――数ヶ月後。
冬が終わりを迎える雪解けの季節。
本来であれば喜ばしい新春であるにも関わらず、胸の内には汚泥が層を成すように堆積し、その重みが増していく。
普段通り朝食をナイフとフォークで切り分けるマキナを見つめながら、己は感じ取ってしまった違和感を振り払おうと努める。
だが、どうしても無視することが出来ない。
金属が皿を擦る音、その微かなリズムの乱れを。
「アイン……どうしたの」
『手を怪我したのか……』
「あ、うん………――そうだよ」
今日や昨日の話ではない。
気がついたのは一週間ほど前からだ。
――マキナの指が動いていない。
無論、全てという訳ではない。
正確には……左手の人差し指。
巧妙に隠しているため気づかなかったが、一度違和感を覚えてからは嫌でも理解出来てしまう。
ナイフを支える角度、フォークを押さえる力の入れ方。
不自然に固定されたまま、一切曲がることのない一本の指。
マキナの指は、もう完全に死んでいる。
一体いつからだ。
包帯で隠されたその下は、今どうなっている。
どうして気づけなかった。
毎日傍にいながら、何故もっと早く気づいてやれなかった。
己は……どうすればいい。
マキナは……どうして欲しいんだ。
何故隠しているのだ。
何故、何も言ってくれない。
それほどまでに己に踏み入って欲しくないのか。
――己を、拒絶しているのか。
頭の中で思考が渦を巻き、何一つ形を成さない。
何が最善なのか、どう動くべきなのか、まるで導き出せない。
ただ胸の奥が締め付けられ、息苦しさと行き場のない苛立ちが内側から溢れ出していく。
マキナが黙っている以上、問いただすことは出来ない。
踏み込めば、傷つけてしまうかもしれない。
だが、本当にそうなのか。
己はただ――そう……ただ……
『………気をつけるんだぞ』
「アイン……ごめんなさい。ありがとう」
『お前がそう望むなら……己は……』
カチャカチャと、ナイフとフォークが皿の縁に置かれる音がした。
マキナが朝食を食べ終えたのだ。
己は皿を下げ、流し台に運ぶ。
喉の奥に言葉が詰まったまま、何も言えず、気づけば外へ出ていた。
マキナの耳が届かない場所まで移動し、大木に拳を叩きつける。
樹皮が砕け、己の皮膚が抉れた。
裂けた箇所から黒いモヤが滲み出し、冷たい空気に溶けていく。
――……クソッ。
己は何をやっている。
今すぐマキナの元に向かい、問いただすべきではないのか。
隠さなくていい、何でも言ってくれと、そう伝えるべきではないのか。
思い直し、住処へ戻ろうとする。
だが、身体が動かない。
もしマキナが怯えた声で己を拒んだら。
もし己から身を竦ませ、距離を取られたら。
そう想像しただけで、全身が硬直してしまう。
――何を考えている……己はただの魔物だ。化け物だ……なのに何故。こんな人間じみたことを考えているんだ……ッ。
あても無く彷徨い、気づけば湖畔に辿り着いていた。
水面を覗き込む。
透き通った水の向こう、灰色の化け物の姿が映り込んでいる。
口も無い。鼻も無い。人間の面影など欠片も無い、異形の姿。
――これが、マキナの傍にいたいと願っている存在の正体だ。
反射的に、額を地面に叩きつけた。
鈍い衝撃が頭蓋を揺さぶり、視界が白く弾ける。
痛みが脳髄を貫いた。
もう一度。岩混じりの土が額を抉る。
もう一度。ぬるりとした感触。
この身体は赤い血を流さない。
だが頭の内側で、確かに何かが軋んでいる。
もう一度。
もう一度。
もう一度。
考えることを、やめたかった。
このまま思考ごと砕けてしまえばいい。
そうすれば、こんな苦しみから解放される。
だが――それは許されない。
マキナが待っている。
例え何があろうと、己が崩れる訳にはいかない。
額から滴り落ちる黒いモヤを手の甲で拭い、己は無理やり身体を起こした。
出来ることをしなければならない。
病気を治療する知識など持ってはいない。
己に出来ることは、栄養のあるものを食べさせ、清潔な衛生環境を保つことだけだ。
それがどれほど無力なことか分かっている。
分かっていても、それしか出来ない。
森の奥へ入り、罠を確認する。
掛かっていた獲物の首に手を掛け、一息に命を絶つ。
温かな体温が指先から伝わり、やがて冷めていく。
滋養強壮に効く薬草を集める。
見覚えのある葉を片端からむしり取り、腕に抱える。
途中、何度も全てを放り出したくなった。
こんなことをして何になる。
結局は焼け石に水ではないか。
そう囁く声が頭の中で反響するたびに、近くの木に額を打ちつけた。
衝撃。
痛み。
思考の断絶。
そしてまた、手を動かす。
必要以上に集まった獲物と薬草を抱え、住処へと戻る。
全身が鉛を流し込まれたように重い。
浮遊しているはずの身体が、地面に引きずり込まれていくような錯覚に陥る。
それでもマキナが待っている。
戻らなければならない。
何時もなら丁寧に処理し保存するそれらを、倉庫に乱暴に放り込んだ。
やらなければならないことは山積みだ。
動物の血抜き、風呂場の掃除、洗濯。
だが己の身体は、それら全てを投げ出すように女神像の前へと向かい、そのまま項垂れた。
――女神よ。
祈りではなかった。
呼びかけるというより、問い詰めるように心の内で言葉を紡ぐ。
――見ているのなら答えろ。マキナは……死ぬのか?
沈黙。当然だ。
石像が応えるはずもない。
――まだ子供だぞ。何も悪いことなどしていない。誰よりも懸命に、誰よりも健気に生きてきた娘が……何故こんな目に遭わねばならない?
拳を握り込む。
爪が掌に食い込み、鈍い痛みが走った。
――何故だ。何故こうなる。不条理だ……こんな現実、あってはならない。
答えは返ってこない。
女神など、本当にいるのかも分からない。
いや、違う。問うべき相手は女神ではない。
己だ。
己は一体、何をしてきた?
何が出来る?
毎日傍にいながら、マキナの異変に気づくのにどれほどの時間を要した?
気づいてからも、問いただすことすら出来ずにいる。
何も出来ていない。
何も……何も。
視界が歪む。
焦点が合わない。
石像の輪郭がぼやけ、滲んでいく。
怖い。
何気ない朝、目を覚ました時、マキナが冷たくなっていることを想像する。
それだけで、全身がバラバラに崩れ落ちてしまいそうな感覚に襲われる。
ずっと、この先にも未来があると思っていた。
病気が治って、一緒に旅に出て、色々な景色を見せてやるのだと。
マキナが大人になっていく姿を、ずっと傍で見守っていけるのだと。
こんなにも大事な存在の『終わり』を、突きつけられるなど。
想像すらしていなかった。
――これは罰か。
知能の無い魔物の分際で、人並みの心を得たことへの罰だとでも言うのか。
人の感情がこれほど己を苛むのなら……理解するべきではなかった。
胸の奥が抉られるように痛む。
三半規管が狂ったように平衡感覚が揺らぎ、このまま地面に崩れ落ちてしまいそうだ。
この世に生きる人間は、こんなものを一生の内に何度も味わっているのか。
だとしたら……人間は強い。
そして己は、どうしようもなく脆い。
――どうか杞憂であってくれ……己の、勘違いであってくれ。
項垂れたまま、石畳のような冷たい地面を見つめ続ける。
思考が現実から逃げ出そうとしているのが分かる。
何も考えたくない。
何も感じたくない。
時間の感覚が溶けていく。
陽が傾き、女神像の影が長く伸びていることにも気づかなかった。
「………アイン」
背後から声がした。
雪を踏みしめる軽い足音。
聞き慣れた、小さな気配。
マキナだ。
「女神様にお祈りしてるの……?」
振り返ることが出来ない。
今の己は、どんな姿をしているだろう。
顔とも呼べぬこの表面であっても、マキナには全て見透かされてしまう。
こんな無様な姿を、見せたくはなかった。
『……』
沈黙を貫く。
一言でも発すれば、己の抱えた鬱憤を全てマキナにぶつけてしまいそうだった。
何故言ってくれなかったのだと。
何故己を頼ってくれないのだと。
そんな身勝手な言葉を、病身のマキナに叩きつけてしまいそうで。
「……熱心だね。これ……あげる」
足音が近づいてくる。 柔らかな衣擦れの音。そして――
首筋に、冷たい金属が触れた。
細い指が、己の首の後ろで何かを留める感触。
鎖が擦れ合う微かな音。
胸元に落ち着く、小さな重み。
視線を落とす。 錆びついた十字架が、己の胸の上で揺れていた。
『………ッ!?』
ロザリオ。
マキナが祈りと信仰を捧げる際、決して手放さなかったもの。
死にかけの彼女を救った老紳士から受け継いだ、救いの象徴。
全身の内側が、一斉に沸騰したような熱に襲われる。
内臓が暴れ狂い、胸郭を内側から殴りつけている。
指先から血の気が引いていく。
視界の端が暗く滲んだ。
――やめてくれ。
お前がこれを手放す意味など――考えたくはない。
「もし……もしね。私が死んだら、私のものは全部アインが持ってい――
『止めろッッッ!』
気づけば叫んでいた。
己の声が音となり辺り一面に響き渡る。
周囲の木々から鳥が一斉に飛び立つ音がした。
濃い霧が発生し、女神像の周囲を覆い尽くしていく。
マキナの身体が強張る気配がした。
肩が小さく震えている。
「……うん……変なこと言って……ごめん」
その声は、怯えを含んでいた。
己が――怯えさせた。
『すまない。……強く言うつもりはなかった。許してくれ』
「うん、私の方こそごめん……。でもそれは預かっていて……私は貴方に持っていて欲しいの」
どんな気持ちで、そんな酷なことを言うのだ。
首に掛かった十字架が、異様な重さで己を押し潰そうとしている。
実際の重量など僅かなものだ。
だがその意味の重さが、肩から胸へ、胸から腹の底へと沈み込んでいく。
このまま地の底まで引きずり込まれてしまいそうだ。
マキナの足音が遠ざかっていく。
住処の扉が開き、そして閉じる音がした。
何分経ったのか。
何時間経ったのか。
陽はとうに沈み、空には星が瞬いていた。
女神像の白い輪郭が、月明かりにぼんやりと浮かび上がっている。
のろのろと身体を持ち上げる。
全身が錆びついた機械のように軋み、思うように動かない。
――食事……風呂の用意をしないと。
例えマキナに残された時間が僅かだとしても。
今、出来る最善を尽くさなければならない。
無理だろうがなんだろうが、普段通りに振る舞うしか己には出来ない。
最も避けねばならないのは、マキナの心身に負担を掛けることだ。
己のことなどどうでもいい。
ただマキナが、何不自由なくこれからも生活していけるように努めることだけが重要なのだ。
己は大丈夫。
大丈夫だ。
指先が震えている。
握り込んでも止まらない。
大丈夫だ。
己は大人だ。
子供に心配をかけるなど、あってはならない。
両腕を組み、震えを押さえつける。
だが今度は肩が小刻みに揺れ始めた。
大丈夫だ。
これまで通りに振る舞える。
出来る。
出来なければならない。
念仏のように暗示を唱え続けた。
唱えれば唱えるほど、その言葉は薄く、軽く、空虚になっていく。
己は震える腕を己の胸に叩きつけ、無理やり静止させた。
首元のロザリオが、月光を受けて鈍く光る。
その冷たい金属の感触が、マキナの存在を否応なく思い出させる。
住処の扉に手を掛ける。
中からは暖炉の爆ぜる音と、微かな寝息が聞こえてきた。
扉を開ける。
暖炉の橙色の光が、小さな寝台を照らしている。
マキナは毛布に包まり、静かに眠っていた。
その姿を見た瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
規則正しい寝息。
微かに上下する肩。 生きている。今、この瞬間は――まだ生きている。
己は音を立てないよう、そっと寝台の傍に近づいた。
毛布から覗く包帯だらけの手。
その左手の人差し指は、やはり不自然な角度で固まったままだった。
……マキナ。
声には出さなかった。
心の中で、ただ名前を呼ぶ。
『……すまない』
何に対する謝罪なのか、己にも分からなかった。
気づいてやれなかったこと。
問いただす勇気がないこと。
何も出来ないまま、ただ傍にいることしか出来ないこと。
その全てに対して――謝りたかった。
暖炉の薪が爆ぜ、小さな火の粉が舞い上がる。
己は寝台の傍らに腰を下ろし、マキナの寝顔を――顔布に覆われたその横顔を、ただ静かに見守り続けた。
何事もなく。
何にも気づかないふりをして。
これからもマキナと接し続ける。
これが間違いだと悟りながらも、己は一歩踏み出す勇気を出せなかった。