アインザーム・オリジン【完結】   作:ごすろじ

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▼第三話▶マキナ

 

 

 

流転する記憶中で、日々地獄を見る。

この世に生まれ落ち日より祝福されたことは無く。

 

ありとあらゆる全てから忌み嫌われた記憶を辿る。

 

 

朧げな意識。

風景が溶けて揺らめき、抽象的絵画のように輪郭が定まらない。

 

此処が夢の中だと理解する。

 

 

始まりは悲鳴。

誕生を祝ってくれる人達はおらず、私はお母様の悍ましくも悲しい悲鳴と共に生を授かった。

 

幼児の頃の記憶など憶えていないはずなのに、数多の感情と共に向けられたその視線を――私は憶えている。

 

 

生みの親が錯乱する姿。

使用人達の息を飲む声。

メイドの嘔吐の音と吐瀉物の香り。

 

それが私…マキナ・アークライアが生と共に受けた全て。

 

 

悲しいとは思わない。

誰かを恨もうとは思わない。

 

顔は醜く歪み。全身の肌は溶けていた。

誰もが呪われた娘、魔族の恩怨により生まれた化け物と陰口を囁く。

 

本当にそうなのかもしれない……それほどまでに醜く、この世のものとは思えなかった。

 

 

お母様譲りのアイボリーの髪と、綺麗なままの半顔だけが、私を人間だと信じさせてくれた。

 

 

私の生家は、商業により財を成した一代限りの貴族。

爵位をお金で買うほど野心的な両親の血を受け継いだのか、昔から負けん気だけは強かった。

 

どれだけ罵られても、自分は人間なのだと言い聞かせてきた。

 

 

景色が捻れて回る。

 

 

日の差す赤い絨毯。

本邸の廊下の隅を隠れて歩く私が見える。

 

日常的な光景だった。

この後何が起こるのかも知っている。

 

 

曲がり角でメイドの一人とぶつかってしまうのだ。

 

 

”あ……ご、ごめんなさい”

 

“きゃぁぁぁぁッ!?み、水!?早く洗って!!肌が爛れちゃう!!”

 

“ちょっと汚らわしい化け物が許可無く外に出てんじゃないわよ!!”

 

“ご、ごめんなさい!や、やめて!うぅ゛……痛い、痛よぉ”

 

 

彼女達は恐ろしい魔族にでも遭遇したかのように悲鳴を上げた。

そして私を無視し、床掃除用のバケツの水を全身に浴びて肌を洗い流した。

 

今にも死んでしまいそうな絶叫と共に。

 

そして手にしたモップで私を突き飛ばし、元いた部屋へと押し込もうとする。

転ければモップで叩かれ。

 

泣き出せば悲鳴を上げて水を掛けられた。

伝染る、伝染る、伝染る……決して触ろうとはせず。

 

そんな言葉だけを吐き捨てられた。

 

 

この時の感情を憶えている。

これは八歳の誕生日の出来事だ。

 

お祝いされることはないとわかっていたのに……お母様に会いたくて、私は誕生日に部屋の外へと出た。

 

 

悲鳴を上げるメイド達から逃げ。

庭に咲いた小さな花を握りしめてお母様の部屋へと向かった。

 

記憶として焼き付いているのは、足首に打たれた鞭の焼けるような痛みと、潰れた花。

 

その日から……私は、離れの小屋で暮らすことになった。

 

酷く悲しかった。

私なんかよりずっと綺麗な花が踏みにじられた光景が、鞭の跡よりもずっと痛くて――涙が止まらなかった。

 

 

本邸を追い出された私を気にかけてくれる人は誰もいない。

小屋の中にあった埃まみれの薄着を一枚、それを何年も着続けた。

 

 

“あの…食べ物を。少しいただけませんか…?”

 

“おい!厨房に生ゴミが入るんじゃねぇ!?ゴキブリが湧いちまうだろうが”

 

“ふぎぃッ!?……ゴホッゲゴ……ヒィ!?”

 

“おい止めとけ。それでも一応此処の御令嬢だぞ”

 

“料理長、ご冗談を。奥様も旦那様も言わないだけで放置。面倒も一切見ないなんて、死んで欲しいと言ってるようなものですよ”

 

“た、たべもの……すこしでいいので、お、おねがいします”

 

“お嬢様。夕暮れ時に廃棄分を焼却炉前に置いて置くから、ここには二度と来ないでくれ”

 

"ケホ…ありがとう…ございます”

 

 

生きることに必死だった。

私は生きたかった。

 

周りに期待されるがまま、惨めに死ぬのだけは御免だった。

 

 

飢え死にしそうになり本邸の厨房に物乞いをし、顔も知らない男の人に厨房から蹴り出され踏みつけられた。

皮膚が抉れて凄く痛かったけど……それでも、空腹を満たせた日はよく眠ることが出来た。

 

 

腐った生ゴミでも関係なく食べた。

私の身体から臭う異臭とそう変わらないことに気づいてからは、なんの抵抗も抱かなくなった。

 

廃棄品が出ない日は雑草で飢えを凌ぎ、ネズミを捕まえて焼いて食べたりもした。

 

 

季節を跨ぎ、場面は移ろ変わっていく。

 

 

十歳になったある日。

本邸の方から笑い声が聞こえてくるようになる。

 

楽しげな笑い声につられて、私は愚かにも近づいてしまった。

 

 

本邸のお庭で仲良くお茶を飲む三つの人影。

何年も顔を合わせていなかったから、始めは誰なのか分からなかった……。

 

 

少し年老たお母様とお父様。

そして二人に似た小さな男の子。

 

目の前には、私が夢にまで見た光景が広がっていた。

 

 

私も御母様と御父様とお話したい。

擦り切れた欲が再燃したのを感じた。

 

 

“ギーアは本当によく出来た子ね。顔を貴方に似て精悍だわ”

 

“ギーア、家庭教師の出した問題を全て解いたそうじゃないか。流石は我が家の跡取りだ、その調子で励みなさい”

 

“はい御父様、御母様!”

 

“一代限りだが我々は貴族の一員になったのだ。この先の我が家の繁栄はお前に掛かっている、頼んだぞ”

 

“もう貴方……貴族である私達から生まれた子なんですもの、優秀さは疑うまでもないわ”

 

“当然です。僕がそこらの家紋だけの無能とは違うということを証明してみせます”

 

 

今にして思うと酷い発言だと思う。

所詮、田舎で威張る成金貴族だ。

 

過ぎた選民思想など何の約にも立たないというのに……。

 

 

だけど幼い私は思ってしまった。

優秀だと認められれば、お父様とお母様とあんな風にお話が出来るのだと。

 

もしかしたら、新しく出来た弟も私を受け入れてくれるかもしれない。

 

 

夢の中の色褪せた景色が、喜色と期待の色で彩られていく。

動き出した幼い私を眺めながら……私は唇を噛んでしまう。

 

 

邸宅に忍び込めば、見つかった時どんな目に遭うか分かっている。

それでも深夜に書庫へ入り、勉強に勤しんだ。

 

礼儀作法は書物で一通り覚え、お母様の動きを密かに盗み見ては照らし合わせて練習した。

テーブルマナーも暗記と想像でコツを掴んだ。

 

 

邸宅を追い出される前に最低限の学習は済ませていた。

おかげで詰まることもなく、弟のギーアが進めているであろう範囲まで数週間で追いついた。

 

 

自分で言うのは恥ずかしいが、頭の出来と飲み込みの早さにはかなり自信があった。

しかしそんな才能、何の意味もなかったのだと――私はすぐに思い知ることになる。

 

 

 

場面が、変わる……。

十一歳の私が辿ることとなった軌跡が流れ出す。

 

 

 

 

勉強を初めて丁度一年が経った。

一世一代の大勝負に私は入念な準備をして挑んだ。

 

お父様が実利を重んじる実力主義者であることに望みを掛けた。

頭を下げ、弟ですらまだ習得できていないテーブルマナーを完璧な所作で披露した。

 

 

その結果。

弟と同じテストを受ける許可を手にいれたのだ。

 

私が使える人間だと……優秀で大事にされるべき人間だと。

そう、証明する機会をようやく手に入れた。

 

 

弟が頭を悩ませる中、私は全ての問題を導き出し、最適な解を記入して提出した。

実に容易く簡単だった。

 

鉄の仮面の裏で、家族で楽しく話す光景を妄想する余裕すらあった。

 

 

そんな日は絶対にこないと、ずっと昔から理解していたというのに……。

結果は数日後に発表された。

 

 

“意気揚々と言いつけを破りこのザマとはな……聞き入れる義理も無く最後に残った親の情としてギーアと同じテストを受けさせたのだ。全問不正解とはこの無能が……次に姿を見せて見ろ。お前は即刻絶縁だ”

 

“ち、違うわ!こ、こんなの……私の書いた答えじゃない……御母様、ギーア信じて。私はお母様とお父様が求める優秀な子になれるわ!!”

 

“見苦しい。ではなんですかマキナ。貴女の答案を他の誰かがすり替えたとでも……言い訳にしても、もっとましな嘘をつくことですね”

 

“おい毒持ちのヘドロ女。なに気安く僕のことを呼び捨てにしてるんだよ?”

 

 

“え?だってギーアは…私の弟で…――きゃぁ!?”

 

 

“うわぁ、汚いなぁ。すぐ全身隈なく洗わなきゃ……いいか?僕はお前みたいな奴を姉だと認めていない。出来損ないの下民はさっさと野垂れ死んでろ、だよねお父様”

 

“なんで、どうして……私達は家族でしょ。お母様、お父様――ッ!?”

 

“ふふ……”

 

“つまみ出せ”

 

"あ、あぁ……そんな”

 

 

答案用紙は弟の書いたものへとすり替えられていた。

私は必死に弁明した。

 

この中で誰よりも優秀なのは自分だと必死に叫んだ。

 

 

まだ希望があると……そう思い込んでいた。

ずっと欲しかったものを簡単に手に入れる弟を見て勘違いしていたのだ。

 

子供みたいに駄々をこねればわかってくれると。

 

 

弟から椅子で殴られ。

両親に助けを求めようと見上げた時ようやく理解した。

 

希望なんてものは無い。

弟に向ける家族の情に私は含まれていない。

 

 

冷たいガラス玉のような瞳に映すのは最愛の家族ではなく、鉄の仮面を被った気持ちの悪い奇形の化け物だ。

 

 

誰が私を陥れたかなど、どうでもよかった。

この場には私に対する憎悪と悪意しか無く……ただ絶望した。

 

 

硬い地面に投げ捨てられ、転がっていく。

私の中に家族に対する幻想も期待も一切合切が消えた瞬間だ。

 

 

十二歳の冬。

私は何の前触れもなく、長くは生きられないだろうと悟る。

 

身体が急速に腐り、徐々に死臭を纏い始めていた。

何もかもが嫌になり、私は雪が降る街へと歩きだした。

 

外壁の壁に空いた穴を通り、屋敷の外に出ると一面の雪景色が広がっていた。

 

 

人間は醜い。

だけど自然はこんなにも美しい。

命が削れていく中、私は両腕を広げ落ちてくる雪を抱きしめる。

 

 

なにもかもから開放されたみたいに気分がよかった。

そして街の中を歩き、数分もしない内に私は倒れた。

 

素足の足裏は真っ赤に腫れ、膿に塗れた肌は氷り、仮面が冷たい。

死に向かう最中、私は一人の黒衣の老紳士と出会った。

 

 

“汝……死に急ぐには余りに幼く。私はこれを女神が与えし運命の巡り合わせと考える、故に救済の手はすぐそこに”

 

 

そのお爺様は無言で私の服の襟を掴み、民家へと押し込んだ。

そして本を一冊開くと、私の全身を光が包みこんだ。

 

腫れ上がった全身の皮膚は少しずつ和らぎ、私は一命を取り留めた。

 

 

何故助けたのか、彼はそんな質問に答えてくれない。

死にたかった訳では無い。

だけど生きたかった訳でもない。

 

ただ安らぎの中で終わりを迎えたかった。

それを邪魔した彼に、私は怒鳴ってしまった。

 

 

命の恩人に対する態度ではないとは分かっている。

それでも叫んでしまった。

 

 

彼はただ“巡り合わせだ、女神の運命の導きのままに”そんなことしか言わない。

そのお爺様は私を治療した後も出ていけとは言わず、無言で身の回りのお世話をしてくれた。

 

 

本来、泣いて喜ぶべき場面だというのに……歪んだ記憶に映る私は抜け殻のように無気力だった。

美味しいものを食べたはずなのに憶えていない。

 

初めてお風呂に入ったのに、その感覚を憶えていない。

……この時の私は、本当に何も考えられなかった。

 

 

死にたくない。

でも生きていたくもない。

 

そんな狭間で……何一つ困らない環境の中、呆然と存在しているだけ。

 

 

お爺様は、反応の無い私に色々と語ってくれた。

そうして少しずつ。

 

私の沈んでいた意識を呼び覚ましてくれた。

 

 

お爺様は聖都で長年異端審問官を務めている方だった。

ポツポツと語る言葉が、私に信仰という生きる希望を与えてくれた。

 

 

“汝の行動を我らが主は見守って下さっている。自死は罪深きこと、努々忘れぬように”

 

“主……ですか。女神がいるのならなら何故幸福は平等ではなく、私はこれ程までに醜く愛されないのですか?不平等だと……そうは思いませんか?”

 

“女神は見守って下さっている。公平か不平等か……それは最期まで生き抜いた後にしか明かされない。賛美歌の一節にはこうある……多くの苦しみを味わったのなら、多くの慰めが与えられる”

 

“ならば、死にかけの私がこれから幸せになれるとでも言うのですか?この苦しみと、傷を癒やしてくれる何かに……出会う機会が与えられるのですか?”

 

“さてな。しかし私は確信している。聖典、加護、女神の魔法……。どれほど時が進み、高名な魔法使いが台頭しようとも、解き明かせぬ力。これらを生み出した存在は確かにいる。私は女神様を信じているのだ。故に俗世での死を恐れない。汝も死をそこまで恐れぬことだ……女神を信じよ。死は終わりではない、幸福の始まりだ”

 

“……お爺様は天国を信じているのですか?”

 

“当然であろう。でなければ老体になるまで異端者相手に剣など振るわん。汝と比するつもりはないが、私も今まで苦労してきた身だ……後は天国で穏やかな生を送るつもりだ”

 

“都合がいい考えですね”

 

“汝に私の信仰の形を押し付けることは無い。だが……顔に生気が戻り始めているな。汝にとっても、嫌いな考え方ではなかったようだな”

 

“えぇ……えぇ。頑張ったら頑張った分だけ、天国で報われるというなら……。残りの少ない命を懸命に生きても良いかもしれません。自死は罪?なら罪を犯せば地獄行きですか?それなら私は……天国に行けるかもしれない選択を致しますわ。なんだか損するようで悔しいですもの”

 

“それでいい。信仰の形も、その先に望むものも、汝が決るといい。苦しい時だけに祈り、幸福の最中で信仰を捨てる真似はせぬように……。いつ如何なる日も。信仰を忘れず、最期まで善良に生きぬくのだ。そして女神の元へと趣き……不遜な物言いでこう言ってやれ――褒美を貰いに来た、とな”

 

“まぁ……お爺様。無愛想かと思いきや、とてもお茶目な一面があったのですね”

 

“信仰は誰もが持つ権利を有する。存分に利用し生きる糧としなさい”

 

“はい。私……なんだか生きるのが、少し面白くなってきました”

 

 

黒いローブの中で仏頂面の御爺様がニカっと笑う。

正直、この会話の中で口下手なお爺様を言い負かすだなんて、いくらでも出来た。

 

 

でも……私には生きる糧と、心の拠り所こそが必要だった。

お爺様はそれを与えてくれた。

 

 

最後に、お爺様から収納機能を持つ指輪の魔道具を受け取り、別れを告げた。

 

 

“私にはもう必要は無い。どれも値が張るものばかりだ、金銭がいるのなら売り払い金に変えるといい。遠慮はするな、私は俗世での繋がりを絶ち、全てを手放している最中なのだ……丁度良かった”

 

 

中には錆びたロザリオ。

使い古した聖典。

女神信仰の経典。

 

そして、ギラギラと輝く曲がりくねった剣。

どれも私の手に余る代物だった。

 

 

返そうと思い振り返った時にはお爺様はおらず、風のように消えていた。

その日を堺に私は女神様に信仰を捧げるようになった。

 

 

この世に感じていた理不尽も。

不平等な環境も。

理不尽な境遇も。

 

――怒りも。

 

死んだ後に全部女神様にぶつけて問いただすんだと考えれば……少し愉快な気持ちになれた。

 

 

今日の頑張りは死後の安息に続いていく。

女神様からご褒美を貰って楽しく天国で暮すのだ。

 

お母様もお父様も弟も使用人もメイドも……女神様が私に与えた試練だと考えるようにした。

 

 

だけど、やっぱり……。

 

 

“マキナ、その納屋は取り壊す”

 

“お父様、でしたら私はどこで寝れば”

 

“ハッ。我が家に無能はいらん、土にでも還ればいいだろう”

 

 

心無い言葉に心が痛む。

 

 

“まだ生きていたのね。……明日ギーアのお友達を屋敷に招待してしるの。マキナ、我が家の汚点である貴女は絶対に姿を晒してはなりません”

 

“お母様……私の住んでいて納屋はもうありません……”

 

“口答えは許しません。日が暮れるまで茂みの中にいればよいでしょう”

 

 

愛情を欲して心が飢える。

 

 

“ちょっと!?なんでアンタが洗濯場なんて使ってんよ!?奥様や坊ちゃまにその気持ち悪い病気がうつったら、どう責任取るつもりなのッ!出てけ!早く此処から出てきなさいよ!!”

 

“ッ!?痛いッ!うぐッ……や、止めて!服を洗ったら出ていくので止めて下さい!!――ひぃぅ!?”

 

“うるさい!しゃべってる暇があるなら、さっさと出なさいよ!?”

 

 

汚い物として扱われ。殴られ。滴る血の腐った臭いが鼻をついた。

心まで腐り落ちていきそうになる。

 

 

“ヨッシャ!生ゴミに生ゴミが命中したぜ、料理長もやりますか?あいつ恵んでやったらなんでも食いますよ”

 

“趣味が悪いんだよ……さっさと働け”

 

“次は廃棄品に犬の排泄物でもいれてやろうかなぁ~?”

 

 

疑念すら抱かない、純粋な悪意が心を切りつけてくる。

 

 

日の出と共に泥濘に沈み。

日没と共に暗い寒空の下で孤独と痛みにに震える。

 

 

私は、長い夢の中を彷徨い続ける。

 

人間の醜悪さは底が知れない。

悪意は加速し、不条理は慣れに変わり、さらなる不条理へと発展する。

 

 

365日。

8760時間。

525600分。

31536000秒。

 

――……そうして永い永い一年が終わった。

 

 

しかし私は生きている。

 

状態は悪化するばかりだ。

死人に湧き出る蛆のように。

蠅が纏わり付き、まるで生ける屍のようだ。

 

 

それでも……生き抜いて見せると心に決めていた。

 

 

汝、右手のやることを左手に知らせてはならぬ。

汝、善良たれ。汝崇高な精神の元善行を。

 

 

信仰を忘れず、祈りを欠かさずを私は生き続けた。

お爺様から頂いたロザリオを握りしめ、経典の教えに従った。

 

 

この一年の間で……私は既に痛みを感じない身体になっていた。

 

 

そして十三歳の誕生日を迎える。

その日……泥が混じる池で水を飲んでいる最中、私は拉致された。

 

 

実の弟からの暗殺——いつか来るだろうとは考えていた。

 

何時まで経っても死なない私に、痺れを切らしたらしい。

どうせ死ぬからか、馬車の中で雇われた男が事情を話してくれた。

 

 

両親は一代限りとはいえ、れっきとした貴族だ。

貴族名簿には娘である私と弟の名も記されている。

 

王国の法では、両親亡き後の財産処理は爵位の返還と同時に王国の役人が取り仕切るという。

私への財産分配を恐れた弟が、暗殺を依頼したようだ。

 

 

短慮なことだ。

両親が亡くなる頃には私は生きてはいないのに……。

 

いや、もしかすれば。

それは建前で……もっと感情的な理由だったのかもしれない。

 

 

夢の中の私が殺されかけているというのに、私の口元は弧を描く。

 

 

夢は移ろい続ける。

景色は絵の具となり、ぐるぐると次の場面を描き出していく。

 

悪夢の混沌を抜け、絵本のような森が眼の前には広がっていた。

 

 

これは現実ではなくて夢。

悪夢を超え、楽しい夢の時間が始まる。

 

 

きつく縛られた袋の口を開こうとした時、彼は現れた。

 

紐が解かれた。

顔を出した先にいたのは――私の全身を覆えるほどの、異形の君。

 

目が無い。

口も無い。

 

白く長い髪を揺らしながら、その魔物は宙に浮いていた。

 

喉が震え、溢れそうになる悲鳴を飲み込む。

 

魔物であろうと、動物であろうと、外見や容姿で決めつけないこと。

それは私が絶対に守ると決めていることの一つだった。

 

理不尽に恐れられ、忌避される感情をよく知っている。

そんな真似、たとえ死んでも出来なかった。

 

 

数秒の沈黙。

 

 

彼は私を見下ろしながら、腕を組み、人間のように顎を擦って考え込んでいた。

顔の部位が少ないにも関わらず、"どうしよう……"と悩んでいるのが手に取るようにわかる。

 

考えていることが顔に出る――まさにその言葉がこれほど相応しい者もいないだろう。

その様子に、私の緊張はすっかり緩んでしまった。

 

たった数秒。

 

それだけで恐ろしい魔物は……。

眼の前の"アイン様"は……。

 

私にとって、可愛らしい魔物さんになっていた。

 

 

恐る恐る問いかけると、彼は驚いたように目元を見開いた。

そして小石を掴み、達筆な字で返事を書いてくれた。

 

まさかと思い問いかけたが、本当に知能がある。

それも読み書きは堪能で、一般教養以上の知性が感じられた。

 

外見こそ恐ろしいが、手を出そうとはせず、身体を丸めて小石で一生懸命に文字を書く姿は、なんだか大きな熊さんのぬいぐるみのようだった。

 

 

彼は私が近くにいるのに、何一つ気にした素振りを見せない。

それが堪らなく嬉しかった。

 

 

人は勿論、動物ですら私が近寄れば逃げ出す。

理由など、分かりきっている。

 

この全身から漂う腐敗臭。

腐りカビの生えた身体に、誰が近づきたいと思うだろうか。

 

 

だけど彼は違った。

もしかしたら嗅覚が無いのかもしれない……そう考えながらも嬉しくて久しぶりに笑った。

 

 

夢の中で笑う私から。

擦り切れたと思っていた希望が灯るのを感じる。

 

 

魔物である彼なら――もしかしたら、この醜く腐った私を受け入れてくれるのでは。

 

そんな期待が止まらなくて。

けれど全てを見せた時の拒絶を想像すると――私は彼の伸ばした手に、ビクリと全身を震わせてしまった。

 

 

触られる……そう頭に過るだけで全身の痣がズキズキと痛みだしてしまう。

 

メイドに棒で殴られた時の傷。

額を抉る椅子の感触。

厨房の下働きの男にゴミを投げつけられた時の心の痛み。

両親に見捨てられ、弟に殴られた絶望。

 

それらが全身を駆け巡って、身体が溶けていきそうになる。

刻み込まれた日々の記憶が、首を締め上げ、息が出来なくする。

 

 

でも、彼は私の失礼な態度に腹を立てるでもなく。

伸ばした手を止め。理性的に何をしようとしたのか説明し、頭を下げた。

 

 

彼には絶対に見られたくは無かった。

初めて私を受け入れてくれるかもしれない方だから……。

 

醜い肉の中身には。

誰からも望まれずに生まれ、生ゴミと泥水を啜り生きた記憶しかない。

 

誰かから愛されたい。

側にいて欲しい。

認めて褒めて欲しい。

お話ししたい。

可愛いお洋服を着たい。

美味しいものが食べたい。

居場所が欲しい。

ゆっくりと眠れる家が欲しい。

 

そんな子供じみた感情を何時までも引き摺り続けた幼稚なものが詰まっている。

 

 

私は適当な理由をつけて断った。

何を言ったかなんて詳しく憶えていない。

 

彼に嫌われたくなくて。

どうしればいいかわからず笑って誤魔化して。

……気がつけばマナーの本に書いてあるようなことを、適当に口にしていた。

 

 

彼は魔物でありながら、底抜けのお人好しだった。

 

安心させるよう。力強く。

“絶対に許可なくしない”そう約束してくれた

 

あぁ……なんて、なんて、心地が良いのだろうか。

 

 

そう、そうなのです……ずっとずっとこんな言葉が欲しかった。

私を思いやって。

気にかけてくれて。

 

一人の人間として扱ってくれる言葉。

 

 

私は彼を突き放しておいて彼に縋った。

これで彼との関係が終わってしまいそうになって、期待を持たせるようなことを口にしまった。

 

ほんの些細な会話……たったそれだけで、縋らずにはいられなかった。

 

 

碌な対価も示せず。

要求する恥知らずの私に……彼は空洞の目を細め笑みを浮かべた。

 

泣きそうだった。

許されるなら大声を上げて泣き叫びたかった。

 

 

欲しい言葉を当たり前のようにくれる魔物さん……。

どうして貴方は、こんな鉄の仮面を被った気味の悪い生き物を人として尊重してくれるのですか?

どうして厄介事しか持ち込まないであろう者を、無条件で受け入れ、保護しようなどと言うのですか?

 

 

彼の言葉は私には余りに眩しく……悪意で凍りついた心が溶けていくような気分だった。

とても甘美な甘い囁きで……私は甘えずにはいられず、彼の言葉に飛びついてしまう。

 

 

誰かに頼ることは怖い。

どれだけ頭を地面に擦り付け懇願しても、返ってくるのは痛みと悪意だけ。

私の幼少期はその学びの連続だった。

 

 

彼からの提案を受け入れた形なのに……。

 

私はどうしようもなく怖くて。

身が縮み。

過去の悪意に震えてしまった。

 

そんな私に彼は地面に文字を描き、その内面に宿る意思を伝えてくれる。

 

 

彼は……大人だから子供の面倒を見るのは当たり前。

そんな理屈で、当たり前のように私を受け入れようとしてくれていた。

 

魔王軍と人類の戦争が続く今の世に、そんな綺麗事を言える人間がどれだけいるのだろうか。

食い扶持を減らす為に、子供を魔物の巣に旅立たせる親がいるこの荒んだ戦乱の世で。

 

 

魔物の彼が。

人生で一度も人間の子として扱われた事のない、化け物を保護すべき子供として見てくれている。

 

 

私はここが自分の願望と妄想が作り出した夢の中なのではと何度も疑った。

しかし、どれだけ疑おうとそこは現実。

 

 

彼は私を子供として見てくれている。

そう理解し側にいるだけで胸が暖かくなる。

 

でも同時に……拒絶された時の恐怖が、想像も出来ないくらいに大きくなっていく。

 

私の全てを曝け出した結果。

こんなにも優しい彼から悪意を向けられたなら……私は、自分でもどうなるかわからなかった。

 

 

 

仮面の中にドロドロとした汁が溜まっていくのを感じ、私は彼に水辺を知らないかと聞く。

彼は両腕を広げ抱えようとする姿勢を見せてくれた。

 

近場の水辺まで、私を抱えて連れて行ってくれると……。

 

 

触れてしまえば、嫌でも私の汚れを理解してしまう。

侮蔑されるのではと、怖くて堪らなかった。

 

相手からの、拒絶を恐れ。

私は自分可愛さに先に白状した。

 

ボロ布を繋いだ長袖の袖を捲る。

そこには黄色い糸を引きながらヌメヌメとした爛れた肌があり、私はそれを彼の間近で見せつけた。

 

嫌われるなら早く嫌われた方が傷は浅い……。

そんな自己防衛本のまま、自分が傷つきたくない一心で私は最低な行動を取ってしまった。

 

 

誰も病気で腐った身体など……見たいと思わないと理解しているのに。

 

ですが……彼は、臆することもなく返事を返してきた。

 

顔を背けるでもなく。

嫌悪を見せるでもなく。

腐り異臭を放つ腕を暫く見た後……私の身体を心配そうに見て、気遣ってくれた。

 

 

私の経験してきた人生の何もかもから外れている。

まるで自分がどこにでもいる、普通の子供なのだと錯覚してしまう。

 

そう思わせられる程、彼は極々自然に私を労ってくれていた。

 

どうしていいかわからず、私はヤケを起こして彼の腕へと飛び込んだ。

全身の皮膚がズレ、膿が溢れ服から染み出していく。

 

彼の青白い肌が汚れていくのを感じ、私は正気に戻った。

 

 

顔が青ざめ。

仮面の奥で歯がガチガチと痙攣し打ち鳴らされる。

私は自分がどんな存在かを思い出す。

 

 

屋敷のメイド達から向けられる嫌悪と怯え。

心に深く刻まれた痛みと疎外感が脳裏を駆け巡る。

 

私は彼の腕の中で頭を抱え、悲鳴のような謝罪を口にするしか出来なかった。

 

 

――あぁ……あぁ……嫌な記憶ほど忘れられない。

 

 

どれだけ謝っても途絶えることの無い罵詈雑言。

ゴミのついたモップで全身を突き上げられる激痛。

茶色く濁ったバケツの汚水が全身を伝う不快感。

髪に絡む虫の死骸……私は誰からも疎まれる呪われた化け物。

 

何度も、何度も記憶と光景が脳裏を浮かび――消えてはくれない。

 

だけれど、それでも……彼はどこまでも優しくて。

私を地獄から引き上げてくれた。

 

 

震える私を優しく抱きしめ、案じてくれた……。

我慢出来ず、私は彼の胸元で嗚咽を漏らし、何度も心の中で感謝の言葉を唱えた。

 

口を開いたら絶対に泣いてしまうと思ったから。

 

 

永い追憶の夢は終着点へと到着する。

狭い屋敷で身を縮めたままでは永遠に見られなかった大きくて美しい湖畔。

 

 

 

絵本のように、世界が急速に色味を増し鮮明になっていく。

私は、この美しい光景を生涯永遠に忘れないだろう。

 

 

 

鉄の仮面が水面を揺らし。

吐き気を催す汁が水面を汚染していく。

 

 

 

結局最後には泣いてしまった。

 

 

私はこの日初めて、自分が女の娘だったと気付き……夢が出来た。

 

 

 

 

 

 

 

 

そして私は初めて――恋をした。

 

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

「…ん、むぅ…あれ、ここは」

 

『起きたか。おはよう』

 

「―――はい、おはようございます……アイン様」

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