銀の蛹は34℃の殻で微睡む   作:餡穀

1 / 27
第1章 完璧な嘘をつくための、長いプロローグ
完璧な余白と34℃の重力


 四月の放課後が持つ特有の浮遊感が校舎全体を包み込んでいた。部活動へと急ぐ生徒たちの足音、遠くのグラウンドから響く野球部の掛け声、そして新しいクラスに馴染もうとする微かな緊張を含んだ笑い声。それらが混ざり合った「青春」という名の不可視の喧騒を、僕は心地よいBGMとして聞き流していた。

 

 校舎の北棟、その最奥にある重厚な引き戸の前に立つ。指先に触れた真鍮の取っ手はひやりと冷たく適度な重みがある。息を吸い込みゆっくりと力を込める。ガタ、という微かな振動と共に扉が開くとそこには世界が切り替わる境界線があった。

 

 図書室。一歩足を踏み入れた瞬間、空気が変わる。埃とインク、そして酸化した紙が放つ甘く乾いた匂い。それらが沈殿するこの空間はまるで深い水底のようだ。西日が窓際のブラインドを透過し、書架の列を琥珀色の縞模様に染め上げている。

 

 僕は足音を忍ばせ書架の回廊へと進む。床のリノリウムを踏みしめるたび、制服の下にある筋肉がわずかに収縮し身体の重心を安定させるのを感じる。中学時代の三年間、ボクシングジムで徹底的に鍛え上げられたこの肉体は今や僕の意志とは無関係に常に最適なバランスを保とうとしているらしい。以前、クラスメイトの男子がふざけて背中から飛びついてきたことがあったが、僕はよろめくこともなく彼を受け止めてしまった。「うわ、びくともしねえ」と驚かれたがそれは僕にとって当たり前のことになっていた。

 

 別に強さを誇示したいわけじゃない。ただ、今の僕はもう風が吹けば飛んでいくような弱々しい存在ではないという事実。自分の足で地面を踏みしめ、理不尽な重圧が掛かっても背骨を折らずに立っていられるという確かな感覚。それが僕の心に静かな余裕を与えてくれていた。かつてのように怯えて逃げ込む場所としてではなく、純粋に知的好奇心を満たす場所として僕はここに来ている。その変化が少しだけ誇らしかった。

 

 「……ええと、新着コーナーは……」

 

 今日のお目当ては先日予約しておいた海外ノンフィクションの新刊だ。ボクシングを辞めた今でもトレーニングは続けているが、最近はそれ以上にかつて遠ざかっていた「言葉」の世界に触れることが楽しくて仕方がない。スポーツ科学の実用書だけでなく歴史、哲学、小説と手当たり次第に乱読している。

 

 目的の棚へ向かおうとしてふと、視界の端をよぎった背表紙に足が止まった。文庫棚の「あ行」。西日を受けてそこだけ時間が止まったような懐かしい色彩を放っていた。

 

 『九条綴の完璧な余白』シリーズ。著者、淡島宗太郎。

 

 「……懐かしいな」

 

 思わず小さく声が漏れた。小学生の頃読み耽ったシリーズだ。推理小説としても面白かったが、何より僕は主人公である「九条綴」という探偵に惹かれていた。凛として孤高で他者に媚びず、真実を見抜く知性を持った女性。当時の僕にとって彼女は物語の中の登場人物という枠を超えた、ある種の「初恋」の相手だったと言ってもいい。現実にいたらきっと緊張して目も合わせられないだろう。けれどその高潔な在り方にただただ憧れていた。

 

 ふと、並べられた背表紙に違和感を覚えた。第一巻、第三巻、第四巻……。綺麗に揃っているはずのシリーズの中に、ぽっかりと空いた隙間があった。

 

 第二巻がない。

 

 誰かが借りているのだろうか。少し意外だった。かなり前の作品だし絶版になりかけていると聞いていたから、今どきの高校生でこれを読む人がいるとは思わなかった。貸出カードの痕跡を見るに、最近借りられたようだ。

 

 「同志がいるのか」

 

 顔も知らない誰かだが同じ物語、同じヒロインの魅力を知っている人がこの学校にいる。そう思うとなんだか少し嬉しくなった。今度また読み返してみようか。そんなことを考えながら僕はその棚を離れようと身体の向きを変えた。

 

 その時だった。書架の向こう、窓際の閲覧席から紙をめくる微かな音が聞こえた気がした。

 

 何気なく視線を向ける。西日が長く伸びるその先に一人の少女が座っていた。

視線の先、窓際の一等席とも呼べる場所に彼女はいた。

 

 世界が、一瞬で彩度を変えたような錯覚を覚えた。西日がブラインドの隙間から鋭角に差し込み、舞い上がる塵のひとつひとつを金粉のように輝かせている。その光の粒子の向こう側で彼女はただ静かに活字の海へと沈殿していた。

 

 心臓が、肋骨の内側で大きく一度だけ跳ねた。驚きでもあり畏怖でもあった。あるいは長く探し求めていた何かを不意に見つけてしまった時のような運命的な震えだったのかもしれない。

 

 彼女はまるで精巧に作られた硝子細工のようだった。背もたれに体重を預けることなく、背筋を凛と伸ばした座り姿。華奢な肩から流れる黒髪は夕陽を吸い込んで濡れた烏の濡れ羽色に艶めいている。白磁のように透き通った肌は血の赤みを感じさせないほどに蒼白。それがかえって彼女の人間離れした美しさを際立たせていた。制服の着こなしひとつとっても、隙がない。襟元は正しく整えられ、スカートのプリーツは乱れなく落ちている。

 

 けれど僕の目を何よりも奪ったのはその横顔の造形だった。縁の細い銀色の眼鏡。その奥にある瞳は伏せられているためによく見えないが、長い睫毛が落とす影が彼女の思索の深さを物語っている。ページを捲る指先はまるで壊れ物を扱うかのように繊細で優雅だった。

 

(……あ)

 

 彼女の手元にある文庫本の表紙がふとこちらを向いた。幾何学模様の地味な装丁。見間違えるはずがない。それはさっき棚から消えていた『九条綴の完璧な余白』の第二巻だった。

 

 思考の回路がパチリと音を立てて繋がる。彼女が借りていたのか。その事実を確認した次の瞬間、僕の脳裏にある強烈な既視感がフラッシュバックした。

 

 ――似ている。

 

 いや、そんな生温い言葉では足りない。僕の記憶の中に住む「彼女」が、インクと紙の次元を超えて質量を持って顕現したかのようだった。

 

 孤高の探偵、九条綴。

 

 神保町の古書店で玉露を啜りながら論理の糸を紡ぐあの気高いヒロイン。僕が幼い頃から憧れ続け、その在り方を心の支えにしてきた「初恋」の幻影。目の前の少女が纏う空気は僕が想像の中で何度も描いてきた九条綴そのものだった。人を寄せ付けない冷ややかさと内側に秘めた知性の輝き。静謐でありながら決して折れない芯の強さ。

 

 息をすることさえ忘れていた。ただの偶然だとは分かっている。彼女はこの学校の生徒でたまたま同じ本を読んでいて、たまたま雰囲気が似ているだけの他人だ。けれど、この図書室という閉じた聖域の中で夕陽に切り取られたその光景は、あまりにも出来すぎた「物語」のワンシーンのように思えた。

 

 近づきたいと思った。どんな声をしているのか聞きたい。その眼鏡の奥の瞳がどんな色をしているのか確かめたい。けれど同時に強烈な躊躇いが足にブレーキをかける。

 

 僕は自分の手を見た。ボクシンググローブの中で何千、何万回と握りしめられサンドバッグを叩き続けてきた拳。関節は節くれ立ち、皮膚は厚く掌には豆が潰れて固まった痕がいくつもある。制服の袖に隠された腕は人を殴るために最適化された筋肉の塊だ。対して彼女はどうだ。あの指先の白さ、硝子のような脆さを感じさせる佇まい。僕のような「暴力」の匂いを纏った人間が、不用意に近づいていい存在ではない気がした。彼女の完璧な静寂を、僕の無骨な足音が汚してしまうのではないかという恐怖。

 

 昔の僕ならここで引き返していただろう。「僕なんかが」と俯いて遠くから眺めるだけで満足していただろう。

 

 ――でも。

 

 僕は拳をぎゅっと握りしめた。掌に爪が食い込む痛みを確認する。僕は変わったはずだ。理不尽に耐えるだけの弱虫ではない。自分の意志で立ち、自分の足で歩くために三年間血の滲むような努力をしてきたのだ。ただ「声をかける」だけのことに何を怯えているんだ。相手は物語の住人じゃない。同じ高校に通う一人の人間だ。

 

 「……ふぅ」

 

 短く息を吐き出し肺の中の空気を入れ替える。リングに上がる前と同じだ。恐怖はある、緊張もある。けれど、それらを飲み込んで一歩を踏み出す勇気だけはジムの会長と先輩たちが叩き込んでくれた。

 

 僕は歩き出した。極力音を立てないように。脅かさないように。リノリウムの床をボクシングのステップのように滑らかに踏みしめる。一歩、また一歩と近づくにつれインクの匂いに混じって微かな、本当に微かな石鹸のような香りが鼻先を掠めた気がした。

 

 彼女の席の斜め前に立つ。彼女は気づかない。完全に本の世界に没入している。その集中力さえも九条綴らしいと思ってしまう自分がいた。

 

 「あの」

 

 喉の震えを抑え込みできるだけ柔らかく穏やかな声を紡ぐ。静寂が破れる音。ビクッ、と彼女の細い肩が大きく跳ねた。

 

 しまった、驚かせたか。後悔が胸を刺すより早く彼女の手がパタンと本を閉じる音が響いた。長い睫毛が震え、ゆっくりと顔が上げられる。夕陽の逆光で陰になっていたその表情が露わになる。

 

 「……っ」

 

 視線が絡み合った。眼鏡の奥にある瞳は深い闇色をしていた。けれど、それは決して濁った闇ではない。星ひとつない夜空のように澄み切った底知れない深淵。その瞳に見つめられた瞬間、僕は自分の身体の奥底まで見透かされたような錯覚に陥った。

 

 彼女は何も言わなかった。ただじっと、僕を見上げている。その眼差しには媚びも愛想笑いもあるいは不快感さえもなかった。あるのは絶対零度の静寂だけ。まるで不意に現れた闖入者を論理的に分析しようとしている探偵のような。

 

 「……す、すみません。驚かせてしまって」

 

 用意していた台詞が飛び咄嗟に謝罪の言葉が出る。僕の威圧感のせいだろうか。身長179センチの男が急に目の前に立てば誰だって警戒する。僕は反射的に背を丸め、少しでも身体を小さく見せようとした。

 

 「その本」

 

 間が持たず僕は彼女の手元を指差した。彼女の視線が自分の膝上の文庫本へと落ちる。

 

 「棚に二巻だけなかったので、誰が読んでいるのかなと思って。……僕も、その本を探していたんです」

 

 嘘ではないが半分は言い訳だった。本当はただ君と話してみたかっただけだ、なんて口が裂けても言えない。

 

 彼女は数秒の沈黙の後、小さく口を開いた。

 

 「……これを、探していらしたのですか」

 

 響いた声は想像していたよりもずっと低くそして美しかった。アルトの音域。鈴を転がすというよりは、上質なベルベットを撫でるような落ち着きのある響き。そして、その言葉遣い。「いらしたのですか」同級生相手に使うにはあまりにも丁寧で古風な敬語。

 

 「あ、はい。でも急かしたいわけじゃないんです。僕も昔読んだことがあって、懐かしくて読み返そうかなと思っただけなので」

 

 僕は慌てて手を振った。彼女は小首を傾げ、伏し目がちに呟く。

 

 「奇遇ですね」

 

 その一言のイントネーションがまたしても僕の心臓を揺さぶった。淡々としているのにどこか芝居がかったような、あるいは詩の一節を朗読しているような響き。

 

 「私にとっても、これはバイブルですので」

 

 バイブル。その言葉を選んだセンスに僕は思わず目を見開いた。ただの「好きな本」ではない。「聖書」と呼ぶほどの重み。それは僕がこの本に対して抱いている感情と寸分違わず同じものだった。

 

 「……僕もです」

 

 自然と声に熱がこもった。図書室の静寂など忘れて僕は一歩踏み込んでいた。

 

 「僕にとってもそれはバイブルなんです。小学生の頃ずっと読んでいました。……まさか、この高校で読んでいる人がいるなんて思わなくて」

 

 彼女が顔を上げる。眼鏡の奥の瞳が僅かに揺らいだように見えた。それは警戒の色が薄れ、戸惑いとほんの少しの好奇心が混ざり合ったような光だった。

 

 「九条綴の、あの生き方が好きなんです」

 

 僕は止まらなかった。ずっと誰かと共有したかった想い。けれどマニアックすぎて誰にも通じなかった情熱が堰を切ったように溢れ出した。

 

 「論理的で媚びなくて。……強くて優しい人だ」

 

 言い切ってから少し恥ずかしくなった。「強くて優しい」そんなありきたりな言葉でしか表現できない自分の語彙力が恨めしい。けれど彼女は笑わなかった。むしろその言葉を噛み締めるようにゆっくりと瞬きをした。

 

 「……強くて、優しい」

 

 彼女は僕の言葉を反芻した。その声には微かな痛切さが滲んでいるように聞こえた。まるで、その言葉が彼女自身のどこか柔らかい部分に触れたかのように。

 

 「そう、ですね。彼女は……余白の中に真実を見出す人ですから」

 

 彼女は文庫本の表紙を、白く細い指先で愛おしげに撫でた。

 

 「論理だけでは割り切れない人間の情動を理解しながら、それでも論理という光で闇を照らそうとする。……その高潔さは、とても得難いものです」

 

 完璧だ、と僕は思った。その感想も、語り口も、佇まいも。目の前の彼女は単なる読者ではない。九条綴という精神を自らの血肉としているかのような深みがある。

 

 「同志に会えて光栄です」

 

 彼女は再び顔を上げ、僕に向かって小さく、けれど優雅に会釈をした。その所作の美しさに僕は言葉を失った。夕陽が彼女の背後で燃えている。逆光の中で微笑むように見えた彼女は、この世のものとは思えないほど幻想的で神々しかった。

 

 名前も知らない。クラスも知らない。けれど僕たちは「九条綴」という共通言語を通して確かに繋がった。それはボクシングジムで拳を交わした仲間との絆とは違う、もっと静かで、もっと深い魂の共鳴のようなものだった。

 

 「あ、あの。僕は、1年3組の瀬戸皓二朗といいます」

 

 名乗らなければと思った。この出会いをただのすれ違いで終わらせたくない。この人ともっと話をしたい。もっと「言葉」を交わしたい。

 

 「……梶、た……カジタ、カヤです」

 

 彼女――梶田さんは少し躊躇った後、静かに名乗ってくれた。カヤ。不思議な響きの名前だと思った。けれど、その響きは彼女の透明感のある雰囲気にひどく似合っていた。

 

 「梶田さん、これからよろしくお願いします」

 

 何に対しての「よろしく」なのか、自分でもよく分からなかった。彼女と本の話をしたいという願望なのか、それとも。彼女は困ったように、けれど少しだけ頬を緩めて「こちらこそ」と返してくれた。

 

 その時、予鈴のチャイムが鳴った。図書室の閉館時間ではない。下校時刻までまだ間がある。これは委員会の活動時間や部活動の移動を促す合図だ。

 

 「……失礼します」

 

 梶田さんがすっと立ち上がった。椅子を引く音すら静かだ。彼女は大切そうに文庫本を抱えると、僕に向かって軽く頭を下げた。

 

 「図書委員の当番がありますので。……それでは、ごきげんよう」

 

 ごきげんよう。現実でそんな言葉を使う女子高生を初めて見た。けれど、彼女が言うとそれは古臭い言葉ではなく、気品ある挨拶として成立していた。

 

「あ……」

 

 引き止める理由はない。僕はただの利用者で彼女は委員だ。彼女は迷いのない足取りでカウンターの方へ向かっていく。その背中は華奢で、どこか儚げだが同時に凛とした拒絶のオーラも纏っている。彼女の業務の邪魔になる。名残惜しさはあったが、僕は素直に引き下がることにした。

 

 僕は鞄を肩にかけ直し出口へと向かった。重厚な扉に手をかけ最後に一度だけ振り返る。

 

 書架の陰。夕陽の中に立つ彼女がこちらを見ていた。逆光の中で彼女は小さく手を振った――気がした。いや、それは単に眼鏡の位置を直しただけだったかもしれない。

 

 扉を閉め廊下に出る。ひやりとした校舎の空気が火照った頬を撫でた。

 

 心臓がまだ高鳴っている。僕は自分の掌を見つめた。そこにはたった文庫本一冊の重みと、微かに残る彼女の香りの記憶があった。

 

 梶田カヤさん。九条綴のような少女。

 

 「……明日も、来よう」

 

 自然と言葉が口をついて出た。本を借りるためだけじゃない。また彼女に会いたい。あの静謐な空間で言葉を交わしたい。その願いは、きっと明日からの僕の学校生活を今までとは違う鮮やかな色に変えてくれるはずだ。

 

 廊下の窓から見える空はいつの間にか茜色から深い群青へと変わりつつあった。僕は軽やかな足取りで昇降口へと続く階段を降りていった。

 

 自分が信じ込んだその「完璧な虚像」の裏側にどれほど深い絶望と、歪な真実が隠されているのか。それを知る由もないまま、僕はただ純粋な高揚感だけを胸に、春の夜へと踏み出した。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。