イタチが生きて無事に帰って来て、サスケはここしばらくの思いが爆発したんだろう。イタチの胸に抱かれながらわんわんと泣いた。イタチはそんなサスケの背中をさすりながら、心配かけたな、と穏やかな声をかけ続ける。
その隣にあの大男がいない。後ろにもいる気配がない。
『あなた〝には〟、生きて欲しい』
ということは、彼は、もしかしてイタチを庇ったのだろうか。ふたりでウェンカムイになると話していたのに、イタチだけが帰ってきたということは。
スマホを取り出して、香燐さんにメッセージを打つ。
『夜分にすみません、ウェンカムイについて知りたいんです。』
返信はすぐにきた。
『何かあったの? ウェンカムイというと、普通は人を襲う熊とかを指すけど、悪い影響を与えるものの総称みたいなものでこれっていうものはないんだ。もう少し詳しく聞けるかな?』
『カムイが憎しみに任せて人間を殺めると、ウェンカムイになってしまうと聞きました。それについて何か知りませんか?』
『憎しみ、か。……関連があるかはわからないが、アイヌにとって熊は山の神、キムンカムイとして通常は信仰の対象だが、神の領域から人の領域まで降りてくるとウェンカムイとして狩猟の対象となる。つまり、そのカムイは人を殺める、という行為によって神の領域から人の領域に降りたのではないか……とあたしは考えるが、その条件に「憎しみ」が入るというのはすまない、ちょっと心当たりがない。』
『参考になります。では、ウェンカムイが普通の信仰されるようなカムイに戻るという例は知りませんか?』
『良いカムイ、悪いカムイ、てのは基本的に人間視点の話なんだ。だから例えばある村に山賊が現れたとする、村人は山賊に天罰をと願った。その山賊がのちにあるカムイの行いにより死んだ。この場合、村にとってそのカムイは「良いカムイ」で、山賊にとっては「悪いカムイ」になる。だから良いカムイ、悪いカムイ、というのは人によって捉え方が異なる。はっきりした答えが返せなくて申し訳ない。』
『いえ、十分です。夜分にありがとうございました。』
サスケたちは、少し落ち着いたようだった。もし干柿鬼鮫がイタチを庇ってひとりウェンカムイになったのだとしたら、俺たちはそれを知らなければいけない。こうして再び会えたのが彼の犠牲の上であるのなら。
「……イタチさん、無事なようで何よりです。干柿鬼鮫さんは今どちらに?」
イタチは穏やかにサスケを見つめる表情を崩さない。
「……恐らくアメリカです。」
「なぜあなただけがここへ? 恐らく、というのは……」
「鬼鮫は……ウェンカムイになりました。もうその姿を見ることも、意思疎通さえもできません。」
サスケが顔を上げてイタチを見上げる。
「……なんで、鬼鮫さんだけが……?」
「鬼鮫から言われた言葉の通り、としか……。」
人ではないイタチですら姿が見れず、意思疎通もできない、でも存在する。それって、いわゆる、俺が想像するような、本物の神様と同じような存在……と言えるんじゃ。神の領域から人の領域に、じゃない。……逆だ。
「鬼鮫さんは……、きっと本当の神になったんです。アメリカにとっては災禍をもたらすかもしれない。けど俺たちにとっては、イタチさんを護ってくれた、今も俺たちを護ってくれている。ウェンカムイなんかじゃない、良い、神様……カムイだ。……違うでしょうか。」
イタチは表情を崩さないまま、少しだけ俯く。
「……天照大神様はそのお姿が見えない……本当の神とはそうなのかも、しれない……。でも鬼鮫は憎しみを抱えたまま、……。」
どうも、そんなに単純な話でもないみたいだった。所詮俺は人間だし、神と信仰されていたサスケやイタチ達のような人成らざる者達のことはよく分からない。
……余計なことを言ってしまっただろうか。
まだ十代半ばから後半くらいに見えるイタチが、サスケの前以外で決してその表情を崩さないのも何だか気になった。
イタチは一族が攫われた後北海道のカムイを頼り辿り着いたのが鬼鮫さんだった。その後はずっと二人一緒に行動していたはずだ。相棒、というくらいなんだから。そんな存在がイタチの分まで罪を背負ってひとりウェンカムイになり、その眼にも映らなくなってしまったことを悲しまないわけがない。……もう、どこかで泣き腫らしたのだろうか? それともずっとこの表情を崩さないままここに来たのだろうか。
……もっと、年相応に泣いたり笑ったりしたっていいのに。仲間を取り戻すという使命がそうさせたのか、それとも元々抱え込む性格なんだろうか。
見ていて、何だか痛々しい。
「……神のことは神に尋ねるのが……一番だ。神無月になったら、それを確かめに行く。……カカシさん、ありがとうございます。」
……何だかよくは分からないけど、イタチの中で何かを消化したらしい。心配そうにその顔を見上げるサスケの頭を撫でる。
「鬼鮫は俺を護ってくれた、それは事実だ。俺たちにとってはウェンカムイじゃない、護り神……。サスケ、一緒に祈ってくれないか。」
「……もちろん、だって兄さんが今ここにいるのは鬼鮫さんの……おかげってことなんだろ。俺も祈りたい。」
「ありがとう、サスケは相変わらず優しい子だ。」
……しかし、こうしてイタチがサスケにまた会いに来たのは、単に無事を知らせるため、なんだろうか。
もしも、イタチがサスケに北海道へ帰ろう、と言ったらきっとサスケは着いて行くだろう。
俺もサスケを大切にしてきたし、サスケの帰る場所でありたいと思っていた。けれど所詮は他人だし、人間と、人間でない存在だ。実の兄と一緒に過ごす方が自然で……つまり、俺とサスケの生活は、もうすぐ終わってしまうかもしれない。
「……イタチさん、よかったら今から夕食……だったんです。カレーなんで、イタチさんの分もあります。一緒に食べませんか。」
「そうだ、食べてってよ兄さん!」
イタチはサスケと食卓を交互に見て、そして俺に視線を向けた。
「良いんですか? 二度もご馳走に……。」
「そんなのカカシは気にしないから、大丈夫だ!」
いつもの食卓に、見慣れない顔が座っている。けどいつもと同じように、笑顔を引き出すような話題を振って、表情が柔らかくなったサスケを見ながらイタチもまた少しだけ口角を上げる。
「俺たちは人間の営みを真似て暮らしていました。人間の営みは温かく思いやりに溢れている。そんな人間に憧れていた。」
「……なぁ、兄さんもここで一緒に暮らさないか。人間と一緒に。俺たちの村は……もう、無い。村の人は皆居なくなった。もうあの村には帰れない。だから……。」
「……悪い、サスケ。俺にはまだやらなければいけないことがある。その後どうするかは、そのときに一緒に話そう。」
サスケがスプーンを持つ手を止めた。
「またアメリカに行く、……なんて言わないよな。」
イタチはサスケの頭をくしゃっと撫でる。優しく微笑みながら。
「もう危険なことはしない、約束だ。そして全てが終わったときは必ずサスケのもとに帰ってくる。」
夕食の後、俺は今までに撮ってきたサスケの写真や動画をイタチに見せていた。
頬に手をあてながら「おいしー!」と喜ぶ様子、ナルトと一緒に緊張した面持ちで入学式の看板の隣に立つ姿、学芸会で勇ましくサメを演じる姿、サンタさんから贈られたぬいぐるみに喜ぶ姿……。今までのすべてを見せたかった。きっとイタチが見たかったであろうサスケの姿だと思って。
黙って画面を見続けるイタチの顔をふと見ると、その瞳が潤んで揺れている。
「……泣いても良い、と思いますよ。あなた方にとってはもう大人、なんでしょうけど俺から見たらイタチさん、あなたもまだ子どもだ。泣きたいときには泣いて、嬉しいときには笑って、……サスケにはそう伝えてきました。我慢しているなら、その我慢、やめませんか。」
イタチは立ち上がって上を向いた後、「ベランダ、お借りします。」と窓を開けて出て行った。
……言わない方が良かっただろうか。でもサスケの成長を目にしてきっと嬉しかったはずだ。あの眼の揺らめきはそうだったと思いたい。
イタチがカカシとサスケの元を立ち去って数ヶ月。まだ暑さが残る季節だった。広い部屋のベッドで眠っていた歳を召した男性は、目を覚ますと同時にベッドサイドのメモ帳に何かを書き記した。
専属の料理人が用意した朝食をとりながら、同じく歳を召した女性に話しかける。
「今日、夢の中で啓示を賜りました。しかしそれを公にするべきか悩んでいます。公にしてしまうと恐らく外交に影響を与えてしまうでしょう。ただ、私の胸の内に秘めておける内容でもありません。」
女性はその話を真剣に聞きながらお椀を置く。
「抱え込むのは良くないですよ。まずは側近……若しくは信頼のおける者に話してはどうでしょう。」
「信頼のおける……そうですね。」
男性は箸を置いて、手を合わせた。
九時を過ぎると、予定にない訪問客が門の前に集っていた。
「至急の用件です。啓示について、とお伝え頂けますか。」
警備員、にしては装備が立派でかちりとした制服の男達が顔を見合わせる。
「アポイントなどと言っていられるほど悠長には待てないのです、どうか……。」
そこへ、建物の方からスーツの男性が歩いてくる。制服の男達は道を開けるように両側に立ち、姿勢を整えた。
「神社本庁からの使者の方ですか。」
男性は落ち着いた、壮年らしい声で静かに話しかける。
「そうです、お伝えしなければならないことがあり参りました。どうか……。」
「陛下も朝からお待ちでした。緊急の話と伺っております。中へ。」
制服の男が人ひとり分通れるだけの隙間を門に作る。男達はそこを潜り、壮年の男性の後ろについて奥にある建物へ向かった。
「公表なされるべきです。私たちと同じ啓示を、それも最上神から賜ったということは、国の根幹を揺るがしかねません。」
「しかし私がそれについて口を開くことが何を意味するのか……あなた達であれば理解出来ると思っています。」
「それであれば、私共が変わって公表致します。滅多なことでは神は啓示は賜りません。それほどのことが起こって……そしてこれから起こるということです。」
「待て、……我々は民間の機関に過ぎない、我々が公開したところで聞く耳を持つ者は……。」
「陛下、どうかお声を賜って下さいませんか……このままでは日本は再びアメリカに……神への信仰の精神まで奪われることとなってしまいます。どうか……。」
陛下、と呼ばれた、普段は穏やかな笑みを称えている歳を召した男性も、真剣な顔つきで考え込むように押し黙った。それをスーツ姿の四人が見守る。
男性は、何かを決断したように、四人に目配せをして、口を開いた。
「神の啓示はその神を奉る神職が語るに相応しいでしょう。其々、その神がおわす社へ連絡を。本日午後三時に彼らを通して神の声を伝えましょう。」
仕事をしていたところにスマホが変な音を立てた。何の通知だ? 画面を見てみると、緊急のニュースらしい。なんだ、どっかで戦争でも始まったのか。
同僚も皆スマホに目を落としていた。
ニュースアプリを開くと、各地の神社が一斉に声明を発表すると告げたらしい。神社が声明、で緊急ニュース? 何だそりゃ。
それを見てスマホを隅に置いた者、画面を見続けている者、しかし皆画面は光らせたまま、その声明を待った。
声明を出すと言っているのは……伊勢神宮、熱田神宮、出雲大社、明治神宮の四つ。日本人なら聞いたことがある大きくて有名な神社ばかりだ。
動画を再生すると現地から生中継しているアナウンサー。ただ、普段のニュースとは違ってけたたましい声ではなく、場所が場所だからか静かに周囲の状況を伝えている。
三時になると、映像が切り替わった。神社の内部にカメラを置いて撮影しているようだった。神職なんだろうな、という男性が、おそらく御神体の方を向いているんだろう。その背中を映す映像の中で語り始めた。
「本日天皇陛下が天照大神より啓示を賜りました。その啓示を申し上げます。……この国におわす八百万の神の力を我が物にせんとして、我が国より神を奪い争いの道具としようとしている者達がいる。祖奴等は我が国の神を神とも思わず特殊な絡繰を使い使役せんとす。我が国の神を束ねる者としてその蛮行は看過ならぬ。従って、我が国の神は総力を上げ祖奴等を敵と捉え排除する。その敵の名は、米国である。……以上が賜った言葉にあります……。」
周りから、「これ本物?」「米国って、アメリカだよな」「どういう事だ?」と困惑する声が聞こえてくる。
そりゃそうだろう、今まで生きてきて神が、それも伊勢神宮の……天照大神なんていう神の中でも頂点に君臨する存在が国民に対してメッセージを発したことなんて俺の知る限り歴史上一度もなかったし、具体名を挙げて「排除する」なんてのも神らしくない言葉だ。普通は疑う。緊急ニュースで、伊勢神宮の内部からの映像でなければ。そしてその言葉を賜ったのが、天照大神を祖とする天皇家の主である天皇陛下だという言葉がなければ。
映像が切り替わって、次はまた別の神社らしい。同じように神職らしい男性の背中。
「……大国主大神より賜った言葉を広く民に伝えんとこの場を設け申した。大国主大神曰く……」
四人の神職は其々に事情を語り、そしてアメリカを敵として排除するという言葉で締めた。
同胞を奪われたイタチ達がアメリカで戦い、敵の手に落ちた神を手にかけ、その為に悪し神に堕ちんとするところを他の神々が救ったこともすべてが、語られた。
神々の言葉が終わると、政府の緊急記者会見に画面が移る。厳かな神社の中を映し出していた映像から、フラッシュでピカピカと目障りな騒がしい映像になって思わず眉を顰める。
「神社庁から声明が出されておりますが、我が国は政教分離を掲げており、先程の声明に対しても何も申し上げることはございません。以上です。」
それはアメリカに対して、おれたちゃ知らねーぞと言っているようなものだ。まあ事実、日本政府が何をどうしようが神を止めるなんて無理だろう。
日本人のこころの奥底に流れている神への畏れ、崇拝、祈り。今回四箇所の日本を代表する神社がその神の言葉を伝えたことで、しばらくの間何かと「神様」が話題に上がった。それは子どもたちのふざけ合いだったり、進路を考える学生だったり、大切な人を亡くした人だったり、そしてテレビのコメンテーターだったり。
神の怒りに触れる、というのがどういうことなのか、なぜか俺たちは皆精神に刻み込まれている。そんな神の怒りをかったアメリカがこの先どうなるのか、固唾を飲んで見守っていた。
政教分離、と言いつつ政府はアメリカから飛行機を買う数を減らして、輸入の量も少しずつ減らし、他の国との繋がりを深めようとする外交にシフトチェンジしたようだ。
当のアメリカは何も語ることなく静かだった。
俺は神の言葉でいろんなことが変化していくのを目の当たりにして、言葉だけでもこんなに力があるものなのかと、俺の中で神を畏れる気持ちは強まった。
でも、その神々を動かしたのは、アイヌの小さな村で育ったひとりの少年で。
俺とサスケは、イタチが言った「やらなければならないこと」を終えてまた帰ってくるのを、ずっと待っていた。