アインザーム・オリジン【完結】   作:ごすろじ

33 / 43
▼第三十三話▶アークライア領の崩壊

 

 

 

ドカドカと騒々しい足音が屋敷の廊下に響き渡る。

 

 

使用人たちは壁際に身を寄せ、嵐が通り過ぎるのを待つように顔を伏せた。

その足音は迷いなく当主の執務室へと向かい、ノックの一つもなく扉を押し開ける。

 

 

「父上!一体どういうおつもりですか……僕を商会の後継者候補から外すという話は本当ですか!?」

 

 

息を切らせて飛び込んできたのは、この家の嫡男ギーアだった。

 

 

執務室には葉巻の煙が薄く漂い、重厚な樫の机の向こうで当主が書類に目を落としている。

 

 

壁一面の書棚、年代物の絨毯、暖炉の上に飾られた家紋の額縁。

この部屋のすべてが、アークライア家の積み上げてきた歴史を物語っていた。

 

 

当主は息子の姿を一瞥し、眉間に深い皺を刻んだ。

手にした葉巻を口元へ運び、深く吸い込む。

 

紫煙が天井へと立ち昇り、沈黙が部屋を満たした。

 

 

「騒がしいぞギーア。いかに親子とはいえ節度を保て」

 

 

吐き出された煙と共に、冷えた声が落ちる。

 

 

だがギーアは怯まなかった。

むしろ父の反応を見て、表情から焦りが消えていく。

 

怒鳴り返さないということは、まだ話し合いの余地があるということだ。

父は厳格だが、道理が通れば耳を貸す人間でもある。

 

ギーアは自分にそう言い聞かせた。

 

 

「使用人共が噂しているのです……僕が父上の商会を引き継ぐに値しないと。それ故に候補から外されたと」

 

 

声を落ち着かせ、一歩前へ踏み出す。

 

 

「これは明確な侮辱です。根も葉もない噂でアークライア家の名に泥を塗るなど言語道断。今すぐ厳正な処罰をご決断ください、父上」

 

 

自信に満ちた声だった。父が自分の味方をしないはずがない。血を分けた息子を、下賤な使用人の噂話ごときで見限るはずがない。ギーアは心の底からそう信じていた。

 

 

当主の目が細まった。

葉巻を灰皿に置き、背もたれに深く身を沈める。

 

 

その視線には、もはや怒りすらなかった。

ただ冷え切った失望だけが、息子の姿を映している。

 

 

「事実だ」

 

 

短い宣告だった。

 

 

「現にお前は私の与えたテストに、すべて及第点以下を叩き出してくれたではないか。私は成果主義と実力主義しか信じておらん。お前にはもう何の期待もしていない」

 

 

ギーアの顔から血の気が引いた。

 

 

「――なッ!?ぼ、僕以外に一体誰が父上の後を引き継げるというのですか!?貴方の血を継いでいるのは僕以外にいないのですよ!?」

 

 

当主は息子の絶叫を、風の音でも聞くように受け流した。

一年前のことを思い出す。

 

商会の一部門を任せ、実績を積ませようとした。

息子に賭けた最後の機会だった。

 

結果は惨憺たるものだった。

部下の忠告を握り潰し、独断で突き進み、三ヶ月で赤字を垂れ流した。

 

誰一人として息子の後ろに続く者はいなかった。

 

当主の元には日々、苦情と報告書だけが積み上がっていった。

 

庇う声は、一つもなかった。

 

 

「お前が世襲主義者だとは知らなかった」

 

 

当主は静かに言った。

 

 

「何の成果も残せていないお前では、今の商会を取り仕切ることは不可能だ。悪戯に浪費し、私の積み上げた実績を無に帰すことしかできん。後継者候補は商会の中から営業成績と将来性を加味して選んでおいた」

 

「な――」

 

 

ギーアは言葉を失った。

 

 

脳裏を、使用人たちの囁きが過ぎる。

廊下ですれ違うたびに向けられる視線。

 

表面上は恭しく、しかしその奥に潜む嘲りの色。

すべてが事実だったのだ。父は本気で自分を見限っている。

 

 

だが認めるわけにはいかなかった。

 

 

この屋敷で育ち、贅沢な食事を口にし、上質な衣服を纏い、使用人たちを顎で使ってきた。

その生活のすべてが、父の庇護の下にあった。

 

それを手放せというのか。

平民のように汗水垂らして働けというのか。

 

 

ギーアのプライドが、耳鳴りのように頭の中で悲鳴を上げていた。

 

 

「――父上」

 

 

声が変わった。

 

 

「好き勝手言ってくれますが、そういう貴方はどうなんですか?」

 

 

当主の眉間に、筋が浮かんだ。

 

 

「なんだと?」

 

「姉上のことですよ」

 

 

ギーアの唇が歪む。

 

 

「あの人の死を隠したせいで、父上が今屋敷中からどのような扱いをされているかご存知ですか?この屋敷の住人は昔から姉上のことを知っています。姿を現さなくなってから早数年だ。使用人共に脅されているのでしょう?態々口止め料など払わずとも……僕にお任せいただければ、姉上の時のように――」

 

――ダンッ!

 

当主の拳が机を叩いた。

書類が跳ね、インク壺が倒れかける。

 

 

「――出ていけッ!」

 

 

怒声が部屋を震わせた。

当主は立ち上がり、血走った目で息子を睨みつける。

 

 

「一体誰のせいでこんな気苦労を背負っていると思っている!これ以上の面倒事は肉親と言えど容赦せんぞ。叩き出されたくなければ二度と巫山戯た戯言は口にするな――話は終わりだ」

 

 

当主は卓上の鈴に手を伸ばした。

澄んだ音が響くと同時に、扉が開く。

 

執事が三人、足音も立てずに入室した。

 

 

「連れ出せッ!」

 

 

ギーアの両腕が掴まれる。

抵抗する間もなく、身体が扉の方へと引きずられていく。

 

 

「ち、父上……後悔しますよ!僕に任せておけばすべて上手くいくんですよ……何故僕の優秀さを理解してくださらないのですか!?」

 

 

叫びは虚しく響いた。

 

扉は固く閉ざされ、ギーアに対して二度と開くことはなかった。

 

 

自室に放り込まれたギーアは、しばらくの間床に座り込んだまま動けなかった。

 

閉ざされた扉を睨みつけ、小さな声で恨み言を吐き出す。

 

 

「……馬鹿にしやがって。僕の何がわかる。何も見ていないくせに。努力を認めようともしないくせに。あの無能共が足を引っ張らなければ、僕は……僕は……」

 

 

呟きは次第に熱を帯び、やがて叫びに変わった。

 

 

ギーアは立ち上がり、手近な椅子を掴んで壁に叩きつけた。

木材が軋み、脚が折れて転がる。

 

続いて机の上の書類を薙ぎ払い、インク壺を床に叩きつけた。

黒い染みが絨毯に広がっていく。

 

 

「何故だ……何故僕が……こんな目に……!」

 

 

花瓶を砕き、本棚を倒し、手当たり次第に破壊を続ける。

息が上がり、額に汗が滲んでも、ギーアは止まらなかった。

 

止まってしまえば、現実を認めることになる。

 

やがて壊すものがなくなり、荒い息だけが部屋に響く。

 

 

床には砕けた陶器の破片、散乱した書類、倒れた家具。

整然としていた部屋は、見る影もなく荒れ果てていた。

 

 

ギーアはその中央に立ち尽くし、天井を仰いだ。

 

 

「……くそ。くそ、くそ、くそ……!」

 

その時、背後で空気が揺らいだ。

 

 

「期日です」

 

 

抑揚のない声。

 

ギーアは振り返りもしなかった。

数週間前にも同じように現れた相手だ。

 

今更驚くこともない。

 

 

「……ノックくらいしたらどうです」

 

「扉は使っていません」

 

「だから気味が悪いと言っているんですよ」

 

 

肩越しに視線を向ける。

 

 

黒いローブの女が、いつの間にか部屋の隅に立っていた。

フードは既に外されており、額から伸びる二本の角が月明かりに照らされている。

 

青白い肌、感情の読めない切れ長の瞳。

人の形をしているのに、人間らしさが微塵も感じられない。

 

 

初めて会った時は背筋が凍る思いだった。

魔族が自分の部屋にいるという事実に、声も出せなかった。

 

だが二度目ともなれば、恐怖より先に苛立ちが勝る。

 

 

この女は確かに魔族だが、戦場で暴れる獣のような存在ではない。

取引を持ちかけ、条件を提示し、約束を守ると言う。

 

つまり交渉ができる相手だ。

 

 

「提案を受け入れる気になりましたか?」

 

 

女の声には相変わらず感情がなかった。

 

瞬きすらしない双眸が、ギーアを映している。

いや、映しているのかすら怪しい。

 

この女は自分を見ているのではなく、観察している。

値踏みしている。

 

 

その視線が不愉快だった。

まるで市場で家畜を品定めする商人のようだ。

 

 

だが――今は利用させてもらう。

 

 

ギーアは深く息を吐き、顔の筋肉を意識的に動かした。

口元に笑みを貼り付ける。

この程度の演技、幼い頃から身につけている。

 

 

「えぇ、貴女達魔族の提案を受け入れましょう」

 

 

振り返り、女と正面から向き合う。

 

 

「望むものを提供するとお約束します。ですのでそちらも、僕が望むものを提供してください」

 

 

表面上は友好的な笑顔。

だがその奥では侮蔑の念が渦巻いていた。

 

魔族風情が人間と対等に取引しようなど、本来ならば許されることではない。

だが今は手段を選んでいられる状況ではなかった。

 

 

「貴方が求める人間の地位などに興味はありません」

 

 

女の声が響いた。

 

 

「此方が望むのは平穏で、長期に渡り使える実験場です。その場を提供できるというのであれば――はい。約束通り、貴方が相応の地位を得られるよう手伝いましょう」

 

 

実験場。

その言葉が意味するところを、ギーアは深く考えないことにした。

 

 

「実験には多くの人間が必要です。ですが人間を余りに殺し過ぎると、身を滅ぼすほどの火種を引き寄せる結果となります」

 

 

女は淡々と続ける。

 

 

「私は目立つことも、矢面に立つことも望みません。貴方には手にした地位で、私の手助けをしていただきます」

 

 

つまり隠蔽。

 

今の世は魔族と人類が大規模戦争を繰り広げている真っ只中だ。

 

魔族が街で虐殺などを働けば、瞬く間に軍が派遣され殲滅されてしまう。

だからそうならないように、騒ぎが漏れないように、与えた権力で魔族の存在を隠し続けろと言っている。

 

滅茶苦茶な要求だ。

人間を実験材料として差し出し、その見返りに地位を得る。

 

まともな人間なら即座に断るだろう。

 

だがギーアは迷わなかった。

 

 

「お安い御用です」

 

 

笑みを深くする。

 

 

「人間など雑草のように湧き出るもの、いくらでも使えばいいでしょう。あぁ、なら貴族籍は残したままの方がいいですね。平民がどれだけ訴えようと貴族の権威には逆らえはしない。揉み消すのも容易ですよ」

 

 

女魔族は表情を変えなかった。

頷きもしなければ、否定もしない。

 

ただギーアの言葉を聞いている。

 

 

その無反応さが気味悪い。

喜びも怒りも、交渉が成立した安堵すらない。

 

まるで石像を相手に話しているようだ。

 

 

「方法に興味はありません」

 

 

女は懐から何かを取り出した。

 

 

「が……直接的な殺しを避けたいのであれば、試作品のコレを使ってください。側に忍ばせるだけで相手の脳に侵入します。取り付いた後、貴方を主人として簡単な命令なら聞いてくれます。上手く使ってください」

 

 

差し出されたのは数本のビーカーだった。

 

 

中で何かが蠢いている。

黒光りする外殻、無数の脚、不規則に揺れる触角。

 

ムカデのような、それでいてムカデとは異なる何かがガラスの内側をカサカサと這い回っていた。

 

 

ギーアは顔を顰めた。

魔族と取引することには抵抗がないが、この虫だけはどうしても好きになれそうにない。

 

 

「ちゅ、注意点はありますか?」

 

「ありません」

 

 

女は事務的に答えた。

 

 

「それと、市役所……役場というものでしょうか。そこに魔法使いが常駐しています。刺激しないでください。私は人間と戦争をしたいのではなく、平和に実験を行いたいだけですので」

 

 

女の姿が薄れ始めた。

影に溶けるように、輪郭がぼやけていく。

 

 

「それでは――よい知らせをお待ちしております」

 

 

最後の言葉が残響のように響き、女は消えた。

 

部屋には静寂だけが残された。

 

 

ギーアはビーカーの一つを掴み上げた。

中の虫が触角を揺らし、新しい主人を認識したかのようにこちらを向く。

 

 

「……気色悪い」

 

 

呟きながらも、口元は吊り上がっていた。

 

道具は揃った。

あとは使うだけだ。

 

 

今夜――父が寝静まった頃に、すべてを始める。

 

 

 

深夜。

 

 

屋敷は静まり返っていた。

 

使用人たちは各々の部屋に引き上げ、廊下を照らすのは等間隔に置かれた燭台の灯りだけだ。

揺らめく炎が壁に影を落とし、昼間とは別の顔を見せている。

 

 

ギーアは自室の扉をそっと開けた。

 

 

廊下に人影がないことを確認し、足音を殺して歩き出す。

手には布に包んだビーカーが一本。

 

中で蠢く虫の気配を感じながら、当主の寝室を目指した。

 

 

心臓が早鐘を打っている。

額には脂汗が滲み、呼吸は浅く短い。

 

だが足は止まらなかった。

 

 

――やるしかないのだ。

 

 

廊下の角を曲がるたび、誰かに見つかるのではないかと肩が強張る。

 

執事が巡回しているかもしれない。

メイドが物音を聞きつけるかもしれない。

 

しかしギーアの進む道に、人の気配はなかった。

 

 

やがて、当主の寝室の前に辿り着く。

 

 

重厚な樫の扉。

昼間叩きつけるように閉められたあの扉が、今は静かにそこにある。

 

 

ギーアは静かに扉を開けた。

 

 

寝室は広かった。

天蓋付きの大きなベッドが部屋の中央を占め、窓から差し込む月明かりが床に淡い模様を描いている。

 

暖炉には火が入っておらず、冷気が足元を這っていた。

 

 

ベッドの上で、当主が眠っている。

 

 

規則正しい寝息が聞こえる。

昼間の威厳も怒りも消え、ただの老いた男がそこにいた。

 

 

ギーアは足音を殺してベッドに近づいた。

 

 

布を解き、ビーカーを取り出す。

中の虫が蠢き、ガラスの内側をカサカサと這い回った。

 

その音が異様に大きく感じられ、ギーアは思わず当主の顔を窺った。

 

 

起きていない。

まだ眠っている。

 

 

震える指でビーカーの蓋を開けた。

 

 

虫が触角を揺らし、外の空気を探るように身を乗り出す。

黒光りする外殻、無数の細い脚、節くれだった胴体。

 

見ているだけで鳥肌が立つ。

 

ギーアは虫をビーカーから出し、当主の耳元に近づけた。

 

 

虫は一瞬動きを止め――次の瞬間、滑るように耳の穴へと入り込んでいった。

 

 

カサ、カサカサ……。

 

 

乾いた音が、頭蓋の中へ消えていく。

 

 

ギーアは当主の顔を凝視した。

眉間が微かに動く。

 

唇が歪み、喉の奥から呻きが漏れる。

 

 

「――ぁ゛……ぁ゛……」

 

 

当主の身体が痙攣した。

白目を剥き、手足が痙攣する。

 

シーツを掴む指が、何かを求めるように虚空を掻いた。

 

だが、それも数秒のこと。

 

 

やがて痙攣は収まり、当主は仰向けのまま動かなくなった。

白目を剥いたまま、喉の奥から絞り出すような呻きだけが続いている。

 

 

ギーアは父の顔を覗き込んだ。

 

 

昼間、あれほど威厳に満ちていた男の成れの果てだ。

顎は力なく開き、涎が枕に染みを作っている。

 

息子を叱りつけ、見限り、追い出した父親が――今はただの操り人形になっている。

 

 

唇の端が、自然と吊り上がった。

 

 

「父上……なんとも無様な御姿になられて」

 

 

声に感情はなかった。

嘲りも、悲しみも、罪悪感も――何もない。

 

 

「僕は悲しいです」

 

 

棒読みの台詞を吐き捨て、ギーアはベッドの傍らの椅子に腰を下ろした。

 

 

「さて、前置きはいいでしょう。一番に聞きたいのは遺産ですよ、遺産。私に対する莫大な遺産は用意しておいてくれているんですよね?」

 

 

問いかけに、当主の口が動いた。

 

 

意思ではない。

脳に巣食った虫が神経を刺激し、強制的に言葉を引きずり出している。

 

 

「遺産はある……だが、受け取るにはマキナが付けていた仮面が必要だ」

 

「――は?」

 

 

ギーアは眉を顰めた。

 

マキナ。

忌々しい姉の名前。数年前に暗殺者に始末させたはずの、あの病んだ女。

 

 

「な、何故?」

 

 

意味がわからなかった。

なぜ死んだ姉の仮面が遺産に関係する。

 

 

「遺産目当てでお前に暗殺される恐れがあったからな……マキナのように」

 

 

当主の口から、感情のない声が漏れる。

 

 

「私の築いた財産は私だけのものだ。私が認めた方法と指定した者以外、明け渡す気など毛頭無い」

 

 

ギーアの顔が強張った。

 

それは――生きている間は絶対に一銭も渡さないという宣告に他ならない。

 

 

「息子を信じないとは最低の父親ですね、アナタは……ッ」

 

 

歯軋りが漏れる。

 

 

「ですが、父上を殺せば自ずとすべて僕のものです。法に則った遺産の相続権が僕にあるのですから」

 

「いや、無い」

 

 

当主の答えは即座だった。

 

 

「陛下と直々に契約を交わした。もしも私が少しでも不審死を遂げるか、約定の訂正を求める声を上げれば……一度お前を調べるようにとな」

 

 

ギーアの喉が、引き攣った。

 

 

「結果的にお前が有罪とわかれば、財産のすべては国庫の預かりとなり、爵位も陛下へと返還される手筈になっている」

 

 

ギーアがマキナ暗殺の顛末を得意げに語った日、当主は悟った。

この子の螺子は外れている。

 

思い通りにいかなくなれば、何れ自分も同じ目に遭うだろう。

 

当主は即座に動いた。

息子を部屋へ閉じ込め、暗殺者を内密に処理し、陛下との謁見を取り付けた。

 

そして遺産の扱いについて契約を交わした。

 

子に似て当主もプライドが高く。

仮にドラ息子が汚らわしい簒奪者に成り果てるのであれば…当主としても父としても、遺産をくれてやるつもりは一切なかった。

 

契約の破棄も、変更もあの仮面がなければ行えない。

誰も行方が知れないマキナの遺品だ。

 

遺産と地位を狙い、親の洗脳まで実行してしまうギーアでも、絶対に用意できはしない代物だった。

 

 

 

「――な……!」

 

 

ギーアは椅子から立ち上がった。

 

 

「なら、いったい……いつ遺産がもらえるんですか!?まさか、息子に金も残さずすべてを投げ捨てるなどとは仰りませんよね?僕が受け取るはずだったすべてが王室管理になると……?別の領主に褒美として下賜されるかもしれないのに……?」

 

 

声が震えていた。

怒りか、焦りか、自分でもわからない。

 

 

「――冗談じゃありませんよ」

 

「私が老衰し自然死するまで待て。私が手にした財産と権利書は、一時的に王室に預かってもらっているが――」

 

「ふ、巫山戯ないでください父上……ッ!」

 

 

ギーアは拳を握りしめた。

 

 

「僕は一刻も早く自由にできる金が欲しいんですよ。アンタが老いるまで待てだと……待ってられませんよ、そんなもの」

 

 

爪が掌に食い込む。

痛みが、かろうじて理性を繋ぎ止めていた。

 

 

「……いいですよ」

 

 

低い声が漏れた。

 

 

「それなら姉上の鉄仮面さえ見つければいいだけです」

 

 

当主は答えない。

白目を剥いたまま、苦悶の呻きを漏らし続けている。

 

 

ギーアはその姿を一瞥し、踵を返した。

扉へ向かいながら、振り返らずに告げる。

 

 

「大丈夫です父上、殺しはしません。魔族との約束を守らないと僕が殺されてしまいますので……精々貴方の誇りを有効活用させていただきますよ」

 

 

扉に手をかける。

 

 

「あぁ、それと――商会の後継者には僕を指名しておいてくださいね」

 

 

扉が閉まった。

 

 

ベッドの上には、操り人形と化した父親だけが残された。

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。