銀の蛹は34℃の殻で微睡む   作:餡穀

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ニュートンの誤算とスコヴィル値の境界線

 五月の風が初夏の湿り気を帯び始めた頃のことだ。中間テストという学生にとっての最初の関門を無事に(僕にとっては余裕で梶田さんにとっては冷や汗まじりの綱渡りで)乗り越えたある日の放課後。

 

 僕はいつものように安らぎを求めて図書室へと足を運んだ。けれど、その日の聖域はいつもと少し様子が違っていた。普段なら静寂に包まれているはずのカウンター奥の作業スペースから何か重いものを引き摺るような、苦しげな物音が聞こえてくるのだ。

 

 「……くっ、……ふぅ……っ」

 

 微かな、けれど気合の入った声。書架の陰からそっと覗き込むと、そこには軍手をした梶田さんが自分の背丈の半分ほどもありそうな段ボール箱の山と対峙していた。今日は図書委員の定例作業日らしく新着図書の受け入れ作業をしているようだ。

 

 「こんにちは、梶田さん。……すごい量だね」

 

 僕が声をかけると彼女はビクリと肩を震わせ慌てて姿勢を正した。乱れかけた前髪を指先で払い何事もなかったかのように涼しい顔を作る。

 

 「せ、瀬戸さん。……ごきげんよう」

 

 彼女は額に滲んだ汗をそっと拭い、眼鏡の位置を直して微笑んだ。

 

 「お見苦しいところを。……年度始めの予算で購入された書籍が一気に入荷したもので、少々難儀しておりました」

 「手伝おうか? 見るからに重そうだし」

 

 僕は申し出た。段ボール箱の側面には『世界美術全集』や『日本百科事典』といった文字が見える。重量級のハードカバーがぎっしり詰まっているのは明白だ。女子一人で扱うには無理がある。

 

 しかし、梶田さんは首を横に振った。

 

 「いいえ、お気遣いなく。これは図書委員の仕事ですから」

 

 彼女はきっぱりと言った。その瞳には並々ならぬ決意とプロフェッショナルとしての矜持のようなものが宿っていた。

 

 「それに本の運搬に必要なのは腕力ではありません。重心のコントロールと書物を敬う心です。……古今の知識を預かる身として、ただ重いからといって他者に頼るようでは、この場所を守る資格はありませんから」

 

 彼女は凛として言い放った。その言葉を聞いた瞬間、僕の胸に既視感のある感動が押し寄せた。

 

 (……なんてストイックなんだ)

 

 僕の脳裏に小説『九条綴の完璧な余白』のヒロイン・九条綴の姿が重なった。古書店の娘である九条綴もまた本を単なる物質として扱わず、その重みさえも愛おしむように接していた。梶田さんのその姿勢は、まさに九条綴そのものだ。彼女はただの図書委員じゃない、物語の世界の住人のような高潔な魂を持っているんだ。

 

 「……分かった、邪魔をしてごめん」

 

 彼女のプライドを尊重すべきだと思った僕は引き下がることにした。

 

 「じゃあ僕はそこの席で本を読んでるから。……でも、本当に無理だと思ったら言ってね」

 「ええ。ご心配なく。……すぐに終わらせて優雅なお茶の時間にいたしましょう」

 

 彼女は余裕の笑みを浮かべて再び段ボール箱に向き合った。僕は邪魔にならないよう少し離れた閲覧席に座った。けれど、どうしても気になって本を開いたふりをしながらページの上からそっと彼女の様子を窺っていた。

 

 彼女は段ボール箱の前に立ち一つ深呼吸をした。その横顔は真剣そのもので、まるでこれから強大な敵に挑む戦士のようだ。腰を落とし箱の底に手を掛ける。無駄のないフォームだ。きっと彼女の頭の中では物理法則に基づいた完璧なシミュレーションができているのだろう。

 

 「……せーのっ!」

 

 小さな掛け声と共に彼女の身体に力が入るのが見えた。

 

 ……しかし、箱は微動だにしなかった。まるで床に根が生えたように鎮座している。

 

 (あ……)

 

 彼女の肩が強張るのが見えた。焦ったように位置を変え、顔を赤くし再度力を込める。

 

 「んんんーーーっ……!!」

 

 プルプルと細い腕が震えている。見ていてハラハラした。精神論や技術でどうにかなる重さじゃない。それでも彼女は諦めない。その執念だけで箱が数センチ、床から浮き上がった。

 

 浮いた、と思った瞬間だった。

 

 「あ」

 

 限界を迎えたのか彼女の手から箱が滑り落ちた。それと同時に反動でバランスを崩した彼女の身体が後ろによろめく。その背後には角張ったスチール製のブックトラックがあった。

 

 「――危ない!」

 

 僕は反射的に席を蹴っていた。鋭い音と共に床を滑るように距離を詰める。考えるよりも先に身体が動いていた。

 

 ドン、という鈍い衝撃。間に合った、硬い金属音がしなかったことに安堵する。

 

 彼女が恐る恐る目を開けるのが見えた。その視線の先、至近距離に僕の顔がある。 僕の左手は、よろめいた彼女の背中を支え、右手は落下しかけた段ボール箱の底をガッチリと掴んでいた。

 

 「だ、大丈夫? 梶田さん」

 「……せ、瀬戸、さん……?」

 

 彼女は呆然として僕を見上げていた。至近距離にある瞳が揺れている。僕は箱を片手で持ったまま彼女の体勢を立て直した。

 

 「ごめん、驚かせて。……でも怪我がなくてよかった」

 

 僕はホッと息を吐き、掴んでいた段ボール箱をひょいと持ち上げた。ズシリと重い、確かにこれは女子一人には厳しい重さだ。美術全集がぎっしり詰まっている。これを持ち上げようとした彼女の根性は凄いがやはり無茶だった。

 

 「これ、一番上の棚でいいのかな?」

 

 僕は彼女に尋ねながら箱を肩の高さまで持ち上げ、指定の棚へと滑り込ませた。中学時代、毎日のようにサンドバッグを叩き体幹トレーニングを繰り返した成果だ。これくらいの重量なら体全体のバネを使えば大したことはない。

 

 「あ……」

 

 梶田さんは口を半開きにしたまま固まっていた。その視線が僕の腕――夏服のシャツの袖口から覗く上腕に注がれていることに気づいた。

 

 (……しまった)

 

 僕は慌てて腕を下ろした。力を入れた瞬間、筋肉が膨張してシャツが少し窮屈になったのを感じていた。血管が浮き出ていたかもしれない。彼女のような深窓の令嬢にとって、こういう無骨な「オス」を感じさせる肉体は野蛮で不快なものかもしれない。

 

 「ご、ごめんね。勝手なことして。……あの、僕こういう力仕事だけは得意だからさ」

 

 僕は言い訳のように早口で言った。かつてついた『ロジカルゴリラ』というあだ名が脳裏をよぎる。彼女の知的で優雅な世界観にゴリラは似合わない。

 

 けれど、梶田さんの反応は僕の予想とは違っていた。

 

 「……いえ」

 

 彼女はフルフルと首を横に振った。その顔は、ほんのり赤く染まるどころか首筋まで真っ赤に燃え上がっていた。頬を隠す長い髪の隙間から熱が漏れ出しているようだ。

 

 「……情けない、です」

 「え?」

 「あれほど大きなことを言っておいて……結局、瀬戸さんにおんぶに抱っこだなんて……」

 

 彼女は自分の細い手首を握りしめ、悔しそうに唇を噛んだ。

 

 「穴があったら入りたいとは、まさにこのことです……」

 

 彼女の心臓は屈辱と恥ずかしさで爆発寸前だった。彼女は両手で顔を覆い、その場にしゃがみこんでしまいそうなほど恐縮していた。どうやら僕の筋肉に引いたわけではなく、自分の「大言壮語」と「失敗」のギャップに耐えられないらしい。あんなに格好良く「重力ごときに屈しない」と宣言した直後に助けられたのだから、プライドの高い彼女にとっては拷問に近い羞恥なのだろう。

 

 「……梶田さん? 顔が真っ赤だけど、大丈夫?」

 「ひゃっ!?」

 

 僕が心配して顔を覗き込むと彼女は感電したように跳ねのいた。両手で頬を覆い髪で隠された耳元まで必死に隠そうとしている。

 

 「だ、大丈夫です! いえ、大丈夫ではありません! 恥ずかしくて死にそうですわ!」

 

 語尾がおかしい、お嬢様言葉が崩壊しかけている。

 

 「そ、そうですか。ならいいんだけど……」

 「あの……残りの箱も! すべて瀬戸さんにお願いしてもよろしいでしょうか!?」

 

 彼女は涙目で懇願してきた。もうプライドも何もあったものじゃないという捨て鉢な態度だ。

 

 「え? うん、もちろん」

 「私は……私は、こちらのバーコード登録を専任しますので! もう二度と、身の程知らずな真似はいたしません!」

 

 彼女は逃げるようにパソコンの前へと移動し背中を向けた。その背中が小刻みに震えているのを見て僕は首を傾げた。自分の失敗をそこまで恥じるなんて、彼女は本当に完璧主義なんだな。

 

 (……もっと、彼女の顔を立ててあげればよかったかな)

 

 僕は反省しつつ残りの段ボール箱を次々と棚へと運び始めた。僕には彼女のような高潔な精神も優雅な振る舞いもできない。できることと言えば、こうやって単純な力仕事を引き受けることくらいだ。

 

 窓の外では五月の太陽が西の空へと沈んでいく。図書室の床に二人の影が長く伸びていた。パソコンに向かう彼女の影と本を運ぶ僕の影。その二つが時折重なり合うのを僕は少しだけ嬉しい気持ちで眺めていた。

 

 結局、この日の作業は僕が力仕事を一手に引き受けることで無事に終わった。けれど、梶田さんの「理想のヒロイン化計画」の失敗はこれだけでは終わらなかったのだ。

 

 図書室での「段ボール事件」から数日後、昼休みの喧騒に包まれた学食に珍しい客の姿があった。

 

 「珍しいね、梶田さんが学食に来るなんて」

 

 トレーを手に並びながら僕は前の背中に声をかけた。普段は人混みを避けて教室や中庭で静かにパンを食べている彼女が、今日は自ら進んでこの「戦場」に足を踏み入れている。その背筋はピンと伸び、まるでこれから重要な会議に臨むような緊張感を漂わせていた。

 

 「ええ、たまには温かい食事も良いかと思いまして」

 

 彼女は振り返り優雅に微笑んだ。その笑顔は完璧だったが眼鏡の奥の瞳には、どこか悲壮な決意のようなものが揺らめいている気がした。彼女のことだ、また何か僕には計り知れない高尚なテーマや目的があるのかもしれない。

 

 「次はー、何にする?」

 

 配膳係のおばちゃんに声をかけられ梶田さんは一歩前に出た。その注文を聞いた瞬間、僕は耳を疑った。

 

 「『ビーフカレーの辛口』を一つ。……ライスは少なめでお願いします」

 「はいよ、辛口ね」

 

 辛口?  僕は思わず彼女の横顔を凝視した。この学食の辛口カレーは、運動部の男子生徒が好んで食べるような、結構パンチの効いたスパイシーさが売りだ。深窓の令嬢のような彼女のイメージとは対極にある。胃腸の弱そうな彼女が、なぜあえてそんなものを?

 

 「……梶田さん?」

 

 僕は思わず名前を呼んだ。「本当にそれでいいの?」というニュアンスを込めて。すると彼女は、僕の視線に気づいて小さく微笑んだ。

 

 「九条綴の好物を食してみようかと」

 「ああ、なるほど」

 

 僕は納得した。小説『九条綴の完璧な余白』の中で、ヒロインの九条綴は無類のカレー好きとして描かれている。古書の解読に没頭し、深海に沈むように意識が現実から乖離してしまった彼女が此方の世界に浮上するための手段。空腹とカレーを食べたいという欲求が彼女を現世へと呼び戻す。

 

 「……そっか。そういうことなら止められないね」

 

 僕は苦笑して頷いた。彼女も本のファンとして「九条綴」へのリスペクトを持っている。その姿勢には、いつも感心させられるばかりだ。

 

 「僕はポークカレーの甘口で」

 

 だが、その隣で僕は自分の胃袋と相談して安全策を取った。午後の授業で眠くなるのを避けたいしボクシングをやめてからも食事管理の癖で、あまり刺激の強いものは避けるようにしている。

 

 運良く窓際の席が空いていたので向かい合って座る。周囲はガヤガヤと騒がしいが彼女の周りだけ空気が凛と澄んでいるように見える。

 

 「では、いただきます」

 

 彼女は両手を合わせ、まるで茶道の作法のように美しくスプーンを手に取った。その所作に見惚れつつ僕も手を合わせる。

 

 彼女が最初の一口を口に運んだ。背筋を伸ばし脇を締め、あくまで優雅に。 咀嚼、嚥下。

 

  ……その直後だった。

 

 「…………ッ!!?」

 

 彼女の動きが凍りついたように止まった。涼やかだった表情が、みるみるうちに強張っていく。白い頬が急速に赤く染まり額に珠のような汗が浮かび上がるのが見えた。

 

 「……梶田さん? どうしたの?」

 

 僕が声をかけると彼女はビクッと肩を震わせ、強引に口角を持ち上げた。

 

 「……なんでも、ありませんわ。……とても、スパイシーで……美味しい、ですわ」

 

 声が震えている、たまに出てくる変なお嬢様言葉も顔を出している。これは明らかに無理をしているサインだ。いや、無理どころではない。彼女の瞳が潤み、今にも決壊しそうになっていた。

 

 (……もしかして、辛いのが苦手だったんじゃ?)

 

 そう思った時には彼女は意地で二口目を口に運んでいた。それが決定打だった。

 

 「ふぐっ……!」

 

 カチャン、と彼女の手からスプーンが滑り落ちた。彼女は口元を手で覆い小刻みに震え出した。大きな瞳からポロポロと涙が溢れ出しレンズを濡らす。

 

 「はぁ……っ、はぁ……!」

 

 苦しそうだ、顔は真っ赤で呼吸も荒い。まるで猛毒でも盛られたかのような拒絶反応だ。見ていられなかった。彼女のプライドが高いことは知っているけれど、これは緊急事態だ。

 

 「水! 水飲んで!」

 

 僕は慌ててコップを差し出した。彼女はそれをひったくるように受け取り一気に飲み干した。けれど、カプサイシンの刺激は水程度では消えない。彼女は涙目で机に突っ伏しそうになっている。

 

 どうする、このままでは彼女が可哀想すぎるし午後の授業どころじゃない。僕は瞬時に決断し自分のトレーを引き寄せた。

 

 「……交換しよう」

 「は……?」

 

 涙に濡れた顔が僕を見上げる。僕は手つかずの甘口ポークカレーを彼女の目の前に押し出し、代わりに彼女の食べかけの辛口カレーを自分の手元に引き寄せた。

 

 「僕、実は辛いのが食べたかったんだ。注文間違えちゃってさ」

 

 見え透いた嘘をついた。さっき彼女の目の前で「甘口」とはっきり頼んだのだからバレバレだ。けれど今の彼女に必要なのは「正論」ではなく「逃げ道」だと思った。

 

 「で、でも……私、口をつけましたし……汚いです……」

 「気にしないよ。……ほら、こっちは甘口だから。牛乳もあるし」

 

 僕は自分のセットについていた牛乳パックも彼女に渡した。牛乳の脂肪分は辛さを和らげるのに一番効果的だ。

 

 「それに無理して食べることないよ。……食事は美味しく食べるのが一番だから」

 

 僕はなるべく優しい声で言った。彼女はしばらく迷っていたが、やはり舌の痛みには勝てなかったらしい。

 

 「……すみません」

 

 消え入りそうな声で謝り、僕のポークカレーを一口食べた。途端に彼女の表情がふわりと緩んだ。安堵の色、その無防備な顔を見て僕は胸を撫で下ろした。よかった、落ち着いたみたいだ。

 

 さて、僕の方だが目の前には彼女が二口だけ食べてギブアップした「辛口カレー」がある。僕はスプーンを手に取りパクついた。

 

 ……うん、確かに辛い。ピリリと舌に来る。けれど食べられないほどじゃない。むしろ運動後の身体にはこれくらいの刺激が心地よかったりする。これをあそこまで苦悶の表情で食べるなんて彼女の感覚はよほど繊細なのだろう。

 

 「うん、結構いけるね。……次はこっち頼もうかな」

 

 僕は彼女に気を使わせないよう、努めて明るく振る舞いながら完食した。彼女は申し訳なさそうに、けれど少し尊敬の眼差しで僕が食べる様子を見つめていた。

 

 食後、僕たちは購買で甘いカフェオレを買い、中庭のベンチに座っていた。五月の風が少し火照った僕たちの頬を撫でていく。

 

 「……また、助けられちゃいましたね」

 

 彼女は膝の上の文庫本をぎゅっと握りしめ、俯いていた。

 

 「重い荷物も持てない。辛いものも食べられない。……私は、本当にダメな人間です」

 

 その声は深刻な自己嫌悪に沈んでいた。先日の図書整理の一件も気にしているらしい。でも僕には彼女が「ダメ」だなんて全く思えなかった。

 

 「そんなことないよ」

 

 僕は即答した。

 

 「梶田さんは、すごいよ」

 「……へ?」

 「だって、いつも何かに挑戦してるじゃないか。図書室の仕事も完璧にこなそうとするし、苦手なものにも立ち向かおうとする。……その姿勢は誰にでもできることじゃないよ」

 

 本心だった。彼女は自分に厳しい、きっと彼女の中には僕には見えない「高い理想」があるのだろう。それに届かない自分を責めて、傷ついて。それでもまた背筋を伸ばして歩こうとする彼女の姿は僕の目にはとても眩しく、尊いものに映っていた。

 

 「僕は不器用だからさ、梶田さんみたいに高い理想を持って自分を変えようとする人は格好いいと思うんだ」

 

 僕の言葉を聞いて彼女は目を見開いた。そして、みるみるうちに顔を赤くして慌ててそっぽを向いてしまった。

 

 「……貴方はお人好しすぎます」

 「よく言われるよ」

 

 僕は苦笑した。彼女の長い黒髪の間から覗く首筋が夕焼けのように赤く染まっている。その反応が可愛らしくて僕は少しだけドキリとした。

 

 すると彼女は何かを言い淀むように視線を泳がせ、やがて意を決したように僕の方を向いた。

 

 「……あの」

 「ん?」

 「一つだけ、お願いしてもよろしいでしょうか?」

 

 彼女は上目遣いで僕を見た。眼鏡の奥の瞳が不安そうに揺れている。

 

 「お願いって?」

 「その……呼び方、のことなのですが」

 

 彼女は言いづらそうに言葉を紡いだ。

 

 「いつまでも『瀬戸さん』とお呼びするのは……その、少し他人行儀な気がしまして」

 「えっ」

 「これだけ助けていただいて、秘密も共有して……なのに壁があるようで心苦しいのです。ですから……」

 

 彼女は深呼吸をして、小さな声で続けた。

 

 「……瀬戸くん、と。お呼びしても構いませんか?」

 

 その言葉が耳に届いた瞬間、僕の心臓が大きく跳ねた。たかが「さん」が「くん」に変わっただけだ。クラスの女子なら普通に呼んでくる呼称だ。なのに彼女のあの落ち着いたアルトボイスで少し照れくさそうに紡がれる「瀬戸くん」という響きは、とてつもない破壊力を持っていた。

 

 「……も、もちろん。全然構わないよ」

 

 僕は動揺を悟られないよう必死に平静を装って答えた。

 

 「むしろ嬉しいよ。僕も、もう少しフランクに話せたらなって思ってたから」

 「本当ですか? ……よかった」

 

 彼女は花が咲くように微笑んだ。さっきまでの自己嫌悪で曇っていた表情が晴れ、初夏の陽射しのような明るさが戻る。

 

 「では、改めまして……よろしくお願いしますね、瀬戸くん」

 「うん。こちらこそ、梶田さん」

 

 僕たちは顔を見合わせて、なんとなく照れくさくなって笑い合った。中庭に予鈴のチャイムが鳴り響く。僕たちは並んで教室へと戻った。

 

 隣を歩く彼女との距離が昨日よりもほんの少しだけ縮まっている気がした。完璧であろうとして失敗し落ち込んで、でも勇気を出して一歩近づいてくれる。 そんな「梶田カヤ」という不思議な少女に僕はまた一つ、惹かれていくのを感じていた。

 

 彼女が何を目指しているのか僕にはまだ分からない。けれど、もしまた彼女が重い荷物に潰されそうになったり辛い現実に涙目になったりした時は、いつでも僕が助けよう。「瀬戸くん」と呼んでくれる彼女の信頼に応えるために。

 

 五月の風が、二人の背中を優しく押していた。

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