Memento Vivereー生きる意味を忘れるなー【完結】 作:ごすろじ
朝日が二人を包み込む中、森の奥からぬっと巨大な影が差した。
デンケンは反射的にレクテューレを背に庇い、杖を構える。
死の淵から戻ったばかりの妻に、これ以上の脅威を近づけさせまいとする気迫が全身から迸る。
だが、その影の正体が、先ほど蘇生の儀式を執り行った異形の魔物――アインザームだと気づくと、彼はすぐに杖を下ろし、バツが悪そうに頭を下げた。
「……すまない」
『頭を下げる必要はない。愛する者を守ろうとする気概は称賛に値する。恥じ入るべきものではない』
アインザームの腕の中には、泥のように眠るフルーフが抱えられている。
その姿は、先ほどの狂気じみた術師としての威圧感はなく、ただの疲れ切った人間のようだった。
アインザームの空洞の眼窩には、ゆらりとした夕焼け色の炎が灯っている。
常人であれば悲鳴を上げ、腰を抜かすほどの異形。
だが、レクテューレはその姿を見ても、顔色一つ変えなかった。
深窓の令嬢でありながら、怯える素振りすら見せない彼女に、アインザームは不可解そうに霧を揺らした。
『汝、恐れがないな。 私のような異形を前にして』
「恐れ?いいえ、ちっとも」
レクテューレは微笑み、アインザームの瞳を見つめ返した。
「だって、貴方のその瞳の光……とても優しくて、温かい色をしているもの」
『…………ふむ』
アインザームは一瞬、虚を突かれたように動きを止めた。
そして、その厳格な声音に、隠しきれない喜びと誇らしさを滲ませた。
『……そうか。この瞳は、亡き妻から貰ったものだ。彼女が遺してくれた、私の自慢だ』
「まあ……。きっと、とても素敵な奥様だったのですね」
「レクテューレ……」
デンケンは、妻の順応性の高さに驚きつつも、今の状況を整理しようと口を開いた。
「俺は、悪魔と取引をした。君の命を救う代わりに、俺の生涯を対価として差し出すと」
レクテューレが、不安げにアインザームを見る。
その視線は、「あなたが悪魔なのですか?」と問うているようだった。
アインザームは静かに首を横に振り、腕の中に抱えている眠りこけたフルーフを顎で示した。
『悪魔を気取っているのは、こっちだ』
アインザームは近くに停めてあった馬車を指し示すと、二人を促した。
『まずは、乗りなさい。そこで話を進めよう』
言われるがままに、デンケンとレクテューレは馬車へと乗り込む。
アインザームはフルーフを向かいの座席に丁寧に、まるで壊れ物を扱うかのように寝かせると、自らは御者台へと座った。
手綱を握るアインザームの手によって、馬車がゆっくりと動き出す。
車輪が土を踏む音と、馬の蹄の音だけが響く中、霧を伝ってアインザームの声が、馬車の中の二人に直接届いた。
『身構える必要はない。汝も薄々勘づいているだろうが……フルーフは悪魔でもなんでもない。ただの人間だ。少々、露悪趣味が行き過ぎているがな』
「人間……? あれほどの魔法を行使して、か?」
デンケンが、目の前で無防備に寝息を立てているフルーフを見つめながら問う。
『種族としては、間違いなく人間だ。……フルーフが汝に「悪魔」として契約を迫ったのは、単なる気まぐれではな……いや、すまない、大部分は気まぐれやもしれん。だが、フルーフが要求する対価は……時として常人には理解し難く、重い覚悟を要するものだ』
霧の声が、諭すように響く。
『金銭や物品で済む話なら良い。だが、フルーフが求めるものは、時に人生そのものを変えるような選択を強いる。だからこそ、汝の覚悟の程を問うたのだ。悪魔に魂を売るほどの覚悟をな』
デンケンは、レクテューレの手を強く握りしめた。
覚悟なら、とっくにできている。
『だが、安心しろ』
アインザームの声に、ふと温かい響きが混じった。
『フルーフは、基本的に身内に甘い。どうしようもないほどのお人好しだ。自ら進んで悪行を行うような真似は決してしない』
馬車がガタりと揺れる。
フルーフの体が傾きそうになるのを、レクテューレがそっと支えた。
『汝らに、無意味な殺戮や、人道に悖るような無茶振りを強要することは決してないだろう。私が保証する』
「そう、か……」
デンケンは安堵の息をついた。
フルーフの寝顔は、悪魔と呼ぶにはあまりにも無防備で、どこか間の抜けた穏やかさがあった。
『フルーフは、何かに必死な人間をなんだかんだと無碍にはできない性分なのだ。……私や、私の妻がそうであったようにな』
霧の向こうで、アインザームが微かに笑った気配がした。
『暫くは山道のが続く。身体と頭ぶつけないよう注意しておきなさい』
見渡す限り木々に囲まれた茂み道。
朝日に照らされた道の上を、馬車は静かに、しかし力強く進んでいく。