ヴァルキューレの狼 作:アホの子ヴァルコ
ベッドから体を起こす。いつもより三十分も早く目が覚めた。
私は即寝即起タイプ。横になればすぐに眠れるし起床時間も固定できる。
朝にも強いのに……変だな。
自己診断では体調面に異常なし。たまたまかな?
まあいいや。時間があるなら筋トレをやろう。プッシュアップとシットアップ。
最初に準備運動を兼ねて日課の柔軟体操。もちろん、お隣さんを起こさないように静かにやる。
防犯窓から天気を確認。太陽が見えるけど雲が多い。
明け方まで雨が降っていたみたいで地面が濡れてる。どうしようかな……。
舗装路面は降り始めと乾き始めが滑りやすい。雨あがりに油断するとコケる。
特にタイヤが細い自転車が危険。スピードを抑えて走るしかない。
でもそれだと、もしものときに困る。現場に急行できない。
だからといって、D.U.を徒歩で回るのは嫌だ。すごく広いから疲れるし遠出もできない。
そうなると……車かな。
看守に脱獄を宣言して朝食の時間。
本日のメニューはロールパンとマーマレードと牛乳。それと……エナジーバー?
裏返して成分表に目を通すと賞味期限が近い。防災用品の放出か卸売業者の投げ売りかな。
留置施設で珍しい物が出ると訳あり品なことが多い。
ちゃんと食べられるし美味しいから別にいいけどね。ごちそうさまでした。
脱獄して更衣室にやってきた。
制服はいつもの半袖セットをチョイス。
帽子とベスト、グローブ、ニーパッド、スニーカーも普段と同じ物。
さて、武器はなにを持って行こうかな。
車を使うなら短機関銃や突撃銃、散弾銃でもいい。狙撃銃はパス。単独の警らには不向き。
ガンロッカーの前で少し悩み、手に取ったのはヴァルキューレ制式短機関銃。
高い命中精度が評価されていて初心者から玄人まで愛用者は多い。
9mmの拳銃弾を使用するからお財布にも優しい。今日の相棒、よろしくね。
マガジンは四本。弾を込めて一本を銃にセット。コッキングレバーを操作して初弾装填。
残りはチェストリグを装備してマガジンポーチに納めた。
準備完了。さあ行こう。
生活安全局に顔を出したらフブキとキリノは不在。
顔見知りの子に聞いたら二人とも支所当番なんだって。支所とは交番のことだ。
D.U.にはあちこちにヴァルキューレの交番が設置されている。
当番は持ち回り制。当たった生徒は指定の交番で三日間の勤務だ。
基本的に24時間体制で、数人が交代で地域巡回や市民対応に勤める。
本校に近い交番は寝床がなくて学校寮から直接通う。
でも遠い場所は生活スペースが用意されていて泊まり込みになるんだって。大変だ。
本日の賞金首はなし。ちょっと残念だけど、平和なのはいいことだね。
地下駐車場に到着。
ここには生徒たちが使用する様々な車両が保管されている。
私が乗るのはパトロールカー。セダンタイプのPCか、ハッチバックタイプの小型PCだ。
警らに出るなら燃費がよくて小回りが利くハッチバックの方がいい。
それに……私がセダンを乗り回すと好い顔をしない生徒もいるしね。
駐車場の詰所に向かい、当番生徒に車両の鍵を申請。
渡されたタブレットにタッチペンで名前と現在時刻を記入して返すだけ。これで鍵がもらえる。
ずらりと並ぶピカピカの小型PCを素通りして、私が目指すのは駐車場の奥だ。
そこには型落ちの旧車が置いてある。ちゃんと整備されていてまだ走れるのに見向きもされない。
もったいないよね。だったら私が乗ってあげよう。
角ばった小さなボディに丸いヘッドライト。
外観も内装も古臭いって言われる。……でも、私は好き。
運転席に乗り込みキーをシリンダーへ。セルを回すと
アクセルを踏むとスムーズに吹け上がる。ほら元気だ。
シートベルトを締めてバックミラーを調整したら前後左右を目視確認。うん、異常なし。
ギアを一速に入れて出発。車は地下駐車場の出口を目指して、ゆっくり走り出した。
D.U.を小型PCで警らして三時間。
午前中だけで事件に四回遭遇して小物を八人捕まえた。今日はおかしい。
一件目、窃盗。獣人二名の犯行。
スクーターでひったくり。静止を無視したのでタイヤに発砲。転倒させて捕獲。警らの子にパス。
二件目、恐喝。ヘルメット団三名の犯行。
市民へのカツアゲ行為。私を見るなり発砲してきたので制圧。警らの子にパス。
三件目、器物損壊。スケバン二名の犯行。
路上で喧嘩。流れ弾で近隣商店の窓や看板などを破壊。問答無用で制圧。警らの子にパス。
四件目、詐欺。機械人一名の犯行。
偽グッズの路上販売。非売品を装うも客に見抜かれて逆上。暴れたので制圧。警らの子にパス。
「これはペロロ様ではありません! 別のキャラクターです!」
疲れた……。自販機で弾と飲み物を購入。駐車帯に小型PCを停車させ、運転席を倒して一休み。
冷えた炭酸が喉を潤してくれて心地いい。……ふう。さてどうしようかな。
もうお昼休憩の時間。お腹空いた。体を動かしたからしっかり食べたい。
車のナビを起動すると近くにあるのはコンビニかファミレス。悪くはないけど、なんだかなぁ。
んー……ん、コンビニでいいや。
お店を探してうろつくより、早くお腹を満たして体を休めたい。
「ありがとうございましたー」
やる気のないコンビニ店員の言葉を背に、店を後にする。
すぐ外のベンチを借りよう。ビニール袋から中身を取り出す。
ウェットティッシュで手を拭いて……よし、いただきます。
まずはホットサンド。ハムとチーズのバゲットだ。ハード系のパンに塩気と旨味が強い具材。
我慢できないから口を大きく開けて齧りつく。美味しい。
咀嚼しながら空を見上げると、雲が朝に比べて減ってる。雨の心配はなさそうで一安心。
でもこの様子だと午後も忙しいかもしれない。看守係長からお小言をもらいたくないし、程々で切り上げようかな。
ホットサンドの次はフルーツミックスサンド。ふわふわの食パンにクリームと果物がどっさり。
こんなの不味いわけがない。んまい。
具材はイチゴとミカンとキウイと……パイナップルかな。
甘酸っぱい果物とホイップクリームが最高。
留置施設ではこんなの絶対に出ない。しっかり味わって食べよう。
パンを二つ平らげて、ごちそうさまでした。
食後の一杯は無糖のレモンティー。お口の中をリセットしてすっきり。
ごみはちゃんと分別してごみ箱へ。お腹いっぱいで満足したし、車で昼寝しよう。
完全に横になると胃に悪い。だから背もたれを少しだけ倒して目を瞑る。
パワーナップっていう休息方法でカンナに教わった。それじゃ二十分ほどおやすみなさい。
―――コンコン
ん……窓を叩く音。誰かが呼んでる? まだ早いけど起きるか。
目を開けてそちらを見ると、まさかの人物がドアの前に立っていた。
笑顔で手を振るフブキと困り顔のキリノ。なんでこんなところに?
「いやぁ、いいところで会えて助かったよー」
「私は急に二人が現れたから驚いた。普通に声かけてよ」
小型PCに二人を乗せて走らせる。目的地は二人が勤めてる交番だ。
「現場対応に出てたの?」
「そうそう。応援要請が交番に届いちゃってさ、キリノと二人で行った帰りってわけ」
そう話すフブキは後部座席で寝転んでる。だらしないよ。
キリノは助手席で口数は少ない。あまり会話に参加しないで気まずそうにしてる。
先日の刑務作業からずっとこんな感じなんだよね。前より関係が悪化したかも……。
「それにしてもさぁ、今日のD.U.は荒れすぎだよね。雨後の筍ってやつー?」
「雨の日に犯罪者が大人しいからって、その例えはどうかと思います……」
雨で活性化して地面からニョキニョキ生えてくるのか。想像したら笑えない。やめてね。
雑談をしながら走行を続け、交差点の赤信号で停車した。
すると交差道路の左から甲高いエキゾーストが聞こえてきた。一台……いや二台だ。サイレンの音も聞こえる。
「うん? PCが緊急走行してるね。また事件かなぁ。やだやだ」
フブキの怠そうな言葉にキリノが車載の警察無線を起動。モードを広域から短域に切り替え。
≪ ストリートレーサーの車を追跡中! 誰か付近にいないか。応援が必要だ! ≫
≪ えー! こっちは無理だよぉ。対応中~ ≫
≪ 食い逃げ犯を追ってる! 忙しいから切るぞ! ≫
短域は無線機を中心に数百メートルの範囲内だけ受信する仕様だ。
広域は全ての警察無線を受信するから連携の邪魔になるときがある。そういう時に短域を選ぶ。
つまり、今私たちの近くで三台のPCが事件対応中ってことだね。
そしてたった今、目の前を猛スピードでスポーツカーが走り去った。
一台は交差道路を右に向かって直進。二台目が左折。ヴァルキューレのPCは直進した。
「キリノ」
「出してください! 二台目を追います!」
キリノの言葉に従って警光灯とサイレンを起動。左右確認よし。
アクセルを踏み回転数を上げ、半クラッチで繋ぎロケットスタート。
前輪駆動車だからタイヤを無駄にスピンさせないようにアクセルを調整―――成功。
小型PCが勢いよく交差点に飛び出した。緊急走行を開始。
無線はキリノに任せて私は追跡に集中しよう。
≪ これよりストリートレーサーの追跡に参加します。こちらは北進中の二台目を追います ≫
≪ 助かる! そっちは任せたぞ! ≫
「あーもう、こうなると思ったぁ! ご飯食べる時間なくなっちゃうよー!」
後部座席でフブキが喚いてる。お昼まだなのは同情するけど、お仕事しようね。
さて、追跡の状況は……はっきり言って不利だ。相手は馬力のあるスポーツカー。
こちらは軽量だけど非力な小型車両。じりじりと引き離されてる。
向こうが一般車両をスラロームで回避するたびに減速してるからなんとか追えてる状況だ。
「フブキ、どうにかできない?」
「えー? ええとー……この先、交差点が三つ。直進で物流倉庫、ゲート有。駄目。左折は元のルートへ合流。脇道狭い。駄目。
……右折だね。シロコちゃん、次を右」
「ん」
スポーツカーがいよいよ見えなくなってきたところでフブキの右折指示。
狭い道だけど小型PCなら余裕。車の通りも少なくて飛ばしやすい。
「突き当たりを左折。そしたら信号のある交差点で道を塞ごう。キリノもいい?」
「フ、フブキ? 本当に大丈夫なんですか?」
「焦っても仕方ないさ。逃げられたら……ごめんなさいしようね~」
フブキの指定した交差点のど真ん中で停止。サイレンだけ止めてドアを開け放つ。
トランクから伸縮式のモバイルバリケードを二つ降ろして展開。交通を一時遮断した。
「相手の運転手はさぁ、こっちが小型PCだって舐めてるはずだよ。だから直進を続ける」
スティックタイプの誘導灯を点灯。赤い光を放つ棒を手にしながらフブキが喋る。
「道を曲がって逃げるより、スピードを上げて振り切った方が楽でしょ? そこを突くんだよ」
「で、でも、必ずこちらに来るとは限りませんよ?」
自分の考えを説明するフブキに、キリノは落ち着かない様子で尋ねた。
だけどフブキはいつもと変わらない。のんびりとした表情で欠伸をしてる。
「ふわぁ~っと。まあ、私の感が当たるかどうか……おん?」
特長的なエキゾースト。さっきのスポーツカーが近付いてる。
「やったね、大当たり~」
「っ! ……射撃体勢で待ち構えます。二人も準備してください!」
キリノは助手席側のドアを盾にして制式拳銃をショルダーホルスターから抜いた。
私は運転席側で制式短機関銃を構える。セレクターをフルオートからバーストに変更。
フブキは第14号制式ライフルを手に車の屋根の上へ。
そこへ見覚えがある車両がやってきた。間違いなく逃走したスポーツカー。
私たちの姿を見て急ブレーキ。運転手は機械人だ。
『暴走車の運転手さん! 直ちにエンジンを停止し、車から降りなさい!』
キリノが拡声器で投降を呼びかける。でも運転手はそれを無視。
車から降りようとせず、アクセルをあおりだした。……危険な兆候だ。
『繰り返します! 直ちにエンジンを―――あっ!』
警告の最中に運転手が車を急発進。バリケードを強行突破する気だ。
小型の車両に小さなバリケードが二つだけ。完全封鎖は物理的に不可能。止められない。
だったらもう荒っぽくやるしかないよね。
左フロントタイヤを三点射。後輪駆動のスポーツカーは、破裂したタイヤを中心にコマのように急回転。電柱に激突して停止した。
でも運転手はまだ諦めてないみたい。車を降りると背中を向けて走り出し―――
「当たったらラッキーってことで」
―――フブキが発砲。運転手の足に命中。転ばせた。
私が駆け寄り拘束し、キリノが手錠を掛けて現行犯逮捕。
ん、事件解決。お疲れさまでした。
応援要請を受けて駆け付けた交通局の生徒に後を任せ、私たちは撤収。
バリケードを片付けて現場を離れた。現在時刻はもうすぐ十四時になる。
「あぁ~疲れた。早く帰ろ帰ろ。お腹空いたぁ!」
後部座席でジタバタ暴れるフブキがうるさい。交番に真っすぐ向かうから大人しくしててよ。
「うぁー……あ、待って? ここからならドーナツ屋の方が近くない? シロコちゃん!」
「え? いいけど……怒られない?」
「確認中~。あ、いいってさ! ちゃんと許可取ったから行こう!」
「ん、わかった。キリノもそれでいい?」
騒がしい妖怪ドーナッツ娘を放置して、隣のキリノに一応確認。……キリノ?
返事がない。視線を向けると俯いて元気がない様子だ。
「キリノ、具合悪いの? 大丈夫?」
「……え? あ、はい! 問題ありません」
「フブキの提案でドーナツ屋に行くけど……」
「構いませんよ」
……キリノの表情が硬い。気になるけど今は運転中。
外には出せないため息を、心の内に吐き出してごまかした。
マスタードーナツで二人を降ろして私はパーキングで待機中。
イートインに誘われたけど、あまり遅くなりたくないから断った。断ったんだけど……。
『じゃあ、テイクアウトしてくるから待っててねー。交番まで歩くのめんどくさいしさ~』
そしたらこんなことを言い出した。
まあいいけどね。普段からお世話になってるし、色々と迷惑もかけてるから。
フブキはのらりくらりしてるけど、私のせいで厄介事に巻き込まれている。
そのせいで今でも上層部に呼び出されたり、上級生に絡まれたりしてるよね。
「……はぁ」
さっきは我慢したけど、誰もいない今ならため息の一つくらいこぼしてもいいよね……。
っと、二人が店から出てきた。フブキは察しがよすぎるから切り替えよう。
店外に設置されたメニューをながめて意識を……美味しそう。見てたら食べたくなってきた。
ドーナッツ断ったのを少し後悔。……私のお馬鹿。
帰り道にどこかに寄ろう。コンビニでなにか購入して食べればいいや。
「シロコちゃんお待たせ~。んじゃ、交番までよろしくねぇ」
車に乗り込んできたフブキが抱える紙箱からいい匂いが漂う。……さっさと送ろう!
小型PCのエンジンを始動。少し乱暴な運転になるけど許してね。
目的地に到着。
ヴァルキューレの交番は、周りの雰囲気に合わせて建てられる。だからデザインがバラバラだ。
ここは……なんて言えばいいんだろう。
正直に言って変。屋根が水色で外壁が白。ケミカルな色合いのかまぼこに見える。
「いやぁ、助かったよ。それじゃまたね、シロコちゃん」
「……お疲れさまです」
二人はそう言って車から降りた。キリノはそそくさと交番の中へ。
でもフブキが運転席の窓を叩いてる。どうしたんだろう?
「はいこれ、乗せてくれたお礼だよー」
窓を開けるとジャケットのポケットから小さな包みを取り出し、私に差し出した。
それはマスタードーナツの紙袋に包まれた商品。フルーツスティックだ。
「キリノだけど、シロコちゃんはなにもしない方がいいよ。あれは時間が必要だと思うから」
「……フブキ?」
「
私の返事も聞かずにフブキは交番に入っていった。
まだ暖かいフルーツスティック。生地にはドライフルーツとはちみつがたっぷりだ。
「……ん、ありがとう」
小型PCのギアを一速に入れ、ゆっくりと発進させた。
せっかく友達が奢ってくれたんだ。どこか景色のいい場所で食べたいな。
寄り道をしてヴァルキューレに帰宅。
車を元の場所に駐車。車両に異常がないことを目視確認。そしたら鍵を返しに行く。
朝と同じようにタブレットにサインして返却完了。
いつも通り装備の返却とシャワーを済ませ、留置施設に帰ってきた。
今日はカンナに会えなかったのが少し残念だけど、D.U.の様子からして公安局も忙しいだろう。
むしろ会えない方が普通だからね。邪魔をしてはいけない。我慢しよう。
馴染みの看守係長に挨拶すると、今日は被疑者が大量に送られてきて騒々しいと教えてくれた。
まあそうだろうね。私もたくさん捕まえたし。
二重扉を抜けて居室エリアに入ると……うん、確かにうるさい。
騒ぐ子を看守が怒鳴りつけてる。あ、私が捕まえたスケバンだ。ん、今日からご近所さんだね。
数日の付き合いだろうけど、よろしく。
ご近所さんの戯言を聞き流して自分の部屋に帰ってきた。
タブレットを起動して報告書を作成する。今日は報告することが多いから大変だ。
……いつもより時間をかけて報告書を完成させた。送信して本日の脱獄終了。
その後はゴロゴロして時間を潰し、夕食を食べたら自由時間。
何人か反抗して夕食抜きになってたけど自業自得。看守たちも詰所で休んでるだろう。
騒ぎ続けてもどうにもならない。それをようやく理解したのか静かになってきた。
さてと、少し疲労を感じるし休もうか。明日のためにもしっかり寝よう。
硬いベッドに横になる。毛布をしっかり被って今日はおしまい。
ん、おやすみ。
―――ポタリ……ポタリ……
交番の小さな洗面所で一人たたずむ。鏡に映る私の顔は……ひどいものですね。
フブキはロビーで同校生たちとドーナッツを楽しんでいるでしょう。私は遠慮しました。
食欲がない。なにを食べても喉を通る気がしません。
気分を変えたくて顔を洗ってみましたが、効果はありませんでした。
今日の現場で……私は、役に立てただろうか?
いいえなにも。ただフブキと……
「……どうして、ですか。……どうして、あの子だけ……。あの子は、あれは……っ!」
歯を食いしばって堪える。「それ」を口にしてしまったら……きっとおしまいだ。
あの子を利用して蔑む人たちと同じ場所に落ちてしまう。
あの子を哀れに思う気持ちはある。だけど、あの子を疎ましく思う気持ちもある。
どうしていいかわからない。
「キリノ、ちょっといい?」
「っ! ……なんですか?」
急に声をかけられ背筋が伸びる。フブキが後ろに立っていた。
彼女は他人の感情の機微に敏い。私の心の内なんて、とっくに見透かしているでしょうね。
「
ああ、やっぱり。今は聞きたくない名前が出てきました。
フブキはあの子と仲がいい。だから……だからきっと、私を非難しに―――
「キリノはさ、シロコちゃんが何歳に見える?」
―――は? 何歳、に……?
「……意味がよく……わかりません」
「シロコちゃんは記憶がない。自分の年齢もわかんない。だから年齢不詳。そうだよね?」
「そう、ですね。……それがなにか?」
フブキの質問の意図が読めません。なにが言いたいのでしょうか。
「シロコちゃんは私たちと同年代だと思うよ。差はほとんどない。……でもさぁ」
―――それは肉体的な話でしかない。あの子の精神は……心は、幼い子供のままなんだよ。
「幼い、子供?」
「そうだよ。必死に背伸びを頑張り続けることしかできなくなった……
「もう一度聞くね。キリノは、砂狼シロコが何歳に見える?」
それは、それは―――
「……わかりません」
「そっか。じゃあ宿題にするね。少しずつでいいから、考えてみて」
フブキはそう言うと踵を返して洗面所を出て行きました。
あの子が……シロコさんが『大人になりたかった子供』とは、どういう意味なのでしょう。
私が知っている境遇や現状を考えれば、わからなくもないですが……フブキが言いたいことは違う気がします。
「あ、それとね」
廊下から洗面所を覗き込むようにしてフブキが再び現れました。まだなにか話が―――
「私はキリノのことも友達って思ってるから」
「…………」
「だからキリノの苦悩を否定しないし、キリノを責めたりはしないよ。そんだけ~」
今度こそフブキは立ち去ったようで、ロビーからドーナッツを奪い合う声が聞こえてきました。
私が抱えているドロドロしたモノを知って、それでも友達と言ってくれるのですね。
なんだか少し……少しだけ気分が晴れてきました。
蛇口のハンドルをひねり、流れ出た冷たい水で顔をジャブジャブと洗う。
タオルで水気を拭いて、鏡を確認。……よし。
これなら人前に出られますね。私は早足でロビーに向かいました。
「やっぱりドーナッツ食べます! お腹空きました!」
パト〇イバーと逮捕〇ちゃうぞが悪いんだ!俺は悪くねぇ!俺は悪くねぇ!