Memento Vivereー生きる意味を忘れるなー【完結】 作:ごすろじ
▶マハト視点
グリュックの執務室で、ヴァイゼ周辺の魔族の動向について定例の報告を終えた後、実に興味深い命令を受けた。
「マハト、デンケンに魔法を教えてやってくれ。気も紛れる」
あの心を閉ざした少年に、魔法を。
なるほど、生きる目的を与えるというわけか。
人間らしい、実に情緒的な発想だ。
「それは命令ですか?」
形式的な確認。
グリュックとの間では、こうした儀礼的なやり取りも必要だ。
彼はこれらの行為を通し、人間社会の機微というものをより深く私に教えようとしている。
「命令だ」
私は静かに片膝をつき、家臣の礼を取った。
「仰せの通りに」
デンケンの部屋へ向かう途中、ちょうどレクテューレが厨房から出てくるところに出くわした。
その手には、また食事のトレーが乗っている。
「マハト」
彼女は私を呼び捨てにする。
当然だ。彼女は主人の娘であり、私はヴァイゼに仕える魔族に過ぎない。
「これからデンケンの部屋へ?」
「はい、お嬢様。グリュック様の命により、デンケン様に魔法を教えることになりました」
その言葉に、レクテューレの表情が複雑に揺れた。
喜びと、心配が混じったような、人間特有の不可解な表情。
「デンケンは……魔族を憎んでいるわ」
「承知しております」
「大丈夫なの?」
この少女は、魔族である私の身を案じている。
悪意も罪悪感も持たない私を、一個の存在として心配している。
実に奇妙で、興味深い感覚だ。
「問題ありません。それでは、失礼いたします」
デンケンの部屋の前に立ち、扉をノックする。
「デンケン様。グリュック様の命により、参上いたしました」
やがて、扉がゆっくりと開いた。
初めて間近で見る少年は、噂に違わず生気を失った目をしていた。
だが、その瞳の奥に、チリチリと燃える微かな炎が見える。
憎悪という名の、上質な記号が。
私は少年と目線を合わせるため、その場に膝をついた。
「お初にお目にかかります。私はグリュック家の魔法指南役、マハトとです」
少年は私を値踏みするような目で、頭のてっぺんから爪先まで観察した。
「……知っている。ヴァイゼに攻め込んできた魔族を倒したのはお前だろう」
ほう。使用人から聞いたか、あるいは自ら書庫で調べたか。
どちらにせよ、行動力はあるらしい。
「貴方に魔法を教えるようにとグリュック様から仰せつかりました」
「俺はお前を信用していない。俺の両親は魔族に殺されたからな」
剥き出しの敵意。
隠そうともしない憎悪。むしろ好ましい。
「それでこそ魔法の教えがいがあります」
少年の目が、わずかに細められた。
「お前は強いのか?」
「ええ。七崩賢の中で最も」
「お前を殺せる程俺は強くなれるか?」
この少年は、俺を殺すために魔法を学ぼうというのか。
それとも言葉通りの目指すべき力量としての意味か。
どちらにせよ、魔族である俺から魔法を学ぶ気概はあるようだ。
その矛盾に満ちた在り方こそ、人間という種族の本質なのかもしれない。
「それは、デンケン様次第かと」
数日後。訓練場でデンケンに一般攻撃魔法を教えていた。
グリュックの提案通り、まずは基本からだ。
「魔力を体内で練り上げ、一点に集中させる。そして、殺意のイメージを乗せて解放する」
遠距離の岩盤を撃ち抜く訓練。
魔法の射程距離ほど、簡単に魔法使いの技量を推し量れる指標もない。
デンケンの魔法は湖を跨いだ岩盤に届くこと無く消えていく。
「休憩にしましょう。集中力が乱れています。焦らずとも、あの距離の岩を撃ち抜くのは魔族でも難しい」
俺の言葉を無視し、デンケンは魔力を収束させ再び魔法を放つ。
だが今度は先程とは違う。
デンケンは、驚くべき集中力で魔力を操ってみせた。
憎悪がこれほど効率的に魔力を増幅させるのか。
人間という生き物は、どこまでも不可解で面白い。
彼が放った魔法の光が、遥か先の岩盤を正確に撃ち抜いた。
「……ほう」
思わず、感嘆の声が漏れた。
通常、人間がこれほどの威力を安定して出すには数週間はかかる。
「……ああ。休憩にしようか」
額の汗を拭いながらデンケンが呟いた。
ちょうどその時、馬車の音が近づいてくるのが聞こえた。
レクテューレだった。大きなバスケットを抱え、こちらに手を振っている。
「お疲れ様。お昼ご飯、持ってきたわ」
▶デンケン視点
レクテューレが木陰に広げたクロスの上には、色とりどりのサンドイッチや果物が並んでいた。
その鮮やかな色彩が、俺の灰色の世界では、ひどく場違いに見えた。
「全部自分で作ったのか?」
「サンドイッチは私。焼き菓子は侍女のマリアが手伝ってくれたの」
訓練で空腹だったせいか、腹の虫が盛大に鳴った。
レクテューレがくすりと笑う。
その無垢な笑い声が、憎虚無と憎悪で満たされた俺の胸に小さく突き刺さる。
少しだけ、気まずくて…何故か気恥ずかしくもなった。
「たくさん食べて。魔法の訓練って、すごく体力を使うんでしょう?」
サンドイッチを頬張る。
パンの柔らかさ、野菜の瑞々しさ、ハムの塩気。
素直に美味いと思った。この胸に巣食う鬱屈とした感情を忘れるほどに。
「……美味い」
「本当? よかった!」
レクテューレの笑顔は、まるで生まれたての太陽のように眩しかった。
ただ「美味い」と言っただけなのに、彼女は世界の全てを祝福するように笑う。
そのあまりの純粋さが、俺の汚れた心を浮き彫りにする。
憎い魔族という種に師事し、復讐のためだけに力を求める自分の醜さ。
彼女の屈託のない光に照らされるたび、俺は魔族に殺された両親への罪悪感に苛まれてしまう。
少し離れた場所で、グリュック様とマハトが何か話している。
時折こちらに視線を向けているが、内容は聞こえない。
あの魔族は…今、俺を見て何を考えているのだろう。
「ねえ、デンケン」
「ん?」
「魔法、楽しい?」
楽しい、か。
考えたこともなかった。
魔族を殺すための力。
両親の仇を討つための手段。
それが、楽しいはずがない。
そうでなければならない。
「……分からない。でも、無力じゃなくなる気はする」
あの日、何もできずに立ち尽くしていただけの弱い俺ではなくなる。
そのためなら、俺は悪魔にだって魂を売る。
その答えに、レクテューレは少し悲しそうな顔をした。
「そっか。でも、いつか楽しいって思える日が来るといいな」
なぜか…その言葉が、ずっと心に引っかかっる。
楽しい、なんて感情、俺はもうとっくに灰の中へ置いてきたはずなのに。
▶グリュック視点
訓練場を見下ろせるテラスで、マハトと共に若い二人を眺めていた。
「熱心だな。実にいいことだ」
「デンケン様は私のことを信用していないそうです」
マハトの淡々とした報告に、私は苦笑した。
「そうでなければ親戚の子供を君に紹介したりはしない。君は人を欺くのが上手いからな」
皮肉を込めて言うが、マハトは表情一つ変えない。
こいつの読めないところは好ましくもあり、不気味でもある。
「人には生きる目標がいる」
私は続けた。
「それがたとえ、復讐心であったとしてもな」
「……」
「悲しい顔をして祈り続けるよりはずっと健全だ」
あの子の心を生かすためには、猛毒でさえ薬になる。
今は、それでいい。
ちょうどその時、レクテューレの作ったサンドイッチを食べたデンケンが、ほんのかすかに、本当に微かにだが、頬を緩めたのが見えた。
「まさか、あの子の笑顔をまた見られる日が来るとはな……」
感慨深い。
あの虚ろな目をしていた少年が、少しずつ人間らしさを取り戻している。
全ては、我が娘の、あの底抜けの優しさのおかげか。
「君はあの子の師であり、打ち倒すべき敵だ。そうあり続けてくれ」
「御意のままに」
マハトが恭しく頭を下げた後、ふと、突拍子もないことを口にした。
「……ところでお嬢様はデンケン様を好いておられるのですか?」
思わず、飲んでいた紅茶を吹き出しそうになった。
「レクテューレが?そんな訳ないだろう。やはり君は人の考えが分かっていないな」
そう一蹴したものの、改めて二人を見ると、確かにレクテューレのデンケンに向ける眼差しは、特別な熱を帯びているような……。
いや、まさか。まだ子供だ。
ただの、兄妹のようなものだろう。そうに違いない。