V.V.の姿が夕陽の残光に溶けて消えた直後、図書室の空気は、さらに重く肌を刺すようなプレッシャーに包まれた。
「……あの子は、一体……」
僕の問いに答えたのは、アーニャの声ではなかった。
ガクリと折れ曲がっていた彼女の首が、不自然なほど滑らかに持ち上がる。その瞳は、無機質な記録者のものではなく、知性と奔放な熱、そして底知れぬ慈愛と冷酷さを湛えた「別の誰か」の眼差しだった。
「ふふ……相変わらずね、あの兄弟は。
子供の喧嘩に過去の亡霊まで引きずり出すなんて。少し、悪趣味が過ぎるわ」
「……っ! マリアンヌ、表に出てくるなと言ったはずだ!」
C.C.が鋭い声を上げ、一歩前へ出る。
マリアンヌと呼ばれた「彼女」は、アーニャの体を借りて優雅に椅子から立ち上がると、面白そうに僕を凝視した。
「いいじゃない、C.C.。この子は私にとっても大切な『空白』なんだから。……ねえ、ライ。
あなたは自分が『調律者』だったなんて言われて、どう思ったかしら?」
マリアンヌの指先が、僕の頬を柔らかくなぞる。その感触は驚くほど温かく、同時に背筋が凍りつくような異物感があった。
「僕は、ただの……ライ・アッシュフォードだ。そんなことは、知らない……!」
「いいえ。あなたの魂は、ブリタニアも日本も生まれる前、世界が『神の火』で満たされていた時代を知っている。
あなたは、かつて私たちが求めた『嘘のない世界』の先取りであり、同時にその失敗作でもあるわ」
マリアンヌは僕の左目を覗き込む。その赤い輝きを、愛おしい玩具を見るような目で見つめながら。
「あなたが持っているその目は、世界という空間を書き換えるためのペン。……でも、気をつけて。
ペンが折れれば、世界という紙そのものが破れてしまう。
V.V.があなたを怖がっているのは、あなたが彼の描く『永遠』を書き換えてしまうかもしれないからよ」
「勝手なことを言うな。ライは、お前たちの『計画』の道具じゃない」
C.C.の拒絶を、マリアンヌは楽しげな笑い声で受け流した。
「分かっているわ。……さあ、アーニャの意識が戻る前に失礼するわね。……あの子によろしく。
私はまだ、この子の特等席から、あなたたちの足掻きを見守らせてもらうわ」
一瞬の静寂。
アーニャの瞳から光が消え、彼女は糸が切れた人形のように椅子に座り込んだ。
数秒後、彼女は、いつものように携帯電話を取り出そうとして自分が何をしていたか忘れたように首を傾げた。
「……ライ。私……何か、言った?」
「……いや。何でもないよ、アーニャ」
僕は震える手を隠しながら、彼女に背を向けた。
マリアンヌ、C.C.そしてV.V.
この世界の裏側を知る者たちが、盤面を動かし始めている。
アッシュフォード学園の生徒会室。
窓から差し込む月光が、チェス盤の上のキングを長く引き伸ばしていた。
ルルーシュは一人、盤面を見つめながら思考を巡らせていたが、背後のドアが開く音に顔を上げることなく口を開いた。
「……何があった?」
「V.V.が現れた。ライという餌に釣られてな」
C.C.の声は、いつになく冷え切っていた。ルルーシュは握っていた駒を盤上に戻し、椅子を回転させて彼女と向き合う。
「V.V.だと? ……理由は何だ。ライの正体か?」
「ああ。あいつはライを『楔』と呼んだ。過去の伝承が事実なら、この世界を繋ぎ止めるための生体パーツ……いわば、ラグナレクの接続を完成させる、あるいは破綻させるためのマスターキーだ」
ルルーシュの瞳に、鋭い光が宿る。
「過去の伝承、伝説……。お伽話かと思っていたが、あいつらの求めている『嘘のない世界』の雛形がそこにあるというのか。……それで、ライをどうするつもりだ」
「利用価値があるなら拾い上げ、邪魔なら消す。あいつにとっては、世界というパズルの一片に過ぎないからな。……それに、アーニャ・アールストレイム。彼女もライの正体に、無意識のうちに触れ始めている」
C.C.はあえて、マリアンヌの名を伏せた。アーニャの口を借りて響いた声――それを今ルルーシュに伝えれば、復讐の歯車が狂いかねないことを、彼女は熟知していた。
「アーニャが? ……ナイトオブシックスをライの監視に付けたのはシュナイゼルか、あるいはシャルルか。どちらにせよ、ライの周辺が騒がしくなっているな」
ルルーシュは自嘲気味に鼻で笑った。だが、その拳は固く握り締められている。
「……ふん。どいつもこいつも、神だの神話だのという御託を並べて、未来を塗り潰そうというわけか。……ユフィの作ったこの特区を、神への捧げ物にするつもりなら、俺がその祭壇ごと叩き潰してやる」
「ルルーシュ、無理はするな。相手はギアスもコードも持っている。」
「C.C.お前は俺を見くびっているぞ。
スザクも含め得難い人材がいる。そこに俺もいて、どうして悲観的になる?」
ルルーシュは立ち上がり窓の外、静まり返った学園の庭を見下ろした。
「ライは俺の友人だ。……道具として使われるのがどれほど不快か、俺は誰よりも知っている。あいつが過去の亡霊だろうと、俺の知ったことではない。……ライは、俺が使う。神の駒としてではなく、この世界を『明日』へと進めるための、対等な共犯者としてな」
ルルーシュの決意は、月光よりも冷たく、そして揺るぎなかった。
「ライ。少し付き合え」
夜の静寂に沈む学園。僕はルルーシュに導かれるまま、旧校舎の地下へと足を踏み入れていた。
冷たい空気、等間隔に並ぶ電灯。ここは、僕が自らの力を行使し、ユーフェミアによる惨劇を未然に防いだあの日、ルルーシュと「あるべき未来」を共有した場所でもある。
「ルルーシュ……。わざわざここに来たのは、昔話をするためじゃないよね」
僕が静かに告げると、前を歩いていたルルーシュが立ち止まった。
彼はゆっくりと振り返り、暗闇の中で僕の左目を真っ直ぐに見つめた。
「ああ、そうだ。お前があの日、俺のギアスの暴走から始まった悲劇を食い止めた、その時から俺たちは、この世界の運命を共に背負う共犯者だ」
ルルーシュの瞳に、赤いギアスの紋章が宿る。彼はその「絶対遵守」の力を、目的を遂行するための効率的な道具として、迷うことなく使いこなしている。
「だがライ……お前は、その力を使うのを避けているな?」
ルルーシュの指摘に、僕はわずかに視線を落とした。
あの日、ユーフェミアの瞳に宿ったあの絶望。ルルーシュが意図せず放った「命令」が、一人の少女の心を焼き、歴史を血に染めようとした光景。
あの恐ろしさを知る僕は以来、自らの力の行使に強い自制心を抱いていた。
「……僕は、あの時のような悲劇を二度と起こしたくないんだ。ギアスは強力すぎる。人の心を、世界そのものを歪めてしまう。
……僕は、一人の人間として自らの腕で勝ち取りたい」
「ふん……。お前らしい甘さだ。だが、その甘さを維持できるだけの『力』が、お前にはある」
ルルーシュは自嘲気味に笑い、僕の肩を叩いた。
「いいか、ライ。俺はギアスを厭わない。政治の汚濁、コードの陰謀……目に見えない不浄な戦いは俺が引き受けよう。俺が盤面を整え、お前に『正解』を用意する」
ルルーシュの視線が、戦士としての僕に向けられた。
「その代わり、お前は戦場でスザクと共に『最強』であれ。機体と、そしてスザクの心とシンクロし、物理的な脅威を全て薙ぎ払え。
……俺が『王』として道を拓き、お前が『騎士』としてその道を死守する。それでいいな?」
ルルーシュの提案は、互いの強みと「在り方」を尊重した、合理的な役割分担だった。
政治とギアスに身を投じるルルーシュ。
そして、KMFの操縦技術とスザクとの連携で、前線の絶望を打ち砕く僕。
「……ああ。わかったよ、ルルーシュ。君の背後は、僕とスザクで守ってみせる」
僕は彼の掌を強く握り返した。
僕たちは、異なる手段で同じ「明日」を目指す。
歴史の「調律者」ではなく、一人の「人間」として戦うために、僕はルルーシュという知略の王と手を結んだ。