Memento Vivereー生きる意味を忘れるなー【完結】 作:ごすろじ
▶デンケン視点
急ぎ戻ることとなった帝都は、俺の心とは、裏腹に華やかな明るい雰囲気に満ちていた。
レクテューレを一人、病の床に残してきた罪悪感が、常に胸に鉛のようにのしかかっていた。
叙勲式は壮麗な宮殿で厳かに行われた。
皇帝陛下の前に進み出て、栄誉ある勲章を授与される。
「――その功績、誠に見事である」
これまで功績を認める皇帝陛下の言葉に、俺は何も感じなかった。
――一刻も速く戻らねば……。だが、これで莫大な恩賞が出る。それがあれば、学者を雇い、まだ試していない治療法も試せる。少しの延命でも叶えられればそれでいい。時間さえ稼げれば……研究を進め奇跡が起こせるかもしれない。もうすぐだ、もう後少し手を伸ばせば……レクチューレ、君を助けられる。
心の中で、必死にレクテューレに語りかける。
この金があれば、まだ間に合う。
全てが、上手くいっているはずだった。
祝賀会。
煌びやかな衣装に身を包んだ貴族たちの賞賛の声、楽しげな楽団の演奏、グラスの触れ合う軽やかな音。
その全てが、俺の耳を右から左へと通り過ぎていくだけだった。
俺の心は、遠く離れたヴァイゼにあった。
早く帰りたい。一刻も早く、レクテューレの顔が見たい。
その時だった。
祝賀会の喧騒の中、一人の使者が人波をかき分けて俺の前に現れた。
ヴァイゼの紋章をつけた、見慣れた顔。
――グリュック様の側近の一人だ。
その顔は青ざめ、目には涙が浮かんでいた。
背筋が、凍りつくような悪寒に襲われる。
渡されたのはグリュック様からの、封蝋がされた手紙だった。
震える手で、封を切る。
そこに書かれていたのは、たった一行の、あまりにも短い文章だった。
『レクテューレが、昨夜、安らかに息を引き取った』
瞬間、世界から音が消えた。
楽団の演奏も、貴族たちの談笑も、全ての音がぷつりと途絶え、絶対的な無音の世界に俺は一人取り残された。
頭が、真っ白になった。
――嘘だ。
レクテューレ。
俺は、お前の死に目にさえ会えなかったのか。
足元が、ぐにゃりと歪んでいくような感覚。
立っていられない。
膝をついた衝撃で、胸元で輝いていた勲章が、価値を失ったガラクタのように床に散らばった。
こんな物のために、金のために、俺は戦ってきたわけじゃない……。
何のために戦ってきた? 何のために、この地位を求めた?
彼女がいない世界で、この勲章に、この金に、一体何の意味があるというのだ。
背筋の力が抜け、床に手をつく。
再び戻ってきた祝賀会の喧騒が、まるで水中のように遠く、くぐもって聞こえる。
どれくらいそうしていたか、分からない。
――俺は、選択を誤った。
例え彼女に拒絶されても側を離れるべきでは無かった。
レクチューレは強い女性だ、だからまだきっと持ち堪えてくれる、心の片隅にでも、そんな浅はかで都合のいい考えを持つべきではなかった。
「……デンケン殿」
肩に、そっと手が置かれた。
顔を上げると、レルネンが心配そうにこちらを覗き込んでいた。
彼の後ろでは、ヴァイゼからの使者が慌てふためき、周囲の貴族たちが何事かと遠巻きにこちらを見ている。
友の瞳に映る、どうしようもない無力感。
どんな慰めの言葉も、今の俺には届かないと彼は分かっているのだ。
「立てますか」
レルネンは何も聞かず、ただ力強く俺の腕を支えてくれた。
彼の支えがなければ、俺はきっと、そのまま一歩も踏み出せなかっただろう。
「……馬車を手配します。すぐに」
彼は、俺の目を見て静かに、しかし確かな口調でそう言った。
俺は……ただ無言で頷くことしかできなかった。
夜通し馬車を走らせた。
一睡もせずに、窓の外の闇を呆然と見つめながら、ただヴァイゼを目指した。
屋敷に着いた時、朝日が昇り始めていた。
静まり返った屋敷。
使用人たちの、押し殺した泣き声。
そして、老け込んだような顔をしたグリュック様が出迎えてくれた。
全てが、悪夢が現実であることを……俺に無慈悲に突きつけていた。
レクテューレの部屋へ向かう。
棺桶の中で眠る彼女は、信じられないほどに、穏やかな顔をしていた。
まるで、長い苦しみから解放されて、安らかに眠っているかのようだった。
でも、その肌は雪のように白く、触れた頬は、氷のように冷たかった。
「レクテューレ……」
声をかけても、返事はない。
「レクテューレ……っ」
もう一度、強く呼んでも、彼女のまつ毛が震えることは、もう二度とない。
俺は、彼女の冷たい手を握りしめて、ただ呼びかけることしか出来ない。
無意味とわかりながらも何度も、不意に目を覚ましてくれるのではと期待し呼びかけた。
「昔から体の弱い子だった。覚悟はしていたつもりだったのだがな。デンケン。君は本当によく頑張ってくれた。娘もきっと幸せだろう」
幸せ?グリュック様が何を言っているのかわからない、何もかもが空虚で耳をすり抜けていく。
どれくらい時間が経っただろうか、俺は棺桶で眠る彼女の前に跪き、身動き一つ取れていない。
ただ彼女の顔を見続けたまま、一歩を踏み出す力すら脚に入らなかった。
グリュック様が、そっと俺の肩に手を置き、一枚の便箋を渡した。
「これが、レクテューレからの、最後の手紙だ」
震える手で手紙を開く。
そこには彼女の、少しだけ力の抜けた、それでも懸命に書かれた文字が並んでいた。
『愛するデンケンへ
この手紙を読んでいる時、私はもうあなたのそばにいないかもしれません。
恨んでくれてもかまわない、ごめんなさい。
ただ、あなたの輝かしい未来の邪魔にだけはなりたくなかった。
デンケン、あなたと過ごした日々は、私の人生の、その全てでした。
あなたがこの屋敷に来てくれた日、話してくれた日、笑顔を見せてくれた日、一緒に街に行った日、そして、あなたの妻になれた、あの結婚式の日。
全部、全部、私の宝物です。
あなたと出会えて、私は本当に…心の底から幸せでした。
だから、どうか、自分を責めないでください。
あなたは、私の誇りです』
「誇り」
その言葉が、鋭い刃となって俺の胸を貫いた。
俺は、お前の誇りにふさわしい男になれたのか? 違う。
俺は、お前の苦しみに気づくことすらできなかった、愚かな男だ。
『どうか、これからもあなたの道を、力強く歩んでください。
そして、時々でいいから。本当に、時々でいいから、私のことを思い出してくれたら、嬉しいです。
ずっと、あなたを愛しています。
あなたの妻、レクテューレより』
手紙が、涙で滲んで、もう読めなくなった。
「俺は……」
俺は、何一つ、彼女を守れなかった。
一番そばにいるべき時に、そばにいられなかった。
この後悔は、この痛みは、きっと一生消えることはないだろう。
あの日。
両親を失って、俺の世界は一度、音もなく灰色に染まった。
だが、レクテューレがその世界に再び色をくれた。
そして今、その彼女を失った俺の世界は。
再び灰色に戻るのではない。
色を失うことさえ許されない、光のない永遠の闇に沈んでいた。