Memento Vivereー生きる意味を忘れるなー【完結】 作:ごすろじ
▶デンケン視点
入隊試験まで、あと一週間。
マハトとの訓練はこれまでの基礎鍛錬とは一線を画す、より実戦的なものへと変わっていた。
それは俺の覚悟を試す、容赦のない試練の始まりだった。
「北部の軍に属するのであれば、魔族との戦闘も想定されます。彼らは人間とは思考も魔法体系も全く異なる。油断は、即、死に繋がります」
マハトが、いつになく真剣な口調で淡々と説明する。
「覚悟はできている」
「そうですか。では、これより手加減は一切しません」
その日の訓練は、今までで最も過酷を極めた。
マハトの放つ魔法は、もはや指導の域を超え、本物の殺意が込められているかのように鋭く、速い。
俺は何度も地面に叩きつけられ、泥と汗にまみれた。
反撃どころか防御の道筋すら見出だせない、幾重にも重なる敗北と挫折。
伸びきった鼻をへし折る圧倒的な実力差。
だが、俺はもう過去のように魔族への復讐心に捕らわれていない。
レクチューレのためであれば、この敗北も屈辱も、喜んで血肉に変えてみせる。
全身が地面に叩きつけられる、そのたびに歯を食いしばって立ち上がった。
何度でも……何度でも。
レクテューレのために強くなる。
彼女との未来のために、この程度の痛みなど何でもない。
その一心だけが、俺を支えていた。
訓練を終え、引きずるような足取りで屋敷に戻ると、薬草の優しい香りが鼻をくすぐった。
レクテューレが、俺のために薬を煎じてくれているのだ。
「お帰りなさい。ひどく疲れているでしょう? 疲労回復に効く薬草茶よ」
「……ありがとう」
最近、レクテューレはこうして甲斐甲斐しく俺の世話を焼いてくれる。
まるで、これから離れてしまう時間を埋めるかのように。
今のうちにたくさん世話をしておこうとしているみたいで、胸が締め付けられた。
「怪我はしていない?」
「大丈夫だ。これくらい」
「本当? ちょっと見せて」
有無を言わさず、訓練着の上着を脱がされる。
俺の体には、打撲による生々しい痣がいくつも浮かんでいた。
「もう……。無理をしすぎよ」
薬を塗りながら、レクテューレが痛ましげに眉をひそめる。
「これくらい、なんでもない」
「なんでもなくないわ」
レクテューレの手が、微かに震えていることに気づいた。
「レクテューレ?」
「……怖いの」
絞り出すような、小さな声だった。
「デンケンが傷つくのが怖い。もし、これが本当の戦場で、もっと大きな怪我をしたらって思うと……」
涙を必死に堪えている彼女を、俺はそっと抱き寄せた。
「大丈夫だ。俺は、もう弱いままの子供じゃない」
「でも、まだ十分じゃなんでしょ?」
「あぁ、だから実戦を重ねて強くなる。レクテューレを二度と泣かせないくらい、絶対に強くなる」
レクテューレが腕の中で顔を上げた。
涙で潤んだ美しい瞳が、俺を真っ直ぐに見つめる。
「約束して。必ず、無事に帰ってくるって」
「ああ、約束する」
その夜、俺たちは初めて唇を重ねた。
優しくて、温かくて、そして少しだけ塩辛い、忘れることのできない口づけだった。
▶レクテューレ視点
デンケンの入隊試験の前日。
私は一日中、屋敷の厨房に立っていた。
「お嬢様、そんなにたくさん作って、どうなさるのですか?」
マリアが、心配と呆れが混じったような顔で言う。
「デンケンの好きなものを、全部。今のうちに作っておきたいの」
保存の利く干し肉、彼の好物だった焼き菓子、栄養価の高い木の実を練り込んだパン。
彼が旅の途中で、寂しさを感じた時に、少しでも私の味を思い出せるように。
この料理が、彼を守るささやかなお守りになるようにと祈りを込めて。
「若いって、いいものですねぇ」
マリアはそう言うと、何も言わずに私の手伝いをしてくれた。
その時、くらりと、急に強いめまいがした。
調理台に手をついて、何とか倒れるのを堪える。
「お嬢様!?」
「大丈夫よ、マリア。ちょっと……立ちくらみしただけだから」
最近、時々こういうことがある。
でも、今はそんなことを気にしている場合じゃない。
彼を笑顔で送り出すことだけを考えなければ。
夕方、訓練を終えたデンケンが戻ってきた。
「なんだか、すごくいい匂いがするな」
「ふふ、今日は特別メニューよ」
テーブルいっぱいに、心を込めて作った料理を並べる。
デンケンの好きなものばかりだ。
「こんなに沢山……」
「明日からしばらく、私の料理が食べられなくなるでしょう?」
私の言葉に、デンケンの表情が少しだけ寂しそうに揺らいだ。
「ありがとう、レクテューレ」
二人きりで、ゆっくりと食事をした。
他愛もない話をして、笑い合って。
まるで、止まってほしいと願う時間を、必死に引き延ばすかのように。
食後、デンケンが小さなビロードの箱を、照れくさそうに差し出した。
「これを、レクテューレに」
開けてみると、中には小さな青い石が埋め込まれた、銀のペンダントが入っていた。
「綺麗……」
「護符だ。露店で白髪で赤眼の怪しい女に声をかけられてな。俺も君にプレゼントを渡したくて……これを選んでみた。簡単な防御魔法が込められている。大したものではないが……俺の魔力を込めてある。ほんの気休め程度にしかならないだろうが、それでも、君を守りたい」
「そんなことないわ。でも、これはデンケンが持っているべきものじゃないの?」
「俺よりレクテューレが持っていてくれ。お守りだ。これがあれば、離れていても、君を守れる気がするんだ」
彼が私の首にペンダントを着けてくれる。
ひんやりとした金属の感触と、彼の指先の温かさに、涙が溢れそうになった。
デンケンは離れていても、私を守ろうとしてくれている。
「大切にするわ。絶対に、肌身離さず持っているから」
「俺も、レクテューレを大切に想っている。離れていても、心はいつもそばにある」
抱きしめ合いながら、明日なんて来なければいいのに……そう、本気で思った。
でも、残酷なほどに、時間は止まってはくれない。
▶グリュック視点
日の暮れた夜。
私は書斎で、デンケンと向かい合っていた。
「お話があります」
真剣な顔つきで切り出す少年。
もう、最初に会った時の心を閉ざした子供ではない。
覚悟を決めた一人の男の顔をしている。
「聞こう」
「明日、ヴァイゼ軍の入隊試験を受けます」
「そうか」
領主としての権限を行使すれば試験を受けるまでもないが……それを口にするのは余りにも野暮だな。
「理由は?」
「レクテューレのためです」
真っ直ぐな、一点の曇りもない瞳。
嘘偽りのない言葉。
「レクテューレを幸せにしたい。そのために……まず俺自身が、彼女にふさわしい一人前の男になりたいのです」
「ふむ……」
父親として、その決意は嬉しい。
純粋に、娘がこれほどまでに想われていることを誇らしく思う。
だが、領主としては、複雑な心境だった。
軍という場所は常に危険と隣り合わせだ。
彼の類稀な才能は、ヴァイゼにとって大きな力となるだろう。
しかしそれは同時に、彼がより大きな危険に身を晒すことを意味する。
そして、その危険は、いずれ娘の悲しみとなって返ってくるかもしれない。
「レクテューレは、何と?」
「……寂しいけれど、応援すると。そう、言ってくれました」
「そうか」
ならば、私が言えることは何もない。
娘が選んだ男の、その覚悟を信じるしかない。
少し考えてから、私は口を開いた。
「いいだろう。お前の決意、確かに受け取った」
「ありがとうございます」
「ただし、条件がある」
デンケンが、ごくりと喉を鳴らして身を正した。
「必ず生きて帰ってこい。そして、立派な魔法使いになった暁には……改めて、二人で私の前に来なさい」
「はい」
「レクテューレのことを、頼んだぞ」
デンケンが深く、深く頭を下げて、部屋を出ていく。
私は、一人残された書斎で静かに目を閉じた。
娘の幸せを願う父親の心と、ヴァイゼの未来を案じる領主の心。
その二つが、私の胸の中で、重く、静かにせめぎ合っていた。
怪しい白髪赤目女「オッス、オッス」