Memento Vivereー生きる意味を忘れるなー【完結】 作:ごすろじ
▶デンケン視点
俺の世界は、あの日、音もなく灰色に染まった。
夕暮れ時だった。
いつもと変わらない、ありふれた日常の風景。母さんが台所で夕飯の支度をする軽やかな音。
父さんが仕事から帰ってきて、玄関で革靴を脱ぐ、くたびれた音。
俺は居間で、分厚い冒険譚を読んでいた。偉大な勇者と魔法使いが悪を討つ物語。
いつか自分も、そんな風になれたらいいなと、子供らしい夢想に浸っていた。
全てが一瞬で、本当に一瞬で終わった。
壁が爆ぜる轟音と共に、家の一部が木っ端微塵に吹き飛んだ。
舞い上がる土煙の向こうから、それは現れた。
人の形をしているが、人ではない。
その瞳に宿る、感情の欠片もない硝子玉のような冷たい光を…俺は一生忘れないだろう。
「デンケン、逃げろ!」
父さんの、聞いたこともないような絶叫。
母さんの引き裂かれるような悲鳴。
視界の端で、鮮やかな赤が壁に飛び散る。石畳にじわりと広がる黒い染み。
俺は動けなかった。
読んでいた本が、ぱらりと手から滑り落ちる。
足が震え、喉が張り付いて声も出ない。
ただ、目の前の光景を見つめることしかできなかった。
まるで質の悪い悪夢だ。
しかし、鼻をつく鉄錆の匂いと、燃え盛る我が家の熱だけが、これが紛れもない現実だと俺の脳に容赦なく刻みつけた。
誰かが俺を抱きかかえて走った。
たぶん、近所のおじさんだったと思う。
抵抗する力もなく、されるがままに運ばれながら振り返ると、俺の全ては巨大な松明のように、オレンジ色の炎に包まれ、思い出ごと灰になっていく。
その後の記憶はひどく曖昧だ。
知らない部屋の高い天井、知らない大人たちの囁き声。
「可哀想に」「まだこんなに小さいのに」「親戚はいないのか」。
そんな言葉たちが、意味をなさない音の羅列として頭上を通り過ぎていく。
俺は何も答えなかった。答える気力も、意味も、もう見出せなかった。
それから数日後、俺は揺れる馬車に乗せられた。
「ヴァイゼのグリュック様という方のお屋敷へ向かう。お前の遠い親戚にあたる方だ」
護衛の男は努めて優しげに話しかけてきたが、俺は一度も顔を上げなかった。
窓の外を流れる景色も見なかった。ただ、膝の上で固く握りしめた拳を見つめていた。
爪が掌に食い込んで痛かったが、その鈍い痛みだけが、自分がまだ生きている証のような気がした。
ヴァイゼ。グリュック様。
その名前に、遠い記憶の欠片が蘇りそうになる。
昔、父さんと母さんに連れられて、何度か訪れたことがある大きな街。
そして、そこに住む綺麗なお姉さんの顔。でも、今の俺には、どうでもいいことだった。
馬車が長い時間走り、石畳の音に変わってから、ようやく止まった。
「着いたぞ、坊ちゃん」
促されて顔を上げると、目の前には城と見紛うほどの大きな屋敷があった。
記憶の中にあるよりも、ずっと大きく、壮麗に見える。白い壁に、赤い屋根。手入れの行き届いた庭には、色とりどりの花が風に揺れている。
まるで、俺の世界から色が消えたことなど知らないかのように。
ここが、これから俺が暮らす場所。
でも…俺の家じゃない。
重い門が開き、軋んだ音が耳に響く。
「ようこそ、デンケン。久しぶりだな」
低く、落ち着いた声。視線を上げると、立派な身なりの、威厳のある中年男性が立っていた。
グリュック様。
見覚えのある顔だ。
その顔は厳格そうだったが、目に宿る光は優しかった。
「辛い思いをしたな」
慰めの言葉。同情の眼差し。
この数日間で、もう何度も向けられたそれに、俺の心はますます固く閉じていく。
ただ、再び視線を落とすことしかできなかった。
その時、グリュック様の隣から、ふわりと花の香りがした。
「デンケン」
優しい、鈴を転がすような声。その声に、俺は弾かれたように顔を上げた。
そこにいたのは、記憶の中の姿より、ずっと大人びた少女だった。
陽の光を吸い込んだような金色の髪、白いドレス。人形のように整った顔立ち。
レクテューレ。
ここに来るたびに、「デンケン!」と弟のように可愛がってくれた、俺よりずっと年上のお姉さん。
昔、彼女に「僕は大きくなったら、レクチューレを守れるくらい強い魔法使いになるんだ」と、得意げに話したことがあった。
彼女はいつも、「すごいわ、デンケンならきっとなれるわよ」と、太陽のように笑ってくれた。
その笑顔が、今はひどく、胸に突き刺さる。
彼女の瞳は、他の大人たちとは違った。
同情や憐れみだけではない。昔と変わらない真っ直ぐな好奇心と、そして、俺の心の奥底を射抜くような、強い悲しみの色が混じっていた。
その瞳に見つめられるのが、耐えられなかった。俺は、彼女の期待に何一つ応えられなかったのだから。
▶レクテューレ視点
朝から、ずっと胸の奥が冷たく疼いていた。
お父様が「今日、デンケンが来る」と教えてくださってから、私は落ち着かないまま、今はもう誰もいない兄の部屋の窓辺に立っていた。
デンケン。
私がまだ幼い頃、遠い街から両親に連れられて、時々この屋敷に遊びに来ていた男の子。
私より九つも年下で、いつも私の後ろをちょこちょことついて回る、人懐っこい弟のような存在だった。
「レクテューレ、見て! 魔法!」
そう言って、木の枝を杖のように振り回し、得意げに胸を張る姿が今でも目に焼き付いている。
いつか立派な魔法使いになるのだと、キラキラした瞳で夢を語ってくれた、可愛いデンケン。
その子が、魔族に両親を殺された、と聞いた。
どう接すればいいのか分からなかった。
私も母を病で亡くし、兄を政争の渦中で失った。
人の命がいとも容易く失われる世界の理不尽さは知っているつもりだった。
でも、私の悲しみや不安にはいつもお父様の大きな背中があった。
時間をかけて、少しずつ痛みを薄紙のように重ねて癒やしていくことができた。
けれど、デンケンは?
一度にたった一人で…あの小さな背中に全てを背負わなければならないなんて。
その絶望の深さを想像しようとして、息が詰まりそうになる。
馬車の車輪が砂利を踏む音が聞こえ、私は慌ててお父様の隣へと向かった。
やがて、重々しい玄関の扉がゆっくりと開かれる。
そして…私は久しぶりにデンケンを見た。
小さい。
それが、変わらない印象だった。
でも、記憶の中の彼とは何かが決定的に違っていた。
手入れを忘れた栗色の髪。
急いで用意されたのだろう、少しサイズの合わない上等な服。
その痛々しい姿が、彼の境遇を何よりも雄弁に物語っていた。
そして、その目。
ああ、なんてこと。あの輝きは、どこへ行ってしまったの。
光を失い、何も映さない虚ろな瞳。
まるで、魂だけが灰になった故郷に置き去りにされて、体だけがここに立っているような。
その姿を見た瞬間、かつて兄の亡骸を前にした時の、あの冷たい絶望が胸に蘇った。
お父様が優しく声をかけている。
デンケンは返事をしない。ただ視線を落とし、小さな拳を固く握りしめている。
その姿が…誰にも頼れず、ただ一人で悲しみに耐えていた幼い頃の自分と重なって見えた。
「デンケン」
たまらなくなって私は彼の名前を呼んだ。
びくりと、彼の小さな肩が震える。ゆっくりと上がったその瞳が、私を捉えた。
その瞳に、ほんの一瞬だけ驚きと戸惑いの色が浮かんだように見えた。私のことを、覚えていてくれた?
「久しぶりね、デンケン。私はレクテューレよ。分かるかしら?」
返事はなかった。当然だろう。
でも、それでいい。
私は一歩前に出ると、彼の前にしゃがみこんで、目線を合わせた。怖がらせないように、できるだけ優しく、自然に微笑んでみせる。父様やマハトが私にしてくれたように。
「辛かったでしょう。でも、もう大丈夫よ。ここは、あなたの新しいお家なのだから」
そっと手を差し出す。デンケンはその手を見つめるだけで、取ろうとはしない。
まるで、触れることを拒絶するかのように。
でも、私は手を下ろさなかった。
この子が失った温もりを、私が与えなければ。
この子が忘れてしまった笑顔を、私が取り戻してあげなければ。
そう、強く、強く思った。
いつか、この子がもう一度…私に笑いかけてくれる日が来ると信じていたから。このヴァイゼの地が、彼の本当の故郷になる日まで、私が彼の家族になるのだと。そう心に誓ったから。