Memento Vivereー生きる意味を忘れるなー【完結】   作:ごすろじ

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▼第二十七話▶うひょ~。

 

 

 

▶レクテューレ視点

 

 

 

暗い、暗い水の底から、急激に引き上げられるような感覚だった。

 

 

体中が鉛のように重い。

けれど、その重さはかつて私を蝕んでいた病魔の怠さとは決定的に違っていた。

それは、生きているという、肉体が持つ本来の重み。

 

 

肺が、焼けるように熱い空気を求めて痙攣する。

 

 

「……っ、ぁ……、はぁ……」

 

 

喉の奥から、掠れた音が漏れた。

 

自分の声だ。

閉じていた瞼を、恐る恐る開ける。

 

 

視界に飛び込んできたのは、天井の染みでも、見慣れた寝室のカーテンでもない。

薄暗い森の木々と、その隙間から覗く、白み始めた空。

 

 

――私、は……?

 

 

死んだはずだった。

 

お父様に、そして愛する夫に手紙を残し、最後の力を振り絞ってペンを置き、そうして意識が途切れたはずだった。

 

あの暗い眠りが、永遠の安息だと思っていた。

 

 

なのに、なぜ。

 

 

なぜ今、私の胸はこんなにも力強く高鳴っているの?

なぜ、頬を撫でる風の冷たさを感じられるの?

 

 

「……レク、テューレ……?」

 

 

震える声が、鼓膜を揺らした。

 

その声を、私は知っている。

世界で一番、愛しい人の声。

 

でも、こんなにも弱々しく、悲痛に濡れた彼の声を、私は聞いたことがなかった。

 

 

ゆっくりと、首を巡らせる。

 

視界が滲んで、よく見えない。

でも、そこにいるのが誰なのか、心が理解していた。

 

 

「……デン、ケン……?」

 

 

焦点が合う。

 

そこにいたのは、私の夫。

帝国の宮廷魔導師団にも名を連ねる、誇り高き魔法使い。

 

 

けれど、今の彼は、私の知る「頼れる軍人」の姿ではなかった。

 

 

美しい礼服は土と草にまみれ、シワだらけになっている。

 

いつも整えられていた髪は乱れ、その精悍な顔は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃに濡れていた。

まるで迷子になった子供のような、見たこともないほど無防備で、ひどい顔。

 

 

彼は私の手を、両手で包み込むように握りしめていた。

 

その手は、小刻みに、いや、激しく震えていた。

私の肌に伝わる彼の体温。

 

 

熱い。

火傷しそうなくらい、彼の体温が熱い。

 

 

「あ、ああ……。あぁ……っ」

 

 

デンケンは、言葉にならない声を漏らしながら、何度も頷いている。

信じられないものを前にして、それが現実であることを必死に確かめるように。

 

 

私は、状況が理解できなかった。

 

ここはどこなのか。

 

どうして私たちはこんな森の中にいるのか。

なぜ、死んだはずの私が呼吸をしているのか。

 

 

けれど、そんな疑問はすぐにどうでもよくなった。

 

 

目の前に、彼がいる。

 

愛するデンケンが、泣いている。

その事実だけで、私の胸は締め付けられるように痛んだ。

 

 

「デンケン……どうして、そんなに泣いているの……?」

 

 

私が手を伸ばそうとすると、彼は弾かれたように私の手を強く握り返した。

 

痛いくらいに。

でも、その痛みが、私が生きている証拠のように思えて、嬉しかった。

 

 

「……レクテューレ。……すまない。驚かせたな」

 

 

デンケンは、必死に呼吸を整えようとしていた。

 

上擦った声を喉の奥に押し込み、震える唇を噛み締め、いつもの「頼れる夫」の仮面を被ろうとしている。

でも、溢れ出る涙がそれを許さない。

 

 

「具合は……どうだ。どこか、痛むところは……ないか。寒くはないか。息は……苦しくないか」

 

 

途切れ途切れの言葉。

 

軍人として状況を確認しようとする理性と、感情の奔流が決壊した心が、彼の中でせめぎ合っているのが分かった。

 

彼は必死に、私の体の心配をしている。

自分の顔が、涙で滅茶苦茶になっていることにも気づかずに。

 

 

「……ええ。不思議なくらい、なんともないわ。痛くも、苦しくもないの」

 

 

本当に、不思議だった。

あんなに重かった体が、羽のように軽い。

 

肺いっぱいに空気を吸い込んでも、咳き込むことがない。

手足の先まで、温かい血液が巡っているのが分かる。

 

 

「そうか……。そうか……よかった……」

 

 

デンケンは、崩れ落ちるように膝をつき、私の手に額を押し付けた。

私の手の甲に、彼の熱い涙が次々と零れ落ちていく。

 

 

「よかった……っ。本当によかった……」

 

 

嗚咽が、彼の背中を揺らしている。

 

私は、戸惑いながらも、空いている片手を彼の頭に添えた。

硬い髪の感触。

 

ああ、これは夢じゃない。

幻覚でもない。

 

 

私は生きている。

そして、彼も生きている。

 

 

「あなた……」

 

「……夢だと、思った。君が死んだという知らせを聞いた時、俺の世界は終わったと思った。もう二度と、この手でお前に触れることはできないと……」

 

 

デンケンの声が、湿った土に吸い込まれていく。

 

 

「俺は……間違えたんだ」

 

 

彼が顔を上げた。

 

その瞳は、充血し、腫れ上がっている。

でも、そこには私を射抜くような、強烈な熱が宿っていた。

 

 

「俺は、ずっと間違え続けてきた。君を守るために、お前に相応しい男になるために、力や地位を求めた。それが正しい道だと信じていた。だが……それは間違いだった。大間違いだったんだ」

 

 

デンケンが、私の手を離し、今度は私の頬を両手で包み込んだ。

震える指先が、私の肌の感触を確かめるように、愛おしむように撫でる。

 

 

「君を一人にして、寂しい思いをさせて……病に気づくことさえできず、死に目にも会えない。そんなものが……そんなものが、何の成功だと言うんだ……ッ!」

 

 

彼の叫びが、森に響いた。

それは、彼がずっと心の奥底に押し込めていた、後悔の叫びだった。

 

 

「……デンケン、ごめんなさい」

 

 

私も、涙が溢れてきた。

 

彼の苦しみを、知っていたはずなのに。

彼がどれほど私を想い、そのためにどれほど無理を重ねてきたかを知っていたはずなのに。

 

 

私は、彼のためにと自分を納得させて、彼を遠ざけた。

自分の死にゆく姿を見せたくないという、私の弱さが、彼を追い詰めていたのだ。

 

 

「私も、間違っていたわ……。あなたの重荷になりたくなくて、あなたの未来を邪魔したくなくて……本当のことを隠していた。平気なふりをしていた。それが、あなたへの愛だと思っていたの」

 

 

過去の記憶が走馬灯のように蘇る。

 

帝都へ送り出した日。

笑顔で手を振った日。

手紙に綴った、数え切れないほどの「大丈夫」という嘘。

 

 

お互いがお互いを想うあまり、私たちは一番大切なものを見失っていた。

一緒にいること。

 

ただ手を取り合い、同じ時間を生きること。

 

それこそが、私たちが最初に誓った幸せだったはずなのに。

 

 

「……レクテューレ」

 

 

デンケンの顔が近づく。

 

彼の瞳に、私の顔が映っている。

 

泣き顔で、ひどい顔だ。

でも、彼はそんな私を、まるでこの世で一番美しいものを見るように見つめている。

 

 

「もう一度、やり直させてくれないか」

 

 

彼の声は、祈るようだった。

 

 

「俺はもう、迷わない。地位も、名誉も、そんなものはどうでもいい。ただ、お前が生きている。お前がここにいる。それだけでいいんだ」

 

 

デンケンの涙が、私の頬に落ちて、私の涙と混じり合う。

 

 

「この命が尽きるまで、片時も離れない。二度と、お前を一人にはしない。俺の人生の全てを懸けて……今度こそ、お前を守り抜く」

 

 

静かで、けれどマグマのように熱い、魂からの誓い。

軍人としての誇りでも、魔法使いとしての矜持でもない。

 

ただ一人の男としての、剥き出しの愛。

 

 

それが、嬉しかった。

死の淵から戻ってきた私を、こんなにも強く、深く求めてくれる人がいる。

 

 

「……ええ。私もよ、デンケン」

 

 

私は、彼の首に腕を回した。

 

痩せ細っていた腕に、力が戻っている。

彼を抱きしめる力が、私にはある。

 

 

「もう、あなたを一人にはしない。あなたの背中を見送るだけの毎日は、もう嫌。これからは、あなたの隣を歩きたい。あなたの喜びも、悲しみも、苦しみも、全部、一番近くで分かち合いたい」

 

「ああ……ああ……ッ」

 

 

デンケンが、私をきつく抱きしめた。

 

骨が軋むほどに強く。

まるで、二度と離さないと身体に刻み込むかのように。

 

 

互いの心臓の音が聞こえる。

トクン、トクンと、二つの命が重なり合って、リズムを刻んでいる。

 

生きている。

私たちは、今、ここで、共に生きている。

 

 

しばらくの間、私たちは言葉もなく、ただ互いの体温を確かめ合い、泣きじゃくっていた。

 

軍人として常に己を律してきた彼が、子供のように泣きじゃくる姿。

それを見ても、幻滅などするはずがない。

 

むしろ、その涙の一滴一滴が、彼が私に向けてくれる愛の深さなのだと思うと、愛おしさで胸が張り裂けそうだった。

 

 

やがて、森に朝の光が差し込んできた。

私たちは体を離し、見つめ合った。

 

お互いに目は赤く腫れ、顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。

きっと、今の私たちは、誰が見ても滑稽で、ひどい顔をしているだろう。

 

 

ふと、デンケンが小さく笑った。

 

 

「……ひどい顔だな、俺たちは」

 

「ふふ、本当ね。あなた、軍人としての威厳が台無しよ」

 

「構わない。君の前で、威厳など必要ない」

 

 

デンケンは、ポケットから何かを取り出した。

 

それは、銀のペンダントだった。

小さな青い石が埋め込まれた、あの護符。

 

私が死ぬまで、肌身離さず持っていたはずのもの。

 

 

「これは……」

 

「君が、握りしめていたものだ」

 

 

デンケンは、そのペンダントを愛おしそうに撫でた。

 

 

「俺は、このペンダントに魔法を込めた時、離れていても守れると信じていた。だが、それは傲慢だった。物は、物でしかない。温もりを伝えることも、涙を拭うこともできない」

 

 

彼は、ペンダントの鎖を解き、私の首に手を回した。

 

 

「だが、今は違う。これは、誓いの証だ」

 

 

カチリ、と留め具がはまる音がした。

冷たい金属が、温かさを取り戻した私の胸元に触れる。

 

 

「俺はもう、決して間違えないと。生きる意味を、二度と見失わないと」

 

 

デンケンの指先が、私の鎖骨をなぞる。

 

 

「俺の生きる意味は、宮廷での栄達でも、魔法の探求でもない。ただ、レクテューレ……君と共に生きることだ」

 

「デンケン……」

 

 

彼の瞳に、新しい光が宿っていた。

それは、かつて復讐に燃えていた頃の暗い炎でも、野心に燃えていた頃の鋭い光でもない。

 

もっと穏やかで、揺るぎない、あたたかな灯火。

私を照らし、導いてくれる、希望の光。

 

 

「私も、誓うわ。この命ある限り、あなたを愛し、支え、共に生きていくことを。もう二度と、一人で抱え込んだりしない。辛い時は辛いと、寂しい時は寂しいと、あなたに伝えるわ」

 

「ああ。そうしてくれ。俺の全てで、それを受け止める」

 

 

デンケンの顔が、ゆっくりと近づいてくる。

朝日に照らされた彼の顔は、涙の跡が残っていても、世界で一番素敵だった。

 

私は目を閉じた。

 

唇が触れ合う。

それは、結婚式の時の誓いのキスよりも、ずっと深く、ずっと熱く、そして優しい口づけだった。

 

互いの息遣い、唇の柔らかさ、そして溢れる愛おしさ。

その全てが、私たちが「生きている」という奇跡を祝福していた。

 

口づけの合間に、彼が何度も私の名前を呼ぶ。

 

 

「レクテューレ……愛している……」

 

「私も……愛してる、デンケン」

 

 

 

 

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