Memento Vivereー生きる意味を忘れるなー【完結】 作:ごすろじ
▶レクテューレ視点
結婚してから、五年という歳月が、夢のように、そして残酷なほどに速く過ぎていった。
デンケンは順調に出世を重ね、今ではヴァイゼ屈指の魔法使いとして名を馳せていた。
彼が率いる部隊は、数々の困難な任務を成功させ、ヴァイゼの平和に大きく貢献していた。
それに伴い、彼の不在は日常となり、家を空ける期間も格段に長くなった。
大規模な魔族の残党討伐の遠征に、数ヶ月単位で参加することも珍しくない。
寂しくないと言えば、それは嘘になる。
デンケンがいないこの広い屋敷は、時々、静かすぎて胸が張り裂けそうになる。
夜、一人で眠る大きなベッドはあまりにも冷たく、彼の温もりを思い出しては、枕を濡らす夜も一度や二度ではなかった。
でも、彼の目覚ましい活躍は、私の何よりの誇りだった。
遠征から帰還した彼が、少し日に焼けて、精悍さを増した顔で「ただいま」と私を抱きしめてくれる瞬間。
遠征先での武功を、少し得意げに、でも少し照れくさそうに語る顔。
それらを見るたびに、私の心は温かい光で満たされた。
それが、何物にも代えがたい幸せだった。
「まあ、また勲章が増えたのね。本当に、あなたはすごい人だわ」
彼の軍服の胸に輝く新しい勲章を、そっと指でなぞる。
「ああ。これも全て、君がこの家を守り、俺の帰りを待っていてくれるからだ」
帰還するたびに、彼はそう言って、以前よりもずっと力強く、確かめるように私を抱きしめてくれる。
その腕の中にいる時だけ、私は全ての不安を忘れられた。
この温もりがある限り、どんな寂しさも乗り越えられると、そう信じていた。
だが、信じるだけではどうにもならないことがあるのだと、私の体は静かに終わりを告げ始めていた。
もう、体が思うように動かなくなったのだ。
この5年。言い聞かせた、ひたすらに……言い聞かせた。
階段を上るだけで息が切れるのも、動悸がするのも、朝、鉛のように重い体をベッドから引きずり出すのも、疲労と年齢のせいだと。
もう三十路を越えたのだから、仕方ないのかもしれないと、必死に自分に言い聞かせて、身体を騙し続けてきた。
「奥様、近頃本当に顔色が優れませんよ。旦那様がご不在の間に、一度……」
マリアが心配そうに何度も進言してくれるけれど、私はいつも笑顔でそれをごまかした。
「大丈夫よ、マリア。ちょっと寝不足なだけ。デンケンの帰りが待ち遠しくて、つい夜更かししてしまうの」
嘘。
本当は、夜中に激しい咳が止まらなくなり、眠ることさえままならないのだ。
デンケンに、心配をかけたくなかった。
彼は今、ヴァイゼにとって、なくてはならない重要な存在になっている。
私のことで、彼の輝かしい未来に影を落とすことだけは、絶対にあってはならない。
だから、彼が屋敷にいる間は、無理をしてでも元気なふりをした。
彼が好きだと言ってくれた料理を作り、笑顔で彼の武勇伝を聞き、庭を散歩する時は、倒れないように彼の腕にしっかりと掴まった。
でも、体は正直だった。
一人でいる時に、ふと鏡を見ると、そこに映る自分の顔色の悪さに、自分でもぞっとすることが増えた。
頬はこけ、目の下には黒い隈が焼き付いている。
鏡の中の女は、幸せな「デンケンの妻」ではなく、ただ死の影に怯える、見知らぬ誰かだった。
私はその姿から目を逸らし、再び笑顔を浮かべ、化粧で繕った仮面をつける。
「デンケン……」
早く帰ってきて。
あなたの顔を見れば、きっとこの不調も、嘘のように治るはずだから。
私は、そう信じることしかできなかった。
▶デンケン視点
軍務はその責任の重さを増していた。
昇進し、一つの精鋭部隊を任されるようになってからの五年。
俺の日常は戦場と共にあると言っても過言ではなかった。
部下たちの命を預かるプレッシャー。だが、それ以上に、この手でヴァイゼの民を守っているという自負が、俺を支えていた。
そして何より、俺の活躍が、屋敷で待つレクテューレの誇りと安心に繋がるのなら、どんな困難も乗り越えられると信じていた。
遠征先から送る手紙には、いつも彼女の体を気遣う言葉を書き添えた。
返ってくる手紙は、いつもと変わらない、優しくて温かい言葉で満たされている。
俺は戦場の過酷さを書かず、彼女へと手紙をおくる。
『デンケンへ
お手紙、ありがとうございます。あなたの武功は、いつも父様から聞いております。
本当に、あなたは私の誇りです。部下の方々からも、深く慕われているそうですね。
あなたが誰よりも優れた指揮官であることは、私が一番よく知っています。
こちらは変わりありません。毎日、穏やかに過ごしておりますので、ご心配なく。
ただ、あなたの帰りを待っています。
どうか、ご自身の体を一番に大切にしてください。絶対に、無理はなさらないで。
愛を込めて
あなたの妻、レクテューレ』
不安など何一つない、はずだった……。
だが、時々、その流麗な文字が、ほんの微かに震えているような気がして、胸騒ぎがした。
一度芽生えた不安の種は、心の隅で静かに根を張っていく。
「また奥様からの手紙ですか、大尉」
遠征先の野営地で、今や俺の信頼する副官となったマキアスが、呆れたように、しかしどこか羨ましそうに言う。
「ああ」
「本当に仲がいいことで。遠征の度に惚気話を聞かされる、俺たちの身にもなってくださいよ」
「お前も、早くいい人を見つけるんだな」
軽口を叩きながらも、不安は消えない。
レクテューレは、何かを隠しているのではないか。
数ヶ月に及ぶ遠征を終え、ようやく屋敷に帰還すると、レクテューレはいつもと変わらない、完璧な笑顔で出迎えてくれる。
「おかえりなさい、あなた!」
その笑顔を見ると、俺の心に巣食っていた不安も、どこかへ霧散してしまう。
「顔色が悪いぞ。無理をしているんじゃないか?」
「していませんわ。あなたこそ、長い遠征でお疲れでしょう? さあ、お風呂の準備ができていますわよ」
そう言って俺の世話を甲斐甲斐しく焼く彼女を見ていると、「大丈夫」という言葉を信じるしかなかった。
いや、信じたかったのだ。
俺が自分自身の手で築き上げた幸せが、永遠に続くと。
だが、ある帰還の夜、俺はその残酷な現実を目の当たりにしてしまう。
夜中に喉が渇いて水を飲みに部屋を出ると、隣の寝室から、微かな光と共に、押し殺すような苦しげな音が漏れていた。
レクテューレの部屋だ。
胸騒ぎを覚え、そっと扉を開ける。
そこにいたのは、ベッドの上で体をくの字に折り曲げ、激しく咳き込む彼女の姿だった。
肩で荒い息をし、額には脂汗がびっしりと浮かんでいる。
――今日一日、無理をしていたのか……?
だが、その考えはすぐに打ち消された。
月明かりに照らされた彼女の顔は、ただ青白いというだけではない。
まるで命の蝋が溶け落ちていくかのように、生気が失われていた。
血の気の引いた唇が、か細く震えている。
違う、これは今日一日の無理などという生易しいものではない。
俺が戦場で見てきた、死にゆく兵士たちの顔だ。
蓄積された疲労が、彼女の体を内側から蝕み尽くしていた。
「ッ!?――レクテューレ……ッ!」
俺が駆け寄ると、彼女は驚いて顔を上げた。
その顔は、月明かりの下で、紙のように真っ白だった。
「デンケン……どうして、起きて……」
「どうしてじゃない! なんだ、その咳は! いったい、いつからなんだ!」
問い詰める俺に、彼女は、ただ悲しそうに微笑んだ。
「ごめんなさい……。あなたに、心配をかけたくなくて……」
その言葉に、頭を鈍器で殴られたような強い衝撃を受けた。
俺は……一体今まで何を見ていたというんだ?
彼女の笑顔の裏で、どれほど深い苦しみが蝕んでいたのか全く気づかずに。
積み上げた功績?手にした地位?レクテューレの夫?そんな結果と役割に浮かれ、達成感という安酒に酔いしれていた。
輝かしい未来が、当然のように約束されていると、愚かにも信じ込んでいた。
そして今……その全ての代償が、冷たくなった彼女の姿となって俺の目の前にある。
「すぐに医者を呼ぶ!」
「待って、あなた。もう、夜も遅いし……」
「そんなことを言っている場合じゃないだろう!」
俺は生まれて初めて、愛する妻に、声を荒らげていた。
自分の無力さと、愚かさに、絶望しながら。