Memento Vivereー生きる意味を忘れるなー【完結】 作:ごすろじ
▶レクテューレ視点
デンケンが魔法の訓練を始めてから、季節が何度も巡った。
毎日、朝早くから夕暮れまで訓練場でマハトと向き合う彼の姿を、私は屋敷の窓から眺めるのが日課になっていた。
最初はただ痛々しく、危うげに見えた彼の背中が、少しずつ、けれど確実に変わっていくのが分かった。
魔法を練り上げる時の、射るような真剣な顔。
狙い通りに魔法が成功した時に、ほんの一瞬だけ見せる達成感に満ちた顔。
そして時々、本当に時々だけど、新しい理論を理解した時に見せる、子供のような楽しそうな顔。
その表情の変化を見つけるたびに、私の心は温かくなった。
弟の成長を見守る姉のような、そんな気持ち。そう、最初はそうだったはずなのに。
今日も昼食のバスケットを手に訓練場へと向かう。
中身はもちろん、デンケンが「美味い」と全部平らげてくれたサンドイッチ。
今日はハムとチーズ、香辛料の組み合わせにしてみた。
彼の好物を、一つでも多く知りたい。その想いが、いつからか私の日常の中心になっていた。
「お疲れ様」
訓練場に着くと、ちょうどデンケンが魔法を放ったところだった。
以前よりも格段に太くなった青白い光が、唸りを上げて一直線に飛び、標的の岩を粉々に砕く。
「すごい。昨年よりずっと威力が上がったように見えるわ」
「……そうか?」
汗を滴らせながら振り返るデンケン。
その顔が、少し赤い。
きっと、激しい訓練の後だからだろう。そう思うことにした。
「今日は何を持ってきたんだ?」
「ふふ、秘密。食べてからのお楽しみ」
木陰にいつものクロスを広げ、バスケットを開ける。
デンケンがごく自然に私の隣に腰を下ろす。
最初の頃は、いつも少し距離を取って座っていたのに。
その小さな変化が嬉しくて、つい笑みがこぼれてしまう。
「何がそんなに嬉しいんだ」
「え? あ、ううん、何でもないの」
慌てて誤魔化すが、デンケンは不思議そうな顔でこちらを見ている。
サンドイッチを渡すと、彼は大きな口で一口かじった。
「今日のは……ハムとチーズ、マスタードパウダーか」
「正解。どう? 美味しい?」
「ああ、美味い」
その言葉を聞くたびに、胸の奥がぽかぽかと温かくなる。
――なぜだろう。
ただ「美味しい」と言ってもらえるだけで、こんなにも幸せな気持ちになるなんて、知らなかった。
「レクテューレは料理が上手いな」
突然の、あまりにも真っ直ぐな褒め言葉に、顔がカッと熱くなった。
「そ、そんなことないわ。 まだまだ練習中よ」
「いや、前から言おうと思っていた…本当に美味い。……母さんの料理を、思い出す」
一瞬、彼の表情が曇った。
踏み込みすぎた。
彼の心の傷に触れてしまった、と後悔がよぎる。
でも、デンケンは俯くことなく続けた。
「母さんも、よくサンドイッチを作ってくれたんだ。俺が魔法使いの本ばかり読んでると、『ちゃんと食べなさい』って言いながら」
初めて聞く、彼の家族の話。
私はただ、黙って耳を傾けていた。
「父さんは魔法使いじゃなかったけど、俺の夢を応援してくれてた。『お前ならきっと、立派な魔法使いになれる』って、いつも言ってくれてたんだ」
「……きっとなれるわ」
思わず、そう言っていた。デンケンが私を見る。
「デンケンなら、お父様が誇りに思うような、立派な魔法使いにきっとなれる」
「……そうか」
「そうよ。だって、こんなに、こんなに頑張っているもの」
風が吹き、デンケンの汗で濡れた髪が揺れた。
その真剣な横顔を見つめていると、なぜか胸がドキドキと音を立て始める。
弟を見守る時の温かさとは違う、もっと熱くて、少しだけ切ない痛み。
この温かい痛みは、一体何なのだろう。
▶デンケン視点
午後の訓練で、初めてマハトの多重防御魔法を破ることができた。
「見事です、デンケン様」
マハトが満足そうに頷く。
手加減しているのだろうが、こいつの防御を破れたことが素直に嬉しかった。
いや、違う。
嬉しい、だと? この感情は何だ。
これは、魔族を倒すための力が、また一つ俺の身についたという、復讐への確かな一歩。
そうだ、そうに決まっている。なのに、なぜ胸の奥がこんなにも高揚する?
「今日はここまでにしましょう」
混乱する思考を振り払うように、俺は訓練を終えた。
屋敷に戻ると、レクテューレが玄関ホールで待っていた。
いつからか、これが当たり前の光景になっていた。
「お帰りなさい。今日の訓練はどうだった?」
「……マハトの防御を破れた」
「本当!? すごいわ、デンケン」
まるで自分のことのように、飛び上がって喜ぶレクテューレ。
大げさだ、と思いながらも、その笑顔を見ると、俺の心にも温かいものが広がっていく。
悪い気はしなかった。
「汗だくじゃない。お風呂の準備はできているわよ」
「ああ、ありがとう」
風呂から上がると、部屋の前にレクテューレがいた。
その手には、古びた羊皮紙の本が抱えられている。
「これ、お父様の書斎で見つけたの。古い魔法の本だけど、きっとあなたの役に立つと思って」
受け取ると、かなり高度な魔力循環に関する理論書だった。
「こんな難しい本、よく見つけたな」
「探したの。デンケンの力になれそうなものを、一生懸命」
まただ。
胸の奥が熱くなる。
なぜ、レクチューレはこんなにも俺のことを考えてくれるのだろう。
俺はまだ、彼女に何も返せていないのに。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
レクテューレが柔らかく微笑む。
その笑顔を見ていると、心が不思議と穏やかになる。
この感覚は一体なんなんだ。
「あのね、デンケン」
「ん?」
「今度の休みの日、一緒に街に行かない?」
突然の提案に、少し戸惑った。
「街に?」
「ええ。ずっと屋敷と訓練場の往復でしょう? たまには気分転換も必要よ」
「だが、俺は……」
「お願い。私、あなたと一緒に行きたいの」
上目遣いで見つめられて、断る言葉が見つからなかった。
この瞳に、俺は弱い。
「……分かった」
「本当!? やった、約束よ」
嬉しそうに両手を叩くレクテューレ。
その無邪気な様子に俺はつい、口元が緩んでしまうのを止められなかった。
その夜、ベッドに入ってからも、レクテューレの笑顔が頭から離れなかった。
最近、よく彼女のことを考えている。
訓練中も、食事中も、ふとした瞬間に彼女の顔が浮かんでくる。
この胸を締め付けるような、それでいて温かい感覚は、一体何なんだ。
憎しみとは全く違う、この感情の名前を、俺はまだ知らなかった。
▶マハト視点
夜、グリュックの執務室で定例報告を行っていた。
「デンケン様の上達は目覚ましいものがあります。才能もさることながら、努力を惜しまない。そして何より、以前のような憎悪一辺倒ではなくなりました。魔法のイメージがより柔軟になったのがその証左かと」
「そうか。それは何よりだ」
グリュックが満足そうに、葉巻に火を灯し口につける。
「最近は、純粋に魔法の探求を楽しんでいる節すら見受けられます」
最初は魔族を殺すためだけに魔法を学んでいた少年が、今では魔法そのものの深淵に興味を持ち始めている。
彼の瞳から、憎悪とは別の輝きが見えるようになった。
「レクテューレのおかげかもしれんな」
グリュックが窓の外の月を見上げながら言った。
「お嬢様の?」
「あの子は毎日デンケンの様子を見に行く。昼食を作り、夜には本を探し出し、何かと世話を焼いているからな」
「確かに、お嬢様の献身は目を見張るものがあります」
「ただの世話焼きとは、少し違う気がするがな」
グリュックの言葉の意味を測りかねて、私は黙った。
人間の親子関係もまた、複雑で理解しがたい。
「まあ、若い二人のことだ。我々は見守ってやるとしよう」
ちょうどその時、廊下から軽やかな足音が聞こえてきた。レクテューレだ。
「お父様、まだ起きていらしたの?」
「ああ、マハトと少し話をしていてな」
執務室に入ってきたレクテューレの頬が、なぜか上気している。
「どうした? 顔が赤いぞ」
「えっ? そ、そんなことないわ」
慌てて両手で頬を隠す様子が、実に分かりやすい。
人間という生き物は、感情を隠すのが本当に下手だ。
「あのお父様。今度の休みの日、デンケンと街に出かけてもよろしいでしょうか?」
「ほう、デンケンと?」
「ええ。気分転換も必要かと思いまして。ずっと訓練ばかりでは、疲れてしまうでしょう?」
必死に理由を並べ立てるレクテューレに、グリュックは楽しそうに目を細めた。
「構わんよ。ただし、護衛は付けるがな」
「ありがとうございます、お父様!」
嬉しそうに一礼し、部屋を出ていくレクテューレ。
その後ろ姿を見送りながら、グリュックが肩をすくめながら、楽しげに呟いた。
「やはり、ただの世話焼きではなさそうだ」
デンケンの変化の要因は憎悪の昇華だけではない。
レクテューレという存在が、彼の内に新たな感情を芽生えさせている。
実に興味深い。
この二人の関係が、今後どのような変化を遂げるのか。
観察を続ける価値はありそうだ。