Memento Vivereー生きる意味を忘れるなー【完結】   作:ごすろじ

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▼第五話▶お出掛けの日

 

 

▶レクテューレ視点

 

 

 

約束の日の朝、私は自分の部屋の鏡の前で小一時間も格闘していた。

 

 

「お嬢様、そろそろお時間ですよ」

 

 

マリアに呆れ顔で急かされて、ようやく心を決めた。

普段より少しだけ上等な、空色のワンピース。

髪も、いつもより時間をかけて丁寧に編み込んでもらった。

 

 

なぜ、こんなに緊張しているのだろう。

 

ただ、デンケンと一緒に街へ行くだけなのに。

弟を連れて行くような、そんな気軽な気持ちではいられない自分に戸惑っていた。

 

 

「デンケン、準備できた?」

 

 

彼の部屋の扉をノックすると、すぐに扉が開いた。

 

 

「ああ。待たせたか?」

 

「ううん、私も今来たところだから」

 

 

そこにいたのは、いつもと違うデンケンだった。

よれた訓練着ではなく、仕立ての良いシャツとズボンに身を包んでいる。

無造作だった髪もきちんと整えられ、モノクルが似合う、少し大人びて見えるその姿に、思わず心臓が跳ねた。

 

 

「どうかしたか?」

 

「え? あ、ううん その服、とても似合ってるわ」

 

「……そうか」

 

 

少し照れたように視線を逸らすデンケン。

その表情が、なぜだかとても愛おしく思えて――愛おしい? 私、今、デンケンを?

 

 

顔に集まる熱を感じながら、私はそれを振り払うように先に歩き出した。

 

 

「さあ、行きましょう!」

 

 

ヴァイゼの街は、生命力に満ちた活気に溢れていた。

市場では商人たちが声を張り上げ、香辛料の刺激的な香りが鼻をくすぐる。

 

石畳の道を、洗濯物を抱えた女たちが笑いながら駆け抜け、子供たちが甲高い声を上げて追いかけっこをしていた。

 

その喧騒の全てが、灰色だった彼の世界を塗り替えていくようで、私は嬉しくなった。

 

 

「……人が、多いな」

 

 

デンケンが少し戸惑ったように呟いた。人混みに慣れていないのだろう。

 

 

「大丈夫?」

 

「ああ。ただ……久しぶりだから」

 

 

そうか。

彼にとって、あの日以来、初めての街歩きなのかもしれない。

そう思うと、胸が少し痛んだ。

 

この賑やかな世界で、彼が再び孤独を感じてしまわないように。

 

 

「手、繋ぐ? はぐれないように」

 

 

自分でも驚くほど自然に、そう言って手を差し出した。

これは姉としての親切心。そう、自分に言い聞かせて。

 

 

デンケンは一瞬、目を見開いて驚いたような顔をしたが、やがておずおずと、私の手で私の手を握り返してくれた。

 

 

温かい。

訓練で少し硬くなった、男の子の手。

思ったよりも大きくて、ごつごつしていて、でも、とても温かかった。

 

その温もりが伝わってきた瞬間、周りの喧騒がふっと遠のき、世界に、私と彼しかいないような…不思議な静けさに包まれた。

 

 

「どこに行きたい?」

 

「レクテューレの行きたいところでいい」

 

「じゃあ、本屋さんに行きましょう。 きっとデンケンが好きそうな魔法の本も、たくさんあるわよ」

 

 

繋いだ手を引いて、人混みの中を歩く。

 

周りの人たちが、微笑ましそうな視線を向けているのが分かったけれど、今は気にしないことにした。

今、この繋がれた手の温かさだけが、私の世界の全てだった。

 

 

本屋では、デンケンが子供のように目を輝かせて魔法書を物色していた。

 

 

「これは……かなり高度な防御魔法の理論書だな」

 

「読めそう?」

 

「多分。マハトの説明と照らし合わせれば理解できるはずだ」

 

 

魔法の話をしている時の彼は、本当に生き生きしている。

 

その真剣な横顔を眺めているだけで、私の心まで温かくなる。

守ってあげたい弟、というだけではない。

 

支えたい、隣でその成長を見届けたい、と強く思う。

 

 

「レクテューレは魔法に興味はないのか?」

 

 

突然、真剣な眼差しでそう尋ねられ、少し驚いた。

 

 

「興味はあるけれど……残念ながら、私には才能がないみたい」

 

「そんなことはない。良かったら、今度俺が教えてやろうか?」

 

「え? 本当に?」

 

「ああ。レクテューレにはいつも世話になっているからな。その礼だ」

 

お礼、か。

ほんの少しだけ胸がちくりとしたけれど、でもそれ以上に、彼の申し出が嬉しかった。

彼と共有できる時間が、また一つ増えるのだから。

 

 

「じゃあ、お願いします、先生」

 

「やめてくれ……」

 

 

心底困ったような顔をするデンケンが面白くて、私はつい、声を上げて笑ってしまった。

 

 

本屋を出ると、どこからか軽やかな音楽が聞こえてきた。

 

「あら、何かしら」

 

音のする方へ歩いていくと、小さな広場で旅の楽師たちが演奏をしていた。

リュートとフルートの柔らかな音色が、午後の陽光の中に溶けていく。

 

広場の中央では、何組かの男女が楽しそうに踊っている。

 

 

「素敵ね……」

 

 

思わず足を止めて見入ってしまった。

くるくると回る女性たちのスカート、それを支える男性たちの力強い腕。

 

皆、とても幸せそうだ。

 

ふと、隣のデンケンを見上げる。

彼は少し居心地悪そうに、踊る人々を眺めていた。

 

 

「デンケン」

 

「ん?」

 

「踊ってみない?」

 

 

彼の顔が、面白いくらいに強張った。

 

 

「……は?」

 

「ダンス。一緒に踊りましょう」

 

「いや、俺は踊りなど習ったことが……」

 

「私が教えてあげるわ。ほら」

 

返事を待たずに、彼の手を取って広場の端へと引っ張っていく。

 

「おい、レクテューレ……!」

 

「大丈夫よ。簡単なステップだけだから」

 

 

戸惑うデンケンの手を自分の腰に導き、私は彼の肩にそっと手を置いた。

繋いだ手のひらが、少しだけ汗ばんでいる。

 

緊張しているのが伝わってきて、なんだか可笑しくなった。

 

 

「まず、右足から。私に合わせて」

 

「こ、こうか?」

 

「そう、上手よ。次は左」

 

 

ぎこちない。

本当に、驚くほどぎこちない。

 

 

魔法の訓練では機敏な動きを見せる彼が、こんな簡単なステップでつまずきそうになっている。

その意外な一面が、たまらなく愛おしかった。

 

 

「っ、すまない、足を……」

 

「大丈夫、踏まれてないわ」

 

 

何度か足がもつれそうになりながらも、少しずつ、少しずつ、二人の動きが音楽に馴染んでいく。

 

 

「……意外と、難しいものだな」

 

「ふふ、魔法より?」

 

「比べものにならない。魔法の方がずっと簡単だ」

 

 

真剣な顔でそう言うデンケンに、思わず声を上げて笑ってしまった。

 

 

「笑うな」

 

「ごめんなさい。でも、デンケンがそんな顔をするなんて思わなくて」

 

 

周囲で踊る人々の中で、私たちは明らかに一番下手だっただろう。

でも、そんなことはどうでもよかった。

 

繋いだ手の温かさ。

腰に添えられた手のぎこちない力加減。

 

真剣な顔で足元を気にする彼の横顔。

 

その全てが、私の宝物になっていく。

 

 

「レクテューレ」

 

「なあに?」

 

「……俺は」

 

 

曲が変わり、少しゆったりとした旋律が流れ始めた。

 

 

「俺は、こういうのは得意ではないが」

 

「うん」

 

「……悪くない、と思っている」

 

その言葉に、心臓が大きく跳ねた。

 

「私もよ」

 

 

自然と、二人の距離が近づいていく。

 

彼の胸に頬を寄せると、心臓の音が聞こえた。

少し速い、彼の鼓動。

 

私と同じくらい、緊張しているのだろうか。

 

 

「また、踊ってくれる?」

 

「……考えておく」

 

「約束よ?」

 

「だから、考えておくと……」

 

「約束」

 

「……分かった。約束だ」

 

 

音楽が終わるまで、私たちはそのまま揺れ続けた。

 

きっとこの先も、こうして二人で踊る日が来る。 もっと上手になった彼と、笑いながらステップを踏む日が。

 

そう、信じて疑わなかった。

 

 

 

 

 

▶デンケン視点

 

 

 

昼食は、レクテューレが「絶対に美味しいから」と太鼓判を押す店で取った。

 

 

「ここのシチュー、絶品なのよ」

 

 

シチュー。

その言葉に、一瞬、胸の奥が冷たくなる。

 

 

母さんの温かい笑顔と、家の暖炉の匂い。

失われた幸せの象徴。

 

だが、レクテューレの期待に満ちたキラキラした瞳を見て、俺は心の壁の内側でそっと息を呑んだ。

断ることはできなかった。

 

 

運ばれてきたシチューは、確かに絶品だった。

母さんの作った、家庭的な温かい味とは違う。

 

何種類もの野菜と肉が丁寧に煮込まれた、深みのある味だ。

 

 

これもまた美味い。

 

一口、また一口とスプーンを進めるうちに、過去の記憶を塗り替えるように、新しい温かい記憶が心に染み込んでいくのを感じた。

これはレクテューレと共に味わうことでしか得られない、温かい味だ。

 

 

「どう?」

 

「あぁ……美味い」

 

「よかった!」

 

 

彼女は、心底嬉しそうに顔をほころばせた。

なぜ、他人である俺のことで、こんなにも純粋に喜べるのだろう。

 

 

「なあ、レクテューレ」

 

「なあに?」

 

 

気づけば、ずっと胸の中にあった疑問を口に出していた。

 

 

「なんで、そんなに俺のことを気にかけるんだ?」

 

 

突然の質問にレクテューレは目を丸くした。

そして、スプーンを置いて、少し考えるように視線を彷徨わせた後、静かに口を開いた。

 

 

「最初はね、同じ痛みを知っているから、放っておけないんだと思ってた」

 

「同じ痛み?」

 

「ええ。私も、母や兄を亡くしているから。優しかったお母様はこのヴァイセの腐敗しきった環境に耐えられず心身を病んで命を落とし、正義感の強かったお兄様は腐敗を正そうとして殺されてしまった」

 

「なっ……」

 

 

知らなかった。

いつも太陽のように明るい彼女も、大切な人を理不尽に奪われる痛みを知っていたなんて。

 

 

「でも、今は違うの」

 

「違う?」

 

「今は……」

 

 

レクテューレの頬が、夕焼けのように赤く染まった。

 

 

「今は、デンケンと一緒にいるのが楽しいから。デンケンが笑ってくれると、私も嬉しいから」

 

 

心臓が、大きく音を立てて跳ねた。

 

 

「それにね」

 

 

レクテューレが顔を上げて、真っ直ぐに俺の目を見た。

その瞳は初めて会った時と同じ、強い光を宿していた。

 

 

「デンケンのことが、好きだから」

 

 

一瞬、時が止まった。

街の喧騒も、店のざわめきも、全てが遠のいていく。

 

あまりの衝撃に、俺の心を深く閉ざしていた鬱屈として感情の壁が……彼女の言葉一つで粉々に砕け散った気がした。

 

 

好き。

レクテューレが、俺のことを。

 

 

「あ、あの、もちろん、友達として! 大切な家族や友達として、好きっていうことよ!」

 

 

慌てて両手を振って付け足すレクテューレ。

でも、その顔は真っ赤で、とても友達としてだけには見えなかった。

 

 

「……俺も」

 

 

気づいたら、口が動いていた。

喉がカラカラで、声がうまく出ない。

 

 

「俺も、レクテューレといるのは……嫌じゃない」

 

 

嫌じゃない、なんて。

 

本当は、もっと違う言葉を言いたかった。

嬉しいと、お前と一緒にいたいと。

 

でも、そんな言葉は、今の俺には贅沢すぎる気がした。

 

 

だが、レクテューレは、そんな俺の不器用な言葉に花が咲くように微笑んだ。

 

 

「うん。それで、十分よ」

 

 

帰り道。

 

夕暮れの光がヴァイゼの街を黄金色に染める中、俺は自らの意志で、そっと手を差し出した。

今度はもう、「はぐれないように」という言い訳はいらない。

 

レクテューレが驚いたように、でも嬉しそうに、その手を握り返してくれた。

 

 

繋がれた手の温かさを感じながら、俺は思った。

 

 

この温かさを守りたい。

この笑顔を二度と曇らせたくない。

 

 

そのためにも、もっと強くならなければ。

どんな悲劇からも、彼女を守れるくらいに。

 

 

俺の心に憎悪とは違う……新しくて、そして遥かに強い力への渇望が確かに芽生えた瞬間だった。

 

 

 

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