アインザーム・オリジン【完結】   作:ごすろじ

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▼第四十三話▶エピローグ・ちっぽけな正義の味方。

 

 

 

――七十年後。

 

 

全てを解決する正解などありはしない。

絶対的に正しいことなどありはしない。

それでも私は今という時を生き、己が正しいと思う正義を貫き続ける。

 

 

石造りの聖堂に、蝋燭の灯りが揺れていた。

祭壇に掲げられた女神像が、薄闇の中で静かに微笑んでいる。

 

冷たい空気が肌を刺し、自らの呼吸だけが妙に大きく響く。

 

 

慈悲深く謙虚な神父。

巷で噂になるまで名が広がった女神の使徒。

 

そんな男へと――私は剣を向けていた。

 

 

善行の徒である神父に刃を向けるなど許されざる悪行だろう。

 

だがこの眼に映し出されるものは真実のみ。

どれほど取り繕おうと、魂の色は偽れない。

 

 

「あ、アイン、どういうつもりですか!? 何故私に剣を向ける……ッ」

 

 

親友に裏切られたような失望の眼差しが私を貫いてくる。

それも当然だ。

 

彼と出会ったのは随分と昔。

まだ彼が修道院で雑務をこなす若い修道士だった頃のことだ。

 

夜更けの中庭で、彼は夢を語った。

 

いつか子供たちが飢えることなく安全に過ごせ、無料で学べる教会を運営したい。

月明かりの下で語るその横顔を、私は今でも鮮明に覚えている。

 

 

あの時の彼の精神はとても澄んでおり、欲の一つもなく眩いほどに輝いていた。

私はそれを信じ、微力ながら力を貸してきた。

 

 

彼は善行を重ね、聖都で正式に神父と名乗ることを許された。

そして大きな教会を持つまでに至ったのだ。

 

 

素晴らしいことだった。

ほんの二十年で、彼は大勢の子供を救い上げ世に送り出してきた。

 

初めて教会を開いた日、彼は涙を流しながら私の手を握った。

あの手の温もりを、私はまだ忘れていない。

 

 

そして今――それよりも大勢の子供を金に変えるため、彼は悪逆に手を染めようとしていた。

 

 

『汝……己が罪を悔いる心はまだあるか』

 

 

彼の魂はかつての清らかさを完全に失っていた。

悔いる心があり、反省する余地があればまだ引き返せる。

 

だからこそ私は彼に罪を問う。

 

 

「なにを言っているんだアイン! 私はなんの罪も犯してはいません……それはこれまで支援し続けてくれた貴方が一番理解しているでしょう?」

 

 

目元には深い隈が刻まれ、髪は手入れもされず跳ねている。

顔はやつれ、頬がこけていた。

 

金などなくとも昔はもっと清潔感を保っていたというのに……随分と見窄らしくなってしまった。

 

 

『聖都から直々に贈られたロザリオはどうした……経典はどこだ……教会の装飾品が減っているぞ。ここまで言ってまだ理解できないか?』

 

「そ、それは……ッ! こ……子供たちの教育にはお金がいるんです!」

 

 

声が上擦っている。

視線が泳いでいる。

 

これは……もう駄目だな。

 

 

どれだけ節制と忍耐を得意とする人間でも、小さな欲は誰にでもある。

そして小さな欲が深みに嵌るのは一瞬だ。

 

対策があるとすれば、初めから欲を刺激するものが存在しない場所に住むくらいだろう。

 

 

『賭博……ウィンターソン公爵』

 

「何故……貴方がそれを……ッ!?」

 

 

彼の顔から血の気が引いた。

 

 

彼は名が売れ始め、金銭の実入りがよくなると賭博場に手を出し始めてしまった。

 

その始まりはこの領地で絶大な権力を有する公爵からの誘いだった。

賭博場へと招待された彼は、初めて知る賭け事の楽しみに瞬く間に溺れてしまった。

 

 

そして見る見るうちに落ちぶれていった。

何度か軽く注意しても聞き入れず、教会の品々を担保に賭博を続けた。

 

……このことについてはまだ自己判断として許せた。

 

だが彼は、越えてはならない一線を越えてしまった。

 

 

『借金の形に子供たちを要求され、汝はそれに応じた。そして公爵が望む幼子を紹介し、売った。懐にある金貨の重みはどうだ? 果たして罪なき幼子が……汝に助けを求め伸ばした手よりも価値はあったか?罪悪感はないのか……?己を恥じようとする善性は既にないのか……?』

 

 

私の言葉に彼は狼狽し、胸元を押さえて汚らわしい黄金を必死に隠そうとする。

言葉よりも彼の行動そのものが、後ろめたい疚しさを表していた。

 

 

「しょ……証拠がありません!? いくら貴方でも証拠もなく私を貶めるなど……こんな侮辱を受ける謂れは私にはありませんッ」

 

『これがその証拠だ……』

 

 

己の罪から逃れようとする罪人を逃すつもりはない。

 

懐から分厚い帳簿を取り出し、投げ渡す。

罪深い彼は帳簿に眼を通し、ガタガタと身を震わせた。

 

 

これは公爵家が隠していた裏帳簿。

教会の借金と売られた子供たちの値段と数、そして取引相手として……眼の前の罪人の名が記されていた。

 

「――馬鹿な……。こんなものを盗み出して……ただでは済みませんよ。私ごと……訴えるつもりですか? 相手は公爵です、逆らったところで勝ち目などありませんよ」

 

『その心配は杞憂だと知れ。最早公爵は表に出てこられない……許されざる行いには然るべき罰が必要だ。法で裁けぬのは理解していた……故に私が――』

 

 

言葉を最後まで紡ぐ前に、彼の瞳が変わった。

そこにはもう、親友へと向ける親愛の情はない。

 

ただ理解できない怪物を見るような、未知への恐怖で支配されていた。

 

 

「貴方は……何者ですか!? 正気じゃない……ずっと可怪しいと思っていました。貴方は……昔からずっと歳をとっていない」

 

 

ただ人に化けているだけだ。

当然だろう。

 

私は彼の望み通り、本来の姿を現した。

 

人の形が崩れ、灰色の巨躯が蝋燭の灯りに照らされる。

目も鼻もない異形の貌。

 

祭壇の女神像が、私の影で翳った。

 

 

『私が何者か……汝ら罪人にとっては…… ――煉獄へと引き摺り込むバケモノとでも言うべきか?』

 

「う、うあぁぁあっぁッ!? ば、バケモノめ……わ……私をずっと騙していたのか!?」

 

 

そうか……お前はそっちか。

だが一時でも友人として世のために何ができるか語り合った仲だ。

 

まだ希望を捨てるには早い。

 

彼が売り払った子供は既に連れ戻した。

そしてこの教会にはまだ保護を必要とし、助けを求める子供たちが大勢いる。

 

 

絶対的な正義などない。

立場が違えば正義も変わる。

 

私が彼を罰するのは容易い。

だが、それでは子供たちは行き場を失ってしまう。

 

子供たちにとって私は……居場所を奪う悪魔そのものになりかねない。

 

 

『汝の魂は既に悪臭を放つまでに汚れきっている。汝のように欲に流される者は珍しくはない。私は己の選択を絶対的に正しいとは思わない……この場で汝に罰を下すことは容易だ。だが、汝に生き方を顧みる良心が残っているのであれば――ッ』

 

 

できれば罪を償う姿勢を見せ、これまでの過ちと真摯に向き合ってほしい。

その想いで彼の説得を試みるが……最後まで口にすることはできなかった。

 

 

重い衝撃が額を打ち、地面に金属音が木霊する。

下を向けば、妖しく爛々と輝く黄金が転がっていた。

 

同意も得ず、道理も弁えず……私欲のために人の命を売り払って得た、汚れた金だった。

 

 

「人を欺き、公爵様を手にかけた魔物が何を語るのです……ッ! わ、私に偉そうな口を利くな……この汚れた魔物めッ」

 

『――汝にとっては既に私は化け物でしかないか……。汝が背負っていた責務は私が引き継ごう……今はただ、汝が売り払った幼子が感じた恐怖でその心を焦がすがいい』

 

 

最早化け物でしかない私に、彼は後ずさりし、逃げ場のない壁へと張り付いた。

近場にあるものを手当たり次第に投げつけてくる。

 

燭台が、花瓶が、私の身体に衝撃を与える。

 

その中には、僧侶の命ともいうべき聖典もあった。

 

 

私はそれを受け止め、埃を払った。

聖都で神父と認められた時に贈られた物だ。

 

流石に……これだけは売ることができなかったか。

 

 

「え、偉そうに……ッ!? やめろ……何をする気ですか!? ――んがぁ!?」

 

 

暴れ回る彼の首を掴み、視線を合わせる。

 

彼には報いが必要だ。

彼を信頼し身を預けていた子供たちに刻まれた恐怖を、裏切りの絶望を……その身に味わわせなければならない。

 

 

『最後に感謝を伝えよう。汝のような者がいるからこそ……私は初心を忘れず青臭い理想を抱いたままでいられる。曲がることなく誓いへと殉じることができる』

 

 

世に普遍の正しさなどない。

だが……私には、私にだけ唯一絶対に信じられる正しさがある。

 

 

「昔から……貴方の餓鬼臭い戯言が……嫌いでしたよ……ッ」

 

 

彼を裁く権利を有するのは人間社会の法であり、私にそんな権利は存在しない。

それでも――私は愛する人が求めた正義のために彼を罰する。

 

 

行き場を失った子供たちは私のところで保護しよう。

ここよりは不自由だろうが……それでもこの行動により生じる責任は『私』が取る。

 

最善でなくとも、できることをする……ただそれだけだ。

 

 

『さらばだ……友よ』

 

「あ、ぁ゛――あぁぁあぁぁぁっぁぁ゛ッ!!!??」

 

 

善から悪へ人は変わる。

それは逆もまた然りだ。

 

まだ引き返せる。

次に彼が現実の世界を直視する時……彼は己の罪を自覚し、正しいと思える贖罪の道を歩んでいけるだろう。

 

 

――根の腐りきった公爵は……恐らく再起不能だろうがな。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

そとある国のとある街。

その日、絶大な権力と富を有する公爵家が没落した。

 

 

それに関わっていたとされる貴族と神父も次々と捕らえられ、一帯は嘗てない混乱に陥っていた。

 

空位となった公爵の席に誰を据えるか、差し押さえられた莫大な資産をどう扱うか――様々な議論が重鎮たちの間で交わされている。

 

 

首謀者である公爵が犯した罪は数々あった。

 

 

その中でも最も注目されたのが、複数の教会から見目麗しい幼児を秘密裏に買い取り、商売をしていたことだった。

 

聖都の威信に泥を塗り、法的にも完全な重罪。

いかに公爵家であろうとも、没落は免れなかった。

 

証拠は全て揃っていた。

 

裏帳簿、取引記録、証人の証言。

 

その話は瞬く間に広がり、隠蔽などできぬほど完膚なきまでに知れ渡っていた。

 

 

そんな混乱も、やがて落ち着きを取り戻していく。

 

長引くと予想された高位の罪人たちの判決は、驚くほど円滑に進んだ。

 

なにせ関わった全員が、精神を崩壊させたかのように譫言しか発さないのだ。

異議を唱える声もなく、複数の罪状を抱えた貴族裁判は類を見ない早さで終結することとなった。

 

 

まるで膿を一掃するかのごとく、悪徳を為した貴族は排除された。

 

 

良識を持った者のみが残り、民から税を貪り食う悪政はすっかりなくなった。

人々の暮らしは以前より幾分か楽になったという。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

街の裏路地を、一人の男が歩いていた。

 

 

身長は二メートルを優に超え、ヒョロリとしていながら肩幅は広い。

見る者を圧倒する体格は、否応なしに周囲へ威圧感を与えていた。

 

 

白髪は髪油で艶やかに整えられ、仕立ての良いコートを纏い、紳士然としたシルクハットを被っている。所作の一つ一つに気品が滲み出ていた。

 

 

だが当の本人は、そんな自身の異様さに全く気づいていない様子で、平和になった街を見回し続けていた。

 

子供が転べば走り出して手を差し伸べ、老人がものを落とせば颯爽と拾いに現れ、力仕事に困っている若者がいればその怪力で荷を運ぶ。

 

ただ街を歩き回り、時間を過ごす。

 

そんな男が、不意に足を止めた。

 

 

何かに気がついたのか、人気のない路地裏の奥へと視線を向ける。

薄暗い影が折り重なり、陽の光すら届かぬ袋小路。

 

そこから微かな気配が漂っていた。

 

男は迷うことなく歩き出し、路地の奥へと進んでいく。

 

 

行き止まりの壁。

苔むした煉瓦と、積み上げられた木箱。

 

腐った野菜の匂いが鼻をつく。

男は振り返り、物陰に向かって静かに問いかけた。

 

 

『誰だ? 出てこい』

 

「………」

 

 

沈黙が数秒続いた。

 

やがて、その呼びかけに応えるように、物陰からナイフを手にした子供が姿を現した。

 

金色の髪。

この地方では高貴な血筋を示す色だ。

 

仕立ての良い服を着ているが、泥と埃にまみれ、ここ数日は身体も洗っていないのだろう。

髪は乱れ、顔には疲労の色が濃い。

 

 

だがその目だけは、鋭い敵意に燃えていた。

 

 

『迷子ではなさそうだな』

 

「姿を現せ、バケモノ」

 

 

少年の声は震えていた。

だが言葉には、確かな憎悪が込められている。

 

 

「あの日、父さんを襲ったのを僕は見たんだぞ。お前は人間のフリをした怪物だ」

 

 

――なるほど……つまりは私の被害者というわけか。

 

 

気配探知を怠ったつもりはないが、ことを急ぎすぎたか。

身なりからして貴族の子息で間違いない。

 

私の本来の姿を知っていながら、一人で向かってくるとは。

 

随分と深い恨みを抱いているようだ。

 

 

『……どこの家の子だ。いや、見覚えがある。アウスウッド伯爵の息子か』

 

 

少年の肩がびくりと跳ねた。

図星だったらしい。

 

 

「そうだ! お前が父さんを襲って可笑しくしたせいで、母さんは僕を捨てて出ていったんだ!」

 

『君の母は罪に問われず、実家に身を寄せたと聞いていたが……何があった』

 

「狂人の子なんていらないと言われたんだ。汚らわしいからって……出ていった……」

 

 

少年の声が掠れた。

 

 

ナイフを握る手が、小刻みに震えている。

刃先が陽の光を反射し、鈍く光った。

 

 

「父さんが何をしたんだよ! 全部お前のせいじゃないか!?」

 

 

少年の言う通りだ。

 

彼が今味わっている不幸は、全て私に原因がある。

本当はこんなことはしたくないのだろう……。

 

ナイフを両手で握り、震える手を必死に押さえつけている。

私と対峙する姿は痛々しく、見ていられない。

 

死ぬかもしれない。

死にたくない。

 

その恐怖に抗い、バケモノに立ち向かっている。

私がそうさせた。

 

 

『私』には……彼の憎悪から逃げずに全てを受け止める責任がある。

 

 

だが同時に、彼は彼の父が犯した悪行を知らなければならない。

 

私を殺すのはいい。

だが真相を知らぬまま手を汚し、後で事実を知った時……。

 

彼の心に取り返しのつかない傷を残すことだけは、避けなければならない。

 

 

『伯爵……君の父は、人身売買を繰り返していた公爵から、幼子を硬貨数枚で仕入れ、酷い仕打ちを繰り返していた』

 

「嘘だ」

 

『行き過ぎた加虐嗜好。……というには余りにも異常だったよ。薬物を投与し、狂って死んでいく様を見るのを楽しみにしている人物だった。今でも私の記憶に色濃く残っている……許されざる悪としてな』

 

「嘘だ! バケモノの言うことなんて誰が信じられるか!?」

 

 

少年は首を振った。

金色の髪が乱れ、汗が飛び散る。

 

 

「父さんは僕には優しかった。そんな酷いことをするはずがない……ッ」

 

 

当然だな。

 

立場、権力、状況、種族。

様々なもので言葉というものに説得力が宿る。

 

私が少年に与える印象はマイナスを振り切り、拒絶の域に達している。

信じろという方が無理があるだろう。

 

 

だから――視せてやろう。

 

 

『誰しもが二面性というものを持ち得るものだ。酷な現実だが……君が知りたいのであれば、真実を知るといい……』

 

 

私は変化を解き、本来の姿を現した。

 

人の形が崩れ、灰色の巨躯が路地裏の闇に浮かび上がる。

目も鼻もない異形の貌。

 

少年の顔が恐怖に歪んだ。

 

 

「ひっ……」

 

 

少年が後ずさる。

背中が壁にぶつかり、それ以上逃げられないことに気づいて顔を青ざめさせた。

 

 

恐らく初めて目にする、本物の魔物なのだ。

恐ろしいに決まっている。

 

 

だが私は構わず、彼の父に宿っていた忌まわしい記憶を、少年の精神へと送り込んだ。

 

 

書斎の奥に隠された、薄暗い秘密の階段。

闇を進み、見えてくるのは……。

 

少年と同じくらいの年齢の子供が監禁された地下牢。

 

 

痩せ細った子供たちが飢えに苦しみ。

涙を流し。

食べ物を懇願している。

 

そして優しい声と共に、中毒性の低い薬物を混ぜた食事が差し出され、子供たちはそれを喜んで貪り食う。

 

それを嘲笑う伯爵の心情。

日ごとに狂い、徐々に発狂し衰弱していく幼子を眺め、高揚する甘美な感情。

 

 

彼の父が感じていたそれを、少年の精神に流し込む。

 

 

無論、全てではない。

 

 

どうやら少年に父親と同じ嗜好はなく、嫌悪を示す善性の方が強いようだ。

既に吐き気を堪え、顔を青ざめさせている少年に、全てを見せることはできない。

 

 

そんな悪趣味な真似は、唾棄すべき悪逆と何も変わりはしない。

 

 

「―――ぅそだ! 僕は信じない! 殺してやる!!」

 

 

少年は叫んだ。

 

私が手を下した動機を知った上で、なお刃を向け続けるのなら、それもまた一つの正解だ。

 

どのような行動を取ろうと、少年には正当性がある。

少なくとも、何も知らない状況で殺しを行うよりはマシだろう。

 

 

『私は己の行動によって伴う責任から逃げはしない。それは『私』の在り方に反する行いだ。これも私が背負うべき咎だ』

 

 

少年の足が動いた。

恐怖で強張った身体を無理やり動かし、こちらへ向かってくる。

 

 

『いいだろう……殺しなさい。君にはその権利がある。気負うな、君にとって私は人間を手にかけるバケモノでしかない』

 

「う、うわぁぁ……死ね! バケモノ!!」

 

 

少年が走り、刃を私に突き立ててきた。

 

だが……どうにも少年は非力らしい。

私の防火コートを貫くことすら叶わず、刃先が中途半端な位置で止まってしまった。

 

 

少年は呆然と己の手を見つめ、それから私を見上げた。

どうすればいいのかわからず、唾を飲み、恐怖で震えることしかできていない。

 

 

『次は剣を用意することだ。貸しなさい――』

 

 

彼の肩に手をかけ、軽く押すと、少年は尻もちをついて倒れてしまった。

地面に落ちたナイフを拾い上げ、魔力を通して切れ味を強化する。

 

 

私はコートを脱ぎ捨て、シャツを開いて腹部を曝け出した。

 

 

そこには深い傷跡が残っている。

かつて女神に信仰を捧げた時の、己で刻んだ古傷だ。

 

その傷跡を指でなぞり、ナイフを逆手に握る。

 

 

少年は目を丸くしながら状況を見守っていた。

だが次の瞬間、私の行動を目にして悲鳴を上げた。

 

 

「ッ!?―――う、うわぁぁぁぁぁ!? あ、アンタ何やってんだ!? イカれてるのか……ッ!」

 

 

少年が殺せないのなら、私が彼の代わりにその責任を果たしてやろう。

 

迷いはなかった。

 

 

ナイフを腹へと突き立てる。

肉を裂く感触。

 

熱い痛みが全身を駆け抜け、魔力が傷口から流出していくのがわかる。

 

少年の目が見開かれた。

 

私は構わず、そのまま横一文字に引いた。

 

 

激痛と生存本能が肉体に悲鳴を上げさせる。

だが手を止めるつもりはない。

 

魔力流出の勢いから計算して……何も処置をしなければ、数分以内に私は無価値な粒子となって消えるだろう。

 

黒い霧が傷口から溢れ出し、冷たい路地裏の空気に溶けていく。

 

 

『私の死が君の願いだろう……動揺する必要はない。見ての通り致命傷だ』

 

「む、無理だ……」

 

 

少年は壁に背を預けたまま、がたがたと震えていた。

 

 

「いきなり自分のお腹を目の前で掻き切る奴なんて、怖いに決まってるだろ……ッ。だ、大丈夫なのかよ……っ!?」

 

 

殺そうとしていたのに……いざ死に瀕すれば私の心配か。

なんだ……魔物相手に随分と優しいじゃないか。

 

根が余程善良と見える。

 

 

『身の丈に合わない行いには、常に責任がつき纏うものだ。ここで死ぬのなら私もそれまでなのだろう……』

 

 

血が――正確には魔力の残滓が、石畳に黒い染みを広げていく。

視界が僅かに霞み始めた。

 

だが意識は明瞭だった。

 

 

『だが、私にはまだ成すべきことが多く残っている。私が生きるべきか……死ぬべきか。それは女神の審判に委ねよう』

 

懐から聖典を取り出した。

鈍い光沢を放つ金属の表紙。

 

かつてフルーフから譲り受けたものだ。

重厚な手触りには、確かな力が宿っていた。

 

 

「聖典……? なんで魔物が聖典なんて……」

 

 

少年の声には困惑があった。

理解が追いつかないのだろう。当然だ。

 

 

聖典に魔力を流し、傷口へと手を翳す。

淡い光が傷を包み、深い切り傷は癒され、徐々に塞がっていった。

 

魔力の流出が止まり、霞んでいた視界が元に戻る。

 

 

少年は口をパクパクとさせ、何かを言いたげにしていた。

だが生憎と私は察しが良い方ではない。

 

頭を覗かずに、気持ちを察する術など持ってはいなかった。

 

 

『まだ死んではやれない。君も、もう何かをできる様子ではないな……。今は心労を癒やし、また私を殺そうと思うのならそうしなさい。私は君の気持ちから逃げずに向き合うと約束しよう』

 

 

まだまだ私の旅に終わりは来ないらしい。

 

未熟。

余りにも未熟だ……。

 

理想への頂は未だ高く、励まなければならない。

 

こんな体たらくでは、彼女に合わせる顔がない。

 

 

「そ、そう言って逃げるつもりなんじゃないのか!?」

 

 

少年は立ち上がり、私を睨みつけた。

膝は震えている。

 

だが目には、まだ敵意の炎が灯っていた。

 

 

『君。帰る場所はあるか……?』

 

「くそっ……話を聞いてなかったのか。そんなの……もうあるわけないだろ」

 

 

少年の声が掠れた。

怒りの奥に、隠しきれない悲しみが滲んでいる。

 

 

『ふむ、なら家に来なさい』

 

「……は?」

 

 

少年は呆気に取られた顔をした。

 

 

『なにかをさせるつもりはない……。子供の五十人や百人増えたところで、養えるだけの稼ぎはあるつもりだ。来るなら歓迎する。そこでなら、いつでも私を殺せる機会がある』

 

「はぁ!? あ、アンタやっぱり頭がおかし――ちょ、ちょっと待て!? 逃げるな!」

 

 

私は踵を返し、路地裏を出て大通りへと歩き出した。

 

 

殺したいというのなら、いつでも殺せばいい。

ただ……少し時間の都合で会いにいけない日も出てしまうだろう。

 

なら家に住んでもらうのが丁度いい。

 

幸い、最近は心療内科まがいのことも始めて金なら稼いでいる。

それに、家を金庫か何かと勘違いした変態が二十年前から金を貯め込んでいるのだ。

 

金銭面での面倒はいくらでも見られる。

 

だが教会の孤児たちを全て引き取った影響で、私一人では手が回らない状況でもあった。

 

後ろから、少年の足音が聞こえてくる。

 

振り返れば、金髪の少年が距離を保ちながらついてきていた。

敵意を隠そうともせず、しかし私の背中を見失わないよう必死に歩いている。

 

 

責任感もあり、面倒見がよさそうだ……。

私を嫌悪していても、もしかしたら子供たちの面倒をお願いできるかもしれない。

 

教養もありそうだし、読み書き計算なども教えられるだろう。

 

 

仕事に関しては本人の意思と気質を確かめてからだが……。

どうやら私の誘い自体を断るつもりはないらしい。

 

 

『君……名は?』

 

「……トイフェル」

 

 

少年は短く答えた。

警戒心は解いていない。

 

だが、声には僅かな迷いが混じっていた。

 

 

『そうか、良い名だ。では……短い付き合いになるかもしれんがよろしく頼むぞ、トイフェル』

 

「すぐにぶっ殺してやる」

 

 

少年は歯を食いしばりながらそう吐き捨てた。

 

 

だがその足取りは、私の背中を追うことを止めようとしない。

口調とは裏腹に、彼の目には生きようとする光が宿っている。

 

 

血気盛んなことだ。

これなら大丈夫だ。

 

父親を狂わせた悪いバケモノを殺すために身体を鍛え、食事を食べ、よく眠ることだろう。

 

 

『そう気負うな。我が家には君と同じで私を殺したがっている子たちが大勢いる。だからすぐ馴染めるさ』

 

 

「だ、誰もそんな心配……って。僕みたいのが大勢? あ、アンタ……よく生きてるな」

 

『はははは。私を殺そうとはするが、皆根は善良で優しいのさ』

 

「わ、笑い事じゃねぇ……」

 

 

トイフェルは額に手を当て、深い溜息を吐いた。

 

 

「クソ、アンタを殺すのは僕だ。ちゃんと覚えておけよ」

 

『楽しみにしている。その為にはまず、君が自力で私を殺せる程度に成長することだ。三食しっかり食べて、適度に運動し、よく寝ることだ』

 

「………アンタやっぱりおかしいよ……」

 

 

少年の目には、依然として憎悪の炎が燃えている。

 

だが同時に、得体の知れない相手を前にした困惑も滲んでいた。

殺したい相手に衣食住を世話されるなど、どう受け止めればいいのかわからないのだろう。

 

 

「……なぁ」

 

背後から、トイフェルの声がした。

 

「アンタ、結局何者なんだよ。魔物なのに聖典を使って、人間の子供を養ってて……意味がわからない」

 

『私が何者か、か』

 

足を止め、振り返った。

トイフェルは数歩後ろで立ち止まり、複雑な表情でこちらを見ている。

 

『一般常識で表すのであれば、私は魔物だ。それは間違いない。人を喰らう性を持ち、人ならざる姿をしている』

 

「だったら――」

 

『だが同時に、私は女神を信じる者でもある。そして……愛する人が求めた正義を、生涯貫くと誓った者だ』

 

 

トイフェルは眉を顰めた。

理解できない、という顔だった。

 

 

「愛する人……? 魔物が?」

 

『信じられないのも無理はない。だが事実だ。私には妻がいた。人間の、心優しい女性だった』

 

「……いた?」

 

『七十年前に亡くなった。だが今でも私の中に生きている。彼女が求めた理想が、私を動かしている』

 

トイフェルは黙り込んだ。

何を考えているのかはわからない。

 

だが、敵意だけで構成されていた瞳に、別の色が混じり始めていた。

 

 

「……変な奴」

 

『私は変では……――いや、変な奴、だったな。妻にも、よく言われた』

 

 

私は再び歩き出した。

トイフェルも、少し遅れてついてくる。

 

足音が二つ、石畳に響いていた。

 

 

 

 

 

 

◇◇◇

 

 

 

 

 

 

私はちっぽけで矮小な存在だ。

 

世界を変えることなどできない。

全ての悪を滅ぼすこともできない。

 

苦しむ全ての人を救うことなど、到底叶わない。

 

 

だが……それでも。

 

 

『私』は伸ばされた手をこれからも掴み続ける。

 

 

泣いている子供がいれば、駆け寄って手を差し伸べる。

理不尽に虐げられる者がいれば、その前に立ちはだかる。

 

助けを求める声が聞こえれば、どこへでも向かう。

 

 

それが私にできる、たった一つのことだから。

 

 

マキナが夢見た正義の味方。

彼女が私に託してくれた、呪い。

 

全てを救えなくてもいい。

ただ目の前の誰かを、救えればそれでいい。

 

 

家が見えてきた。

 

街外れにある、少し大きめの屋敷だ。

元は貴族の別荘だったものを買い取り、孤児院として使っている。

 

 

門の前では、数人の子供たちが遊んでいた。

私の姿を見つけると、一斉に駆け寄ってくる。

 

 

「アインだー!」

 

「おかえりー!」

 

「ねぇねぇ、今日のご飯なにー?」

 

 

口々に話しかけてくる子供たちを、私は一人一人撫でてやった。

 

その中の一人――赤毛の少女が、私の後ろにいるトイフェルに気づいた。

 

 

「ねぇアイン、その人だれ?」

 

『ラフィーラ、新しい家族だ。仲良くしてやってくれ』

 

「「「えーっ!」」」

 

 

子供たちが一斉にトイフェルを取り囲んだ。

 

 

「ねぇねぇ、名前は?」

 

「何歳?」

 

「遊ぼ遊ぼ!」

 

「ちょ、ちょっと待て……っ! 近い、近いって!」

 

 

トイフェルは狼狽えながら後ずさろうとしたが、子供たちは容赦なく距離を詰めてくる。

 

その様子を見て、私は小さく笑った。

 

 

『彼の名はトイフェルだ。少し人見知りだから、あまり驚かせてやるな』

 

「「「はーい!」」」

 

 

返事をしながらも、子供たちはトイフェルを引っ張って屋敷の中へと連れていこうとしている。

 

 

「お、おい……っ! アンタ、助けろよ!」

 

『すぐ馴染めると言っただろう。存分に可愛がってもらえ』

 

「可愛がるって歳じゃねぇだろ僕は……っ!」

 

 

騒がしい声が遠ざかっていく。

 

私はその背中を見送りながら、空を見上げた。

 

夕焼けが広がっている。

橙色と紫が混じり合い、美しい階調を描いていた。

 

マキナの瞳と同じ色だ。

 

 

『正義の味方は……難しいな。失敗ばかりだ。傷つけてしまう者もいる。だが、それでも……『私』は君の理想に私は殉じ続ける。責任、咎、過ち、全てを背負う。その上で、考えはしない。ただ、伸ばされた手を掴み返す』

 

風が吹いた。

優しく頬を撫でるような、温かい風だった。

 

 

『だからどうか――』

 

 

目を閉じる。

 

瞼の裏に、彼女の笑顔が浮かんだ。

夕焼け色の瞳。柔らかな微笑み。

 

私に向けてくれた、あの温かな光。

 

 

『これからも……。このちっぽけな正義の味方を、これからも見守っていてくれ。――マキナ』

 

 

風が止んだ。

 

静寂が訪れる。

 

そして――どこか遠くから、彼女の声が聞こえた気がした。

 

 

優しく、温かく、私の背中を押してくれるような声が。

 

屋敷の中から、子供たちの笑い声が響いてくる。

 

私は目を開け、その音に耳を傾けた。

 

 

トイフェルの怒鳴り声と、子供たちのはしゃぐ声が混じり合っている。

騒がしい。とても騒がしい。

 

 

だが、悪くない喧騒だった。

 

 

『さて……夕食の準備をしなければな』

 

 

空には一番星が輝き始めていた。

 

七十年前と変わらない、澄んだ光。

 

マキナと二人で見上げた、あの日の星空と同じ光が、今も変わらずそこにあった。

 

 

 

 

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