アインザーム・オリジン【完結】   作:ごすろじ

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▼第二十三話▶全てを曝け出し、君の手を取りたい。

 

 

 

黒く濁った曇天の雲空。

力なく座り込み色褪せた少女の眼には広大な湖畔がうつし出されている。

 

 

 

厚い雲に遮られた空は薄く淀んでおり、世界の色彩がワントーン落ちているように感じられる。

 

それはまるで少女の内面を反映するかのように虚しく、寂しげだった。

 

 

日の光が届かない湖畔は輝きを失い、青空をバックに映さない木々はどこか寂しげで物足りない。

 

――何も、感じない……かつてあった感動も既に思い出せなかった。

 

 

絶望と恐怖に侵食された少女の心は凍りつき、感情の波すら湧き立たない。

 

 

少女は一人、色褪せた湖畔を眺め続ける。

死は目前。かろうじて身体の中で燃え上がるナニカに生き永らえさせられている状態。

 

 

怖い、死にたくない、助けて、そんな生に執着する絶叫だけが内面を満たし続けていく。

 

何も考えることは出来ない、ただただ暗い感情だけが心を支配し、明るい感情が芽生える余地を根こそぎ奪い尽くされていた。

 

 

少女は何かを期待し待ち続ける。

来て欲しくない、だけど来て欲しい。

会いたくない、でも会いたい。

 

 

そんな矛盾を抱えながら、一体の大きな魔物を待ち続ける。

 

 

絶対にバレたくないことが露見した。

いつかは全てが知られる時がくるだろうと自覚しながら……知られないよう誤魔化し続けてきた。

 

 

そしてそれは今日だった。眠りから目覚めアインとフルーフの話を聞いてしまった。

 

そして、何かを感じるよりも早く逃げ出した……嫌な現実から逃げる為に自然と身体が動いてしまった。

 

 

動かない脚を引き摺り、動かない掌をぶらぶらと動かし……醜い醜態を晒しながら逃げ回った。

そして少女は光を求めるが如く湖畔へと辿り着いた。

 

 

此処は救いが詰まった場所であり、少女の記憶の中でもっとも大事な思い出がある場所。

 

 

最早何もかも手遅れだと知りながら、最も大事な者を騙していたことを知られた罪悪感に囚われながら……死に場所を求めるでもなく生を求めて縋り付いた。

 

少女は絶望の中で希望を求めた……そして今、此処にいる。

 

 

だが、此処には何も無い。

あの日感じた救いも、希望も、感動もありはしなかった。

 

 

ただ色褪せた自然……肌をさす冷たい風、物音一つしない寂しさだけしかない。

それも当然だった。マキナが求めて止まない……最も決定的なものが欠けていたのだから。

 

 

――アイン。

 

 

どんな楽しい思い出にも常に彼が側にいた……彼の存在があってこその幸福だった。

たとえ救いを得た象徴の場所だとしても……アインという最も重大なピースが欠けていれば何の価値もなかったのだ。

 

 

マキナの口から嗄れた……狂ったような乾いた笑いが漏れる。

絶望は更に深い絶望を想起させ深みに嵌まらせていく。

 

 

何故アインは来てくれない。

 

会いたくないと思いながらも、心の奥では絶対に直ぐに来てくれると信じていた。

なのに来ない……何分経っても、十分以上経っても来ない。

 

 

捨てられた?

愛想をつかされた?

全部を聞いて気持ち悪がられた?

 

 

もう……いらないって……そう思われちゃった?

 

 

心臓がドクンドクンと跳ね回り包帯に包まれた全身から動悸と共に冷や汗が吹き出す。

 

心身共に何一つ正常ではない少女は瞳孔をギョロギョロと揺らしコントロールが効いておらず、過呼吸のように浅い息を繰り返していた。

 

 

 

――ポツ……ポツポツ。

 

 

 

空を覆う黒い雲から水滴が滴り落ちる。

 

 

雨が降ってきた。

 

 

 

徐々に降り落ちる雨は勢いを増していき、少女の全身を濡らしていく。

そういえば……家族に殺されかけた日もこんな暗い雨空だったと、少女は思い出す。

 

 

立ち上がり、大事にしていた顔布を外し地面に投げ捨てる。

 

 

あれだけ恐怖していた心が不思議な程静まり返っていた。

これは切っ掛けだと思えた。自身が死ぬタイミングは今だと……根拠のない確信が少女の心を満すのだ。

 

 

あの日死ぬはずだった命が今日終わりを迎えるだけ。

元々死んでいたはずの命を終わらせるだけ……そう思えば、不思議と恐れはない。

 

 

少女は片腕と片脚を支えに立ち上がる。

そして湖畔の方へと歩いていった。

 

 

――チャプ……。

 

 

包帯越しに足先から冷たい水の感触が伝わってくる。

そのまま一歩、また一歩と近づいていく度に水が少女の脚を包みこんでいく。

 

 

このまま進めば全身が浸かり切る前に低体温で死を迎えることになる。

少女はそれを承知の上で前へと進み続ける。

 

 

膝まで水に浸かり、少女は天を仰ぎ見てこれまでの人生を回想する。

雨が打ち付ける空を見つめ……自身が信じる神へと許しを乞うた。

 

 

――女神様……申し訳ありません。どうか……己が選択で命を終わらせる罪を……お赦し下さい。

 

 

少女は最期に両手を組み女神に祈りを捧げ……歩き出した。

ガサガサになった唇が動き無意識な言葉を紡ぐ。

 

 

 

「……アイン……こんな私の綺麗だと言ってくれて嬉しかった。女の娘として扱ってくれて嬉しかった。嘘でもなんでもなく……ごはんも凄く美味しかった。いっぱい……直接ありがとうって言いたいのに……ごめんね……――」

 

 

 

少女は見上げた顔を下げ、幽鬼のような力ない姿で水の中を進んでいく。

そして正真正銘……人生最期の言葉を口にする。

 

 

 

 

「――さようなら、アイン」

 

 

 

少女はその言葉を口にすると一瞬動きを止める。

口を固く閉ざし、全身を震えさせ服の袖を力一杯握りしめる。

 

 

そして再び歩き出そうと脚を前に踏み出す。

だが……一歩踏み出すよりも早く、温かい風が背後から吹き荒れ少女を追い抜いていく。

 

 

それは風ではなく霧……常に身近にあり、親しみのある温かな霧だった。

少女が期待した希望がやってきた。

 

 

マキナは瞳を大きく見開き全身を硬直させる。

その一瞬を縫い、霧から大音量の声が湖畔全体に反響する。

 

 

 

 

 

『―――待ってくれッ!!マキナ!!』

 

 

 

 

 

聞き覚えのある声、深く低い男性の声。

少女……マキナが待ち続けたアインの声だ。

 

 

いつもの悠然とした様子は無く、後先考えない必死な声にマキナは振り返ってしまう。

マキナが歩いてきた湖畔の水辺に大きな影が立っている。

 

 

全身ボロボロでありながら、強い意思を感じさせる視線でマキナを見つめていた。

 

 

何も感じなくなったはずの心が震えてた。

最愛の存在、この世でもっとも大事な想い人……彼が迎えに来てくれた。

 

 

それだけでジワリと胸の内から温かいなにかがこみ上げてくるのをマキナは感じてしまう。

 

 

だがもう……疲れてしまった。

 

 

マキナは先の無い生を生きることに疲弊しきっていた。

死へと続く道を生の希望を持って歩み続けることはもう出来ない……最期に迎える終わりがこれ以上辛くなることに耐えられなかった。

 

 

マキナは迷いを振り切るようにアインから顔を背け歩き出す。

歯を噛み締め、感情を押し殺し水面に足跡を刻んでいく。

 

 

 

 

 

 

『――待てッ!!待つんだ!!!行くな!』

 

 

 

 

 

 

アインの必死な声が聞こえてくる。

だが、マキナは止まらない……これでいいと己に念じ続ける。

 

 

 

これで……もうアインの迷惑になることもない。

全てを知られた今、マキナはどうあっても自分に存在価値を見出せずにいた。

 

 

側にいたい、ずっと一緒に平穏な日常を過ごしたい……。

そんな些細な願いが現実からはとても遠かった。

 

アインがどれだけ許容しようと関係ない、これまでつきつづけた嘘に……罪悪感に耐えられないのだ。

 

 

日夜襲い来る死の実感、度重なる重度のストレスによりマキナの心は弱りきっていた。

 

何も見えない闇の中で藻掻き続けた少女……生への活力に満ち溢れていたその心は、今完全に闇に囚われ地獄を彷徨っている。

 

 

自力では這い出せない底なし沼に頭まで浸かり……全てを悪い方向へと考えてしまう。

 

 

マキナは自問自答する、この先仮に数日生き延びたとして……。

全身が動かなくなった状態でアインに看病させつづけるか?

 

 

当然答えは否。

 

マキナは天才的な頭脳を持っているが内面は普通の少女でしかない……。

 

そんな恥知らずで……。

 

厚顔無恥な奴にはなれないし、なりたくもなかった。

 

 

少しずつ全身をフラつかせ沈んでいくマキナにアインは拳を握り考える。

 

どうすれば止まってくれるのか……なんでもいい、どれだけ恥を晒そうと、軽蔑されようと止まってくれさえすればいい。

 

 

“健闘を祈るぞ我が息子よ”

 

 

アインの頭にフルーフの声が響く。

 

最低な妙案が思い浮かぶ……。

 

制止でもなんでも無く単なる脅しでしかないが、アインは躊躇なくそれを実行に移す。

保護者だとか、大人だとか、そんな気取ったものは全部投げ捨ててアインは叫ぶ。

 

 

 

『――マキナ!!今ここで命を絶ってみろ……お前が死んだら……

 

 

 

―――己も後を追って死ぬからなッッッ!!!己は本気だ!!お前が……己を捨てるなら……死んでやるぞぉおッ!!!』

 

 

 

「――ッッ!?」

 

 

 

なんと女々しい叫び。

自分の命をかけた情けない縋るような脅しだった。

 

 

自己評価最底辺のアインにとってはとんでもない博打だ、そもそもこれはマキナがアインを心から大事だと想ってくれていないと成立しない賭けだからだ。

 

そしてアインはこれだけ叫びちらしておいて、マキナが本当に止まってくれるかなんて……全くわからなかった。

 

 

 

『確かに己はあの時言ったはずだ!絶対に離れないと……そしてお前は言った!私を捨てたなら己を殺して死ぬと!なら己も……お前が己を捨てるならッ。その約束を使って……死んでやる!!』

 

 

 

まるで子供の癇癪、普段冷静沈着なアインとは思えない必死過ぎる叫び。

 

それはアインをよく知る人間であればあるほど信じられないような姿であり……嫌でもその本気度が伝わってきてしまう。

 

 

アインの恥もプライドも捨てた叫びは、見事に賭けに競り勝った。

マキナは眼を見開きアインへと再び振り返り見つめていた。

 

 

「………」

 

 

『止まってくれてありがとう、マキナ』

 

 

「どうして……そんなことを言うの?……意味わかんない……どうして?貴方はこれからも生きられる、なのにどうして死ぬだなんて……平気で言うの?」

 

 

マキナからは悲しみにも似た苛立ちが伝わってくる。

 

それも当然だ……。

マキナはもう生きられないこと絶望しているのだ。

 

なのに五体満足の健康体に、こんなことを言われて怒りを感じないはずがない。

 

 

そして、その怒りと同じくらいの心配が伝わってくる。

そこにはアインが……マキナを止めるためだけに本気で死を選ぶと宣言したことへの仄かな喜びも混じっていた。

 

 

『怒るよな……あぁ、わかっているさ。だが……己には無理だ。マキナ、お前がいない世界で生き続けるのなんて耐えられない……』

 

 

「……どう、したの……?そんなの……全然、アインらしくないよ……。アインはもっと大人で……私の選択を尊重してくれていたでしょ、これが、私の……最期の我儘なの……」

 

 

『違う……違うんだマキナ。己は……そんな立派な奴じゃない……そうじゃ……なかったんだ。己は格好をつけていただけでしかない。ただ……子供であるお前の前で取り繕っていただけだ。お前なんかより余程幼く幼稚で……未熟な弱虫でしかなかった』

 

 

心とは、精神的な成長とは他者との交流と経験を通じ成長するものだ。

 

アインは思う、幾ら年齢的に大人だとはいえ、他者と関わったことなど数える程しかない……。

ならばその内面は世間知らずの子供となんら変わらないのではないかと。

 

 

どうやって人と向き合えばいいかわからない。

傷つくことに過剰におそれてしまう……。

 

これらは全て精神的未熟が齎すものだと気がついた。

 

 

大人ぶって余裕を取り繕い、ボロが出るような場面からは必死に逃げ続けてた。

 

常識的に思うことなどは全て本心だ。

年齢的に大人としてマキナを保護しようとしたことも本当だった。

 

 

だが、辛い現実から逃げず向き合い続けるマキナを見て、己を顧みた時……気づいてしまった。

光り輝く少女の生き様に照らされ、己の空虚さが浮き彫りになった。

 

 

何にも向き合わず、生命を脅かす苦悩も無く……。

ただ生きるだけの自身が幼く思えて仕方がなかった。

 

 

それからは恥を感じるようになった。

 

嘘と誤魔化しで全身を覆い隠したマキナのように……。

アインも己の未熟さが悟られないよう己の在り方をメッキで塗り固めていた。

 

 

恐ろしい現実に立ち向かう術を知らない。

認めたくない現実に抗う方法を知らない。

 

日々弱り何かを抱え込むマキナへと一歩踏み出すための勇気を見出だせなかった。

 

 

だが……今は違う。

アインは全てのメッキをかなぐり捨て、ありのままの自分でマキナの前に立っている。

 

 

恐れたのは本当の自分が知られること。

頼れる大人が本当は意気地のないだけの餓鬼だと知れることだ。

 

 

失うことを恐れた。

失望されることを恐れた。

嫌われることを恐れた。

 

だが逃げ続けた先に後悔があることは知っていた。

 

自分自身の弱っちい意思では動けなかった……。

だが、フルーフとの殴り合いを経た今の一瞬。

 

ヤケクソになって覚悟を決めてしまったアインにはなんでも出来ると思えた。

 

 

そうして勢い任せで全てを捨てることにした。

遠慮も外聞もプライドも捨てると決めてきた……。

 

フルーフがくれた熱がそれを行う勇気をくれた。

 

 

だからアインは叫ぶ。

全てを投げ捨て、本当の自分を見せつけるようにマキナと向き合い続ける。

 

 

『お前が悩んでいるのなんて知っていたさ!己を誤魔化して何かを隠していたことも……全部気がついていたんだ。だが……怖かったッ。知ればお前が死ぬんだと理解してしまいそうで……悲しくて、傷つきそうで。そんな幼稚な理由でお前から逃げ続けてきた』

 

 

「……なに、それ。そんなのッ……アインが悪い訳じゃない!私が……私がわるいんだよ。アインが嘘が嫌いだって知ってたのに……私は自分の状態を隠し続けてきた。初めに発端となった私が悪いに決まってるのに……変に庇わないでよ」

 

 

『それも違うんだよマキナ。己は嘘が嫌いと言った……だが本当の所は嘘を吐かれて傷つくことが嫌だっただけだ。くだらない嘘程度には……何も感じないさ……。己は嘘という言葉を盾にしたに過ぎない。ただ自己防衛のための方便に使っていただけなんだ……。真に発端があるのだとすれば……それは己だ。お前は何も悪くない……』

 

 

真に愚かしいのは己だと失笑する。

無自覚に吐いていた言葉は顧みれば、それがただの方便であったことに気がついた。

 

アインはフルーフに嘘をつかれた経験など数え切れない程ある、そのどれもがしょうもないものだった。

 

 

だがアインはそれを特に気にしたことはない。

そもそも嘘に対し嫌いという程の感情を持っていなかった。

 

 

マキナに好意を抱き……未熟な己が咄嗟についた自己防衛でしかないことに気がついた。

 

アインは思う。

本当に……フルーフが言う通りの糞餓鬼だったと。

 

 

「全部……嘘だったの?私に言った言葉は全部嘘だったてことでいいの?……そんな訳ない!そんな訳ないよ……。ただの同情であそこまで優しくしてくれただなんて……あり得ない」

 

 

『そうだな。嘘じゃないよ……。お前を大事だと言ったのも、ずっと側にいると約束したことも……何一つ嘘はない。ただ知っておいて欲しかったんだ。これが……この情けなくとも未熟な奴こそが本当の己だ。己はもう逃げない……偽らない。誤魔化しもしない……。だからマキナ、逃げないでくれ。今目の前にいるのは……お前が逃げるような御大層な奴ではないんだ』

 

 

「好き勝手言わないでよ!!今更そんなこと言われたって、どう受け止めればいいかわからない!そんなの聞かされたって……もう私に先なんてないんだよ!!本当に私を想ってくれているなら……ずっと大人のふりをし続けていてよ……」

 

 

マキナの顔がくしゃりと歪む……。

小さな怒りから始まった感情の火種は少しずつ凍えきった心に感情を呼び覚ましていく。

 

 

死ぬことを許容して欲しいマキナは力なくアインへと懇願する。

 

別にアインがその内面を偽っていようがマキナは気にしていない。

アインはアインであり、これまで注がれ続けてきた温もりは本物だと理解しているから。

 

 

こんな醜態まで晒させて……勇気を出させて……マキナはもうこれ以上アインを困らせたくなかった。

 

マキナは本心からただ黙って死なせて欲しいと願う。

 

優しいアインなら……絶対に断れない。

本音の言葉を尊重してくれると信じて口にする。

 

 

だが、マキナはアインの覚悟を見誤っていた。

 

今のアインは未熟な糞餓鬼でしかない。

……そんな言葉をはいそうですかと受け入れる度量などありはしないのだ。

 

 

取り繕うための大人としての皮は既に剥ぎ取った後だ。

だからアインの返事は決まっている……

 

 

 

『――それは、己が嫌だ!!!絶ッッ対に嫌だ!!認めん!!』

 

 

 

堂々としてNOの一択。

理由も説明も無くただ嫌だから嫌だと叫ぶ。

 

 

「な……ッ!?」

 

 

マキナの気持ちなど知ったことではないと言わん拒絶にマキナは驚きの声を上げる。

 

こんなのはアインじゃない……。

駄々を捏ねまくるアインを前にしてマキナは、今までと同じではないことをようやく悟った。

 

 

『言ったはずだぞマキナ!己は未熟な糞餓鬼だ!マキナの我儘を聞いてやれる精神的余裕など……少なくと、今は無いッ!!だから頼む……お前が折れてくれ!』

 

 

「は、はぁ!?そ、そんなこと言われても……。私だってもうアインの我儘を聞いてあげられる余裕なんてないの!見てわからないの!死にそうなんだよ私!子供じゃないんだから、アインが退いてよ!」

 

 

アインはフルーフの真似をするようにビシッとマキナを指差し、恥ずかしげもなく自分の未熟さをアピールする。

 

それに対しマキナもタジタジな様子で反論するが、アインが聞き入れる様子は一切に見られなかった。

 

 

『知るか……ッ!此処で引き下がればお前は死ぬだろう!己はお前が大事だ……大切なんだッ!絶対に……失いたくなどないんだッッ!!だから駄々だろうが我儘だろうが知らん!お前がその脚を止めてくれるなら……己はどんな手を使ってでも縋り付く覚悟があるぞ!』

 

 

「こっちこそ……そんなの知らないよ!!アインに何がわかるの!?もう……私には何の希望も残されていないの!今から戻ったって死ぬだけ!だから、もう……止めてよ。そんな言葉を言わないで……やっと諦めが付いたのに……。また……死にたくなくなっちゃうよ……」

 

 

マキナの顔がクシャリと悲しげに歪む。

ようやく完全に生への諦めがつきかけていたのに、それが息を吹き返してしまう。

 

 

あの騒がしくも平穏で幸福に満ち溢れた日々へと帰りたいと願ってしまう。

 

マキナは歯を噛み締め必死に感情を押し殺そうとする。

だが、その度にアインが強い意思の籠もった視線でそれを妨げる。

 

マキナが凍りつけせようとする心を……アインの覚悟に宿った熱が溶かしていく。

 

 

『頼む……己に出来ることならなんでもする。だから……それ以上進まないでくれ』

 

 

「なんでも……?だったら……

 

 

――私に生きる希望を感じさせてよ!どうせ死ぬんだから……これ以上傷つことはやめよう……。アインの迷惑にならないように黙って死のう……。そんな風に自分を必死に納得させて……今、ようやく、覚悟が決まりそうだったのに……。そんなに言うんなら……私が、もう言い訳しないでいいように……全部もう大丈夫だって思えるようにしてみせてよ!出来るものなら……してみなさいよッ!!アインッ!!』

 

 

 

死にたくなどない、だけどもう駄目なのだ。

 

じわじわとゆっくり時間を掛けて死に蝕まれてきたマキナだからこそ……自分はある意味既に死んでいることが理解出来てしまう。

 

 

足から伝わる冷たい水は全身を冷やしていき既に感覚を感じなかった。

ただ心臓部に宿るナニかが強制的にマキナを生かし、死ぬことを許さないだけだ。

 

 

しかしそれも徐々に力が弱まり蝋燭の炎のように頼りない。

 

この火が消えた瞬間を想像しマキナはこれまで感じたことのない恐怖を感じてしまう。

 

死を……これまで以上に強く実感してしまった。

 

 

こんな喧嘩別れで死にたい訳ではない。

理想は喧騒と安らぎの中で皆に見送られたかったのだ。

 

本心から死なんて願っていない、どうしようもないから……最善の手を選んでいるだけ。

 

それなのに好き勝手言うアインに……マキナも叫ぶ。

アイン同様心の内に仕舞い込んだ願いをアインへと叩きつける。

 

 

もはや神ですら救えない現状を引っくり返してくれと……。

出来るものならしてみせてと。

 

ただの一匹の魔物風情には荷が重すぎる願いを背負わせる。

 

 

避けられぬ死の回避。

病気に蝕まれた腐りきった全身の治癒。

 

それを解決出来る術をアインは持っていない。

だが力を貸してくれる力強い母親がいる、だからこそアインは力強く頷く。

 

 

『あぁ――勿論だ!!なんでも言え!不安に思うこと、不満なこと、これからやりたいこと!全部言ってみろ!!!己が……絶対……叶えて見せる……ッ』

 

 

「………は、はは。どうして、当たり前みたいに私が死なない話で進めるの。このままだと、死ぬんだよ。理解してるんだよね?」

 

 

『当たり前だマキナ。お前を助けること……そんなものは前提条件だ。先に言いたいことは全部言ってくれ、今なら何でも言えるだろう。お互いもう冷静ではない……気を遣おうにも出来んだろうしな……』

 

 

「………」

 

 

当然とばかりにマキナは助かると断言する態度に……マキナの瞳から涙が溢れ出る。

 

なんの根拠も無いのだ、アインを問い詰めてやらなければいけない、とマキナは思う。

 

希望が絶望に変わる瞬間など二度と味わいたくはなかった。

 

 

だが……。

マキナはその自信と決意に満ちたアインの眼差しを前にして問いただすことはしなかった。

 

 

嘘か真実で判断するのなら……限りなく真実なのだろう。

アインという存在が、意図的に人を傷つけるような存在ではないと知っていたから。

 

 

黙り込んだ口から出てきたのは、普段から思っていた不満だった。

 

 

「なら、さ……その変な一人称止めてよ。授業でいつも言ってたのに全く止めてくれないし、後私のこと子供扱いしてお前呼びなんてしないで」

 

 

『こ……この場面でそんなことを言ってしまうのか。……あぁ、いいよ。わかった、今すぐにでも改善しよう。お前を子供扱い出来るほど……己は大人でもないと知ってしまったからな』

 

 

「……なんで。どうして頑なに変えなかったことをあっさり変えちゃうの?アインにとって……大事なこと、なんでしょ?」

 

 

『いや、もういいんだ。こんな下手な拘りよりも……お前……いや君が大事だ。己……ではなく、私は……。意固地になっていただけで……こんなものに大して意味なんてなかったんだ。私にとって本当に大事なことは……。これからも君が……私の側で笑ってくれることだけだ』

 

 

マキナはアインの一人称が変だ変だと度々注意していたが、アインはその注意に頷くだけで一切に聞く耳を持たなかった。

 

 

マキナにはなんとなく理由の見当がついていた。

 

アインはフルーフと被ったり似ることを露骨に嫌う傾向がある。

それは己のアイデンティーに悩むアインが持つコンプレックスのようなものだった。

 

変わった人称はアインだけが持つ個性として、自分の内に抱く不安を和らげるために手放せなかったに過ぎない。

 

 

だが今は違う……。

自分に正直になったアインには本当に大切なものが見えていた。

 

たとえこれまで頑なに手放せなかったものでも……あっさりと手放せてしまえた。

 

 

それが少しでもマキナの希望に繋がるならと平気で捨ててしまう。

子供扱いなんて……こんな醜態を晒しておいて出来るはずもない。

 

 

アインがマキナを見る眼差しからは既に『保護すべき子供』といった感情は抜けており、対等な者を見る真摯な姿勢だけが含まれていた。

 

 

その言葉と眼差しにマキナは強く瞳を閉じる。

なにかを我慢するように歯を強く噛む。

 

零れ落ちる涙を瞼で切り、マキナも覚悟を決めたような眼差しでアインへと向き合う。

 

 

これまで隠し通してきた全てを……さらけ出す。

 

 

マキナは上半身に巻かれた包帯の端を掴み引き剥がしていく。

雨に濡れふやけた包帯はすんなりと剥がれ落ち、水面へと流れ落ちていった。

 

 

最後にマキナは着ている服を捲り思いっきり投げ捨てた。

 

 

「………もう、初めて会った時の私とは違うの。アインが綺麗だって言ってくれた私なんて……もういないんだよ、……これでもまだ

 

 

 

 

――綺麗だなんて言えるの……ッ?女の娘扱いしてくれるの……ッ!?」

 

 

 

 

『――――』

 

 

 

そこには奇形がいた。

 

全身が吐き気を誘う赤紫に変色し、腐り落ちた部位からは腐敗を証明するようなグロテスクな茶色に染まっていた。

 

腕の骨と肋骨が露出しており、生きている方が不自然だと思える有り様だった。

 

寒冷な雪山という環境、毎日清潔感を保っていなければ蝿に集られ蛆が湧いていたことだろう。

 

まるで処理せず放置した腐肉のような全身を前に……アインは絶句する。

 

 

マキナの凍った顔が……悲痛に溢れていく。

 

返事も返すことが出来ず、ただ呆然とするアインに対し『そうだよね』、『当たり前だよね……』と小さく零す。

 

 

普通の人間が見れば顔を青ざめさせ悲鳴と共に怯える姿だ。

いくらアインでも、これ程までに悪化した状態を受け入れることは出来ない……そう解釈し、納得した。

 

 

だが、アインは全身をプルプルと震わせ怒りを顕にする。

 

それはマキナにではなく……。

こんなになるまで気づけず、自分可愛さに向き合ってこなかった自分自身への殺意故。

 

 

「ほら……どうなの?アイン……」

 

 

 

 

 

 

 

『何も変わらない……

 

 

 

 

 

――綺麗だよ、マキナ。君はやっぱり……どんな人より綺麗な女性だ』

 

 

 

マキナの絶望に反しアインは正真正銘何も感じていなかった。

大事な人がどれだけ醜い身体でも……アインにとっては変わらず輝いて見えた。

 

 

これが本心からの言葉だ。

 

 

「…………どこがよッ!なんでぇッ!!可怪しい、貴方は可怪しいの……アイン!醜いと言って!もう一緒にいられないと言って!そうでしょ……もう……あの時とは何もかも変わったの。こんな……私に、どうしてそんなことを言えるの!嘘ついてよ!どうして……そんなにも真っ直ぐ。嘘もなく……あの時と同じことを言えてしまうのよぉ……」

 

 

動かない腕をブラブラとぶら下げ、不自然な動きで蹈鞴を踏むマキナ。

 

水面に映る化け物は醜く、アインが眩しそうに見る綺麗な女性などどこにもいはしない。

それでもアインの眼差しの先にはマキナがいて、それが本心だと嫌でもわからされる。

 

 

『君は見た目で人を判断することを嫌うというのに……。他ならない自分自身をその対象に含めてはいないようだな。すまんが前にも言ったように私は君の身体に対して何も思わない』

 

 

「ならッ……なにが綺麗だっていうの……?。綺麗なものなんて私は何ひとつ持ってないわ……。アインが好きな私の眼だって……もう魚みたいに濁ってる……。もう、なにもないの……」

 

 

透き通る水面にマキナの顔が映る、眩い夕焼け色に輝いていた瞳はもうそこには無い。

瞳孔には白濁が混じり、濃密な死だけを宿していた。

 

 

『流石に聞き捨てならんな。まさか私が眼だけでこんな言葉を吐いていたと思っていたのか?違う……確かに君の眼は美しい……。それこそ心を奪われると表現する程にな。だが何よりも綺麗なのはその生き方だ。どれだけ酷い目に合わされようが誰一人恨まず、最期の瞬間まで生き抜こうとするその心の在り方が美しいと思ったのだ』

 

 

「前も言ってたね……そんなのこと……。私には、よく……わからないよ……」

 

 

『君は容姿のせいで心に酷い傷を負ったというのに……。決して相手に同じ傷を負わせようとはしない。傷の痛みを知っている身として同じ痛みを決して味わわせない。耐え難い己の傷を他者への優しさに変えているんだ……。私を見た目で判断しなかったようにな……。優しいと思った……酷い傷に塗れながらも決して優しさを忘れず、ただ最期まで生き抜こうとする君が醜いものか。君は……誰よりも温かくて優しい女の子だ』

 

 

「――ッ゛!?そ、そんなの……当たり前、だよ……ッ!特別でもなんでもないのに……ッ!」

 

 

当たり前、か……。

その言葉はアインがよくマキナから言われている言葉だ。

 

何かにつけてズレている、常識が可怪しいと小言を言われていたが……それを言うのは今回はアインだ。

 

 

『あってたまるものか……そんな常識。己は確かに精神も未熟な半端者だが、山に入ってくる人間を覗く程度は何度してきた。その誰もがそんな常識は持っていなかったぞ……。誰もが、私に近かった。誰も自分は傷つきたくなどない、傷を負った自身を最優先に考え他者にまで考えなど及ばない。私も……そんな奴だ。

 

 

……だが君は違うッ!当たり前と宣うその精神の尊さを……私は知っている!真に醜いのは君を虐げ傷つけてきたようなクズ共だッ!!私のような逃げ腰の弱虫だ!……だから何度でも言おう……君は

 

 

 

 

――誰よりも美しい!

 

 

 

 

 

私は……そんな優しく美しい君が大好きだ!大事だと……そう思えるんだ!だからすまない……君を拒絶することは出来ない。どんな姿になろうとも、この先永遠に……私の中で君は美しい人のままだ。私の生涯でその事実は永劫変わらないだろう』

 

 

 

アインは一息でそう言い切り拳を振り上げマキナへと思いの丈を伝える。

 

周囲の霧がアインの感情を表すように荒く吹きすさぶ……。

その霧はどこまでも温かく、マキナを思いやる慈しみと親愛に満ちている。

 

凍らせた心が溶け始める。

凍えきったマキナの全身へと血が巡り、生への渇望が再び芽吹き始めた。

 

 

最早瞳から滴りおちる熱いものは止まらず、静かな水面に大粒の涙が波紋を広げ続ける。

止まった鼓動が動きだすように、少しずつ少しずつマキナの顔に希望の色が宿っていく。

 

 

「うぅ゛……バカぁ……。ほんと……馬鹿、みたい……―――ねぇ……ア、イン……ッ。本当にどんな私でも綺麗だと思うの……?私のこと好き(愛してる)……?」

 

 

『あぁ……全部本当で……大好きだよ』 

 

 

「――ッ゛ぅ。こんな私なんかにどうしてそこまでするのよッ゛。貴方はこの先も長生きするでしょ……私と過ごした……ちっぽけな時間なんて……忘れてしまえばいいのにッ゛!?私じゃなくても……話してくれる誰かなら……誰でも良かったんでしょッ!?」

 

 

湧き上がる希望の感情を否定するようにマキナは心ないことを言ってしまう。

 

否定して欲しい、面倒と思わず向き合い寄り添って欲しい。

天邪鬼だと自覚していても……もう頭が混乱してなにを言えばいいのかすら分からないのだ。

 

 

マキナは感情のままに抱えていた不安を叫ぶ。

 

もし仮に出会ったのがマキナでなく他の子供であったとしても同じ態度を見せたのではないか、自分だけがアインの特別なのではなく……。

本当は誰でもよかったのではないか、そんな言葉を口にしてしまう。

 

 

『――そんな訳あるかッ!!

 

 

私は……確かに他者との関係に飢えていた。そう見えても仕方ないだろう。だがなッ――他の……『誰か』だとッ!そんな奴はどこにもいない!!いないんだッ!一体どこに……君以外に……こんな魔物相手に変わらず接してくれる子供がいるというんだ……ッ!』

 

 

「――ッ」

 

 

アインも似たことを考えていた、自分ではなく……もっと素敵な他の『誰か』がいるのではないかと。

 

だがそんなものは何処にもいないのだ。

アインもマキナもお互いへの執着は凄まじく……覚悟を決めた今のアインはマキナ以外など考えられなかった。

 

 

その余りの気迫にマキナは全身をビクリと震わせ驚いてしまう。

 

 

『フルーフ以外で初めて楽しく会話したのは君だ……。私に笑いかけて手を握ってくれたのも、料理を振る舞えば美味しいと言ってくれたのも、魔法を褒めてくれたのも、家事に感謝してくれたのも、夢の中で一緒に過ごしたのも、停滞した日々を動かし色鮮やかなものにしてくれたのは……君なんだッ!全部……全部ッ!私だけが持つ、()()()()()()()()()は全て君との思い出なんだッ!!

 

――だから忘れられる訳がないだろうッ!『誰か』なんて可能性は初めから存在していないんだよ……ッ、私が大事に思うのは……。この先どれだけ生き永らえようが……君だけなんだよ、マキナ……』

 

 

都合の良い『誰か』。

大事な人を救って幸せにしてくれる『誰か』。

 

そんな幻想を作り出して安心感を得ていた。

 

自分が何かを成さなくてもいずれは幸せになれるはずだと……。

そう思い込み信じていた。

 

だがそれも所詮逃げでしかない。

弱くて何も出来ない自分に対する言い訳だ。

 

それも終わりにしないといけない。

都合のいい幻想を捨てたなら、現実と向き合わなければならない。

 

 

マキナを本当に救いたいのであれば。

弱い自分のままではいけない。

 

幻想の中で思い描いた……マキナを幸せにに出来る『誰か』へとアイン自身が成らなければならない。

 

 

『君はどうなんだ。私のような魔物では無く……もっと普通の人間だったなら。優しくしてくれる誰かなら……。誰でも良かったんじゃないのか……?』

 

 

「そんな――そんなこと……あるわけないでしょっ!!!

 

 

私だって゛……アインだから好きなの!私を助けて、優しくしてくれるのなんて……貴方以外にいる訳ないでしょ……。優しくてお人好しで臆病で面倒見が良くて……こんなにも醜い私を……臆面もなく綺麗だなんて言って……ッ。誰からも蔑まれるだけの私を大事なんて言ってくれる……――そんなアインだから……私は好きになったのッ゛!!」

 

 

『なら……私の気持ちもわかるな。私も同じで……なにも変わらんよ。他など知ったことか、私はすでにお前が大事だと本当の意味で理解してしまった。この先に……君に代わる『誰か』なんて永遠に現れない』

 

 

アインはフルーフから学習を経て生まれ、知識で繋がった息子とも呼べる存在だ。

 

似ていない部分も多く、似ている部分も案外多い。

……そんな親子だが一つ共通している部分がある。

 

それは執着心。

何か一つにこれと決めたものは絶対に諦めない、異常な頑固さを有していた。

 

 

だからこそ全て本当なのだ。

アインが一度心を決めてしまった以上、今後絶対にマキナを上回る人間は現れない。

 

なにせ彼は数百年魔族の尻を追いかけるフルーフの息子なのだから。

 

 

「ぐ、す……ぅ゛う……わ、わたし……どうすればいいの?わからないよ……生きて、どうするの?美味しいものも食べられない、行きたい場所にも……こんな身体じゃ行けない。生きたい……アインと一緒に私も生きていきたいよ。でも……やりたいことも沢山あるの。アイン……私、きっと凄く我儘になるよ?それでも助けようなんて思うの……?」

 

 

マキナは既に死にたいという気持ちはない。

ただ求めてくれる彼の元に行き、首にかけられた死神の鎌から抜け出したかった。

 

だが、この期に及んでも素直にはなれなかった。

長年のトラウマのせいで弱さを曝け出すことに脚が竦んでしまう。

 

水面に沈んだ脚は動かず……。

マキナはただアインへ向け『助けて』と願いを込めるしか出来なかった。

 

 

アインは全てを理解し、マキナを安心させるように力強く頷く。

 

 

 

『あぁ。君がそう願うなら

 

 

 

――全部、叶えてみせるさ』

 

 

 

深い霧が湖畔全てを包み込んでいく。

微粒子の一滴にまでアインの魔力が含まれていた。

 

幻影鬼の霧は種に深く根付いたアインだけが持つ特別な魔法だ。

アインはその魔法をフルーフの魔法知識と組み合わせ一つの極地へと押し上げていた。

 

 

幻影、幻想、幻視、幻聴、幻触、幻臭、幻肢。

ありとあらゆるまやかしが、湖畔を覆い尽くしドーム状の球体を形成し……アインの幻影魔法は完成する。

 

 

 

それは世界そのものを欺く幻。

現象界に張り巡らされたテクスチャを一時的に完全に操ってみせる、種族の限界点を突破した更に先。

聖典に記された天地創造の女神の御業を模倣する魔法。

 

 

力でもなく。

欲でもなく。

本能でもなく。

衝動でもなく……。

 

ただ、誰かを大切に想うその心を持ってして、アインは恐れ多くも神が如き所業へと足を踏み入れる。

 

 

 

これはちっぽけな魔物が、愛しく大切な人間へと捧げる魔法――

 

 

 

 

 

 

 

DEUS・ EX・ MACHINA(世界を欺く魔法)

 

 

 

 

 

 

 

 

魔法が完成し世界そのものが一新される。

眩い光と共に世界の再構築が開始された。

 

マキナはその閃光に驚き瞳を強く瞑る。

 

瞼を上げると……

そこはマキナが目にしたこともない、広大な建造物が立ち並ぶ世界へと豹変していた。

 

 

 

足をつけた水面は消え、眼の前には愛しい人外の影が全身を覆っていた。

世界にはアインとマキナ以外に誰もおらず、空は暗くビルから漏れ出す光がけが二人を照らし続けていた。

 

 

そこはフルーフから読み取りアインが構築した幻影世界。

余りにも現実味の無い現象と光景に、マキナは涙目を大きく見開き辺りを見回す。

 

 

「あ、アイン……ここ……どこ?」

 

 

『私の幻影の中だ。君のために……ずっと何が出来るか考えていたんだ……。だが、上手くいった試しは一度もなかった。運頼みだったが……本番で上手く出来てよかったよ』

 

 

「でも、これ……感触がある、よ……?」

 

 

『そうだ、実体がある……全てが本物だ。だからこれで一つ目の問題は解決だな。人目なんて気にする必要は無いさ……。君がどこかに行ってみたいというのなら……私はどこへでも連れて行こう。世界の誰もが見たことのない光景を君にだけ捧げよう。大丈夫だ、たとえ寝たきりでも、私はどこへでも君を連れて行ってやれる。なにせ此処は、私の世界だからな』

 

 

得意気にそう語りながらアインは指を鳴らしてみせる。

 

その瞬間世界は色を変え、小さな喫茶店へと姿を変えた。

アインとマキナはいつの間にかテーブルに向かい合って座っており、眼の前にはショートケーキが置かれている。

 

窓の外は車が行き交い、人々の喧騒と生活音まで聞こえてきていた。

 

 

「アイン……。私こんなの食べても……」

 

 

食べても味がわからない。

既にアインもそのことを承知しているはずだ。

 

なのにアインはマキナへとフォークを手渡し、ケーキを食べるように促す。

マキナはおずおずと手渡されたフォークを受け取るが、気乗りしないのか中々食べようとしない。

 

 

『わかっている。だが……一口だけでも食べてみて欲しい』

 

「わ、わかった」

 

 

アインが一言願いようやくケーキにフォークが差し込まれる……。

マキナの手には生クリームの感触、スポンジ生地を裂く感触がしっかりと伝わってくる。

 

本当に幻影なのかと目を疑うも……。

どれだけ確かめようとしても本物としか思えなかった。

 

 

そして緊張した面持ちでケーキを口に運ぶ。

 

 

「―――ぁ。ぇ……うそ……そんな……」

 

 

マキナの口内に溢れる忘れていた感動。

……失われていたはずの『味』が確かに感じられた。

 

一度も食べたことのない甘く滑らかな生クリーム。

フワフワとしたスポンジの食感。

 

イチゴの果汁までしっかりと理解出来てしまった。

 

マキナの瞳からは再びボロボロと涙が溢れ、口の中にケーキを突っ込み勢いよく咀嚼する。

 

 

「お、おい、しい……お、美味しいッ!コレ――お、おいしい゛よぉ゛……あい゛ん……ッ」

 

 

『これでも飲みなさい』

 

 

「こ、これ紅茶……――ッ!?すごい!……すごい!やっぱり……あ、味がする……おい、しい!すごく……おい゛しぃッ」

 

 

手渡された紅茶をグビグビと飲み干した。

マキナはアインの机にあったケーキまで引ったくり、口に詰め込んでしまう。

 

 

アインがしていることは簡単だった。

フルーフの記憶の中にあった味という体験の記憶を、マキナの精神へとそのまま送り込んでいた。

 

発想としては、味覚が死んでいるのなら、味覚を経由せず精神操作で味を体験させればいい……それだけだ。

 

 

元々は単調な食事に飽きがこないように、と開発していた魔法だったが、思わぬ所で素晴らしい活躍を見せてくれた。

 

勿論違和感が出ないよう、アイン自身が上手く調整する必要がある。

だが、世界を騙すことに比べればなんてことない。

 

 

喜ぶマキナをアインは優しげに眉尻を垂らして眺める。

だが、今も刻々とマキナの命は尽きようとしていた。

 

ケーキを頬張り、飲み込んだことを合図に世界は再び霧となって解けていく。

 

 

『これからは、なんだって叶えてみせる。着飾って出掛けたいのならそれも良いだろう……。無理でも、私がなんでも叶えて見せる。だが、今はこれで終わりだ。私は確かに証明して見せた……決断の時だ、マキナ』

 

 

風が吹き荒び、マキナの足元に冷たい感触が戻ってくる。

そして眼の前には、水辺にいたはずのアインがマキナの目の前まで迫ってきていた。

 

 

ただ静かに見下ろし、アインの不退転の覚悟だけがマキナを貫く。

 

一気に現実へと引き戻されたマキナは、戸惑いながらも口を開くが上手く言葉は出てこない。

既に決意は決まったというのに、最後の一歩を自分から踏み出せないでいた。

 

 

『無理に喋ろうとしなくていいんだ。ただ私の言葉を聞いてくれ……マキナ。……もし、君の心が少しでも動いたのなら……。私にその手を伸ばしてくれ。それだけでいい』

 

 

「……うん」

 

 

 

 

ここが正念場。

マキナを真の意味で救い、アインが他ならぬ『誰か』となるために避けられない試練。

 

だが難しく考える必要はなかった。

フルーフに言われた通り……全力でアインの意思をマキナにぶつけるだけだ。

 

小賢しい遠回りは必要ない。

先に言うべきことは既に言った。

 

後は……熱に浮かされたまま勢いに身を任せるのみ。

 

 

 

 

 

『私は何者でもない半端者だ、だが逆を返せば……まだ何者にもなれる余地が残されているということだ。だから……君が望むのなら己はなんにだってなってみせる。どんなことになろうとも……君のためなら私は後悔はしない』

 

 

 

 

「……」

 

 

 

 

『私が君の足となりどこへでも連れて行く。私が君の感覚となり美味しいものを毎日食べさせてやる。君のことを一番に考えて、君の為に生きる……。不安なこと、望むこと、どんな理不尽も……全部私がなんとかしてみせる……ッ!だから……他の『誰か』などではなく……

 

 

 

 

――私が……ッ!私こそが……君が望む『救いの手』になってもいいだろうか……ッ!!』

 

 

 

 

『――ッ!?』

 

 

 

 

それは、かつてマキナが語った地獄の中で求めていたもの。

マキナという少女が作り出した都合の良い幻想……。

 

アインはそんなものになってもいいかと声高々に願い出る。

 

霧が振動し、決意の漲りが湖畔全体へと満ちていく。

 

 

 

『君が泣かなくてすむように……私は、君を守る『正義の味方』になってみせる……ッ。だからお願いだ……マキナ!まだ諦めないでくれ……幸せになる為に生きてくれ!未来を暗いものだと考えないでくれッ』

 

 

 

「――――」

 

 

 

こんな風に言ってもらえるだけで、マキナは筆舌に尽くしがたい幸福に包まれる。

 

マキナの心に勇気が灯る。

アインは自分で引いた線引を越えマキナを迎えにきたのだ。

 

ならマキナも手を伸ばし助けを求める位は、出来るだろうと自身を鼓舞する。

 

 

 

『今泣いている君が、かつてのように『助けて』と手を伸ばしてくれるなら……私にその手を取らせてくれ!かつて君が求めた……そんな存在になる機会を……私に与えてくれないか。初めは未熟かもしれない、だがいつの日か絶対に、君の理想へと至って見せる……ッ』

 

 

 

「――アイン……」

 

 

 

 

 

『だから頼む……手を伸ばしてくれ。生きることを……諦めないでくれ……ッ。他の『誰』でもない……勇者でも聖人でも無く、私がッ、マキナ……君を必ず幸せにしてみせる。だから……どうか……

 

 

 

 

 

 

 

――君自身の為にも……。そして私の為にも……。生きてくれぇッ!マキナ!!』

 

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

人外の魔物は恥ずかしげもなく叫ぶ。

そして言い切ると同時に張り詰めた肩から力を抜けていく、言うべきことは全て言った。

 

後はマキナの選択を待つばかりだ。

アインは静かに姿勢を整えマキナを見つめる。

 

彼女は泣いていた。

もう干からびる程泣いて目元を真っ赤にしながらも、なお泣き続けていた。

 

 

 

動かない手をぶら下げながら、もう片方の手を動かそうとしていく。

ゆっくり少しずつ腕は上がり、アインへとの掌が伸ばされた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

「ぐッす……うぅ゛、……たす、けて……

 

 

――助けて、アイン……ッ゛!!」

 

 

 

 

『ッ!?……

 

 

 

――あぁ……ッ!!勿論だ!』

 

 

 

伸ばされた手をアインは力強く掴み引き寄せる。

覆いかぶさるようにマキナを抱きしめた。

 

もう離さないと言わんばかりの力強い抱擁だった。

マキナは胸の中で泣きながら、アインの身体へと腕を回す。

 

 

 

マキナの全身は冷たく、一刻の猶予もない。

アインはマキナを水面から抱き上げると、急いでフルーフの所に向かって飛んでいった。

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