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幸福なものであれ、不幸なものであれ、善悪や喜怒哀楽も問わずに人には忘れられない記憶というものがある。
──いまでもあの日の光景を覚えている
それはひとりの少年の記憶に焼きついている、忘れられない過去の一幕だった……。
その日、少年──黒崎蓮夜は母親である黒崎由香里とともに日本最大の遊園地に来ていた。
日頃からわがままを言わずにいる我が子に子供孝行をしようという計画だ。
子供と手を繋ぐ並んで歩く母親。
ヒーローショーを見たり、さまざまなアトラクションを楽しみ、母手製の弁当を食べ、デザートにアイスを食べ歩く。
それはそんなどこにでもあるような温かで幸せな家族のいち光景だった。
しかし、そんな時間は唐突に終わりを迎える。
──それは帰り道で不意に訪れた災厄だった。
温かで幸せな空間には相容れない爆発が文字どおりにすべて吹き飛ばしたからだ。
メフィスト・フェレスの子を狙った輩による襲撃だった。
地上には、光の武器を手にした神父たちが。
空からは、黒い翼の者たち。
それらが結界空間とともに母子を取り囲むようにやって来たのだ。
先ほどまでの温かで幸せな空間には相容れない異質な存在。
彼らは言う。
少年は、悪魔との混血であり、あまつさえ神器という特異な力に目覚めかけていると……。
悪魔というだけで許さないのに、その神器もまた異質なモノだという。
ゆえに少年が世界に影響を及ぼす前に、ここで浄化──殺す必要があると口を揃えて宣う。
はぐれの教会の信徒、それを雇った悪魔が蓮夜を殺そうとしている。
話の半分も理解できなかった母親だったが、唯一わかっていることは、我が子を殺そうとしているということだ。
母親は、身を挺して少年を庇った。
しかし、それを見た悪魔やはぐれ悪魔祓いは、『母親も毒された』『そもそもこんな化け物を産んだ危険な存在』などと罵り、母親諸共に少年を殺そうとした。
母親は我が子の手を引いて走ったが、空に浮かぶ悪魔からは逃げられるはずはなく、彼らが放った魔力の弾が降り注ぎ、母は「ごめんね」と少年の手を強く引いて放り投げた。
地を転がるようにギリギリ危険域から逃れた少年は、「母さん!」と振り返った。
母は、血に塗れて倒れていた。
死んではいないが、それも時間の問題だった。
先ほどまでの楽しかった時間が嘘のような、あまりに現実離れした光景に少年は、硬直したように動けない。
そんな少年を、母を、嘲笑う声が聞こえていた。
──こんな化け物を庇って死ぬなんて、心まで化け物に毒されていたか
──ほんとにゴミはゴミだな
──無駄死にでしかないんだから無駄な抵抗するなよな
それは、黒い翼の者たちの言葉だった。
はぐれ悪魔祓いたちも、ある種の無責任な言葉を口にしていた。
理不尽で、身勝手で、無責任な言動の数々。
──そこで少年のなかで、何かがキレた。
神器に覚醒し、母を背に庇って仁王立つ蓮夜。
当然、神器に覚醒したばかりの子供が敵う相手ではないが、それでも懸命に母を守った。
援軍のあてもない、わずかな時間稼ぎ。
父のメフィスト・フェレスもすぐに来れるはずがない。
それでも蓮夜にとって唯一無二の母を見捨てる理由などなかった。
その無駄な抵抗と嘲られる行為は……。
「チッ……女子供に大の男が寄って集ってみっともねぇな、おい」
しかして、そうして救いはもたらされたのだった。
§
──早朝。
品のある和式の部屋、その畳みの上に敷かれた布団で眠るひとりの少年が身じろぎをし、やがて上体を起こすと体を伸ばしてほぐし終えると瞼を開いた。
ウルフカットされた黒の髪に、鋭く強い意思力を感じさせる碧眼。
例の少年──メフィスト・フェレスの実子、悪魔名はレオンハルト・フェレス、人間としての名は黒崎蓮夜だ。
蓮夜は掛け布団を取り払い、寝巻きの上からでもわかる鍛え抜かれた引き締まっている上体を起こした。
軽く体をほぐし部屋をあとにすると、蓮夜は和風家屋の廊下を通って洗面所へ向かう。
朝シャンや洗顔などの身だしなみを整えると。稽古着への着替えを済ませ、寝巻きを洗濯籠に入れて洗面所をあとにした。
ここは日本のとある町にある武家屋敷の敷地内にある道場。
そこにはいま、ふたつの人影があった。
ひとりは、黒の剣道着を着た、ウルフヘアに切り揃えられた黒髪、鷹のように鋭い眼光を宿した黒目の少年。
細身だが弱々しさはなく、むしろその逆で力強さを感じられるのは、限界まで体を引き絞って筋肉が詰まっているからだろう。
もうひとりは、濡れ羽色をした長髪を頭の後ろでポニーテールに結い上げた、和装を着た女の子だった。
線が細く嫋やかな立ち姿は芯が通っていて美しく、見た目のか弱さに比べてひと振りの刀剣のような強さも感じられる。
「──うん。今日はここまでだね」
黒い双眸を満足げに細めながら女の子はそう言うと、手にしていた木刀をそっと下ろして凛とした雰囲気から一転して穏やかに微笑んだ。
「……ありがとうございました」
対する剣道着を着た少年も木刀を下ろすと、一礼とともにそう返した。
「うん。ありがとうございました」
少年──蓮夜に対して女の子は、微笑む。
「でも、もう剣でも勝つのはちょっと難しくなっちゃったわね」
女の子は小さく嘆息する。
実際、最初の頃はともかく、いまでは蓮夜に剣術で一本取るのも難しくなってきていた。
「いや、ハル姉もずっと──」
「春恋でいいっていったでしょ、蓮夜くん」
「……春恋、もずっと強いさ」
ひとつ歳上だからと蓮夜は言葉遣いを気にしていたが、とうの本人である春恋から無用と言われ、口調を改めた。
蓮夜に春恋と呼ばれた女の子は、天谷春恋という美少女剣士だ。
出会った当初は『ハル姉』、『蓮ちゃん』と呼び合っていたが、ある日の剣術勝負で蓮夜に敗北して以来、春恋の頼みでいまのようにお互いに名前で呼び合うようになった。
蓮夜も歳上相手とあって悩んだが、本人が望んでいるのならと呼び方や口調を改めたのだ。
槍を使わずに剣で天谷家の剣士に勝つというのは、ひとえに蓮夜の才能と努力だった。
天谷家は、いにしえより日本を守護する五大宗家に比肩する古代から存在する退魔の一族の末裔だ。
かの邪龍『霊妙を喰らう狂龍』八岐大蛇の荒魂を監視し続けているそんな天谷家に春恋生まれ、幼くしてその家名に恥じない剣士へと成長している。
天谷の一族は邪龍『霊妙を喰らう狂龍』八岐大蛇の尾から見つけ出された日本神話の聖剣・天叢雲剣を管理しており、春恋の実力はその類稀なる才能から天叢雲剣の適合者として齢十歳で選ばれたほどだ。
そんな格式高い退魔の家系に混血とはいえ魔の存在たる蓮夜が今日まで世話になっているのには、もちろん理由があった。
師匠であるクー・フーリンが蓮夜を連れて、武者修行と極東の神秘を探究するため天谷家を訪れたことがきっかけだ。
混血とはいえ悪魔を鍛えるのはと難色を示されたが、かつて退魔の際に世話になったクー・フーリンの頼み、蓮夜自身が真面目な様子なため監視ありでという条件で修業をつけてもらえることになった。
そんなときに十一歳の春恋はひとつ年下の蓮夜と出会う。
蓮夜と春恋は、クー・フーリンから基礎的な体術や戦術を叩き込まれ、同じ天谷家の剣を学ぶ『同門の幼馴染』として今日まで過ごした。
メフィストの実子として強大な魔力を持ちながらも、複雑な境遇である蓮夜を見て春恋は自分が守らなくてと年上の姉貴分としての強い使命感──淡い初恋に裏打ちされており、周囲にも気づかれている──を抱くようになる。
いまでは天谷家も蓮夜の実力、修業への真摯な姿勢もあって認めており、あの大悪魔メフィスト・フェレスの実子という格もあり、関係の進展を望み、密かに後押しもしていた。
「うん。お疲れさま。でも、また動きが良くなったわね、蓮夜くん」
「……強くなりたいからな。春恋も最初の頃よりも、ずいぶんとキレが増したと思うぞ」
「ありがと」
蓮夜の言葉に春恋は微笑を浮かべる。
「……でも、もう今日帰っちゃうのね」
ふと寂しそうな表情と声音で春恋は言う。
そう、蓮夜の修業は今日までであり、もうすぐイタリアへと戻ることになっていた。
お互いの立場を考えれば次は、いつ会えるかわからない。
場合によってはこれが最後となるか、あるいは戦いの場での再会となる可能性もあるのだ。
「そうだな……春恋」
「──なに?」
蓮夜の呼びかけに春恋は、怪訝な表情を浮かべる。
「もし、また出会うことがあったら、そのときは……俺の眷属にしてやる」
立場など関係なく、蓮夜はそう断言した。
まだ『悪魔の駒』を下賜されたばかりで誰も眷属がいない蓮夜だが、時期しだいでは春恋を眷属にすると宣言する。
「──っ」
あまりに真正面から男らしい宣言をされ、頰を赤くして息を呑む春恋だったが──。
「……うん。そのときは私を眷属にしてね、蓮夜くん」
そう言ってはにかむのだった。
混血悪魔と退魔士という相反する関係で、その願いはあまりに厳しい。
この約束が果たされるかは、いまだ誰にもわからないが、蓮夜ならば成し遂げるだろうと、春恋は信じているのだった。
To be continued
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