アインザーム・オリジン【完結】   作:ごすろじ

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▼第十四話▶平凡で得難い日々

 

 

 

――一ヶ月後

 

 

窓から差し込む冬の陽光と、香ばしい小麦の匂いがマキナの眠りを揺さぶった。

 

外には雪が降り積もり、窓枠の隅には霜の結晶が繊細な模様を描いている。

しかし暖炉で温められた室内は心地よく、分厚い布団をどかしても肌寒さを感じることはなかった。

 

 

マキナはゆっくりと身を起こし、寝惚け眼のまま声を発した。

 

 

「おはよう……あいん」

 

『あぁ、おはよう。マキナ。朝食の前に風呂でも入ってくるといい』

 

 

台所の方から低く響く声が返ってくる。

振り向けば、大きな灰色の影がエプロンを身につけ、手際よく朝食の準備を進めていた。

 

 

出会った頃は全裸だったこの魔物も、今ではすっかり文明人らしい装いを覚えている。

マキナは小さく手を振り、欠伸を噛み殺しながら返事をした。

 

 

「ありがと……そうするね」

 

 

眠たげな足取りで廊下を歩き、風呂場の扉に手をかける。

開けた途端、湯気の塊がマキナの顔を包み込んだ。

 

ひんやりとした廊下の空気と、浴室から漂う温もりの対比が心地よい。

誘われるように、マキナは一歩、また一歩と中へ足を踏み入れていった。

 

 

木製の湯船には透き通った湯が満たされ、水面が微かに揺らめいている。

指先をそっと浸すと、熱すぎず温すぎない、絶妙な温度が伝わってきた。

 

 

「ふ、わぁ〜……今日も湯加減が完璧」

 

 

思わず感嘆の声が漏れる。

 

共同生活が始まった当初、風呂は夜だけのものだった。

しかしある日、マキナが包帯を外して体を拭っている姿をアインが目敏く見咎めてから、翌朝には湯船に湯が張られるようになった。

 

 

水と薪が勿体ないと遠慮するマキナに、あの魔物は平然と言い放ったのだ。

 

 

『昼も沸かしたっていいんだぞ』

 

 

脅しなのか本気なのか分からない一言に根負けし、マキナは朝風呂を受け入れることになった。

そして十日も経つ頃には、すっかりこの習慣が手放せなくなっていた。

 

 

寝起きの全身はいつも汗や体液でべたついている。

それを洗い流し、清潔な衣服に袖を通せる幸福は、かつての自分には想像すらできなかったものだった。

 

 

腕に巻かれた包帯に手をかけ、ゆっくりと剥がしていく。

 

 

ニチャニチャと粘つく音が響き、黄濁した糸を引きながら布が肌から離れていった。

鼻を突く悪臭が浴室に広がる。

 

慣れているはずのマキナですら、一瞬だけ顔が歪んだ。

 

 

脚の包帯、指先の包帯、順番に取り外していく。

服を脱ぎ、胴体を覆う布にも手をかけた。

 

 

現れたのは、人間らしい輪郭を失った肉体だった。

 

 

所々が陥没し、別の場所は異様に盛り上がり、まるで鼠に齧られたかのような凸凹が全身を一周している。

一部の皮膚は完全に壊死し、赤黒い筋繊維のようなものが剥き出しになっていた。

 

 

マキナは自分の腕を見下ろし、小さく息を吐いた。

 

 

「……前より、酷くなってる」

 

 

最近、妙に体が動かしづらい。

指先の感覚が鈍い。

 

それを気のせいだと思い込もうとしても、目の前の現実が否定してくる。

 

 

血と粘液が染み込んだ包帯を湯に浸し、軽く揉んで汚れを落とす。

丁寧に、念入りに。

 

包帯から病状の悪化を悟られないための、毎朝の儀式だった。

 

 

これ以上、心配をかけるわけにはいかない。

 

 

もしアインが自分の余命を知れば、何を犠牲にしても助けようとするだろう。

マキナにはそれが分かっていた。

 

分かっているからこそ、隠し通さなければならなかった。

 

まだ何も返せていない。

貰ってばかりで、迷惑をかけ続けて――そんなことを、マキナの良心は許さなかった。

 

たとえアインが許そうとも、自分自身が許せないのだ。

 

 

「……忘れよう」

 

 

首を振り、嫌な想像を振り払う。

視線を湯船の傍らに向けると、そこには白い花弁の山が積まれていた。

 

 

「あ、今日は白いバラだ」

 

 

甘い芳香が鼻腔をくすぐる。

これもアインが勝手に始めたことだった。

 

 

『人間の女性はこういう風呂が好きなんだろう?』

 

 

とんでもない偏見と共に差し出された花を、マキナは最初、遠慮して断った。

しかしその時、ほんの少しだけ口元が緩んだのを見られていたらしい。

 

翌日から、花風呂セットは毎日欠かさず用意されるようになった。

夜も当然のように置かれるようになり、マキナは抵抗を完全に諦めた。

 

 

「本気で嫌がったら止めてくれるけど……だから難しいんだよね。嫌じゃないし」

 

 

呟きながら、白い花弁を湯に撒いていく。

水面に浮かんだバラが、湯気の中でゆらゆらと揺れた。

 

熱されることで、フローラルな香りがいっそう濃密に立ち昇ってくる。

 

かつての自分は、花を愛でる余裕すらなかった。

生きるために動き、怯えながら眠り、また生きるために動く。

 

それだけの日々だった。

 

今、目の前には香り高い花風呂がある。

それを用意してくれた存在がいる。

 

まるでお姫様のような扱いに、胸の奥がくすぐったくなった。

 

顔布を外し、マキナは湯船に足を踏み入れた。

 

爛れた皮膚が湯に沈んでいく。

痛覚が正常であれば、耐えがたい激痛が全身を貫いたはずだった。

 

しかしマキナの体は、もうそんな信号すら受け取れなくなっている。

 

ただ漠然とした温もりだけを感じながら、肩まで湯に浸かった。

 

 

薄桃色の靄が、体の周囲からゆっくりと立ち昇る。

溶け出した皮膚の欠片が、花弁に混じって水面を漂っていた。

 

 

「……ふぅ」

 

 

それでも、気持ちがいいと思えた。

 

甘い香りに包まれ、全身の汚れが洗い流されていく感覚。

味覚も痛覚も失われた今、こうした僅かな心地よさだけが、自分がまだ生きている証だった。

 

 

プカプカと浮かぶ花弁を指先で撫でながら、マキナは今日の予定を思い浮かべた。

 

 

礼儀作法の続き。

お花に水やり。

一緒にお祈り。

暖炉の前で読書。

 

授業内容をなかなか覚えられず、しょぼくれる大きな魔物の姿が脳裏に浮かぶ。

あの低く響く声で「難しい」と呟く様子を想像すると、自然と笑みがこぼれた。

 

 

少し前まで、こんな風に一日の予定を考える余裕などなかった。

生き延びることだけで精一杯だった。

 

 

たった一ヶ月。

人間の命にとっても、それほど長い時間ではない。

 

けれどマキナにとっては、これまでの人生の何倍も濃密な日々だった。

 

 

あの魔物との出会いは劇的だった。

価値観を根底から覆されるような衝撃の連続。

 

砂糖菓子を煮詰めたかのような甘さと、歯の浮くような台詞と、どこまでも真っ直ぐな優しさ。

散々振り回されて、ようやく少しだけ耐性がついてきたところだった。

 

 

コンコン。

 

 

出入口の扉から、二度のノックが響いた。

続いて、何かを置く音。

 

 

「アイン、ありがと。もう出るね」

 

 

返事をしながら、マキナは勢いよく湯船から立ち上がった。

水滴が床に染みを作る中、ひたひたと扉へ向かい、そっと開いた。

 

 

そこには山積みのタオルと包帯、そして畳まれた着替えが置かれていた。

服は明らかに大きすぎる――おそらく、家主であるフルーフのものを流用しているのだろう。

 

 

タオルの上には、小さな紙切れが乗せられている。

マキナはそれを手に取り、書かれた文字を目で追った。

 

 

"何かあれば直ぐに呼べ、風邪を引くから髪はしっかり拭いてからくるんだ。今日はお茶を入れてみた、期待していてくれ"

 

 

一日も欠かさず添えられる、小さなメモ。

内容は毎回似たようなものだった。

 

体を気遣い、何かあれば呼べと繰り返す。

それだけのことが、マキナにとっては何よりも尊かった。

 

 

「心配してくれるのは嬉しいよ……嬉しいんだけどさ、アイン。毎回過剰すぎるよ」

 

 

呆れたような、けれど嬉しそうな声が漏れる。

 

紙切れを濡れないよう脇に避け、タオルで髪を念入りに拭き始めた。

全身の水気を丁寧に拭い、爆発したような髪を手櫛で整え、包帯を全身にぐるぐると巻きつけていく。

 

 

最後にブカブカの服を頭から通し、袖を何度も折り返して手を出した。

顔には布を垂らし、視界を薄暗く遮る。

 

 

使用済みのタオルと包帯を籠に入れ、メモ用紙を大切に握りしめる。

さっぱりとした気分で、マキナは肌寒い廊下を歩き始めた。

 

居間に戻ると、大きな灰色の影が振り向いた。

 

 

「アイン……洗濯物は籠に入れておいたよ」

 

『あぁ、お帰り。少しテーブルで待ってくれ……』

 

 

マキナは寝床の横に置いてある木箱に歩み寄り、蓋を開けた。

中には、これまでに貰ったメモ用紙が丁寧に重ねられている。

 

そこに今日の一枚を加え、そっと蓋を閉じた。

 

 

誰にも渡さない。

誰にも見せない。

自分だけの宝物だった。

 

 

とことこと歩いてテーブルに向かい、椅子を引いて腰を下ろす。

 

 

台所では、エプロン姿の魔物がふわふわと宙に浮きながら、朝食の仕上げに取りかかっていた。

 

 

こんがりと焼けたパンが皿に乗せられる。

アインはナイフで切り込みを入れ、山菜と小さく切り分けた鹿肉を手際よく挟み込んでいった。

 

 

鹿肉からは、しっかりと血抜きされた清潔な香りが漂う。

ハーブによる臭み取りも丁寧に施されており、肉の旨味だけが凝縮されたような芳醇な匂いが台所に満ちていた。

 

 

一つの皿に、出来立てのパン料理、山菜のサラダ、デザートのミックスベリーが美しく盛り付けられる。

アインはそれをマキナの前に静かに置いた。

 

 

『待たせたな。今日もモリモリ食べて体を作るんだ……昼は何を食べる? ステーキでも食べるか?』

 

「あ、うん……毎回思うけど、よく疲れないよね。嬉しいし、ありがたいんだけど……ちょっと気が引ける、かも?」

 

 

マキナの遠慮がちな声に、アインは首を横に振った。

 

 

『おっと……勘弁してくれ。己にとっては、お前に貧相な食事を出す方が精神的に参ってしまう。己の心労を気遣うのであれば、遠慮せず食べてくれ』

 

 

朝早くから水を汲み、肉の下処理をし、山菜を摘みに山を駆け回る。

どう考えてもそちらの方が大変なはずだった。

 

しかしアインの声色には疲労の気配が微塵もなく、マキナは反論の言葉を飲み込むしかなかった。

 

顔布をそっとずらし、パンを口に運ぶ。

 

濃厚な香りが鼻腔を満たし、舌の上で熱と食感が伝わってくる。

味は分からない。

 

けれど、丁寧に調理された食材の香ばしさと、口の中でほどける柔らかな感触だけで、これが美味しいものだと理解できた。

 

 

「美味しいから勿論全部食べるけど……あ、むぅ――うん、美味しい!」

 

『それでいい』

 

 

満足げに頷く魔物の手が伸びてきて、マキナの頭を少し乱暴に撫でた。

毎度のことながら、不意打ちで来るこの仕草には慣れない。

 

アインは赤い液体で満たされたティーポットを持ってきた。

透き通るような深紅が、湯気の向こうで揺らめいている。

 

 

「む、ぐ……それ、茶葉?」

 

『そうだ。自生していたローズヒップを摘み取って乾燥させたものでな、煮出すと酸味はあるが肌にいい茶になるらしい』

 

「綺麗だね」

 

『あぁ、こんな雪の降り積もる過酷な環境であろうと、芽吹き実を実らせる果実の生命力は感嘆に値する。この美しい色合い……まさにマキナ、今を懸命に生きるお前のように美しい』

 

「――ぅぐっ!? げほっ……あ、アイン。慣れてきたかと思ったけど、急にそんなこと言わないで。私、ビックリしちゃった」

 

 

ただのお茶の話から、とんでもない方向に着地した。

不意打ちの賛辞にマキナは盛大にむせ、慌てて口元を押さえた。

 

 

アインはすぐさま水の入ったコップを差し出してきたが、その口から出た言葉は見当違いだった。

 

 

『落ち着いて食べろ』

 

 

この魔物には悪意も茶化す意図も、女性を口説こうという下心すらない。

ただ思ったことをそのまま口にしているだけなのだ。

 

だからこそ始末が悪い。

予測不能の不意打ちは、一ヶ月経った今でもマキナの心臓を跳ね上がらせた。

 

水を受け取り、喉に引っかかったパンの欠片を無理やり流し込む。

 

 

『落ち着いたか。パンとはいえ、喉に詰まらせると危ないから気をつけるんだぞ』

 

「うん………アインのせいなんだけどね」

 

 

小さく呟いたが、聞こえていないのか聞こえていて無視しているのか、アインは涼しい様子で対面の席に着いた。

ポットを傾け、ティーカップに赤い液体を注いでいく。

 

 

湯気立つローズヒップティーがマキナの前に置かれた。

 

 

『不味かったら吐け。鼻も口もない己では、味の保証は出来ん』

 

「美味しそうだけどね……うん、いただきます」

 

 

カップを両手で包み、口元に近づける。

濃密な酸味を思わせる香りと、仄かな甘さが鼻腔をくすぐった。

 

一口含むと、温かな液体が喉を滑り落ちていく。

味は分からないけれど、飲み心地は悪くなかった。

 

 

「美味しいと思うよ。ごめん、私もこういうのを飲むのは初めてだから、よくわからないや」

 

『そうか。抵抗なく飲めたならそれでいい。栄養素としては優秀だから、毎日出そう』

 

 

ほっと胸を撫で下ろす魔物の仕草を見て、マキナの胸の内が温かくなった。

 

 

温かい食事。

清潔な住処。

気持ちの籠もったお茶。

 

これは物理的な温もりだけではない。

 

 

そっと胸に手を当てる。

トクン、トクン。確かに脈打つ鼓動が、自分がまだ生きていることを教えてくれた。

 

 

「アイン……ありがと」

 

『こちらこそ。ありがとう、マキナ』

 

 

食事の終わりは、いつもこのシンプルな言葉で締めくくられる。

毎日、同じように交わされる感謝の言葉。

 

魔物と人間の少女は、互いに頷き合った。

 

こうして、一人と一匹の一日が始まる。

 

 

食後の片付けが終わると、マキナは居間の中央に椅子を運び、アインを座らせた。

姿勢矯正の時間だった。

 

 

「また猫背になってる。本、落としたら最初からだからね」

 

『善処する』

 

 

アインの頭上に分厚い本を乗せる。

大きな体がぎこちなく背筋を伸ばし、本がぐらりと傾いた。

 

慌てて姿勢を正す様子に、マキナは小さく笑った。

 

 

「うん、そのまま。今度は少し高く浮いて」

 

『これで浮けと?』

 

「浮けるよ。ゆっくりでいいから」

 

 

恐る恐る立ち上がる魔物の頭上で、本が危うくバランスを崩しかける。

しかしなんとか持ちこたえ、アインは安堵の息を漏らした。

 

 

「次は前に進んで。ゆっくりね」

 

『……鬼か、お前は。己は浮遊しているのだぞ』

 

「先生だよ。はい、前進」

 

 

姿勢矯正が終われば、挨拶の仕方や貴族に対するマナーの講義が続く。

アインは真剣に耳を傾けるが、覚えは決して早くない。

 

何度も同じことを繰り返し説明するマキナと、その度にしょげ返る大きな魔物。

そんなやり取りが、日課になっていた。

 

 

授業が終われば、暖炉の前で静かに読書。

 

 

マキナは聖典を、アインは経典や学術書を開く。

時折、アインが淹れた茶が振る舞われ、二人は言葉少なに同じ時間を共有した。

 

 

暖炉の炎がパチパチと爆ぜる音だけが、静かな室内に響いていた。

 

 

昼が近づくと、アインは台所に立ち、マキナは外に出た。

 

 

女神像の前で足を止め、周囲に咲くスノードロップに水を注いでいく。

白い花弁が水滴を受けて輝き、冬の陽光を反射してきらきらと煌めいた。

 

 

「女神様、今日もよろしくお願いします」

 

 

静かに手を合わせ、祈りの言葉を紡ぐ。

冷たい空気が頬を撫で、吐く息が白く曇った。

 

背後に気配を感じた。

振り向く間もなく、脇の下に大きな手が差し込まれる。

 

 

「ちょっ、アイン! 自分で歩けるってば!」

 

『昼食が冷める』

 

 

抗議は聞き流され、マキナは猫のように持ち上げられたままテーブルまで運ばれていった。

 

昼食を終えた後は、二人揃って女神像の前に座り、一時間ほど祈りを捧げる。

 

アインは静かに眼窩を閉じ、マキナは小さく唇を動かして祈りの言葉を紡いだ。

冬の澄んだ空気の中、スノードロップの花畑が二人を囲むように広がっている。

 

 

祈りが終われば、マキナは強制的に家の中へ連行された。

体調を考慮して、読書か昼寝をしろというのがアインの主張だった。

 

 

「ちょっとくらい外にいても平気だよ」

 

『駄目だ。風邪を引く』

 

「過保護すぎない?」

 

『病人に対する当然の配慮だ』

 

「もぉ~……。このやり取り何度目?」

 

『懲りるまで、何度でもだ』

 

 

反論は全て却下され、マキナは暖炉の前の椅子に座らされた。

不満そうに頬を膨らませながらも、差し出された毛布を受け取り、読書を始める。

 

その頃、アインは風呂場へと向かっていた。

 

湯船の残り湯に包帯やタオルを放り込み、魔法で汚れを濯ぎ落としていく。

水流が渦を巻き、繊維に染み込んだ汚れが次々と剥がれていった。

 

 

洗い終えた包帯を手に取り、アインの動きが一瞬止まった。

 

 

布に染みた血の色が、以前より濃くなっている気がした。

気のせいだと思いたい。思いたいが――

 

 

首を振り、作業を再開する。

考えても仕方のないことだった。

 

今は、今できることをするしかない。

 

洗濯が終われば湯を抜き、湖畔から新しい水を運んで補充する。

薪を割り、食料を集め、山を駆け回る。

 

恐ろしい容貌に反して、やっていることは人間の猟師や木こりと変わらなかった。

 

日が傾く頃、アインは大量の食料を詰めた籠を背負い、家路についた。

 

 

夕食の準備が始まる。

 

風呂場に薪と火を焚べて湯を沸かし、家の中の薪置き場にも薪を補充する。

エプロンをかけ、食材を調理台に並べた。

 

 

脂肪の少ない鹿肉から筋を取り除き、鍋に投入する。

グツグツと加熱しながら出汁を取り、摘んできた山菜も加えていく。

 

鍋が煮える間に、余った肉をナイフで刻んでミンチにした。

山菜も微塵切りにし、練り込んで肉団子を作る。

 

最後にそれも鍋に投入し、蓋をして完成を待った。

 

 

テーブルでは、マキナが本を読みながらアインの帰りを待っていた。

台所から漂ってくる香りに、自然と顔が上がる。

 

ドン、と音を立てて鍋がテーブルに置かれた。

 

 

「わぁ……今晩も美味しそう」

 

『遠慮せず食べろ。お代わりもある』

 

「いつもありがとう、アイン」

 

 

マキナはお行儀よくスプーンとフォークを手に取り、食事を始めた。

アインはそれを眺め、風呂場の火を消しに向かう。

 

湯加減を確認し、マキナが食べ終わる頃には丁度良い温度になるよう調整した。

 

夕食を終えたマキナは風呂に入り、さっぱりした様子で戻ってきた。

 

暖炉の前に二人分の椅子が並べられ、それぞれ本を手に静かな時間を過ごす。

炎の揺らめきが壁に影を落とし、時折薪が爆ぜる音だけが響いた。

 

 

マキナの瞼が少しずつ重くなっていく。

本を持つ手が緩み、頭がゆっくりと傾いた。

 

 

『そろそろ寝る時間だ』

 

「んー……もうちょっと……」

 

『駄目だ。子供は寝る時間だ』

 

 

有無を言わさず、マキナは寝床へと連行された。

温かい布団に包まれると、抵抗する気力も失せていく。

 

 

「アイン……」

 

『なんだ』

 

「今日も、ありがとね……」

 

『あぁ。おやすみ、マキナ』

 

「おやすみ……」

 

 

睡魔に誘われるまま、マキナの意識は闇に沈んでいった。

 

その傍らで、アインは静かに浮かんでいた。

小さな手をそっと握り、目を閉じる。

 

マキナの夢に意識を沈めていく。

悪夢の兆候がないか確認し、不穏な気配があれば排除する。

 

毎晩繰り返してきた、いつも通りの作業だった。

 

 

 

しかしこの夜、アインの内には明確な焦りが渦巻いていた。

 

悪夢に陥る頻度が増えている。

一時期は随分落ち着いていたはずなのに、ここにきて急激に悪化していた。

 

まるで、日々の幸福に比例するかのように。

 

今夜もまた、マキナは悪夢の淵に立っていた。

アインは素早くその前に立ち塞がり、暗い影を押し返す。

 

 

夢の中のマキナは、何か大きくて柔らかいものに寄り添うようにして眠っていた。

灰色の靄のような輪郭が、少女を包み込むように揺らめいている。

 

 

幸せそうな寝顔だった。

穏やかで、安らかで、守られていることを疑っていない無防備な表情。

 

 

それを見下ろしながら、アインは密かに拳を握りしめた。

 

 

 

――何が原因だ。どうして改善されるどころか悪化している。

 

 

生活の中で笑顔を見せることが増えた。

心に余裕が生まれてきたように見えた。

 

なのに、夜になれば悪夢が押し寄せてくる。

その矛盾が、アインには理解できなかった。

 

 

『何か……悩んでいるのか? 己には……打ち明けることは出来ないことか……?』

 

 

問いかけても、返ってくるのは寝言だけだった。

 

 

「うぅん……あいん、もぉだめだったば……」

 

 

意味の分からない言葉を呟き、マキナは夢の中でぬいぐるみに顔を埋める。

 

アインにできることは、ただ悪夢を遠ざけ続けることだけだった。

幸せそうに眠る少女を見守り、近づこうとする暗い影を片端から排除していく。

 

夜が明けるまで、何度でも。

 

 

『中を覗かねば悩み一つ察せんとは……』

 

 

静かな寝息だけが返ってきた。

 

アインは拳を握りしめ、無力感に打ちのめされながらも、少女の眠りを守り続けた。

 

何気ない日常の一幕は、こうして閉じていく。

 

 

マキナという少女に定められた天命は、少しずつ、確実に、終わりへと近づいていた。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

魔王軍と帝国軍が熾烈を極める最前線。

 

帝国軍が敷いた防衛拠点の一つが、魔王軍の将軍により制圧された跡地。

そこには勝利に士気を高める魔族の姿も、防衛を諦め撤退を余儀なくされた帝国兵の姿もなかった。

 

代わりにいたのは、たった一人の人間の女だった。

 

その女は黙々と魔族たちを殴り、蹴り回し、次々とぶち転がしていた。

 

 

「な、なんだ貴様は!? 帝国軍の人間ではなさそうだが、何故我々に殴りかかってくるのだ」

 

「うるせぇぇぇ! 知らねぇぇぇ!! 黙れぇぇ!! 喋んなぁぁぁ低能カス魔族野郎! 命なんてどうでもいいから魂だけ置いてけ!! 後ここにある帝国軍の魔道具は今をもって全部私が拾ったものだから! お前ら触るなよ!!」

 

「なんだこの野蛮人は……おい、この人間を殺せ」

 

「金貨数百枚はする魔道具燃やす田舎者が何言ってだ!? ◯ねぇぇぇ!!✕✕✕!!!◯ノバ◯ッチ!!聖なる糞ぉぉぉぉ!!!」

 

 

気でも狂ったかのように叫び散らしながら、女は十人規模の魔族に囲まれてなお両手の中指を突き立て、ブンブンと振り回していた。

魔族の将軍は、控えめに言っても頭がおかしいとしか思えないこの異常者に対し、部下へ殺害命令を下した。

 

しかし結果は全滅だった。

 

全身をバラバラにされようが、溶かされようが、遠くに吹き飛ばされようが、埋められようが――次の瞬間には女が魔族の顔面に拳を叩きつけ、一人ずつ確実に絶命させていく。

 

 

「アホが! そんな魔法で死ぬならこっちはとっくに死んでるわ!! 喰らえフルーフ家直伝顔面粉砕パンチ!!」

 

「障壁が割れ――ふぎょぉ!?」

 

 

最後の一人が頭を破裂させて絶命する。

将軍は部下が全滅したことに怒りを露わにし、手にした槍を女に向けて突き出した。

 

 

しかし槍が女に直撃する寸前、金属が砕け散る音が響いた。

正確に言えば、女が眼にも止まらぬ速度で拳を振るい、槍を殴り壊したのだった。

 

 

「舐めんな。私を物理で抜きたきゃ命を掛けるか、魔王直属でも呼んでこいよ」

 

「無駄だ。私の槍は何度でも再生する」

 

「ハッ! んじゃ木端微塵にしてやるよ」

 

 

将軍の槍が瞬時に再生し、再び突き出される。

女はそれを蹴りで圧し折った。

 

地面に落ちた刃の破片を拾い上げ、自分の指にザクザクと突き刺していく。

十本全ての指を切り落とし、天高く放り投げた。

 

 

「何がしたいんだ?」

 

「うーん? お前をミンチにしてやる下準備かな」

 

 

どこか引き気味に行動の意図を問う将軍に、女は獰猛な笑みを浮かべた。

いつの間にか再生していた指で、天を指す。

 

べちゃ、べた、と湿った音を立てて、将軍を囲むように人間の死体が十体落ちてきた。

将軍は眼を見開き驚愕する。

 

全て同じ顔、同じ体、同じ魔力を宿していた。

 

 

「これは――」

 

「盛大にお見送りだ――『魔力を爆発させる魔法』

 

 

瞬間、術者である女自身が弾け飛んだ。

続けて周囲の死体が連鎖爆発を起こす。

 

大地を揺るがす極大の爆炎が撒き散らされ、地表に巨大なクレーターが形成された。

 

将軍は跡形もなく消し飛んでいた。

 

 

「痛ぁ〜」

 

 

焼け焦げた地面から、全裸の女がむくりと起き上がる。

服は爆発で吹き飛び、肌には煤がこびりついていたが、傷一つ見当たらなかった。

 

 

「さて、邪魔者は消えた。では今からここにあるもの、全ての所有権は全て私のものだ」

 

 

女は燃え盛る炎の中を平然と歩き回り、物資の箱を漁り始めた。

 

 

「お、おほぉ〜スゴ、流石帝国。いいもん支給されてるねぇ……空間拡張術式が刻まれた大袋かぁ……スゴ! フリーレンに自慢してやろ」

 

 

次々と箱を開け、目ぼしいものを袋に詰め込んでいく。

当然ながら、これらは全て女のものではない。

 

帝国軍が魔王軍を押し返すために最前線へ支給した、高価な魔道具の数々だった。

 

 

「こっちは水の自動濾過機か、便利そうだ。後は……うぅん、ドッグタグみたいな証明書に遺品かぁ。燃えたら遺族が可哀想だし、どっかの街の中にでも投げ入れてやるか」

 

 

食料を口に詰め込み、水を飲み干し、男物の服だろうが構わず袖を通す。

ひとしきり漁り終えると、女は自分の片腕を引きちぎった。

 

引きちぎった腕を拠点に向けて投げつける。

腕は残った物資を全て巻き込み、大爆発を起こした。

 

 

自身の痕跡を完全に消滅させると、女は大袋を担ぎ、パンを咥えながら森の奥へと歩き始めた。

 

 

その時、茂みの奥からガサゴソと音が聞こえ、小さな影が飛び出してきた。

 

 

「……あら、可愛い子供。どうした、魔族に村でも滅ぼされたか?」

 

「……うん」

 

 

女の前に現れたのは、幼い少年だった。

服は泥と血で汚れ、目は虚ろに濁っている。

 

 

「あぁ……ご愁傷様だねボク。それじゃお姉さんと一緒に行こうか? 大丈夫、私は大人だからね、迷子の子を放っておくほど腐ってないよ。あ、パン食べる? 食べかけだけど」

 

「うん」

 

 

少年は差し出されたパンを受け取り、無表情のまま齧り始めた。

 

 

「はっはっ! 辛いことは一旦忘れてお姉さんとお話しよう。あれ今のソリテール様っぽくなかった? あぁこれは出会いの日も近いという予兆かな! 素晴らしいねぇ少年! 明日はきっといい日になるさぁ!」

 

「うん」

 

 

女は愉快そうに笑い声を上げながら少年を抱き上げ、山を軽々と飛び越え始めた。

数百キロの距離を、不眠不休で走り続ける。

 

 

少年は茫然自失といった様子で、女の戯言に相槌を打つだけだった。

そうして最前線からたった数時間で、帝国が統治する領土の一つへと到達した。

 

 

女は少年を下ろし、遺品をまとめた袋を手渡した。

 

 

「これを持っていって。門番にこう言うんだ。『僕の村は魔族に滅ぼされました、これは僕を守って戦ってくれた帝国の人達が、故郷の家族に届けてほしいとお願いされて持ってきたものです』。わかったかい?」

 

「うん」

 

「よしよし! 良い子だぁ! 人間は人情話に弱いからね、こんな時代なら尚更だ。だから一生懸命遺品を届けるために歩いてきたと言えば、手厚く保護してくれるはずさ」

 

「……」

 

 

女は帝国軍から拝借した大袋を開け、中からジャラジャラと音のする小さな袋を取り出して少年に渡した。

 

 

「まぁ、最悪駄目だったらこれを使うといい。金貨十枚、銀貨十枚、銅貨五十枚だ。頼るのは最終手段だからね……見せびらかさず、最後の最後まで隠しておきなよ。じゃないと全部失う羽目になる。使うにしても銅貨からチマチマ使うんだぞ。……それじゃお別れだ。私はもう行くから、元気でな少年」

 

「あ、あの……な、名前」

 

「あん? 私のかい?」

 

 

女は振り返り、にやりと笑った。

 

 

「私はフルーフ……ちょっぉ〜と頭がおかしい奴って感じるかもしれないけど、名前は間違ってないから安心して」

 

「あ、ありがとう、ございます……フルーフ、さん……」

 

「ハハハッ! 礼儀がなってない餓鬼は嫌いだが……お礼が言える子は良い子だねぇ! 気にしないで、私は良識ある大人だからね、当然さ。じゃあね少年。上手く生き延びられることを願っているよ」

 

 

そう言うと、フルーフは別れを惜しむ素振りも見せず、大袋を担いだまま何処かへと飛び立っていった。

 

 

「――あ、急に怠くなってきた」

 

 

陽気な姿から一変して、フルーフは全身から気だるさを漂わせ始めた。

その場に大の字で寝転がり、空を見上げる。

 

 

焦点の定まらない眼で、ぼんやりと雲を眺めていた。

情緒不安定が極まっているこの女は、そろそろ休息が必要だと朧げながらに考えていた。

 

 

無休でも体は問題ない。

しかし頭を使う作業は、モチベーションの有無で進捗が大きく左右される。

 

創作意欲が湧くまで、しばらくダラけた方が効率がいいのだ。

 

フルーフはヨロヨロと立ち上がり、次の目的地を決めた。

 

 

場所は北側諸国の中でも片田舎、僻地の中の僻地にある山の中。

 

 

「……しんど。なんかもう色々怠いし、久しぶりにアインザームの奴の所で療養するか。酒飲んで、葉巻吸って、食っちゃ寝して英気でも養おう。どうせアイツ暇だろ」

 

 

道中、魔族の魂を引っこ抜き、山賊から金品を巻き上げながら、フルーフはアインザームの住処を目指して歩き始めた。

 

 

 

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