夜風だけが吹き荒ぶ深更。
人の気配が絶えた寂れた村に、霧が音もなく忍び寄っていく。
朽ちかけた柵、傾いだ井戸、錆びた風見鶏。どれもが長い年月を経て疲弊しきった姿を晒していた。
その霧は迷うことなく一軒の民家へと染み込んでいく。
家の中には粗末な木製のベッドが置かれており、一人の老人が寝たきりの状態で静かに息をしていた。
霧はその老人の前で静かに圧縮していき、徐々に形を成していく。
灰色の肌、黒い外装。
目も口も鼻もない異形の貌。
アインはただ老人を見下ろし、皺だらけの手から滑り落ちかけていた布団の端を丁寧に整えた。
『……ゲルマン、日に日に弱っていくお前を見るのはいい気分ではない。このまま眼を覚まさないつもりか?』
語りかける声は、返事のないことを承知していた。
とある村の高齢の村長。
彼は数ヶ月前から急速に弱り始め、最近は寝たきりの状態が続いていた。
魔力に秀でている訳でも、特別なカリスマがあった訳でもない。
ただ少し包容力があり、若者を応援したい気持ちに溢れる好好爺でしかない。
だがそんなものに関係なく、彼はアインの友達だった。
仕事でしかなかった関係から始まり、今では心置きなく話せる友人にまでなった。
昔話、男同士の悩み、好きな人の話題で花を咲かせたりと、様々な話をした仲だ。
これはアインにとって初めて経験する、身近な存在の死。
絶対に防げない自然の摂理。
それを前に、アインは胸の奥が締め付けられるような圧迫感を覚えていた。
だが向き合わなければならない。
いずれ訪れるマキナの死を思えば、この程度の苦しみで膝を折るわけにはいかなかった。
アインは己を纏う霧が微かに震えているのを自覚しながら、それを押し殺すように意識を集中させる。
『……邪魔をした。今日はもう帰るよ』
アインは眠ったままの友人を数分見つめた後、ふわりと浮き上がりその場を後にしようとする。
「もう……――お帰りですかな、アイン殿」
不意に聞こえたしわがれた声に、アインは振り返ってしまう。
月明かりが差し込む窓辺で、ゲルマンは枯れ枝のような腕でゆっくりと身を起こしていた。
深く刻まれた皺の奥から、澄んだ眼がアインを真っ直ぐに見つめている。
まさかこのタイミングで目覚めるとは。
既に変身魔法は解除してしまい、魔物としての姿が露わとなっている。
アインの周囲を漂う霧が一瞬膨張し、動揺を示した。
アインは首を横に振り、両腕を大きく開きながら誤魔化そうとした。
『眼が見えていないようだな、人間。私が貴方の友人に見えるのか? よく見ろ、化け物以外にいないだろう』
「儂の友人を化け物などと……たとえ本人であろうとも看過出来ませんな。儂の眼は節穴ではございませぬぞ」
だがそんなものは通じなかった。
怖がれよ、とアインは内心で思う。
だが同時に、この男の澄んだ眼に安らぎを感じてしまう己がいた。
どういうわけか彼には、アインと旅の葬儀屋が同一人物だとバレてしまっているようだ。
もしかすれば、ゲルマンが眠ってから毎日深夜に見舞い訪れていたアインの独り言が聞こえていたのかもしれない。
そう思える程に、アインを見つめる視線には親しい友人に向ける親愛の情が溢れていた。
『人間ではないのだぞ……それでも友人だと? 喰われるかもしれんぞ』
「貴方もこんな老いた者を友人と呼んだでしょうに……今はそれが逆になっただけですな。男同士、散々くだらぬ話で花を咲かせた仲です。今更取り繕わなくても結構。それに万が一違ったとしても、儂はもうじき死にます故……何も恐れる必要はありません」
いつものように、ゲルマンは静かな枯れ木のように全てを受け入れてくれる。
老いて弱りきった彼に、いらぬ心労を与えたくはなかった。
きっと魔物が側にいるという事実だけで、常人にとっては大きなプレッシャーとなるだろう。
だが、アインにもこの友人に残された時間が少ないことはわかっていた。
この機会を逃せば次はない。
だから、少しだけその好意に甘えさせて貰うことにした。
『ゲルマン――私の初めての友よ。また、相談に乗って貰ってもいいか?』
アインは老人へと近寄りながら、普段と変わらぬ声色で話しかけた。
人間の姿に変わろうと魔法を使用しようとするも、ゲルマンはそれを悟ったように痩せた手を上げて制止する。
「勿論です……友よ。こんな老いぼれでよければいくらでも。アイン殿、姿は変えなくても結構。私は友人を怖がるような意気地なしではございませんよ」
その言葉にアインは嬉しそうとも、呆れているとも取れる声を漏らしながら、彼のベッドの側まで浮遊して近づいていった。
『はは……流石は村一番の美人を射止めたと豪語する勇気ある男だ。見直したよ。そんな素晴らしい益荒男に相談なんだが、実は愛する彼女に怒られてしまってな』
「それは……さぞかし息の詰まる思いだったでしょう。儂も妻によく叱られたものです」
ゲルマンの声にはどこか懐かしむような響きがあった。
一度始まれば止まらない。
アインとゲルマンは嬉しそうにしながら、最近の愚痴や相談事を話し、雑談に花を咲かせていく。
皺だらけの顔に刻まれた笑い皺が、月光の下で深く影を落とす。
枯れ枝のような指で時折宙を掻きながら話す好好爺と、その傍らで黒い外装を揺らす巨躯の魔物。
到底相容れぬ二人のはずが、交わす言葉には長年連れ添った友人のような温もりがあった。
前置きとして話し始めた実りのない会話は数十分にも及び、静まりかえった一軒の家には穏やかな笑い声が木霊する。
アインは少しずつ本題へと近づいていき、ようやく本当に相談に乗って欲しかったことを口にした。
『ゲルマン……貴方は生きることをどのように考えている? 私は生き甲斐を失った後どう生きればいいのか、全く想像出来ないのだ。なにが正解で間違いなのか、全く理解出来ない。生きる指標を失った私はどうすれば良いのだろうな……』
「また難儀な質問をなさるものですな……」
ゲルマンは一度目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
そして再び目を開き、アインを真っ直ぐに見据える。
「アイン殿の生きる意味とは……やはりよく話されている恋人の方ですかな?」
困ったと目元を垂れ下げるアインに、ゲルマンは痩せた腕を伸ばし、その灰色の肩にそっと手を置いた。
ただ小さな村で産まれ、一生を過ごしただけの人間に答えられるような悩みではない。
きっともっと小難しく考えを巡らせる哲学者にでも聞くべき質問だろう。
だがこの好好爺は、真剣に相談してくる友人を無下にするような男ではなかった。
その眼差しには、道に迷う若者を導きたいという意志が滲んでいた。
アインにはそれが痛いほど伝わってきた。
『そうだ。こんな私を臆面もなく愛していると言ってくれる人だ、私には勿体ない素晴らしい人さ。無論こうは言ったが、むざむざと手放す気など毛程もないぞ』
「ほほ……謙虚なのか傲慢なのかわからんことを申しますな。ですが貴方がその方を大好きなのだという気持ちだけは痛いほど伝わってきますぞ。私も同じように亡き妻を愛しておりますゆえに……気持ちは理解出来ます」
愛する人を自慢気に語るその姿に、脅威は感じない。
寧ろ懐かしさすら覚えてしまう。
アインの言葉に、ゲルマンは力強く頷き、当然とばかりに肯定する。
それが嬉しく、アインも目元を細めて首を縦に振り頷いた。
『無神経を承知の上だが聞かせて欲しい、ゲルマン。貴方が奥方を大切に想っていたことを理解している……私と同じで、貴方にとっても奥方が人生における大きな存在だったはずだ。そんな大事な人が亡くなった後……貴方はどう立ち直り、どう生きてきたんだ? 私は……考えるだけで怖くなってしまうよ……』
「心を通わせた存在の死に怯えぬ者などおりませんぞ」
ゲルマンの声は穏やかだが、確かな重みを持っていた。
「貴方のように一際情に脆い方は特に。ですが私の経験は……ふむ、さて、どうでしたものですかな」
老人は天井を仰ぎ、遠い記憶を手繰り寄せるように目を細めた。
月明かりが彼の白髪を銀色に染め、深い皺の一つ一つに影を落としていく。
「妻が亡くなってからは、数日は虚無としか呼べぬ日々が続きました。何か特別なことを考え、立ち直った記憶もありません。ただ……時間だけが解決してくれる問題でしょう」
時間が解決する問題。
なんの解決策とも言えない答えだった。
「力になれず申し訳ない」と、ゲルマンは深々と頭を下げる。
アインは慌てて彼の肩に手を添え、頭を上げさせた。
ある意味で予想通りの答えだった。
虚無と空虚。マキナを失った後に待っているのはそんなものだろうと、なんとなく理解していたのだ。
同時にそれを即座に解決出来る策などないことも。
大事な人が死に、そこから立ち直るには時間をかけるしかない。
直ぐに立ち直れるような軽いものではない。そんな軽い愛ではないのだ。
出来ることは、出来る限りの心構えをしておくことだけ。
『いや、謝らないでくれ。そもそも誰しも感じることは違うものだろう。彼女の死に対する覚悟は済ませたはずなんだがな……彼女が亡くなった後、その後を一人で生きていくとなると途端に不安になってしまったんだ。彼女に考えておけと注意されるまで考えもしていなかったよ。どうやら私は……私なりの考えで心構えを済ませるしかなさそうだ』
「そこまで気を配って貰えるのは愛されている証拠ですな」
ゲルマンは微かに笑みを浮かべ、アインの顔をじっと見つめた。
「アイン殿は正しい生き方を……どこか絶対的な正解を探している節がございますな」
『だな。正解などないと理解しているのだが……未だに無意識で探してしまうよ。彼女に恥じない生き方は何なのか、それを探してしまう』
物事に絶対の正解などないと理解していても、まずは探さずにはいられない。
これは失敗を恐れる心なのか、それとも己の中にある性なのか。
どちらにせよ、完璧主義に近い悪癖であり、あまりよくないものだとアインは考えていた。
「恥じることではありませんぞ、アイン殿」
ゲルマンは一度咳払いをし、言葉を選ぶように僅かな間を置いた。
「そうですな……私から一つ助言出来るのだとすれば、最初の内は何も考えなくても良いと思います。その時思ったことを無心で……心に従うことです。正しさを探しているのなら探せばいいのです」
『それが正解かもわからないのにか?』
「人生に正解はないかもしれませんが、探すことを悪とは言いませぬ」
老人の声には、長い年月を生きてきた者だけが持つ静かな確信があった。
「アイン殿も探せば良いのです。何が正しいかを探しながら生きる……それもまた正しさの一つですぞ」
それを言ってしまえばなんでもありではないか。
アインは肩を竦める。
しかし、悪くない答えだとも思ってしまう。
『屁理屈臭いぞゲルマン』
「真理とは往々にしてそういうものですな」
ゲルマンは悪戯っぽく目を細めた。
「真実が虚無であってもそれは真理の一部。探し出した正しさが間違いであったとしても……それもまた真理。アイン殿の探しているものはそういった……屁理屈の塊ですな。ならば、今考えても仕方ありません。愛する方の死に直面した時……アイン殿が真っ先に考えついたことをやれば良いのです」
後出しの理論。後付の論理。そんなものに近い答えだった。
たとえ間違いを犯しても、それが答え。
間違いを犯しても、それが答えへと通じる過程だと言い切れたなら無敵だ。
究極の傍若無人とも言える屁理屈論理。
流石にそこまで全てを割り切ることは出来なくても、何かを成そうとした時、失敗を恐れた時には使えそうだと思った。
正しさを探しながら生きる……それもまた正しさの一つ。
アインの胸に不思議とすんなりと入ってくる言葉だった。
曖昧でなんの答えもありはしない。
だが、答えばかり探してしまうアインには丁度いいと思えた。
ただ闇雲に模索しながら足掻く。
それもまた答えなのだと思えるのだから。
思考に耽り塞ぎ込まず、行動に移せるいい言葉だった。
「正しい道を歩むために……常に完璧な答えを求めるのではなく、自分が選んだ道に納得し、その重みとともに生きていくことこそが大事……と、先の短い老人は愚考するしだいでございます」
『流石の年の功だ。私は己の愚かさが浮き彫りになって恥ずかしいよ。まぁ……実際彼女の死に直面したら、何も出来ず数カ月は引きこもってしまいそうだがな』
「現実など、実際に直面してみないことにはわからないことばかりです。私の言葉がせめてもの助けになれば、嬉しい限りです」
それもそうか。
穏やかな笑い声が二人の間で木霊する。
楽しい会話が始まってから既に一時間以上が経過していた。
ゲルマンは既に体力も気力も限界なのか、ウトウトと上体を前後させている。
アインはそれを長い腕でそっと支え、友人を寝かせてやった。
枯れ枝のように細い身体は、驚くほど軽かった。
『助かったよ……。お礼に葬式は盛大にして見送ってやろう、料金は友人価格で無料だ』
「おや、太っ腹ですな。最期に新しい友人に見送られて逝けるなど……儂は果報者ですぞ」
布団を被せ、場を和ませる冗談を口にする。
ゲルマンもまた、そんなアインの軽口に合わせてくれた。
『ゲルマン、まだ死ぬな……。私はお前が死ぬと悲しむからな?』
どこか震える声でそんなことを言うアインに、ゲルマンはただ微笑み返す。
老人は魔物の灰色の腕をあやすように優しく擦った。
その手は痩せ細り、骨と皮だけになっていたが、伝わってくる温もりは確かなものだった。
アインはその感触に耐えきれず、眼を強く瞑ってしまう。
「ほっほっ……こんな老いぼれにそのような言葉。ですが友人を悲しませてしまうのでしたら……もう少し頑張ってみましょうかな」
『その意気だ。……ありがとうゲルマン。今夜は楽しかった、貴方は永遠に私の大切な友人だ。今日の言葉を忘れず生きていこうと思う。ゆっくり休んでくれ……おやすみ、友よ』
アインはその老人の言葉に身を翻し、背を向けてしまう。
これ以上ゲルマンの顔を見るのも、自分の情けない姿を見せることにも耐えられなかった。
「えぇ……もし天国に逝けたのなら。貴方を陰ながら見守らせて頂きます……貴方の旅路に幸あらんことを。おやすみ、儂の……最後の友、よ……」
『不穏な言い方はよせ。貴方はただ眠たくて瞼を閉じるだけだ……夜分失礼した』
アインは月明かりに照らされ、静かに眠りについた友人へと別れを告げた。
一瞬霧が立ち込め、それは夜風に乗ってどこかへと消えていく。
静かな民家の一室には、穏やかな顔をした老人の寝息だけが響いていた。
◇◇◇
数週間後。
アインは初めて出来た人間の友を、自身の手で埋葬した。
穏やかに息を引き取った彼を、アインは持てる全てを費やして見送った。
村外れの丘の上、小さな墓標が立てられている。
そこからは村全体が見渡せた。
きっとゲルマンはこの景色が好きだったのだろう。
アインはそう思いながら、この場所を選んだ。
アインはただ友人の眠る墓標の前で膝をつき、項垂れる。
周囲を漂う霧が、微かに震えていた。
視界が歪む。目頭が熱い。これが涙というものなのか。
アインは初めてその感覚を知った。
その日、アインはマキナ以外の誰かの為に初めて泣いた。
フルーフの言っていた通り、誰かを想い泣くことが出来た。
友人を見送る悲しみに暮れ、初めて出来た友人の墓の前で跪きながら、声にならない慟哭を上げる。
風が吹き、墓標の前に供えられた花が揺れた。
アインは、彼が最期にくれた言葉を胸にこれからも生き続ける。
正しさを探しながら生きる。それもまた正しさの一つ。
その言葉を、アインは生涯忘れることはないだろう。