アインザーム・オリジン【完結】   作:ごすろじ

16 / 43
▼第十六話▶「死が幸福から恐怖に変わる瞬間」

 

 

 

――一ヶ月後

 

 

幸福を望み、死ぬ為に生きてきた。

いつかこの不条理の全てが報われると信じ、歯を食いしばって生き続けてきた。

 

 

死は常に身近にあり、親しげな友人でしかなかった。

何気ない日常の中で常に私の側に付き纏い、いつでも手を取れる距離にいてくれる存在。

 

 

死は幸福であり、地獄を抜け出す為のゴール。

私はそこを目指し、ただひたすらに走り続けていた。

 

 

アインと出会ってしまった。

ただ何気ない日常を生きる喜び――それを知った瞬間、私の足は止まった。

 

 

誰にも蔑まれない。

誰かから大事に扱われる。

何不自由ない暮らし。

 

そのひとつひとつが、こんなにも胸を満たすものだとは知らなかった。

 

 

今にして思えば……知るべきではなかったのかもしれない。

これは醜い化け物でありながら、人並み以上の欲を出した罰。

 

アインに嘘をつき続けた報いなのかもしれない。

 

 

彼と出会い、忘れていた欲が芽生えた。

ただ無邪気に、これからもアインと共にこの静かな山で暮らしたいと考えてしまった。

 

愛しい彼と永遠に共にいられれば……そんな叶うはずのないことを夢想した。

 

 

いつも側に付き纏っていた友人は、いつの間にか私から離れていた。

遠くから、じっと私を見つめている。

 

友人は怒りを露わにしたように恐ろしい形相を浮かべ、こちらを睨みつけていた。

 

日を追うごとに、一歩、また一歩と近づいてくる。

その足音が聞こえるたび、私の指先は痺れ、喉の奥が締め付けられた。

 

 

あれだけ望んでいたゴールなのに。

死を願い、懸命に走り続けていたはずなのに。

 

気づけば私は、その友人から逃げ出したくて堪らなくなっていた。

 

私はもう、死を望んでいない。

 

一日でも長く、この何気ない日々をアインと共に過ごせれば……そう願わずにはいられない。

それがもう叶わないと、身体が教えてくれているのに。

 

全ては私が招いた種だ。

嘘が嫌いだと言ったアインに、隠し事をし続けた負債が回ってきた。

 

彼の様子がおかしい。

日を増すごとに、まるで壊れていくように変わっていった。

 

 

以前のアインなら、私が帰ってくると真っ先に気配を察して振り向いてくれた。

今は違う。

 

私が声を掛けるまで、暖炉の火をじっと見つめたまま動かない。

『おかえり』という音は霧を通して正しく聞こえてくるのに、どこか遠い場所から聞こえてくるようだった。

 

 

一見、何も変わっていないように見える。

それでも分かってしまう。

 

彼は、アインは……完全に自分の心を殺してしまったのだと。

 

 

まるで以前の私のように。

 

私のせいで。

 

 

物言いたげな気配には気づいている。

私に何か聞きたいことがあるのだと、伝わってくる。

 

それでも打ち明けることができない。

その勇気が、私にはなかった。

 

 

私の命は最早風前の灯火。

アインに全て打ち明けて、もし拒絶されたら――そう考えるだけで、言葉が喉に張り付いて出てこない。

 

 

彼がそんなことをするはずがないと、痛いほど分かっている。

それでも言えなかった。

 

今までの関係が壊れてしまうのではないか……その漠然とした不安が、私の口を縫い付けてくる。

 

出会った時より、その縫い目は固くなっていた。

 

 

自分の死に身が竦むだなんて、考えてもいなかった。

こんなことなら、初めから余命が短いことも含めて全部言ってしまえば良かった。

 

何度も何度も後悔する。

それでも、いくら過去に戻れたとしても、私はきっと言えないと思う。

 

 

アインに迷惑を掛けたくないから。

 

 

「……かかった」

 

 

湖畔に垂らした釣り竿の糸が、深く沈み込む。

私は竿を放し、糸を片手で掴んで引き寄せた。

 

糸が切れないよう、少しずつ、少しずつ。

やがて小さな銀色の魚が岸へと上がってきた。

 

糸を外し、片手で釣り針を抜いて釣籠に入れる。

籠の中で跳ね回る魚に雪を被せると、私は再び竿を握り、ミミズを釣り針に刺して湖畔へと投げ入れた。

 

 

ぶらりと垂れ下がるもう片方の腕は……もう、使い物にならない。

 

 

始めは動きづらさから始まった。

指先が言うことを聞かなくなり、次に指全体、そして掌。

 

今ではもう、肘から先が全く動かない。

 

 

腕の包帯を外せば、白い骨が剥き出しになっている。

その周囲には黒ずんだ腐肉がへばりつき、黄色い脂のようなものが染み出していた。

 

 

動かそうとしても、命令を伝える筋肉がもうどこにもなかった。

 

 

痛みはない。

体調にも、これといった変化はない。

少なくとも、私はそう思い込もうとしている。

 

 

少しずつ、他の部分も動かなくなってきていた。

中でも片脚の腐食の進行が早い。

 

時折、繋がりが途切れたかのように膝から下が動かなくなることがある。

その度に立ち止まり、感覚が戻るのを待つ。

 

戻らなければ、引きずって歩く。

 

 

いくら天国を夢見ても、この身体の軋みは消せない。

死後の幸福よりも、今の幸福を手放したくないと願ってしまう。

 

 

どうすればいいかなんて分からない。

私は所詮、本から知識を得て賢い振りをしているだけの愚か者でしかない。

 

物語の中の賢者や哲学者のように、悟りを開いて全てを受け入れることなどできないのだ。

 

 

いくら頭を巡らせても、最善の答えは浮かんでこない。

 

 

最近は何も考えず、湖畔で釣りをして時間を潰すのが日課になってしまった。

透き通った水面に映る空を眺めながら、初めてアインと顔を見合わせた日のことを思い出す。

 

あの日から始まった、人生で一番幸福な日々。

何度も繰り返したいと、叶わない妄想ばかりが頭を過ぎる。

 

 

心地良い日差しに包まれながら、空を見上げた。

私の憂鬱など知らぬとばかりに、太陽は天高くギラギラと輝いていた。

 

 

「そろそろ帰らなきゃ……アインが心配しちゃう」

 

 

竿を仕舞い、魚が数匹入った籠を手に持って立ち上がる。

片脚に負荷を掛けないよう、引きずるようにして歩き出した。

 

アインが舗装してくれた、なだらかな道。

あの優しさが、今は少しだけ胸に痛い。

 

 

 

顔を覆う布の内側で、笑顔の練習を繰り返す。

口角を上げる。

 

頬の筋肉を動かす。

声を明るく保つ練習。

 

私に合わせて無理をしているアインに、これ以上心配を掛けてはいけない。

 

 

アインの待つ家の扉に手を掛け、深く息を吸い込んでから中に入った。

 

 

 

 

 

 

 

アインは暖炉の前にいた。

焚べられた薪がパチパチと音を立てる中、揺らめく炎をじっと見つめたまま微動だにしない。

黒い霧状の下半身が、かすかに揺らいでいるだけだった。

 

 

「アイン、今日も大量だよ。見てこれ……食べられる魚かな?」

 

 

籠を掲げて見せた。

私の声が室内に響いてから、一拍。二拍。

 

ようやく彼の身体がゆっくりとこちらを向いた。

 

 

『……あ、あぁ……すまない、ボーっとしていた。おかえり、マキナ』

 

 

返事が来るまでの沈黙が、以前より長くなっている。

気のせいではない。

 

日を追うごとに、その間が広がっていた。

 

 

『相変わらず多芸だな……それだけ才能に溢れていれば、将来は何にでもなれる』

 

 

声は正しく発音されている。

抑揚も、言葉選びも、以前と変わらない。

 

それなのに、どこか無機質に聞こえてしまう。

感情という感情を、無理やり絞り出しているような苦しさが滲んでいた。

 

 

「……うん。そうだね」

 

 

私は頷くことしかできなかった。

 

彼はよく将来や未来のことを口にするようになっていた。

私に希望を与えようとしてくれているのか、それとも自分自身に言い聞かせているのか。

 

どちらにせよ、一日に必ず一度はそんな言葉を発するようになっていた。

 

彼をこんな風にしてしまったのは、私だ。

一度ついた嘘は、もう後戻りできないところまで来てしまった。

 

私にできることは、この嘘を最後まで突き通すことだけ。

 

 

例え最後の最期に後悔しようとも、それ以外に選択肢はない。

 

 

「アイン……なんだか疲れてる?」

 

 

声を少し柔らかくして尋ねた。

彼の身体が僅かに揺れる。

 

考え込んでいるのか、言葉を探しているのか。

 

 

『問題ない』

 

 

一度そう言い切ってから、彼は動きを止めた。

沈黙が数秒続く。

 

暖炉の薪が爆ぜる音だけが、やけに大きく聞こえた。

 

 

『……いや……どうだろうな』

 

 

また沈黙。

彼の声が、少しだけ掠れた。

 

 

『少し……疲れている、のかもしれないな……』

 

 

その言葉を聞いて、胸が軋んだ。

アインが弱音を吐くなんて、今まで一度もなかった。

 

いつも私のことばかり心配して、自分のことは後回しにしていた彼が。

 

 

「それじゃあさ……お昼寝でもしない? 何も考えずに、横になるだけ」

 

 

声が震えないように、必死で喉を押さえつけた。

 

 

『あぁ、それは……いいな』

 

 

生返事だった。

以前の彼なら、私の提案に対してもっと言葉を返してくれた。

今は、ただ……肯定するだけ。

 

呆然と浮かんでいるアインの手を取った。

冷たい。いつもより、少しだけ冷たく感じる。

 

 

「それじゃ、いこ……」

 

 

脚のない彼の身体は、驚くほど軽かった。

少し力を入れるだけで、簡単に動いてしまう。

 

その軽さが、今はひどく心許なく思えた。

 

 

私もアインも、どうかしている。

たぶん……もう、普通の精神状態じゃない。

 

 

今はただ、眠りたい。

何も考えたくない。

 

 

この息苦しさから、少しだけ逃げ出したい。

 

 

アインの手を握ったまま、私は布団に潜り込んだ。

冷えた身体が、布団の中で少しずつ温まっていく。

 

彼の手だけが、ひんやりとしたままだった。

 

 

「おやすみ……ごめんね、アイン」

 

 

声が掠れた。

謝罪の言葉が、自然と口から零れ落ちていた。

 

 

『あぁ、良い夢を。己がお前を守ってやる……』

 

 

その言葉を聞いて、目の奥が熱くなった。

 

こんなことは望んでいなかった。

最期は笑い合って逝けたら、そんな理想を思い描いていた。

 

なのに現実はこんなものだ。

 

誰も幸せになれない。

死に近づく私なんかのせいで、アインが壊れていく。

 

そんな姿を見たくなんてなかったのに。

 

涙で視界が滲む前に、私は瞳を閉じた。

現実逃避に耽る私にとって、睡眠は最高の逃げ場だ。

 

今、眠る必要はなくても、意識は自然と暗闇の中に沈んでいった。

 

 

 

 

 

 

おやすみなさい。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

遠くで、鴉が鳴いていた。

乾いた声が、何度か繰り返される。

 

その音と、瞼の裏を染める夕日の赤さが、私の意識をゆっくりと引き上げていく。

 

 

覚えていないけれど、幸せな夢を見ていた気がする。

もっと眠っていたかった。

 

それでも、身体は妙に元気で、目は冴え渡っていた。

 

 

ベッドから身を起こすと、隣にアインの姿はなかった。

代わりに、枕元の小さな机の上に、コップ一杯の水が置かれている。

 

それを手に取り、一気に飲み干した。

乾いた喉が内側から冷やされ、全身に水が染み渡っていくのを感じる。

 

 

布団を押しのけ、立ち上がった。

部屋の中を見渡しても、アインの姿はない。

 

風呂場を覗いても、誰もいない。

 

 

一瞬、最悪の考えが頭を過ぎった。

彼が、私を置いて出ていったのではないか。

 

私に愛想を尽かして、どこかへ消えてしまったのではないか。

 

 

血の気が引いた。指先が冷たくなる。

 

 

落ち着け。

落ち着くんだ。

 

耳を澄ませば、外から物音が聞こえてくる。

何かを切り裂くような、湿った音。

 

 

アインだ。

きっとアインが、何か作業をしているだけだ。

 

 

唾を飲み込み、深く息を吸い込んだ。

扉の前まで歩き、取っ手に手を掛ける。

 

 

アインがいなかったらどうしよう。

まさか、出ていって――

 

 

扉を開けた。

 

 

目の前に、黒い塊があった。

 

 

最初、それが何なのか理解できなかった。

入口を塞ぐほどの巨大な影。

 

毛皮に覆われた、山のような肉塊。

 

熊だ。

 

 

鉄錆の臭いが鼻腔を突いた。

視線を下げると、赤黒い血が雪の上に広がっている。

 

まだ湯気が立ち昇っていた。

 

その傍らに、もうひとつ。

濁った眼球がこちらを向いたまま、血溜まりの中に転がっている。

 

 

熊の、首。

 

 

「――え?」

 

 

声にならない声が漏れた。

足が、一歩も動かない。

 

 

ザク、ザク、と。

生々しい音が、熊の腹の中から聞こえてきた。

 

何かが、その巨体を内側から抉っている。

 

私は扉を半分閉め、隙間から様子を窺った。

心臓が、うるさいほどに脈打っている。

 

 

熊の腹が裂け、中から何かが這い出してきた。

 

 

女性だった。

 

 

血塗れの手で肉の塊を鷲掴みにしながら、熊の体内から身を起こす。

雪のように白い髪が、返り血で所々赤く染まっている。

 

 

目の下の隈が深く、それが目つきを一層悪くしていた。

 

 

身長はアインには及ばない。

それでも、私より遥かに大きい。

 

何より、その纏う空気が尋常ではなかった。

 

 

私がじっと観察していると、女は不意にこちらを向いた。

光の宿らない瞳が、私を捉える。

 

 

「うん?」

 

女性の声が聞こえた。

次の瞬間、その目が大きく見開かれた。

 

 

「……――うぉ!? ……眩しッッ!?」

 

 

女が顔を背け、腕で目元を庇った。

その反応の意味が分からないまま、私は反射的に扉を閉めていた。

 

 

バタン、と音が響く。

 

 

背中を扉に押し付け、その場に蹲った。

心臓がうるさい。息が荒い。

 

誰かは分からないけれど、本能が警告を発していた。

 

 

危ない。

この人は、普通じゃない。

 

 

さく、さく、と。

 

 

扉の外から、雪を踏みしめる足音が聞こえてくる。

一歩、また一歩。確実に近づいてきていた。

 

 

コン、コン、コン。

 

 

扉が三度、叩かれた。

 

 

「お嬢さん」

 

 

声が聞こえた。

先程の荒々しさとは打って変わって、上品で物腰柔らかな声音。

 

 

「心配しないで、私は怪しい者ではありません……どうか扉を開けていただけませんか?」

 

 

怪しくない人間が、熊の腹の中から血塗れで出てくるはずがない。

私は扉を押さえたまま、声を殺して息を潜めた。

 

 

「……ふむ、困りましたね。少しでもいいから、お顔を見せてくれないかい?」

 

 

どうにか追い払わないと。

アインと鉢合わせでもしたら、彼が傷つけられるかもしれない。

 

 

その時、ふと思いついた。

 

 

私の顔だ。

 

 

アインのせいで麻痺していたけれど、私の顔は醜く醜悪なのだ。

初めてこの顔を見た人間は、吐くか、泣いて逃げ惑うかのどちらかだった。

 

 

この女性にも通用するはず。

空気で病気がうつると言えば、怯えて逃げ出してくれるかもしれない。

 

 

「そ、そんなに見たいなら見せてあげます……ッ!」

 

 

声を張り上げた。

震えそうになる手で、顔の布を外す。

 

 

幸い、トラウマの恐怖よりも生存本能が勝っていた。

身体は震えていない。

 

いける。

アインのために、やるしかない。

 

 

扉を両手で勢いよく開け放ち、女性を見上げた。

慣れない啖呵を切る。

 

 

「こ、この家に近づかないでください! び、病気……この醜い病気は、私に近づくだけでうつります! 早く山を下りて教会に行かないと、手遅れになりますよ!?」

 

 

女性は、私の顔を見た。

 

そして。

 

 

「…………ふふ」

 

 

笑った。

 

 

「――へぇ……なるほど、あいつが入れ込む訳だ」

 

 

期待していた反応とは、全く違った。

 

悲鳴もない。

嫌悪もない。

恐怖もない。

 

まるで珍しい花でも見つけたかのように、女は顎に手を当てて私を眺めていた。

 

私は何度も確認した。

顔布は、本当に外れている。

 

この腫瘍だらけの醜い顔が、確かに晒されている。

 

なのに、どうして。

 

 

「う、うつりますよ! 立ち去りなさい!」

 

 

同じ言葉を繰り返して叫んだ。

声が裏返っているのが、自分でも分かった。

 

 

女は動じなかった。

ゆっくりと膝を折り、私と目線が合う高さまで身を屈める。

 

血に濡れた手が伸びてきて、私の頬に触れた。

 

 

冷たい。

けれど、その指先には不思議と荒々しさがなかった。

 

 

全身が硬直した。

声を出すことも、逃げることもできない。

 

ただ、目の前の女の顔を見つめることしかできなかった。

 

 

「綺麗だ」

 

 

女が言った。

 

 

「……え?」

 

「美しいお嬢さん。不躾に触ってしまった無礼を許して欲しい。君の瞳が余りにも美しくて……つい、触れたくなってしまった」

 

 

言葉の意味が、頭に入ってこなかった。

 

この顔を見て、綺麗だと言う人間がいる。

アイン以外に。

 

熊を素手で解体するような、明らかに常軌を逸した女性が。

 

その時、何かが繋がった。

 

世間からズレた感じ。

頭のどこかが普通ではない様子。

 

アインが何度も話してくれた人物像。

 

そして何より――私の顔を見た時の、この反応。

 

 

息を呑んだ。

今度は、恐怖からではなかった。

 

 

「あ、あの……お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」

 

 

声が震えていた。

期待と、まだ残る警戒が入り混じっていた。

 

 

「おっと……これは失礼。名前も名乗らず親睦を深めようとは、とんだ落ち度だ」

 

 

女は立ち上がり、芝居がかった仕草で軽く頭を下げた。

 

 

「私の名前はフルーフ。どうか怖がらないで、麗しのレディー」

 

 

やっぱり。

凄く胡散臭い喋り方だけど、私を見た時の反応がそっくりだもん。

 

身体から、一気に力が抜けた。

 

――この人……アインのお母さんだ!!

 

 

「あ……やはり貴女が!」

 

 

思わず声が大きくなった。

慌てて姿勢を正し、身体に染み付いた動作で挨拶をする。

 

 

「わ、私の名はマキナと申します……。フルーフ様、貴女様のお話は常々伺っております。しがない居候の身ではございますが……どうか、よしなに」

 

膝を軽く曲げ、裾を摘まむ仕草をする。

 

「本物のカーテシーなんて久しぶりに見たな」

 

フルーフ様の声に、僅かな驚きが混じった。

 

「こちらこそ……君の話は、そこに伸びている鬱病末期の自称大人から、じっくり聞かせてもらっているよ」

 

 

そう言いながら、彼女は親指で背後を指し示した。

 

視線を向けると、アインが横たわっていた。

いつも宙に浮いているはずの彼が、横一直線に地面に伸びている。

 

顔があるはずの部分から、黒いモヤがもうもうと立ち昇っていた。

 

 

「あ、アイン!?ど、どうしたの!?」

 

 

駆け寄ろうとして、足がもつれた。

片脚が言うことを聞かず、つんのめりそうになる。

 

 

「心配しないで」

 

 

フルーフ様の声が、背後から聞こえた。

 

 

「少しの間意識を飛ば……教育的制裁を下しただけだから」

 

「フルーフ様、本当ですか? 黒いモヤのようなものが立ち昇っておりますが……」

 

「"様"はちょっと……フルーフ"さん"でお願いできるかな」

 

 

彼女は血のついた手をひらひらと振った。

 

 

「あぁ、本当に大丈夫だよ……頬に一発入れただけだから」

 

 

そう言いながら、握りしめた拳を突き出して見せた。

ヒュッ、と空を切る音が聞こえた気がした。

 

 

アインが話してくれた人物像と、完全に一致していた。

この人は、誰かを殴ることに全く躊躇がないタイプだ。

 

 

「さようですか……。その、フルーフさん……アインはいつ目を覚ますのでしょうか? 目覚める気配が全くしないのですが……」

 

 

アインの傍らに膝をつき、その身体に触れた。

黒いモヤが私の指先をくすぐるように揺れている。

 

 

「二時間……くらいかな」

 

 

フルーフさんは何でもないことのように答えた。

 

 

「大丈夫、安心して……君の夕食は私が用意してあげる。味の保証はできないけど、食べられるはずさ」

 

 

視線を背後に向けると、切り分けられた肉の山が積み上げられていた。

串に刺され、整然と並べられている。

 

あの熊の肉だろう。

 

 

「お気遣いいただき、ありがとうございます」

 

「気にすることはないさ、私も責任がある立場だからね」

 

 

フルーフさんは、慣れた様子で家の中に入っていった。

迷いのない足取りで室内を見回し、私の顔布を見つけて手に取る。

 

 

「……よし」

 

 

何も言わず、彼女は私の傍に戻ってきた。

血に汚れた手ではなく、いつの間にか雪で拭いた手で、顔布を私に被せてくれる。

 

 

その仕草が、どこかアインと重なった。

何も聞かず、何も言わず、ただ必要なことをしてくれる。

 

こういう優しい所は、本当によく似ている気がする。

 

 

「着替えてくるから、少し待っていてもらえるかな?」

 

「あ、はい」

 

「少し……今後のことについて話そうか。あいつが起きてこない間にね」

 

 

「あいつ」とは、アインのことだろう。

フルーフさんの声音が、僅かに変わった気がした。

 

 

「今後……ですか?」

 

「うん」

 

 

フルーフさんは立ち止まり、こちらを振り返った。

その目には、先程までの軽薄さはなかった。

 

 

「残念だけど……君はもう死にかけだ。色々と今後のことについて、考えないといけないでしょ」

 

 

心臓が跳ねた。

 

アインが決して踏み込んでこなかった場所に、彼女は躊躇なく踏み込んできた。

私の余命のこと。私の身体のこと。私が隠し続けてきた全てのこと。

 

 

何を言われるか分からない。

もしかしたら、責められるかもしれない。

 

 

目まぐるしく変わる状況に、私はただ服の袖を握り込んで震えていることしかできなかった。

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。