六月に入ると世界は灰色の膜に覆われた。窓の外を叩く雨粒がアスファルトを黒く濡らし、校庭の土の匂いを湿った風に乗せて運んでくる。梅雨、日本という国において最も情緒的でありながら最も鬱陶しい季節の到来だ。
そして、この季節はアスリスによって作り変えられたこの身体にとって「地獄」以外の何物でもなかった。
(……頭が、重い)
放課後の教室、帰りのホームルームが終わっても自分は席から立ち上がれずにいた。こめかみの奥で見えない小人が金槌を振るっているような鈍痛。血管の中に鉛を流し込まれたような倦怠感。『気象病』あるいは『低気圧不調』 かつて男だった頃は「雨くらいで大げさな」と鼻で笑っていた症状が、神経系まで繊細に再構築された今の身体には暴力的な負荷となってのしかかっている。
ふと、ここ最近の失態が走馬灯のように脳裏をよぎった。
先日の中間テスト、『高嶺の花』として周囲から期待されながら数学の方程式が解けずに眉間に皺を寄せ、結局、瀬戸くんに放課後まで付きっきりで教えてもらったこと。必死に猛勉強したが所詮は1年間で身に着けた付け焼刃のような知識。進学校の授業にはついていくのがやっとではないか。
図書委員の仕事、『九条綴』を気取って重い本を持とうとし、持ち上がらずに赤っ恥をかき瀬戸くんに助けてもらったこと。アスリスの最適化期は身体の再構成のエネルギーとして筋肉を優先的に消費する。BMIも平均以下の貧弱な身体で重量物を扱おうとしたのが物理的な間違いだった。
そして学食でのカレー事件。辛口カレーに挑んで涙目になり、あろうことか瀬戸くんに交換してもらったこと。感覚過敏なこの身体には食堂の喧騒ですら負担だった。さらに、ただの辛口カレーの辛みですら許容値を超えて毒と認識してしまう。そんなものを摂取すれば当然の結果だ。
(……弱点ばかり晒して、何が『理想のヒロイン』だ)
情けない。自分は彼に「良いところ」を見せたいはずなのに現実は「手のかかる世話焼き対象」に成り下がっている。かつての自分――あんなに尊大で強気だった過去の自分が今の姿を見たら、嘲笑うに違いない。
「梶田さん? ……大丈夫?」
頭上から遠慮がちな声が降ってきた。顔を上げると鞄を肩にかけた瀬戸皓二朗が心配そうに此方を覗き込んでいた。最近こうして放課後の教室に顔を出す程度に、少しだけ二人の距離は縮まった。それでも彼の態度は相変わらず紳士的で、そこには明確なリスペクトがある。
「……ええ。少し、気圧にやられているだけです」
強がる気力もなく、正直に答えた。
「そっか。……もし辛かったら、今日の本屋、延期にする?」
彼は気遣わしげに言った。そう、今日は放課後に駅前の書店へ行く約束をしていたのだ。彼が探している参考書と自分が予約していたシリーズの新刊を受け取るために。
「いえ、行きます。……予約していた本は今日発売ですし、少し歩けば気分転換になるかもしれませんから」
それに、と心の中で付け足す。学校の外で彼と二人で出かけるのは初めてのことだ。図書室や教室ではなく、外の世界で彼と歩く。それは友人として、人間として、彼ともっと対等に話せる好機だと思った。彼のその揺るぎない「善性」に触れるたび、自分の心が洗われるような気がするからだ。
「分かった。じゃあ、ゆっくり行こうか」
彼は優しく微笑み、此方の鞄を持とうとしてくれた。だが流石にそれは丁重に断った。これ以上、彼に負担をかけるわけにはいかない。
学校を出ると空はどんよりとした鉛色だったが、雨はまだ降っていなかった。湿った風が肌にまとわりつく。
並んで歩道を歩く。校内とは違い周囲には他校の生徒や一般の人々が行き交っている。 その日常の風景の中に彼と二人で溶け込んでいることが、どこか不思議で新鮮だった。
「……意外ですね」
「え?」
「瀬戸くんとこうして、学校の外を歩くなんて」
「そうだね。……なんか、新鮮だなぁ」
彼は少し照れくさそうに頬をかいた。その屈託のない笑顔を見ると胸の奥が温かくなる。それは恋愛感情というような甘いものではなく純粋な敬意に近い。彼は強い、ボクシングで鍛えた身体だけでなく何より心が強い。かつての自分が持っていなかった「他者を思いやる強さ」を彼は当たり前のように持っている。
しばらく歩くと駅へと続く大通りに出た。交通量は多いが信号機のない横断歩道がある場所だ。そこに一人の小さなお婆さんが立ち尽くしていた。腰が曲がり、手押し車を押している。横断歩道を渡りたそうにしているが、ひっきりなしに通る車がなかなか止まってくれないのだ。
(……見過ごすわけには、いかない)
足を止める。過去の自分なら間違いなく舌打ちをして通り過ぎていただろう。弱者が困っていようが知ったことではない、自分の時間を奪われることの方が不快だ。そうやって切り捨てていたはずだ。
だが今の自分は違う、違わなければならない。目の前の困っている人を見捨てたら、あの時彼に助けられた命を冒涜することになる。
(これは善意じゃない。義務だ)
自分に言い聞かせる。過去の罪を洗い流すための日々の積み重ね。元々聖人ではない自分が「まともな人間」の皮を被るための必死の努力だ。
「……梶田さん?」
瀬戸くんの声を背にお婆さんの隣に立つ。そして車道に向かって一歩踏み出し、右手を大きく挙げた。睨みつけるわけではない。あくまで優雅に、しかし「止まりなさい」という無言の圧力を込めてドライバーの目を真っ直ぐに見据える。
キキーッ、と一台のセダンが慌てたようにブレーキを踏んで止まった。対向車線のトラックも、それに釣られるように停車する。
「どうぞ、渡りましょう」
お婆さんに微笑みかけ、車道側に立って誘導した。
「ああ、ありがとうねぇ……すみませんねぇ」
お婆さんは何度も頭を下げながら、ゆっくりと歩き出した。彼女のペースに合わせ、車が動き出さないよう壁になりながら向こう岸まで送り届けた。
「気をつけて」
渡りきった先で一礼し、横断歩道を戻る。そこには、少し驚いたような、けれど納得したような顔をした瀬戸くんが待っていた。
「……お待たせしました」
戻って来ると彼は柔らかい目を向けた。
「梶田さんは、優しいね」
「……当たり前のことをしただけです。交通法規を守らない車が悪いのですから」
そっけなく答えてしまう。優しさではない、これは矯正された行動だ。染み付いた利己的な本性を理性と義務感でねじ伏せているだけに過ぎない。
だが、瀬戸くんは嬉しそうに続けた。
「知ってるよ。梶田さんがそういう人だってこと」
「え?」
「この前も学校の渡り廊下で倒れてた花瓶を直してたでしょ? あと誰も見てないのに昇降口のゴミを拾ってたり」
心臓が跳ねた。
「……見て、いたのですか?」
「うん。偶然だけどね。梶田さんは誰も見ていないところでも、誰かのために動ける人だなって。……そういうところ、すごく尊敬してるんだ」
彼の真っ直ぐな言葉に、顔がカッと熱くなった。
尊敬? 自分を?
(……やめてくれ。そんな目で見ないでくれ)
違う、これはただの「更生プログラム」だ。花瓶を直したのもゴミを拾ったのも、すべては「そうあるべき自分」を演じるための舞台装置の確認作業に過ぎない。元来の自分は他人の痛みなど踏みにじって嗤うような最低の人間だ。そんな自分が助けられたに値する人間になるために、必死でメッキを塗り重ねているだけだというのに。
「……尊敬されるような人間では、ありませんよ。私は」
小さな声で呟いた。それは謙遜ではなく、痛切な自白だった。聖人なんかじゃない、これは贖罪だ。かつて誰かを傷つけたことへの、そして救われた命を無駄にしないための惨めな足掻きだ。
逃げるように歩き出した。彼は何も聞かずに、ただ隣に並んで歩いてくれた。その無垢な信頼が今はひどく痛かった。
駅前の書店での用事はすぐに済んだ。新刊の小説を手に入れ、少しだけ心が軽くなった気がした。だが店を出ようとした時、自動ドアの向こう側は一変していた。
ザーーーーーッ……!
激しい雨音、いつの間にか本降りの雨になっていたのだ。アスファルトが白く煙るほどの豪雨。天気予報では「夜から」と言っていたのに随分と気が早い。
「わぁ、降ってきた……」
瀬戸くんが空を見上げて困ったように言った。書店の入口には雨宿りをする人々が数人溜まっていた。その中に一人の女子高生がいた。他校の生徒だろうか、スマホを耳に当てながら泣きそうな顔で空を見上げている。彼女の手には傘がない。制服は薄手で、これでは駅までの数分でずぶ濡れになってしまうだろう。
(……仕方ない)
鞄から、さっき買ったばかりのビニール傘を取り出した。本当は自分用に買ったものだが、まだ値札もついたままだ。
「あの」
女子高生に声をかける。
「え?」
「これ、使ってください。余分に持っていますので」
「えっ、でも……」
「風邪を引きますよ。どうぞ」
無理やり押し付けるように柄を握らせた。彼女は驚いた顔をしていたが、やがて「ありがとうございます!」と深々と頭を下げ、雨の中へと駆け出していった。
「……梶田さん」
一部始終を見ていた瀬戸くんが呆れたような、でも優しい声で言った。
「自分の傘、あげちゃったの?」
「……困っているようでしたから」
「じゃあ、梶田さんはどうするの? 傘、もうないよね?」
痛いところを突かれた。確かに手元にはもう何もない。だが、ここで「傘がないから入れてください」と言うのは、あまりにも図々しい気がした。さっき「尊敬している」と言われたばかりだ。彼の前では完璧で、余裕のある自分でいたかった。それに彼には家での用事があるはずだ。確か妹のために買い物をして帰るとか言っていた気がする。足止めをするわけにはいかない。
だから、咄嗟に嘘をついた。
「大丈夫です。……家から迎えの車が来ることになっていますので」
「えっ、そうなの?」
「はい、この近くまで来てくれる手はずです。ですから瀬戸くんは先に行ってください」
涼しい顔で言い放った。「深窓の令嬢」という設定を最大限に利用する。
「そっか……迎えが来るなら安心だね」
彼は素直に信じたようだった。人を疑うことを知らない彼の性格に少しだけ罪悪感を覚える。
「じゃあ僕は妹に買い物頼まれているから、ここで。……気をつけてね」
「ええ、瀬戸くんも」
彼はビニール傘を開き、雨の中へと歩き出した。一度だけ振り返り手を振って。
彼の背中が見えなくなるまで見送ってから大きく息を吐いた。
(……さて、どうするか)
迎えなんて来るわけがない。あるのは容赦なく降り注ぐ雨と傘のない自分だけだ。タクシーを拾うなんて贅沢は出来ない。家までは徒歩で二十分。気圧のせいで体温調整がうまくいっていない身体に、この冷たい雨は致命的かもしれない。
(……まあ、自業自得だ)
覚悟を決める。鞄を頭に乗せ、雨のカーテンの中へと足を踏み出した。
冷たい。一瞬で制服が水を吸い、肌に張り付く。奪われていく体温、震え出しそうになる歯を食いしばり一人、家路を急いだ。
◆
一方、瀬戸皓二朗は書店から少し離れたコンビニに立ち寄っていた。妹に頼まれていたお菓子を買うためだ。買い物を済ませ店を出ようとした時、ふと視界の端に何かが映った。
通りの向こう側、激しい雨の中を傘も差さずに急いで歩く人影。長い黒髪、見覚えのある制服。鞄を頭に乗せているが、そんなものでは防ぎようがないほどずぶ濡れになっている。
「……え?」
思考が停止した。あれは梶田さんだ、迎えの車が来ると言っていたはずの彼女だ。
「……なんで」
どうして歩いている? どうして傘がない? さっき、あの子にあげたから? 迎えなんて最初から嘘だったのか?
――困っているようでしたから。
彼女の言葉が蘇る。彼女は他人のために自分の傘を差し出し自分は濡れて帰ることを選んだのか。僕に気を使わせないために嘘をついてまで。
「……馬鹿ッ!」
僕は叫んでいた。手に持っていたコンビニの袋を握りしめ、雨の中へと飛び出した。
「梶田さん!!」
声は雨音にかき消される。彼女の足取りはフラフラとしていて、今にも倒れそうに見えた。
(間に合え……!)
僕は水たまりを蹴り上げ全速力で彼女の背中を追いかけた。彼女の「自己犠牲」が、どれほど危ういものか。そして、それが僕にとってどれほど放っておけないものか。胸の奥で渦巻く焦燥感に突き動かされ、僕はただ走った。
◆
ーー梶田さん!!
雨音を切り裂くような怒号が聞こえた気がした。幻聴だろうか、意識が朦朧としていた。視界は白く煙り地面の感覚がない。ただ寒い、骨の髄まで凍りつくような寒さが身体の自由を奪っていく。
(……ああ、やっぱり駄目だったか)
限界が近いことを悟った。アスリス特有の体温調節機能不全。34℃しかない平熱が、この豪雨によって一気に奪われ、生命維持に必要なラインを割り込もうとしている。足がもつれた、アスファルトが目前に迫る。
倒れる――そう思った瞬間だった。
ガシッ、と強い力で腕を引かれた。世界が反転し温かい壁のような何かに衝突する。
「……っ、何やってるんだよ!」
耳元で響く切迫した声。雨に濡れた前髪の隙間から見上げると、そこには息を切らした瀬戸皓二朗がいた。コンビニの袋を提げたまま、彼は鬼気迫る形相で此方を抱き留めていた。
「……せと、く……?」
「どうして嘘ついたんだ! 迎えなんて来てないじゃないか!」
彼の声には明確な怒りが混じっていた。普段の温厚な彼からは想像もつかないほど激しい感情の発露。彼は腕を掴んだまま、ハッとしたように目を見開いた。
「……冷たい」
彼の手が震えた。無理もない、今の自分の体温は生きている人間とは思えないほど冷え切っているはずだ。彼は慌てて此方の頬に触れ、首筋に触れた。どこもかしこも氷のように冷たい。
「なんだよこれ……異常じゃないか。どうしてここまで……」
「……だい、じょうぶ……です。すこし、濡れた、だけ……」
歯の根が合わず言葉がうまく紡げない。彼の腕を振りほどこうとした。これ以上、彼に迷惑をかけるわけにはいかない。
「離して、くだ……さい。私は、一人で……」
「ふざけるな!」
彼は抵抗を許さず、さらに強く抱き寄せた。
「自分を犠牲にして、誰かを助けて……それで満足なのか? こんなになって、倒れて、それで誰が喜ぶんだよ!」
「……それは」
「間違ってるよ、そんなの。自分を大事にできない奴に他人を救う資格なんてないんだ!」
その言葉は鋭い刃となって胸に突き刺さった。反論したかった。
「お前に何が分かる」と、「放っておいてくれ」と。けれど喉の奥から込み上げてきたのは言葉ではなく熱い塊だった。
(……ああ、この人は)
自分の脳裏に二年近く前の「ある冬の夜」の記憶が鮮烈にフラッシュバックする。
雪の降る凍てついた夜、河川敷の公園。不良グループに囲まれ、尊厳を踏みにじる命令を下された銀髪の少女――かつての自分。絶望し、心を殺して服を脱ごうとしたその時。
『……いい加減にしろ!』
割って入ったのは当時まだ中学生だった瀬戸皓二朗だった。彼は知っていたはずだ、ボクシングのライセンスを持つ者が素人に拳を振るえばどうなるか。決まっていたスポーツ推薦が取り消され、ジムを破門され、積み上げてきたアスリートとしての未来が全て灰になることを。
それでも彼は拳を握った。自分の輝かしい未来と引き換えにしてでも、泥にまみれた「どこの誰とも知らない少女」の尊厳を守るために。
『後悔なんて一つもないよ。……だって僕は君を守れたんだから』
後日、橋の上で再会した彼は全てを失ったにも関わらず、そう言って笑ったのだ。
(……キミが言うのか)
自分を犠牲にするな、と。誰よりも大きな犠牲を払って、他人を救った貴方が。自分の人生を棒に振ってまで俺のような「ゴミ」を拾い上げた貴方が。
そんな人間に「間違ってる」と叱られたら……自分は、どうすればいい。彼の怒りはそのまま彼自身の優しさの裏返しだ。彼は知っているのだ、自分を犠牲にして誰かを救うことの痛みと遺される側の悲しみを。誰よりも深く、その重みを知っているからこそ彼は怒っているのだ。
「……うっ……」
視界が滲んだ。雨のせいじゃない、涙だ。彼の優しさが痛かった。彼の怒りが尊かった。そして何より、そんな彼に対して何も返せない自分が、どうしようもなく情けなかった。
「……ごめんなさい……」
彼の胸に額を押し付け、声を上げて泣いた。彼には「叱られて泣いている弱い女子」に見えているだろう。けれど、この涙の本当の意味は彼への懺悔と言葉にできない深い感謝だった。
彼は近くの商店街のアーケードの下へと震える身体を運んでくれた。雨は凌げるが夜風は冷たい。
「……ごめん、言い過ぎた」
彼は背中をさすりながら沈痛な面持ちで謝った。
「でも、梶田さんが死んじゃいそうなほど冷たくなってて……怖かったんだ」
彼は自分のブレザーを脱ぎ、此方の上半身を包み込んだ。さらにコンビニ袋の中から、自分用に買ったのだろう温かい缶コーヒーを取り出し、両手に握らせた。
「これ、持ってて。少しでも温まるから」
「……ありがとう、ございます」
缶の熱と彼のブレザーに残る体温。それらが凍りついた身体を外側から溶かしていく。震えはまだ止まらないが意識ははっきりしてきた。
彼は隣に座り自分の両手で此方の冷たい手を缶コーヒーごと包み込んだ。大きな手、ボクシングで鍛えられた無骨で温かい手。あの夜、不良を殴り飛ばし未来を切り開いてくれた拳。その熱が直接心臓に流れ込んでくるようだった。
「……あのね、梶田さん」
彼は手を温めながら、ぽつりと言った。
「僕、コンビニでお菓子買ってたんだ。妹に頼まれて」
「……はい」
「その時、外は大雨だった。……なんで、駆けつける時に傘をもう一本買っておかなかったんだろうって、すごく後悔してる」
彼は悔しそうに唇を噛んだ。
「そんな簡単なことも想像できなかった自分が情けないよ。……そうすれば、こんなに濡れずに済んだのに」
「……瀬戸くんのせいではありません」
首を横に振った。
「私が嘘をついたからです。……貴方は何も悪くありません」
「ううん。……もっと、梶田さんのことを考えるべきだった」
彼の誠実さが今は凶器のように胸を抉る。どうしてこの男は、ここまで自分を責めることができるのか。その思考回路は、かつてのいじめられっ子特有の自罰的なものなのか、それとも彼自身の聖人君子のような資質なのか。
しばらくして震えが収まったのを確認すると彼は立ち上がった。手には、あの一本のビニール傘。
「……帰ろうか」
「はい」
「でも、傘はこれ一本しかないんだ。……また狭い思いをさせるけど」
彼は申し訳なさそうに言った。コンビニに戻って傘を買うという選択肢もあったはずだが、彼は一刻も早く家に送り届けることを優先したのだろう。あるいは、もう一人にするのが怖いのかもしれない。
「……いいえ」
立ち上がり彼を見上げた。ブレザーを借りたままの姿は滑稽かもしれないが今はそんなこと気にならなかった。
「狭いほうが……温かいですから」
精一杯の勇気を出して言った。彼は一瞬きょとんとして、それから耳を赤くして「そうだね」と頷いた。
行きよりもさらに密着して歩道を歩いた。彼の左腕が、此方の右肩をしっかりと抱いている。風に煽られないように、倒れないように。その力強さが今は何よりも頼もしかった。
「……寒くない?」
「はい。……瀬戸くんのジャケットが温かいので」
「そっか、よかった」
彼はシャツ一枚で濡れているはずなのに、此方を気遣う言葉しか出てこない。雨音だけが響く夜道。会話は少なかったが沈黙は苦痛ではなかった。彼の体温が雨の冷たさを忘れさせてくれる。
やがて家の近くの交差点まで来た頃。不思議なことに、あれほど激しかった雨が小降りになり、やがて完全に止んだ。
「……止んだね」
「ええ」
彼が傘を閉じる。頭上には雲の切れ間から覗く月明かりがあった。濡れたアスファルトが街灯の光を反射してキラキラと輝いている。
「……ここまでで大丈夫です」
家の前まで送ってもらうのは、流石に恥ずかしかった。それに、これ以上甘えてしまったら自分が自分でいられなくなりそうな気がした。
「分かった。……今日は、ちゃんと温かくして寝てね」
肩からブレザーを外そうとした手を制して彼は「それは着てていいよ、明日返してくれれば」と言った。
「でも……」
「風邪、引かないでほしいから」
その言葉に、また胸が詰まる。
「……ありがとうございます。瀬戸くんも気をつけて」
「うん。また明日、学校で」
彼は優しく微笑み手を振って去っていった。その背中が夜の闇に溶けていくまで動けなかった。
一人残された路上、彼のブレザーを羽織ったまま立ち尽くしていた。袖を通していないブレザーからは彼の匂いが濃厚に漂ってくる。それは雨の匂いと彼自身の体温の匂い。
「……勝てないな」
夜空に向かって小さく呟いた。それは敗北の言葉であり同時に最上級の賛辞でもあった。
あんなに怒られて、泣かされて、助けられて。自分の人生を棒に振ってまで他人を救った彼が、今また身を犠牲にしてまで己を守ろうとしている。その生き様は、あまりにも不器用で危なっかしくて。 けれど誰よりも気高かった。
(……すごい人だ)
心からの尊敬。かつての自分が持っていなかったものを彼は全て持っている。強さも、優しさも、自己犠牲も。彼こそが自分が目指すべき「理想の人間」そのものだ。
胸の奥が熱い、これは恋とか愛とか、そんな甘やかな感情ではない気がする。もっと重くて、切実な。英雄を仰ぎ見るような魂からの敬愛。
「……ありがとう」
誰もいない夜道で、もう一度呟いた。命を救ってくれたことへの感謝。そして今日また一つ、己を救ってくれたことへの感謝。
月を見上げながら苦笑する。頭痛は消えていたが胸の奥に残る温かさは雨が上がっても消えそうになかった。彼のブレザーをギュッと抱きしめ、まだ少し冷たい夜風の中を家へと歩き出した。