アインザーム・オリジン【完結】   作:ごすろじ

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▼第十三話▶『「自分の(お前/貴方)為に祈るよ」』

 

 

 

冬の森に、奇妙な音が響いていた。

 

ジャリ、ジャリ、ジャリ――

 

土と砂利を押し退けながら、巨大な影がゆっくりと進んでくる。

木々の間を縫う薄霧の中、それは異様な存在感を放っていた。

 

蔦に絡め取られ、苔と泥に覆われた石の塊。

かつては神聖なものであったはずの女神像が、まるで森に呑まれた遺物のように灰色の外套を纏っている。

 

 

その傍らに浮かぶのは、白い長髪を揺らす魔物の姿――幻影鬼だった。

 

 

重さを軽減する魔法と、丸太を転がし運搬する要領で地面の砂利や土を回転させ、像を押し進めていく。

数時間に及ぶ作業だった。

 

転倒させぬよう慎重にバランスを取りながら、アインはようやく住処の前まで女神像を運び込むことに成功した。

 

 

物音に反応したのだろう。

住処の扉が内側から開き、マキナが顔を覗かせた。

 

蔦に覆われた巨大な石像を認めた瞬間、その足取りが速まる。

扉を開け放ち、小走りでアインの元へ駆け寄ってきた。

 

 

「あ、アイン……本当に運んできたんだ」

 

 

声が僅かに震えていた。

信仰の対象である女神の像が、今、目の前にある。

 

その事実がマキナの胸に静かな波紋を広げているようだった。

 

 

『あぁ、だが前見た時より更に酷い。先に掃除してやらんと何処に顔がついてるかもわからん』

 

 

薄く広がる霧の中から、アインの低い声が響く。

マキナは深く頷きながら、放置され続けてきた御姿を仰ぎ見た。

 

 

状態はアインの言葉通り、かなり酷かった。

幸い大きな破損こそ見られないものの、像の至るところに蔦や苔が纏わり付き、全身を覆い隠している。

 

元々は純白であったはずの石肌は、長年の雨風と土泥の染み付きにより、茶褐色に変色してしまっていた。

 

 

「うん……これは、かなり酷いね」

 

 

マキナの声には、悲しみとも決意ともつかない響きが混じっていた。

変わり果てた御姿を前にしても、その信仰心が揺らぐ様子はない。

 

むしろ、なんとかしてあげたいという想いが、静かに燃え上がっているようだった。

 

 

「アイン、魔法でなんとかなったりはしない?」

 

『銅像ならともかく……これは彫像だからな。残念ながら己の知る中で、これを瞬時にどうにか出来る魔法はない。地道に綺麗にしていくしかないぞ』

 

 

民間魔法の魔導書を集め回っているフルーフであれば、何か術を知っているかもしれない。

だが、フルーフが訪れるのは最短でも数ヶ月後のことだ。

 

今は地道に作業を進めるしかなかった。

 

 

アインは住処から少し離れた場所にある道具入れへと向かい、庭師が仕事で使うような道具一式を持ち出してきた。

鋏、刷毛、ブラシ、濡れ布巾――それらを地面に整然と並べていく。

 

 

「そんなものまであるんだ……本当になんでもあるね」

 

『ここは山中だからな。住処を管理するには、伸びてくる雑草や蔦を定期的に刈らんといかん。掃除道具なら他にも色々あるぞ』

 

 

フルーフから住処の管理を任されているアインは、手慣れた様子で像に絡まった蔦を鋏で切り取り始めた。

チョキチョキと小気味よい音を立てながら、女神の顔周辺を覆う蔦を切断していく。

 

大きな手で蔦を鷲掴みにし、力任せに引き千切ると、ようやく女神の御顔が現れた。

 

 

『染み付きが酷い……これは洗ったり磨いた程度では落ちんな』

 

 

露わになった顔は、長年雨風に晒され続けた痕跡を如実に示していた。

茶色い染みが石肌に深く食い込み、一目で簡単には落ちないと理解できる有様だった。

 

 

「女神様が可哀想……なんとかしてあげなくちゃ」

 

 

マキナの声には、切実な響きがあった。

アインは少女の方へと向き直り、相談を始める。

 

 

『マキナ、すまんがこれだけ変色してしまっていると、表面を削るか、新しく塗装するしかないぞ』

 

「うん、これは普通にやっても落ちそうにないね。出来れば女神様の像を傷つけるようなことはしたくないけど……でもアイン、塗料なんてあるの?」

 

 

削るか、塗り潰すか。

その二択を迫られたマキナは、像とはいえ女神を傷つけることに抵抗を感じているようだった。

 

声音にはどこか不安げな色が滲んでいる。

 

アインが気軽に使う紙と同様、純白の塗料は高価なものだ。

気軽に使わせて欲しいと願えるようなものではない。

 

マキナはそのことを知っているからこそ、言葉を選んでいるのだろう。

 

 

しかしアインは、マキナの言葉を塗り潰す選択をしたと受け取ったのか、再び道具入れへと向かった。

木のバケツに白い粉末を入れ、戻ってくる。

 

 

『貝殻を砕いて作った塗料だ。乾けば滑らかな白になる……女神を飾るには十分だろう』

 

 

アインは住処の水瓶から水を汲み、白い粉末の入ったバケツに注いだ。

刷毛で掻き混ぜ始めると、粉末は泡を立てながら粘り気のある液体へと変わっていく。

 

 

「あの、アイン……それ随分高そうだけど大丈夫?この女神像の大きさだと、全部使い切りそうだけど……」

 

 

マキナが心配そうに声をかける。

その懸念は当然のことだった。

 

ここまで色の混じりがなく純度の高い塗料を正規の手段で購入しようと思えば、金貨が数枚は飛ぶ価値がある。

畑違いとはいえ事業知識と物の相場を知るマキナにとって、心配するなという方が無理な話だった。

 

 

『いや、これはフルーフの自作だ。長く生きている奴だからな……巷に流れない塗料の配合方法など幾らでも知っている。原料は貝殻だ……金銭など必要としない』

 

 

アインは水を注ぎながら、塗料がバケツ一杯になるまで作り続けた。

フルーフから配合方法を教えられているアインにとって、この程度の塗料は実質補充し放題なのだ。

 

 

「貝殻で作るだなんて初めて聞いた。白い塗料を石膏以外から作るなんて」

 

『その分少し脆いがな。己とマキナが定期的に管理するんだ……多少脆くとも問題はないだろう。その都度塗り足していけばいい』

 

 

アインは道具入れから脚立を持ってくると、塗装に使う筆と小さめの皿に塗料を注いだ。

それをマキナに向けて差し出す。

 

 

マキナは差し出された道具を、しばし呆然と眺めていた。

それから、ゆっくりと顔布の奥からアインを見上げる。

 

その仕草には、信じられないものを見るような戸惑いが滲んでいた。

 

 

『どうした?女神像の手入れを申し出たのはお前だぞ。それとも止めておくか?』

 

「てっきりやらせてくれないのかと思ってた」

 

 

マキナの声は小さく、どこか掠れていた。

仕事を任せてもらえる。

 

その事実が、少女の心に予想以上の波紋を広げているようだった。

 

 

『危ないからやらせたくはないのが本音だが、これくらいならいいだろう……己も側に控えているしな』

 

「もう……過保護過ぎるよ。やる……やらせて!」

 

 

アインの腕が少しずつ後退し始めたが、その前にマキナが筆と塗料を奪い取った。

脚立に足をかけ、一段、また一段と登っていく。

 

初めての経験が楽しいのか、はたまたアインから仕事を貰えたことが嬉しいのか、その足取りには弾むような軽やかさがあった。

 

 

『あ、危ない……任せはしたが気をつけるんだぞ。後、やる気があるのは結構だが、無理は許さん。今日は特に寒い、定期的に休憩は取ってもらうからな』

 

「わかった!」

 

『顔布は外すな、天然塗料とはいえ吸い込めば毒だからな』

 

「わかってる!」

 

『……本当に分かっているのか?』

 

 

アインは呆れたような、それでいて温かみのある声で呟いた。

無邪気に筆を動かし、女神の御顔を塗っていくマキナを見つめながら、アインの目元には知らず知らずのうちに笑みが浮かんでいた。

 

 

心配は尽きない。

だが、子供とはこうでなくてはならないのだろう。

 

そんな風に考えながら、アインは住処の戸を開け、中から毛皮のコートを取り出してマキナの元へと戻った。

 

 

マキナから筆と塗料を取り上げ、半ば強引にコートの袖に腕を通させ、羽織らせる。

 

 

『寝巻きのままやる奴があるか。作業を続けたいのならブカブカだろうがこれを着ろ』

 

「駄目、塗料がつくよ」

 

『簡単に落ちる汚れなんぞより体調最優先だ。着ないなら作業は中止だ』

 

「わ、わかったよ。……アイン、心配し過ぎ」

 

 

マキナは不貞腐れた様子を見せたが、アインが無言でコートのボタンを締め始めると、膨れた頬を笑みに変えた。

その変化は顔布越しでも、声音の柔らかさから伝わってくるようだった。

 

 

アインは「よし、約束したぞ」と言うと、不意にマキナの顔布に手を伸ばした。

 

 

「―――ッ!?」

 

 

布が捲り上げられる。

冷たい外気が、晒された肌を撫でた。

 

 

マキナの全身が硬直した。

腫瘍に覆われた顔の半分が、容赦なく空気に曝される。

 

反射的に身体が強張り、震えが込み上げてきそうになる。

 

 

だが、アインの指先は優しかった。

腫れ上がった肌を、壊れ物を扱うように、そっと触れていく。

 

 

『悪いが我慢してくれ、こればかりは自分で確認せんとな。ふむ……特になんともないか? 体が痛んだりしたら直ぐに言うんだぞ』

 

 

その声には、嫌悪も憐れみも含まれていなかった。

ただ純粋な心配だけが、低い声音に滲んでいる。

 

 

ほんの数秒の出来事だった。

アインは素早く顔布を元に戻し、マキナの顔を覆った。

 

 

動揺は直ぐに収まっていったが、顔を見られたことによる不安は、否が応でもマキナの心を蝕み始める。

無意識のうちに、確かめるような言葉が口をついて出た。

 

 

「ねぇ、アイン……その、き、気持ち悪くな――

 

『綺麗だよ』

 

 

言い切る前に、アインの声が割り込んだ。

 

 

『改めて見ても……お前は誰より綺麗だよ。だから自信を持て』

 

 

マキナが不安がることは分かっていた。

だが顔色が悪くないか、その確認を怠ることは出来なかった。

 

だからこそアインは、マキナの心がトラウマに蝕まれる前に、真っ直ぐな言葉を伝えることを選んだ。

 

 

低く、優しい声が冬の空気を震わせる。

 

 

マキナは一瞬、身体を強張らせた。

それから、首筋から耳にかけて、じわじわと赤みが広がっていく。

 

大慌てでアインから筆と塗料を奪い返し、女神像の方へと顔を背けた。

 

 

「は、恥ずかしいから! いきなり何言い出すのアイン!? は、早くそれ返して、今日中に終わらせたいから!!」

 

『うぉ……む、無理はするなと』

 

「何もなかったでしょ! アインはアインの仕事してて!」

 

 

凄い勢いで作業を再開したマキナは、アインを傍目に女神像へとペタペタと塗料を塗り広げていく。

像を撫でる筆の動きには迷いがなく、掠れを起こすことなく純白の塗料が適切に伸ばされていった。

 

 

アインは少しでも分からない所があれば教えてやろうと、側で観察を続けていた。

だが、筆を動かすごとにマキナの手つきは確かなものになっていく。

 

ムラのない、均一な塗り。

数百年この住処を管理してきた自分より、よほど巧い。

 

 

数分で追い抜かれるとは。

アインは内心で舌を巻きながらも、流石はマキナ、やはり天才だと感心していた。

 

だが同時に、少し複雑な気持ちも胸をよぎる。

微笑ましさと、僅かな敗北感が入り混じった奇妙な感覚だった。

 

 

作業に夢中になるマキナを見守りながら、アインは自分の仕事へと取り掛かった。

残っている蔦や苔を丁寧に剥がし、ブラシで土の塊を削ぎ落としていく。

 

 

こうして魔物と人間は、雪の降り積もる森の中で女神像の修復作業を開始した。

 

 

アインは蔦や苔を除去し、刷毛や濡れ布巾で汚れを穿り落としていく。

マキナはゆっくりだが着実に、女神の御顔の細部から髪、首元へと筆を走らせ、純白の塗料を塗り広げていった。

 

罅の入った部分には重ね塗りを施し、丁寧に補修していく。

 

時間を忘れて集中するマキナだったが、一時間ごとにアインに筆と塗料を取り上げられ、暖炉の前まで連れて行かれては白湯を飲まされた。

 

休憩の合間には、お互いの進捗状況や改善案を言い合った。

 

 

「雨風を防ぐために屋根があった方がいいかも」

 

『確かにな。簡素なものなら作れるだろう』

 

「女神像の周りを花畑にしたいな……春になったら、色んな花が咲くの」

 

『悪くない。土を耕しておけば、いずれ花を植えることも出来るだろう』

 

 

そんな言葉を交わしながら、二人は再び作業に戻り、劣化した女神像を少しずつ蘇らせていく。

 

マキナは時間をかければかけるほど技術が上達し、作業効率を上げていった。

一方のアインは既に蔦や苔を剥がせるだけ取り除き終え、女神像の周囲を鍬で耕し始めていた。

 

 

スコップで雪を取り除き、鍬で土を柔らかくしていく。

魔法で花を咲かせることは出来るが、長期的に世話をするなら予め地面を整えておいた方がいい。

 

アインはそう考えながら、黙々と作業を続けた。

 

 

日が傾くにつれ、変色してドブ色に染まっていた女神像は、純白の滑らかな白へと生まれ変わっていく。

地面は女神像を中心に円を描くように耕され、黒く湿り気を帯びた土が顔を覗かせていた。

 

 

そして日が完全に落ちる手前――ようやく女神像は本来の姿を取り戻した。

 

 

夕暮れの茜色に照らされる純白の石像。

まだ塗料が乾ききっておらず、触れれば僅かにネバつくだろうが、一日がかりの苦労の甲斐あって、その姿はとても神々しく輝いて見えた。

 

 

両手を胸の前で組み、背に翼を広げる御姿。

それは紛れもなく、慈愛に満ちた女神そのものだった。

 

 

台座部分を塗り終えたマキナは、フラフラとした足取りでアインの元へと近づいていく。

生まれたての子鹿のように足を震わせる少女を、アインは素早く支えてその場に座らせた。

 

 

『まさか……今日中に終わるとはな。おい、無理はするなと言っただろう』

 

「さ、流石に……疲れたよアイン。ふぁ〜〜……ね、眠たい……」

 

 

作業中は一切疲れた素振りを見せなかったというのに、完成した途端、マキナは気の抜けた声で語りかけてきた。

糸が切れたかのように全身から力が抜け、プラプラと腕を揺らしている。アインはそんな少女の頭を、そっと撫でた。

 

 

『で、無理をしてまで女神像を完成させた感想はあるか?』

 

「なにアイン……皮肉でも言いたいの? ふふ、残念。私は感無量、だよ……」

 

『小生意気な……。まぁ、お疲れ様だ』

 

「アインもね」

 

 

マキナは自らが仕上げた女神像を仰ぎ見ながら、満足げな笑みを浮かべているようだった。

顔布に覆われた表情は見えないが、声音の柔らかさがそれを物語っている。

 

 

沈みかけの夕陽に照らされた女神の御姿は、神聖な光を纏っているかのようだった。

茜色と白が溶け合い、まるで本当に天上から降り立った存在のように見える。

 

その光景は、マキナの瞳に深く焼き付いて離れないようだった。

 

 

しばらく黙って像を眺めていたマキナが、ぽつりぽつりと語り始めた。

 

 

「私ね……女神様に出会うまでは、心の奥底でずぅ〜っと死にたかったんだ。ただ負けたみたいで悔しいから……プライドだけで生きてた……抜け殻でしかなかったの」

 

その言葉を聞いたアインは、胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。

 

『想像できんな。今のお前は全力で生きようとする意思で満ち溢れている。ずっと燃え続ける蝋燭の火のように儚く……尊く……眩い光そのものだ』

 

 

アインは眠たそうにゆっくりと語るマキナの頭を撫で続けながら、同じように女神像を見上げた。

夕暮れの空を背に、純白の御姿が静かに佇んでいる。

 

 

「ほんとうだよ……。自分で死ねなかっただけで、何時死んでもよかったの……。でもお爺様に女神様のことを教えてもらって、生きようと思ったんだぁ……」

 

『さぞ素晴らしい教えを受けたんだな』

 

「はは……そんな、私でも笑っちゃう何の根拠もない理由だよ。お爺様は言ったの……頑張れば、頑張った分だけ女神様がご褒美をくれるって。辛かった分……天国でいっぱい楽しく過ごせるってね。何の根拠もないのに……バカみたいでしょ」

 

 

マキナは自嘲するように笑った。

だが、その声に自分を卑下する響きはなかった。

 

むしろ、どんなご褒美を貰おうかと夢想する子供のような、無邪気な明るさが滲んでいる。

 

 

『それでもその話を信じ、糧として生きているんだろう。ならバカだなんて思わん。お前を生かし続けているんだ……とても素晴らしい話さ。少なくとも己にとってはな』

 

 

アインの声には、心からの感謝が込められていた。

その教えがなければ、マキナはとうに命を絶っていたかもしれない。

 

そうなれば、アインがこの少女と出会うこともなかった。

 

マキナは女神像に向かって、ゆっくりと手を伸ばした。

 

 

「女神様。いつか……いつか私に……この傷を癒やす慰めは訪れますか……?」

 

 

伸ばされた腕を取る者はいない。

女神に語りかけようと、石像から返答が返ってくることはない。

 

だが、すぐ傍らにいる魔物は違った。

 

アインは、誰も取ることのないマキナの手をそっと握りしめた。

華奢な指先が、冷たく強張っている。

 

その冷たさが、霧のような身体にも伝わってきた。

 

この少女は、どれほどの孤独の中で、こうして手を伸ばし続けてきたのだろう。

アインはそう思いながら、握った手に僅かに力を込めた。

 

 

『来るさ』

 

 

声が震えそうになるのを堪えながら、アインは言葉を紡いだ。

 

 

『お前は頑張った……耐えてきた。この世の誰よりも強くて、優しい子だ。この先には幸せが待っている……お前を笑顔にすることばかりだ。女神だって、そんなお前を見守って……愛してくれている』

 

 

言葉にすればするほど、胸の奥が軋むようだった。

この少女が背負ってきた重荷の全てを、自分は想像することしかできない。

 

それでも――伝えずにはいられなかった。

 

 

「アイン……ありがと……ほんとうに優しいねぇ……」

 

 

マキナの声は、微睡みの中に沈んでいくように掠れていた。

 

アインはマキナの手を握ったまま、静かに意識を集中させた。

フルーフから教わり、使うことはないだろうと思っていた魔法。

 

 

――『花畑を作り出す魔法』

 

 

ふわり、と。

 

夕暮れの風が、二人を包み込んだ。

 

次の瞬間、耕したばかりの黒い土から、無数の緑の芽が顔を出した。

芽は見る間に茎を伸ばし、蕾を膨らませ――一斉に、白い花弁を開く。

 

 

女神像を中心に、純白の花が波紋のように広がっていく。

夕陽に照らされた花弁が、淡い金色の光を纏って揺れた。

 

冷たい冬の空気の中に、ほのかに甘い香りが漂い始める。

 

 

『マキナ……少し目を開けてみろ』

 

 

アインの声が、花の海の上を静かに渡っていく。

 

 

『見えるか? 女神の奇跡が、さっそく起きたみたいだぞ』

 

「え……」

 

 

マキナは促されるまま、重い瞼を僅かに持ち上げた。

 

 

「――わぁ……すごく綺麗ぇ……」

 

 

顔布の隙間から覗く瞳が、驚きに見開かれた。

夕陽と白い花と、純白の女神像。

 

それらが織りなす幻想的な光景が、少女の視界いっぱいに広がっている。

瞳がキラキラと輝き、その奥に花畑の白と茜が映り込んでいた。

 

 

『スノードロップだ。知ってるか?』

 

「うんうん……しらない」

 

 

眠たげにアインへ身体を預けたまま、マキナは夢見心地で花畑を眺めていた。

意識が少しずつ微睡みの中へ落ちていく。

 

 

『今のお前にピッタリだ。花言葉は「慰め」、「逆境の中の希望」……これからのお前の人生は、この花みたいに多くの人を魅了するはずだ』

 

「ふふ……アイン、実はすごくロマンチストでしょ……魔物なのに、かわいいね」

 

『好きに言え』

 

 

アインに手を取られながら、マキナの瞼は徐々に重くなっていく。

抗えない眠気が、少女の意識を優しく包み込んでいった。

 

 

『もう寝たか?』

 

「……まだ。最後にお祈りしなきゃ……」

 

『なら己も祈ろうか』

 

「私のことばっかり心配して……自分のために祈ってね……。私もそうするから……約束ね」

 

『あぁ……自分のために祈ろう。お前も自分のために祈れ』

 

 

マキナは両目を閉じたまま、両手を胸の前で重ね、祈りの姿勢を取った。

アインもそれに倣い、同じような形で女神へと祈りを捧げる。

 

 

夕暮れの光が薄れ、空が藍色に染まり始めていた。

スノードロップの花畑が、最後の陽光を浴びて淡く輝いている。

 

その中心に佇む女神像の前で、魔物と少女は静かに目を閉じていた。

 

 

それぞれが、自分のために女神へと祈った。

 

 

――女神よ……どうかこの少女を幸せにしてやってくれ。見ているのならわかるだろう……もう十分過ぎる程に頑張った子だ。女神の慈悲が本当にあるのなら……どうか慰めてやってくれ。

 

――女神様……彼は優しすぎる。きっと私がもうすぐ死ぬだなんて考えてもいない……。私が死んだら悲しむかもしれない。だからどうか、彼が悲しみ続けないよう道を指し示してあげて……。彼の望みが叶って……少しでも早く私を忘れられるように。

 

 

アインは自分のためにマキナを想い、祈った。

 

マキナは自分のためにアインを想い、祈った。

 

二人は約束通り、自分のために祈りを捧げた。

 

数秒後、マキナからスヤスヤと寝息が聞こえ始めた。

小さな身体が、アインに寄りかかるようにして眠りに落ちている。

 

 

アインは眠った少女をそっと抱き上げた。

花畑の中を静かに漂い、住処の扉を開ける。

 

 

暖炉の火は既に落ちかけていたが、部屋の中にはまだ温もりが残っていた。

アインはマキナを寝床に横たえ、丁寧に布団をかけてやった。

 

 

少女の寝顔を見下ろしながら、アインは暫くその場に佇んでいた。

穏やかな寝息だけが、静かな部屋に響いている。

 

 

やがてアインは暖炉に薪をくべ、再び火を起こした。

パチパチと小さな音を立てて、炎が部屋を照らし始める。

 

 

窓の外では、夕暮れが完全に夜へと移り変わっていた。

女神像を囲むスノードロップの花畑が、月明かりの下で青白く輝いている。

 

 

アインはマキナの傍らに座り、静かに見守り続けた。

この少女が穏やかな夢を見られるように。

 

明日も、その先も、笑顔でいられるように。

 

祈りは届いたのだろうか。

 

 

その答えは、まだ誰にも分からない。

 

 

だが少なくとも今夜、この小さな住処の中には、確かな温もりがあった。

 

 

 

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