Memento Vivereー生きる意味を忘れるなー【完結】 作:ごすろじ
▶デンケン視点
与えられた部屋は、広すぎて落ち着かなかった。
豪奢な天蓋付きのベッド、艶やかに磨き上げられた机、壁一面に本がぎっしり詰まった書棚。
大きな窓からは、手入れの行き届いた庭が一望できる。
全てが立派で、全てが他人のものだった。
そして、この部屋はひどく静かだった。
俺が失った家の、あの温かい音は何一つしない。
「ここがあなたの部屋よ」
レクテューレが扉を開けたまま、静かに言った。
――『あなたの部屋』
その言葉が、冷たい棘のように胸に刺さる。
俺の部屋は、もうこの世界のどこにもない。
読みかけの本も、擦り切れたおもちゃも、壁の落書きも、全ての思い出は灰になったのだ。
「何か必要なものがあったら、遠慮なく言ってね。私の部屋は隣だから」
彼女は相変わらず優しく微笑んでいる。
不思議なほど、憐れみの色がない。
ただ、純粋な親切心からそう言っているのが分かる。
それがかえって息苦しかった。
優しくされる資格なんて…今の俺にはない。両親一人守れなかった、無力で弱い俺には。
「……ありがとう」
自分でも驚くほど、かすれた声が出た。
あの日以来、何日ぶりに言葉を発しただろう。
その瞬間、レクテューレの顔が、ぱっと花が咲くように明るくなった。
「あ、話してくれた!」
まるで、希少な宝石でも見つけたかのような顔。
なぜ、たった一言でそんなに喜ぶんだ。
俺はその表情を直視できず、思わず顔を背け、彼女が部屋を出ていくと同時に背後の扉を固く閉ざした。
この一枚の木の板が、今の俺を守ってくれる唯一の壁だった。
その後の日々は、奇妙な静けさと、ささやかな音に満ちていた。
レクテューレは毎日三度、必ず俺の部屋の扉をノックしてきた。
朝、昼、晩。その律儀な音が、静寂に慣れきった俺の耳に届く。
最初の日、俺は返事をしなかった。すると彼女は、扉の前に食事のトレーを置くと、こともあろうにそのまま廊下に座り込んだのだ。
「一緒に食べてもいい? 扉越しだけど」
返事をしない俺に、彼女は構うことなく勝手に話し始めた。
「今日のスープは、料理長の自信作なのよ。ヴァイゼ名物の野菜スープ。私も少しだけ手伝ったの。にんじんを切るのをね」
扉の向こうから、スプーンが皿に当たる、かちゃりという音が聞こえる。
そして、美味しそうにスープをすする音。
それは、母さんや父さん達が立てていた食事の音とは違う、もっと上品で、控えめな音だった。
でも…思い出の中に残る、温かい記憶を喚び起こしてくれる音でもあった。
「あ、そうそう。今日、庭でとても綺麗な蝶を見たの。青い羽に、金色の模様があって……」
他愛もない話。
その穏やかな声が分厚い扉を通り抜けて、俺の凍てついた心に染み込んでくる。
ささくれ立っていた何かが、不思議と凪いでいくのを感じた。
まるで、あの灰になった日常が、まだすぐそばで続いているかのような、温かい錯覚。
結局、俺もスープに手を付けた。
確かに、今まで食べたどんなものより美味しいスープだった。
▶レクテューレ視点
扉の前での食事が、私と彼の間の日課になって三週間が経った。
最初は不安だった。
彼の静かな時間を邪魔しているのではないか、一人にしてあげた方が本当は良いのではないか。
でも、毎朝扉の前に置かれた空の食器を見るたび、もう少しだけ続けてみようと思った。
そして、少しずつ、本当に少しずつだけれど、変化が現れ始めた。
「おはよう、デンケン」と声をかけると、しばらく間があってから、小さく「……おはよう」と壁の向こうから返ってくるようになった。
食事中に話しかけると、時々、こくりと相槌を打つような物音が聞こえるようになった。
そして今日、私は思い切って尋ねてみた。
「デンケンの、好きな食べ物は何?」
長い沈黙。
聞いてはいけないことを聞いてしまったのかもしれない、と後悔が胸をよぎった時、くぐもった、小さな声が聞こえた。
「……母さんの作る、シチューが好きだった」
過去形で語られたその言葉に、胸がきゅっと痛んだ。
でも同時に、彼が自分の話をしてくれたことが、どうしようもなく嬉しかった。
「そう。……ねえ、今度、一緒に作らない?」
また沈黙。
でも、今度のそれは拒絶の色を帯びていない。
ただ戸惑っているのだと分かった。
「……料理なんて、したことない」
「ふふ、じゃあ私が教えてあげる。と言っても、私も本格的に習い始めたのは最近だけど」
扉の冷たさを背中に感じながら、私は続けた。
「母が亡くなってから、時々厨房に入るようになったの。母が作ってくれた料理の味を、忘れたくなくて。それに、いつか……大切な人に、作ってあげたいなって」
そう口にした途端、自分の頬が熱くなるのを感じた。
大切な人、なんて。何を言っているのだろう、私は。
「……俺には、もう作ってあげる相手もいない」
その言葉が、あまりにも寂しくて、悲しくて、私は思わず叫んでいた。
「私がいるじゃない!」
扉の向こうで、デンケンが息を呑む気配がした。
「あ、ええと、その……家族、みたいなものでしょう? これから、一緒に暮らすんだし」
慌てて言い訳をする。
でも、「家族」という言葉を口にした時、不思議とそれは嘘ではないと思った。
血は繋がっていなくても、この子は私の家族になれる。
いいえ、なってほしい。私が…彼の家族になりたい。
そう、強く願った。