれるって」

「だめ……本当に、だめ……っ」

「それじゃ、いってきまーす!」

 

 シツハは未明の闇へと向かった。銃身に冷たい指を添え、巨大な死の塊へと突き進んでいく。

 残されたアリナの頬を、熱い雫が次々と伝い落ち、冷えたアスファルトを濡らす。

 

「なんで……どうして、みんな挑んでしまうの……なんで、私は……こんなに無力なの……」

 

 その呟きには、積もる慟哭がこもっていた。

 

「誰か、そこにいるのか?」

 

 肺の奥を削るような重苦しい声。気だるげだが、どこか太い芯がある。

 壁に背を預けながら、勝也が姿を現した。

 

「アリナか……となると、向こうで派手にぶっ放してるのはシツハだな」

「黒町さん……今すぐ彼女を連れて、ここから逃げてください……あとは、私が」

 

 震える指先が、床を突く。

 無理やり身体を浮かせようとするが、呪詛に蝕まれた肉体は沈み込むだけだった。

 勝也は膝をつく。

 アリナの濡れた瞳を見据える。

 

「ああ——どいつもこいつも、本当に大馬鹿野郎だ。他人に余計な心配をかけて、一人で勝手に突っ走りやがって」

 

 吐き捨てた言葉にはシツハへの苛立ちと、それ以上に己への自嘲が滲んでいた。

 ひとつ深く息を吐き、静かに問いかける。

 

「……鏡の呪いを無視して、あのメタルオーガを仕留める手段……本当は持ってるんじゃないのか? 呪詛を癒やす薬を揃えてたお前が、ただ無策で待っているはずがない」

「——っ!?」

 

 アリナの肩が大きく跳ねた。

 苦悶に顔を歪ませ、視線を泳がせる。

 その沈黙を、勝也は確信へと変えた。

 

「それを、俺に使え。俺がアイツを殺す」

「ダメです! あれは……成功の保証なんてどこにもない……もし失敗すれば、貴方の命は……」

「だろうな……だが、三人揃って生きるには、その博打に乗るしかないんだ……頼む、俺を信じてくれ」

「私は……私は……っ」

 

 涙が、決壊した。

 溢れ出す。

 自分自身の選択を——そして自分という存在を、信じ切れない絶望が、細い背中を丸めさせる。

 勝也は熱を込めて語りかけた。

 

「お前は、自分が思っている以上に凄い奴だよ。あんな途方もない数の墓を用意して、一人で弔い続けてきた。そんなこと、誰にでもできる真似じゃない」

「そんなの……ただの……」

「一人だけ生き残って、自分に自信を失くす気持ちも分かる……よくある話だ」

 

 勝也の顔に苦い記憶が浮かんだが、すぐにアリナの瞳の奥を覗き込む。

 

「俺は死なない。絶対に生き延びてみせる」

「……そんな……何の根拠も、保証もないのに……」

「ああ、その通りだ——だけど、信じなきゃ始まらないだろ?」

 

 勝也の指が、彼女の頬に触れた。

 泥と血に汚れた指で、そっと涙を拭い去る。

 

「御伽話の魔法使いみたいに、最高のハッピーエンドを俺たちにくれ……お前ならできる」

「——ぁ」

 

 アリナは息を呑み、勝也の瞳を見つめ返した。

 そこに宿っているのは死を受け入れた殉教者の光ではない。

 明日を掴み取ろうとする、強靭な「生」の意志だった。

 

「……分かりました。必ず、生きて戻ってきてください……それが、私の出す条件です」

「ああ。約束だ」

 

 勝也は、短く、力強く頷いた。

 アリナが天を仰ぐように右腕を差し出す。

 

「"水よ。流れの理を纏いて集え"」

 

 清冽な飛沫が生まれ、勝也を包み込む。

 纏わりついた呪詛が透き通っていく。

 

「"礎に刻むは清絶の証。全ての迷いを退ける高潔な意志"」

 

 呪いに蝕まれた小さな身体。

 その全てを、ただ一度の奇跡に注ぐ。

 

「全てを貴方に委ねます、〈流水清絶魔法(マクアツェレル)〉」

 

 

 ひっくり返った車両の影。

 ガソリンの臭いが、鼻を突いた。

 

「ああ……もう、ほんっとうに嫌になっちゃうな」

 

 シツハが焼け焦げた黒い袖を一瞥する。

 黒泥が触れた布地は溶け落ち、剥き出しの肌に酸を浴びたような火傷が刻まれていた。

 鉄を握り潰す音が響く。

 獲物を追う黒泥の鬼が、紙屑のように廃車を薙ぎ払った。

 

「■■■、■■■■■■ーー!!」

「あのオーガ、少しは大人しくしてくれないかな」

 

 シツハは自分の右足に目を落とす。

 バンパーの破片が深く突き刺さり、血まみれになっていた。

 打っては逃げる。繰り返した鬼ごっこも、この足の重さでは死のカウントダウンに過ぎない。

 

「このまま息を止めてれば、うっかり見逃してくれないかな……あはは、無理か」

 

 怪物の右腕が地面へ突き立てられた。

 液状化した指先から黒泥が溢れ出し、四方八方へ広がり始める。

 痺れを切らした怪物が、逃げ場を塗り潰す水責めへと切り替えたのだ。

 

「あー……いよいよ、詰みってやつ?」

 

 黒泥に触れれば足首から下が消える。

 逃れるために車上へ這い上がれば見つかる。

 彼女は薄笑いで誤魔化した。

 

「……自爆特攻かな。どうせ死ぬなら派手に散った方がワタシらしいし」

 

 相打ちを狙う奥の手なら、ある。

 だが、この地下でそれを使えば。

 天井の崩落。ガソリンの引火。爆発。

 巻き込まれるのは、必至だ。

 迷う間にも、黒い泥がつま先に迫る。

 シツハは覚悟を決めた。

 傷ついた片足を強引に突き立て、車のルーフへと、躍り出る。

 

「イチかバチか! もう、やけくそだっ!!」

「■■■――!!」

 

 怪物が咆哮した。

 露わになった獲物を射抜いて、黒泥の鬼が猛然と突き進む。

 

「——ガラ空きだ」

 

 

 闇を裂いて、一条の銀閃が奔った。

 鬼の左膝を深々と断ち切る。

 断末魔に似た咆哮。

 鏡の呪詛が放たれようとした、が。

 勝也の全身を覆う青色の燐光が、その禍々しい呪詛を弾き飛ばす。

 バランスを崩した怪物が、右腕を振るった。

 奔流となった泥が、叩きつけられる。

 勝也は羽毛のような身のこなしでかわす。

 沈みゆく廃車を蹴り、跳躍。

 着弾した泥が鉄板を溶かす音を背に、シツハの隣へ舞い降りた。

 

「遅いよ、カッちゃん」

「待たせたな」

 

 視線が、交わった。

 背中を預け合う。その感触だけで、すべてが完結する。

 

「■■■、■■■、■■■ーー!!」

 

 片膝をついた黒泥の鬼が、怨嗟の眼差しで二人を睨む。

 左足の断面から、新たな足の形を紡ぎ始めた。

 その悍ましい変貌を、勝也は冷静に見つめる。

 

「見ないうちに趣味の悪い体になったな。再生までできるようになったのか」

「そうでもないよ。失くした部位を泥で埋めてるだけ。自慢の鉄の鎧は、もうボロボロみたい」

「全部が泥に置き変わったら、いよいよ救いようのないお化けだな……正直、今の姿でも十分ホラーだが。シツハ、お前は怖くないのか?」

「まさか。友達のためだもん——今のワタシは最強だよ」

 

 銃のグリップを強く握りしめる。

 その視線の先にあるのは怪物ではない。

 祈るように二人を待つ、ここにはいない少女の面影。

 年相応の強がりを吐く相棒の横顔に、勝也は一瞬だけ柔らかな苦笑を浮かべた。

 

「それはそれとして、どうやって倒すつもりなの?」

「日本で有名な鬼退治に倣うなら——首を切り落とすだけで十分だろ」

「——違いないね」

 

 シツハの指が、引き金に掛かる。

 それが合図になった。

 勝也が蹴った。

 青い燐光を尾に引きながら、廃車を飛び石のように、軽やかに跳ねていく。

 

「■■■!!」

 

 黒泥の鬼が、右腕を肥大化させた。

 鞭のようにしなる。

 勝也の着地点を広範囲に渡って粉砕し、逃げ道を、黒い粘体で塗り潰していく。

 

「ちっ……!?」

 

 勝也の眉間に険が走る。

 肉薄するルートが、いまや酸の泥沼へと変わっていた。

 背後から、銃声が連なる。

 

「ほーれ、カッちゃん——レッツゴーだよ」

 

 廃車の接合部を、正確に撃ち抜く。

 鉄の塊が崩れ落ちた。無垢な側面が、泥の海に新たな「橋」を架ける。

 勝也は躊躇を捨てた。

 沈みゆく鉄板に爪先をかける。弾けるように次の一歩へ。

 

「■■、■■、■■!!」

 

 怪物の右腕が、大口径の砲身へと変貌した。

 放たれた黒泥の砲弾が、迫る。

 勝也は手近な車のドアを剣閃一過で斬り離す。

 勢いよく蹴り飛ばした。

 即席の盾となった鉄板に砲弾が激突、軌道がわずかに逸れる。

 ——残り、数メートル。

 怪物は喉を震わせた。

 呪詛の泥が蠢く。

 先走った黒泥が剣山のように突き出し、地上の「道」は完全に消えた。

 

「この程度で、止まると思ったか!」

 

 垂直のコンクリート柱に飛びつき、重力を無視して駆け上がる。

 そのまま天井を逆さまに疾走して、怪物の頭上へと躍り出た。

 想定外の機動に、鬼の濁った眼球が剥かれる。

 

「鬼さん、いただき」

 

 無音の弾丸が、怪物の視界を闇に塗り潰す。

 何が起きたか分からぬまま巨躯が悶絶し、首を振り回す。

 

「痛いな……もう……二人とも、よく耐えてるよ」

 

 シツハの左目から、血涙が流れていた。

 一瞬の空白。

 勝也は全力の加速で虚空を裂いた。

 ——残り、ゼロ。

 柔らかな風が、戦場を吹き抜く。

 怪物の首が独り言のように、ゆっくりと肩から滑り落ちる。

 地面に転がった首は何が起きたか理解できぬまま、怨念と憎悪に燃える面で睨みつけていた。

 主を失った黒泥が暴走する。

 本能のままに逆流を起こす。

 道連れにすべく、勝也を呑み込む黒い津波となって。

 

「——これは、賭けか」

 

 アリナのかけた魔法を。

 己の生きる意志を。

 信じて。勝也は泥の津波に轢かれた。

 

 

 底の見えない悪夢を、勝也は彷徨っていた。

 視界を埋め尽くすのは、星一つない永劫の闇。

 その虚無の中から、無数の「彼ら」が這い出してくる。

 かつて背中を守り合い、そして守り切れなかった者たち。

 血に濡れた指先が、足首に絡みつく。

 呪詛に満ちた恨み言が、鼓膜を突き刺す。

 

「なぜ、お前だけが」

「俺たちを見捨てて、どこへ行く」

 

 見知った顔。

 忘れるはずのない声。

 容赦なく心を削り取っていく。

 自我の輪郭が、闇に溶けかけた。

 膝が、震える。

 一分が永遠にも感じられるほど、濃密な拷問。

 音のない、拷問。

 もういいだろう。

 いっそ、このまま。

 身を委ねてしまえば……どれほど、楽になれるか。

 ——だが。

 青い燐光が、輝いた。

 脳裏に残された二人の姿。

 思い出す度に、耐える。

 ふと、背後で微かな衣擦れの音がした。

 温もりのある感触が、肩を優しく叩く。

 振り返る。

 そこには、透き通るような青い粒子で編み上げられた、一人の少女の幻影が佇んでいた。

 

「ありがとね」

 

 直後。悪夢がガラス細工のように砕け散る。

 意識は、まばゆい光の彼方へと引き戻された。

 

 

 ひび割れたコンクリートの天井が映り込んだ。視線を巡らせれば、剥き出しの岩肌が続く。

 湿った土の匂いと、微かな薬品の香りが鼻を刺した。

 軋む身体を起こす。

 そこは見覚えのある簡素なベッドだった。瀕死のアリナを運び込んだ場所だ。

 

「……お。ついにお目覚めですかー、お寝坊さん」

 

 どこか気の抜けた、けれど安堵の滲む声。

 傍らの丸椅子に、左目を白い眼帯で覆ったシツハが腰掛けていた。

 

「お前……ついに、そっちの道に目覚めたのか?」

「いや、ガチの怪我だからね!? 厨二病じゃないから! メタルオーガの置き土産だよ!!」

「……ああ、悪い。最後にアイツの視界を潰してくれたのは、お前だったな」

「その通り。ワタシのサポートがあったからこそ、カッちゃんの一撃が決まったの。さあ、感謝のお菓子を捧げるのだ」

「……すまん。それだけは断る」

「えっ、なんで!? そこはオッケイする流れじゃないの!?」

 

 勝也は一度、深く息を吸い込んだ。

 険しい面持ちで口を開く。

 

「お前は調子に乗らせると、歯止めが効かずに菓子ばかり食って太りそうだからな」

「あー!? 喧嘩売ってるの、カッちゃん! 乙女のデリケートな領分に、土足で踏み込んだね!?」

「……数は俺が決めて渡す。大事な仲間を、不摂生で台無しにしたくないだけだ」

「……はあ。まあ、特別に許してあげなくもないけど」

 

 毒気を抜かれたように、シツハが肩の力を抜いた。

 勝也は自分のこめかみを、指先で揉みほぐす。

 

「俺、どれだけ眠っていた?」

「三日ってとこかな。その間、アリナちゃんが甲斐甲斐しく看病してくれてたんだよ」

「そうか。その間、お前は拠点に戻って後始末を?」

「……アリナちゃんの今後の処遇をワタシ一人で決めるのは荷が重すぎたし。カッちゃんの方から、親戚さんに掛け合ってよ」

「ああ。骨を折らせたな」

 

 今後の展開に、勝也は密かな頭痛を覚えた。

 シツハの方は何かに気づいたのか、椅子を鳴らして立ち上がる。

 背後を振り返り、意地悪そうに口角を上げた。

 

「あーあ。なんだか急に、外の新鮮な空気が吸いたくなってきちゃったなー」

「わざわざご丁寧に。気を利かせていただき、ありがとうございます」

「別に? たまたま吸いたくなっただけだし」

 

 軽やかな足音が、遠ざかっていく。

 シツハが去るのと入れ替わるように、揺れる暗幕の向こうから静かな足音。

 アリナが、姿を現した。

 奈落の底でボロボロになっていた少女の面影は、そこにはなかった。

 鏡の呪詛に引き裂かれたはずの部位は、初めから傷など負わなかったかのように何事もない。

 一筋の汚れもない銀髪が、工房の灯りを反射していた。

 

「お前、怪我はどうしたんだ?」

「呪いの太源が消滅したこと、それに……戦闘前にシツハさんが施してくれた処置が、想像以上に機能していたようです。お二人には申し訳ないほど、今の私は完治と言って差し支えありません」

 

 彼女はためらいなく服の裾をめくった。

 腹部を晒す。

 かつて呪詛に黒く染まっていた箇所は、ひどく荒れて赤みを帯びているものの、確かに生きた人間の肌の色を取り戻していた。

 

「随分と、肌は爛れているだが」

「誤差の範囲です」

 

 本当かと訝しげに勝也は見つめる。

 淡々と答える彼女の藍眼が微かに泳いだ。

 話を逸らすように、別の話題を切り出す。

 

「眠っている間、うなされていましたが……何か、悪い夢でも?」

「……話したくない」

「そうですか。分かりました」

 

 それ以上の追及はなかった。

 アリナが、小さく喉を鳴らす。

 

「右腕の具合は、どうですか?」

「……動かないな。指一本、俺の意志をきいちゃくれない」

 

 あの黒泥の津波に呑み込まれた際の、代償か。

 激痛に耐えていたときよりも、今の静かな麻痺の方が、勝也にはよほど深刻に感じられた。

 

「……前にもお伝えしましたが、材料さえ揃えば、私が元通りにしてみせます……いえ、必ず治してみせます」

 

 語尾に、祈りにも似た執念が宿る。

 見つめ合う時間が、数秒。

 耐えきれなくなったのはアリナの方だった。

 バツが悪そうに視線を逸らし、何か重いものを飲み込むように、沈黙する。

 今までのやり取りは、彼女にとっての「本題」を先延ばしにするための儀式に過ぎない。

 勝也は、察した。

 

「何か、言いたいことがあるんじゃないのか」

「……約束を……守ってくれて、ありがとうございます」

 

 消え入りそうな声だった。

 一度こぼれ出した言葉は、堰を切ったように続く。

 

「本来なら、先に言うべきでした」

「気にするな。五体満足で生き残れたんだ。俺の方こそ、礼を言いたい」

 

 勝也は左手を添えて、重石のような右腕を持ち上げた。感覚は希薄だが、脈打つ温かみだけは残っている。

 

「……その、手を。握っても、いいですか?」

「ああ。構わないが」

 

 真意を掴めぬまま勝也は首を傾げる。

 アリナは両手で彼の右手を包み込んだ。

 工房の静寂が、二人の間に降り積もる。

 

「——あたかかい」

 

 彼女の目から、大粒の雫が零れ落ちた。

 体温があること。

 血が通っていること。

 そんな当たり前の事実に、彼女は幼子のように、声を殺して泣いていた。

 

「しばらく、このままで……このままで、いてください」

「……好きにしてくれ。お前の気が済むまでな」

 

 勝也はそれ以上何も言わず、動かぬ右腕に伝わる少女の震えを、ただ静かに受け止めていた。

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